教師は評価師。その2。

mimisemi2008-10-16

あ、相当話が逸れたな。あ、エッセイの話か。いやね、先生もほぼじいさんみたいな黒人でつまらない授業なんだけどね、英語ね、今日は酷かったよっつー話の続きをするとさ、添削が何を言いたいのか分からなかったので「こんなのエッセイじゃないっていうのはどういう意味なんですか?」って聞いたらね、授業の後にさ、そしたらすんげー嫌な顔で「あーん!もうおめぇーはチューターにでも行っとけ!」とか言われちゃってさ、ようは「お前は全然ダメだ」ってことをエッセイの評価で決められちゃったんだよね。ここにダメ教師先導による学校の恐ろしい機能が明らかになるんだよ。というのはね、こういう教師っていうのは学校の成績とかテストの善し悪しでそいつの人間性までも巻き添えにして評価するんだよね。逆を言えば成績が悪いやつはどんだけ実際には良いやつで頭が良いやつだろうが「お前はダメなやつだ」というレッテル貼りをする。ここで有能な教師というのは一見ダメそうに見える生徒にも実は頭がいいのにやろうとしてないだとか、書いてる内容は良いのに書き方がなってないだとかっていうようなのを見いだして、正しい道に導くわけだよね。本当にダメなやつはもうしょうがないけどね。でもそこで俺みたいなナイーヴな生徒は、特に俺の今日みたいなメンタルコンディションだと、ここでこうやってああいう態度で否定されたことがもう自分の実存すらも否定されたような気になっちゃうんだよね。


もちろんそれは俺がナイーヴ過ぎるというのはあるし、この教師の言い方の酷さというのもある。でも学校というのが何かを教える場である以上、そういった教師の態度というのは許されないと思うんだよね。仮にダメでも一応宿題とかをやってきているなら、何がダメなのかを説明しなきゃいけない。なのに書き方がダメという理由だけでもう全てを否定するような言い方をする。特に高学年の小学生とか中学生とかはね、すげーナイーヴな時期で、なおかつ家庭が殺伐としていたりするとずーっと今日の俺みたいなメンタルコンディションで毎日生きているわけだよね。そこでの教師の何気ない一言というのはもう致命的なんだよ。今の俺のと同じように学校に行かなければもうどうしようもないという状況がある上でその学校側から全てを否定されたような言い方をされる。で、その結果なんかを見て親も「お前は本当にダメだな」とかって言う。これじゃあ生徒の行き場所が無くなってアノミーになってしまう。でもこういう学生って本当に多いと思うんだよ。で、酷い場合は自殺しちゃう。俺も今、自殺したいような気分だもん。それは俺があんなどーしょーもない連中と構造的に付き合わなきゃいけないという力関係があるからなんだけど、自殺をとどまらせているのは俺のパーソナリティなんだよね。つまり彼らにダメ扱いされてもダメじゃないのは俺が一番よく分かってるからなんだよね。俺は今のゴミカレをクズとナンセンスの巣窟と俯瞰しているわけで、そんなクズの一部から何かを言われたところでそれはそれで嫌な気分になるけど、自分の人生を終わらせるまでには至らない。たとえ今日みたいな気分と体調であったとしてもね。


でもね、それが全てだと感じてしまってるナイーヴな学生にとってのこの状況はどうか?学校しか所属する場所がないし、そこでやっていくしかないというような狭い世界観の中で、その所属しなければいけない場所から強烈な否定を受けたら?それはもうその人にとってのすべてが終わるってことなわけで、それは人生の終わりを意味するよね。だから俺は本当にいじめとか学校のストレスで自殺しちゃうやつらの気持ちが本当によく分かるんだよっつーか俺もそうだったし、今でも俺の今の状況なんてのは当時とさほど変わりないんだななんて感じてるぐらいなんだから。まぁ嫌なクラスメートとかいないだけマシだけどね。今はアホな教師が問題なんであって。でも俺の中で大きな割合を占める学校がどーしょーもないってことになると結構生活辛いよ。アホの話を聞いたフリをして従っているフリをして、何の役にも立たないことに時間をかけなきゃいけない。なんのため?といったらもう学歴としか言いようが無いんだよね。こっちでやっていくには最低でも大学ぐらいは出ておかないと話にならないんで、だからやらなきゃいけない。ここで放り投げたら日本に帰らなきゃいけなくなるからね。だから俺がこんな酷い状況も耐えられるのは、日本に帰ったら文字通り終わりだぞっていうような崖がリアルに見えているから闘えるんだよね。クズやナンセンスと。仮に日本に帰っても別になんとかなるという状況にいたとすれば俺はとっくに帰国してると思うよ。だって少なからず家にいる分には生活は楽だし金もかからないし親の負担もほぼ無いし、ましてやうちの場合、家庭が完璧だから実家は最高なんだよ。でも社会が最低だからね。少なくとも俺にとっては。だから今みたいな薄暗いキッチンがチェアの大家の家のノイズが全て丸聞こえの地下でもやっていけるし、ゴミカレでもやっていけるというかやっていくしかないからやっていけるんだよ。


で、話を戻すとだね、教師ってのは本当に高度な技能を要する職なんだよ。生徒の可能性を引き出して導くグル的な役目を負わなきゃいけない。でも俺のゴミカレを見ても明らかだし、日本の腐敗した教師どもを見ても明らかなように彼らはそんな高尚な条件を満たして教師になっているわけではないし、そういう意味だとただのサラリーマンと一緒なんだよね。こんな言い方をするとサラリーマンに失礼かもしれないけど、俺が言いたいのは医者でもそうだけど、人々ってのは教師だの医者だのに何かを求めすぎているんだよね。いや、求めすぎているというよりかは、凄い人たちなんだって先入観で思い込んでいるわけだよ。でもその実態はその辺にいるサラリーマンとかコンビニでバイトしてる人たちと全然変わらないわけ。そういう普通の人の職がたまたま教職や医者だったっていうことなわけで、別に教師や医者だからといって人格が優れていたりするわけでもなんでもない。これはでもどっちが正しいのか分からないな。そんなもんなんだから我々教師や医者に絶対的な価値観みたいなのを求めるのはやめてくださいっつーのが正しいのか、その人々が持っている先入観や期待に答えられるような人材のみが、そういった職に就いているほうがいいのか、分からないね。でも少なくとも言えるのは、教師や医者といった他者の実存に関わるような仕事をする人間ってのはやっぱりそれ相応の人格が必要だと思うんだよね。教師は子供や学生の未来を切り開いていく存在かもしれないし、医者に関して言えば人間の命に関わる仕事をするわけで、例えば点数を稼ぎたいが故に無理なオペをやって患者を死なせてしまったというようなね、医学生だったか若い医師の事件が過去にあったけど、こんな人間が医者になってたらヤバいわけだよね。でもかといって人格テストなんて出来るわけじゃないし、特に医者なんて今は学費やらなにやらも高いから、元々の家の経済的コンディションがそのポテンシャルの鍵を握っているといっても過言ではないね。つまりコンビニでバイトをしている兄ちゃんのほうが実際は医者に向いているかもしれないんだけど、それはその人の運命というか、巡り合わせでコンビニの店員になってるわけだし、そのポテンシャルなんて計れないし、ましてや本人もそれに気がついていないわけだからね。


で、実際はコンビニの店員ぐらいしか勤まらないようなやつが、経済的な事情だのなんだのっていうたまたま恵まれていたという諸条件の上でその巡り合わせの結果が医者だったということなわけで、別に医者になったから偉いわけではないし、ましてや医者になったからといって人格が良くなるわけではない。むしろ世の中を見ると政治家もそうだけど、悪い奴らばっかだよね。それは医療のシステムが政治で言うところの官僚どもの腐敗を招くような構造があるからと言えなくもないんだけど、そういう意味でも人々が官僚を信じないように、我々もまた医者だの教師だのに過度の期待をしないほうがいいのかもしれないんだよね。俺が理想論で、こういう人が政治家になるべき!とか医者になるべき!とか教師になるべき!と言ったところで実際はダメな連中が多いんだから、もうそれはそれで現実として受け止めて絶望するしかないんだよね。恐らく。だからそういった意味で俺の理想論的な「べき論」は成り立たなくて、むしろ必要なのは彼らに対する神話的とも言えるような迷信を取り除くことだね。いや、彼らもまた人の子で、その辺のリーマンとかと変わらないレベルの人間なんだよと。教師が不倫だなんて!医者が不倫だなんて!という言い方がおかしいのはね、サラリーマンが不倫だなんて!ということがおかしいのと一緒なんだよ。根本的にリーマンとかコンビニ店員と変わらない彼らに崇高な何かとか「べき論」を持ってきてもしょうがないんだよね。彼らは元々どうしようもないんだから。まぁ日本は色んなスキャンダルやトラブルもあって、まぁ人々はだいぶそういうのを信じなくなってきているみたいね。そういうのがよく「世の中がダメになってきている」と言われるけど、そうじゃなくて、そういったことがただ露呈してしまっただけなんだよ。昔からどーしょーもなさはあったわけだけど、そういうのは何らかの神話によって守られていたんだよね。でも今はその神話が崩壊したんで、そこにあるのは教師だろうが政治家だろうが医者だろうがただの人っていう現実なんだよね。


そういうようなのを特に本当にただの人が教師になっているようなゴミカレを見てて痛感するね。長くなっているけどまだ書きたいのが彼らの役目ね。それは彼らはただの「評価者」ということなんだよ。それはつまり俺の普段のしょーもない授業への愚痴からも分かるように、彼らは生徒達に何も教えていないわけ。ただ授業はこなすだけの時間つぶしで「エッセイを書いてこい」だの「スピーチの用意をしてこい」だの「テストの準備をしてこい」だのという。ちょっと待てよと。テストっつーのは授業で習ったことが頭に入っているか?というのを計るためのテストなんでしょ?何もクラスでやってなくてテストもクソもないじゃんね?それは今のフランス語の授業が典型的だけど、授業ではテキストの絵、例えば5人いる生徒が何かを話していますなんてことに終始するだけだったりねっつーのはこないだも酷かったんだけど、画家が女性の裸体をモデルにして抽象画を描いているという絵があって、その例文で「彼は画家でエキセントリックです。レイジーです」みたいなのが書いてあってさ、そこに生徒が「アーティストだからってレイジーだというのはおかしいんじゃないか?」っつーツッコミを入れたら、あーでもないこーでもないというフランス語とは関係ないその例文の上にある絵の解釈に時間をかけたりしてさ、こんなことばっかやってんのよ。授業で。「本はどこにありますか?」「図書館でしょーいやー本屋にも本はあるから図書館と本屋両方とも正解でしょー」みたいなそんなやり取りが永遠と続く。それはゴミカレに集う生徒のレベルの低さもあるけど、それを統治できない教師のレベルの低さもあるわけ。というか教師も一緒になってそういったナンセンスなやり取りを促しているんだからまぁ共犯者だよね。こんな教師の授業が永遠と続いて、んでテストっつったって何を計るのか?ってことでしょ?授業で何もやってないんだから何も分かるわけないんだよ。でもテストがあるんだよね。で、基本的にそういったものに取り組む姿勢っつーのはもう自習なんだよね。授業がどうしようもないから自分で勉強するしかないっつーそういうのが勉強になっているわけ。学校で勉強したことの補強としての予習なら分かるけど、何もやっていないでね、で、やっていないことのテストなんつったってそりゃー成立しないでしょ!って思うんだけど、母国語が英語とかスペイン語の連中とかは飲み込みが早いんでベーシックなやつなら結構サラッとやっちゃうんだよね。授業でくだらないダベリに終止しているくせに結構テストは出来てたりするわけ。まぁ自習してるのかもしれないし、単純に言語的な理由から彼らにとっては全然楽なことなのかもしれない。でもそんな一見馬鹿に見える彼らに取り残されるようになんのこっちゃ分からないテストをほぼ誰もいなくなるまで時間ギリギリまで受けている俺っつーのも本当に惨めだよね。


英語の授業といいスピーチといいフランス語といい、俺自体がそこまで悪いわけじゃないんだけど、ふと「俺って実は凄まじい馬鹿なんじゃないか?」なんていうのをその状況から思ったりしちゃうことがあるね。それはそういう状況に巻き込まれて世界系になっている俺の世界観がそうさせるんだよね。いや、学校が全てという世界観に立てば俺はダメでしょう。だって学校の勉強はダメなんだから。だったら自分でやればいいのにって言われそうだけど、それが出来たら苦労しないよ。そんな動機付けも得られないことに力は注げないわけよ。全く興味がないしやる意味も分からないんでやろうとしても頭に入らない。これはまぁ自明の理だよね。人間として普通だと思うよ。だからやらなくていいんだってことにはならないけど、恐らくね、授業を受けている生徒がそのサブジェクトに興味があって、なおかつ教師が素晴らしい分かりやすい授業をしていたらね、何かしらのことが頭に入ってるわけよ。そのベースを補強するために自習をするんであって、暗記のためではない。でも現実ではしょーもない授業と興味ないことに多大なる時間を費やさなきゃいけないわけでね、そんなんじゃ何も頭に入らないし、頭に入ったこともテストのためにやった暗記なんてのは半年もしないうちに忘れちゃう。でもこんなことはサイコロジーなんかでとっくに証明されていることだよね。脳科学か。記憶の基本ね。そこには短期記憶と長期記憶ってのあって、例えば2,112という数字を10秒で暗記しなさいっつって暗記したとするよね?で、10秒後にあの数字は何だった?って聞かれて2.112って答えるのが短気記憶なわけ。「よくできました!」っつってそれをクリアしちゃえば下手すれば次の日に「昨日覚えた番号まだ覚えてる?」って言われても答えられないだろう。まぁもっと桁数が増えれば覚えてるわけないよね。でもこんなのは短期記憶力を計るためのものなのであって、2.112という数字に究極的な意味なんて全くないんだよ。だから忘れる。


その一方で長期記憶というのはもっと我々の生態系に関わることとかね、例えば日々の生活の仕方とかさ、学校への行き方とかさ、こういうのは忘れないよね?でもこういうのって大抵背後にそれを覚えておくための理由なり動機があるから人間が本能的に忘れないんだよ。だって家に帰る道順が毎日分からなくなったら困るでしょ?それは家に帰るという理由がある上での道順の記憶なんであって、それはさっきのただの数字の羅列みたいな意味の無い記憶よりかはよっぽど意味があるわけ。でもね、学校でやることって全部さっきの数字の羅列の記憶なんだよね。そこに意味も無ければ興味も無いんでテストをやっちゃえば忘れちゃう。逆に興味があることで「なーるほど!」って感心しながら聞いていた話はなかなか忘れない。ちなみに今書いた数字の羅列の話とかサイコロジーでやったことなんだけどね、サイコロジーの先生の授業も本当に良かったし、単純に自分の興味のあることだったから、だからこんなに書けるわけ。「家に帰れなくなったら困るでしょ?」とかいう言葉も全部先生の言葉ね。それをほぼ丸々パラフレーズして今、こうやって書いてるだけだもん。でもこれは俺の記憶力が良いんじゃなくて、記憶にストアさせておこうって思うだけの知的関心があるからなんだよね。知的関心があれば記憶力の多少の善し悪しなんてのはいくらでも超越できる。むしろ学問的な記憶なんて知的関心に動機づけられていなければただのゴミだよね。さっきの数字の羅列と一緒。ルソーの社会契約論について述べなさいっつーのを受験のために丸暗記したやつと、知的興味で覚えちゃったやつとだったらさ、後者のほうが記憶は鮮明だろうし、それが身になっている分、例えば日々の生活にも影響を及ぼすかもしれないよね。例えばある状況下で「あーこれはまさしくルソーが言ってたようなことだなぁー。なーるほど」なんて思えるのはその知識が身になっているからだよね。でもさっき書いたただの数字の羅列と同じようセンスでルソーを丸暗記した人は、それは数字の羅列が意味を持たないのと同じく、ルソーの情報もただの情報なわけで、そこから何かが生まれたりひらめきが生まれたりすることはない。


こういう知的関心を与えるのが教師の役目の一つだと思うんだけど、今のゴミカレなんかを見ているともうそれは絶望的だね。で、さっき書こうと思ってずーっと話が逸れて書けなかった彼らはただの評価者だという話に戻るね。さっきのフランス語の授業の例を出すまでもなく、教師は何も教えずに生徒に何かをやってくるように権力者的に促して、その出来の善し悪しでグレードを決めて、それで授業をやったつもりになっているし、自分が教師であるつもりになっているんだよね。でもこんなの誰でも出来るんだよ。モデルさえあれば。だからね、こういう並か並以下の教師はサラリーマンと同じなわけ。そこに知的関心を見いだせるような授業の凄みも無ければ、ミメーシスが生まれるような人間的魅力も全くない。だからといって教師として失格か?というとさっきの話に戻るけど、本来、教師ってのは我々が考えている以上にサラリーマン度が高いってことなわけで、そんな知的感心だとかミメーシスを教師に期待するなんてお門違いだってことになるよね。いや、だから恐らく今みたいな全ての神話や伝説が崩壊した世の中では特に教師はただのリーマンっつー認識が似合うよね。もう求めること自体が誤りだったなっていうね。俺が大学で勉強したい理由の一つに良い教師に会って影響を受けるってことだったんだけど、少なくともまぁコミカレレベルじゃ絶対無理ね。で、俺のその期待値ってのは高いから、その期待値に答えられるような教師ってのは相当優秀な大学の大学院とかにしかいないかもしれないんだよね。いや、いないだろうな。並の学校にはサラリーマン教師しかいないと思うと、俺の学校への期待というか、行く動機付けが一つ消えるんだよね。これは凄く悲しいことだよ。まぁ今の俺のコミカレのどーしょーもない基準を過剰に一般化しすぎかもしれないけど、本当に凄い教師なんて本当に数少ないんだよね。数少ないからこそヘッドハンティングされるし、どんどん大学のランクは上がっていくよね。だから大学ってのは並かそれ以下になればなるほど教師の残りカスみたいなのしかいなくなっちゃうんだよ。それは有名な大学が金にモノを言わせて良い教師をヘッドハンティングしまくっているという現状が拍車をかけているんだけどね。俺はそんな残りかすのさらにカスみたいな学校に今通っているわけで、今起こっている全てのことはただの必然なんだよね。その程度の大学なんだからしょうがないでしょっていう。でもここまで酷いとは思わなかったよ。酷い大学といっても大学というカテゴリ内にはあるわけだから、最低限のクオリティというのはあるもんだと思ってた。でも無いんだね。ダメなところはとことんダメなんだな。


で、教師の役割だけど、何もやっていないのに生徒にやらせる仕事を作って、その善し悪しでその生徒の良さを判断するっつーのが特に今の俺みたいなダメな学校の教師はそうなわけでね、それがさっき書いたモデルさえあれば出来る役割ってことなんだよね。だからただの「評価者」なのね。学校にちゃんと来たか?とか宿題をやってきたか?とか暗記をしてきたか?とかどうでもいいことばかりを並べて評価をするのが教師の役目。そこに欠けているのは本来の教師の第一の役目である「教える」ということね。教えることが不在の教師なんてありえるのかね?でもありえちゃってるんだよねぇー。これぞまさしくシニフィアンシニフィエの解離だよね。教師というパロールなりエクリチュールから「教」というものが消えるんだよね。で、教師の意味することがただの「評価者」になっちゃうわけ。まぁ「評価師」でいいのかな。つまりそこにシーニュは成立していない。なんともアイロニカルなことだね。教師という名の山師。それが実態ですね。


はい、今日はここまで。まだまだ続くよ!次回をお楽しみに。あ、んで追加のがあるんだけど、どこに入れていいか分からないんでここに適当にペーストしちゃうね。もうシンメトリーにはうんざりなので。整ったものだのルールに沿ったものだのなんだのっていうものにはもううんざりだね。俺が教師だったら絶対、必須課題としてブニュエルの自由の幻想を生徒に見せるね。


ってことで追加の愚痴。


あ、んで英語の授業だけどさ、構造的には一緒ね。授業でなんにもやってなかったり映画とか見せるだけで何もしないのに「こんなエッセイを書いてこい」とかって注文してきてさ、で、出来上がったエッセイを採点したり文句を言ったりするだけなのね。フランス語もそうなんだけど、「お前らもう分かってるだろう?」みたいな前提で話が始まってるんだよね。それがどうもおかしい。まぁ高校からの地続きのネイティブから見ればどうってことないことなのかもしれないけど、地続きじゃない、ましてやまともに高校行ってない俺みたいなやつからみると凄まじい認識論的断絶がありますね。それにしてもすげーな。エッセイの添削。添削ってほどの添削もせずに「第一にこれはエッセイではなくただのパラグラフである。第二にセンテンスが分かりづらく混乱を招く。最後にお前にはチューターが必要だ」なんてのが最後に書いてあるだけなんだよ?酷いよねぇー。教師の人格が出てるね。このおっさん、全くユーモアのセンスが無くてさ、ちょっと生徒がおもしろおかしくしようとすると、そんなに怒らなくてもいいじゃん!ってぐらいシリアスに怒るんだよね。ユーモアのセンスの無さってただのインポだと思うんだよ。知的欠落だと思う。でさ、チューターに行けじゃないけど、これがEnglish301とかのアドバンスのクラスなら分かる。でも101でその言い方はないんじゃない?って思っちゃったね。何にも授業をやらないで、すでにある生徒達のスキルによってやっつけ仕事をやらせることで授業と称したり宿題を称するんだから酷いもんだよ。これは大体どのクラスも同じね。アメリカの大学は宿題が多くてやることも大変なので日本の大学とは大違いというのはポジティヴな意味合いだけではないよ。それは別な言い方をすれば、教師が生徒に膨大なやっつけ仕事を丸投げして、それを評価することが自分たちの仕事だと勘違いしていることとも言えなくもないんだよ。授業があっての宿題なら分かる。ただ授業が不在の宿題なんてただの労働でしょう。


労働という言葉が出てきたんで、ちょっとランシエールなんかを援用しつつちょっと書いてみたいことがあるので書くね。思いつきだけど。いや、こういう思いつきの連鎖こそがエクリチュールでしょう?シニフィアンの意味なき連鎖。何かを書く前にアウトラインを書くなんてさ、人生始める前から「俺は弁護士になる」って完全に決めちゃって生きるようなもんだよね。それってすんげーつまんねぇー。スピーチと称して言いたいことや段取りを全て決めてくるなんてスピーチでもなんでもないよね。それはただの政治家がやる原稿の棒読みと一緒だよ。あ、んでね、まぁもうすでに書いたか明日の分に似たようなことが書いてあるかもしれないけど、生徒と教師の関係ってのはさ、そこに主張も何も無いただの合格か落第かということを教師という名の権力者に与えられることで、そこに「生徒」という勘違いのステータスが生まれるわけだけど、そういった勘違いのステータスないしは権限を得るために金を払ってわざわざ学校に行くという行為がスクーリングなのかもしれないんだよね。それは合格か落第か?というような単純な図式しか知らない人たちが気に入る構図なんだよね。そこには完全に教師や教育機関という名の権力者に縛られた生徒という哀れな存在が、教師の持っている採点という権限に寄り添うために、そのうさんくさい「生徒」という立場をあえてお金を出して買うというようなね、倒錯しきった図式があるわけよ。そこにあるのは教師の恣意的な「良い」「悪い」といった単純な評価のみなんだけど、それらを与えられないと、もう生徒はなんでもないものになってしまうので、それに従うしかないんだよね。その服従が強くなるのは当然、教師や教育機関の権限だけではなくて、学歴が無いと基本的に話にならないっていう社会的な要素があるから、そういったシステムがまた無言の圧力を生徒達にかけているわけだよね。だからほとんどの人は学問をやるために大学に入るのではなく、社会から取り残されないために、サバイバルの方法として大学に入るんだよね。それは凄まじくネガティブな動機なんだよ。


目標が学歴を取って良い給料を得るなんてことになるから、本質的に学問的なものはどんどん不必要になる。むしろ必要とされるのはビジネスだとかコンピューターサイエンスだとかっていうような実践的なものばかりで、だから大学がただの職業訓練所になっちゃうんだよね。もしくは日本文学とかアメリカ文学とか実際は何をやっているのかさっぱり分からない学科でも一応、社会的には大学出として扱われるので、行かないよりはマシみたいな感じなんだよね。そもそも大卒なんていう言葉自体がおかしい。肝心なことは何を勉強したか?でしょ?金を出して在籍だけして遊びほうけながら必要なことだけをやって卒業しましたってやつも大卒なわけでさ、そこには大卒か否か?みたいな、さっき書いたような単純図式があるんだよね。凄く本質から離れていることだと思う。ましてや先生も脅しとして使うからね。こういうのを。「最近ではどこどこの大学出というよりも、企業は成績を重視したりするんだよ」みたいなことを言って無理矢理勉強させる。勉強といっても暗記だけなんだけどね。ランシエール風に言うなら、大卒ではない限り分け前の無いような近代のプロレタリアートないしはプレカリアートが社会的民衆になるために打算的にそのねつ造された「生徒」という見せかけの身分をお金を出して買うのが今の大学なわけだよね。そこには社会的な脅しとプレッシャーしかない。俺みたいな単純に学問をやりにくるようなやつがいると「お前は何を言ってるんだ?」ってことになる。実際言われたことがあるしね。先生に。まぁ全てがゴミカレでの経験なんで一般化はできないんだけど、でもそこそこ良いところじゃないと大体がどこの国も一緒なんだろうなぁーって察しがつく。そういった大衆をコントロールする場としても学校というイデオロギー装置が機能するのもその構造から本当に納得がいくね。一番洗脳にいい場所は学校とメディアだね。今の人はほぼ例外無くこの2つを裸のまま浴びているわけだよね。そこに現れるのは服従しているんだという意識すらもない服従しきった民衆ね。それはマルクスの言うFalse Consciousnessそのものなわけ。目的はともかくとして、自分たちは奴隷だと認識することは社会変革の一歩なんだよ。だから特に日本のIT系の奴隷達の間で蟹工船が流行ったっつーのはね、このFalse Consciousnessからの脱却で、これはいいことだよね。まぁだからといって共産党に加入することがいいかどうかは分からないけど、少なくとも自民党に票を入れるよりかはよっぽどいいことだよ。


で、言わずもがなだけど、社会もさることながら、特に俺みたいな馬鹿な大学では大学のレイヤーからすでにバリバリのFalse Consciousnessを持ったまま必死に権力者から与えられた労働をマゾヒスティックに享受している将来的に従属する民衆の一部になる生徒達がいっぱいいるわけね。これは酷いよ。本当に。だから俺がいつも言うのが、特に学校のナンセンスな宿題とか課題とかに必死になれる人って狂ってるんだよ。そんな風なことにコミットするのが良いことだと教える親がまた物凄い役割を担っているんだけどね。それは労働者の子供が親から「労働は尊いことだ。それは将軍様も言っていることだ」みたいなイデオロギーを浴びすぎてそれに染まりきっちゃうことね。これが従属のまた従属を生むわけだ。この悪しき連鎖を断ち切るのは、もうFalse Consciousnessからの脱却しかないんだけど、下手に従属することで上手くやっていけたりすると、そこに変化の必要性を見いだせなくなるんだよね。だからIT系の奴隷レベルの派遣労働者達ぐらいの環境にならないと気がつかない。つまり実存レベルでの危機が迫ってこないとそれからの脱却が出来ない。そういった意味だとアメリカの場合、アンチ・コミュニズムイデオロギーレベルで広まってるから、なかなかマルクスみたいなのがまともに読まれないんだよね。あとここでも書いたようにアメリカ人は簡単なのしか読まないから、マルクスみたいな晦渋なやつは全然読まない。で、最悪なことにアメリカの建国理念とかも全然理解してないまま、革命をただのテロだと思っている人たちが凄まじくいるんで、もうアメリカって国は究極的に保守的な国かもしれないね。建国理念がネオコン的政治圧力によって捩じ曲げられているというか、消されたというか、そういう意味でアメリカには全く伝統が無い。あるのは近代的な安易なアメリカニズムだけだね。こんなにアメリカってのは薄っぺらい国だったのか!唖然としてしまったね。えー亡命先を変えなきゃいけないの?それも面倒だなぁー。まぁどこも一緒でしょう。今はどこもダメだよ。アメリカだって昔は良かったんだから。


だから最近思うのはアメリカ人の政治に対する意識が高いといっても、間違った意識や観点から政治が始まってたりするんで、それじゃあ意味ないじゃんってことなんだよね。だからなんかね、単純に市民が政治のことを考えることが民意が高いと言えるんだとは一口には言えないなと思ってしまったね。それは左翼の勘違いしたデモが意味無いのと一緒ね。デモ自体が勘違いなんだったら、そこに参加するもしないもあまり関係ない。あるのは勘違いだけなんだから、実質、それはノンポリであることと大差は無い。逆に下手にギャーギャー騒いでる分迷惑かもね。だから分からないやつは政治に介入するなってことなんだよ。エリートに任せなさいと。政治なんて高度なものは専門家じゃないと扱えないわけだよ。それは単純に普通の人が自分の弁護なんかを出来ないから弁護士に頼むのと一緒ね。その弁護士を選ぶ目ぐらいは持っていないといけないんだけど、それがまさしく代議士を選ぶ目だよね。それこそが民度を規定するもんなんじゃないかと思う。


なんかすげー追加から話が逸れて1エントリー分ぐらいになったな。さすがウォール伝だ。続きはまた明日ね。なんかさ、どうでもいいんだけど、授業がダメだっつって自分でストライキしてもさ、それって単位を落とすだけだから、服従してでも我慢して単位を取るって、ストやったらクビになるから我慢して理不尽なことを言われても働く会社員というか労働者と同じ図式だよね。権力って怖いよ。本当に。だからリヴァイアサンってなんとかしなきゃいけないもんなんだろうね。ダメ大学ではオートノミーが無いんで馬鹿な教師が権力を振り回してますよ。そこにリヴァイアサンの暴走を抑える生徒達による教師への評価のシステムってのがあるんだけど、悪い意味でメンターという生涯教師であることを認められるような制度があると、あんまりそういうのって関係なくなるんだろうね。だから馬鹿な爺とかババアみたいなのが教職からどかなくて、若い良い人材が教職に就けないし育たなくなる。これって今の日本の雇用のシステムと全く同じだけどね。アメリカの教育機関って若い人材を育てるなんて概念が一切無くてアメリカらしく金儲けしか考えてないからコラプションが酷いんだよ。だから名門大学って言われるところも一部を除いては名ばかりになっていて、実際はガンガン授業料を上げて、テンポラリーなバイト教師を大量に雇ったりして人件費を浮かせて、んでその儲けた金を懐に入れるか、見た目を良くするために校舎の改造を行うとかさ、人を呼ぶための宣伝にガンガン金を使うとかさ、ネームバリューのある教授を金にモノを言わせてヘッドハンティングしてくるとかさ、基本的にポピュリズムなんだよね。手法が。酷いよ。ホント。


あ、また長くなってるね。いや、でもスピーチのクラスは落としたいな。ドロップアウトね。無理だったらストを決行するしかないな。あの成績には納得がいかないから。ドロップアウトが出来るならフランス語も落としたいな。あんなのに時間をかけるなんてドロップアウトするより勿体ない。ただフレンチの先生は嫌な先生じゃないからまだ耐えられるんだけどね。スピーチは先生が最悪で授業も最悪でなおかつ俺は目をつけられてるってことでコンディションが最悪なんだよね。あ、酷い話だとね、知り合いのクラスではね、プロフェッサーがオンステージでずーっとベラベラ喋りまくって全然授業をやらなくてね、で、全然授業をやらない割にテストを出したりしてさ、で、そういうときだけすんげープロフェッサーぶるんだって。で、またそっからオンステージが始まって、本来のテストの所要時間50分をオンステージで潰して20分とかにしちゃってさ、「あ、あと20分しかないよ。ファイト!」とか言ってさ、で、一分前とかになると「あと一分だよー早く早く」なんて言うらしいよ。ある意味でスピーチのババアよりたちが悪いかもしれん。ゴミカレってのはこんなクズ教師がゴロゴロといる場だよ。気をつけた方がいい。リスクが高いね。良いプロフェッサーにあたることは滅多に無いって考えていても間違いじゃないね。そのぐらいの性悪説に立ってないとやってられないと思う。俺の嫌いな金儲け主義の留学相談所のページに「コミカレは馬鹿の掃き溜めです」みたいな差別的なことがここまで直接的じゃないにしてもまぁ示唆するようなことが書いてあるんだけど、まぁ俺はここが大嫌いだから「なんだよ!これ!」とかって思ってたんだけど、残念ながらこれは正解ですね。もう認めざるを得ない。本当に残念ながら。やっぱ良い教育には金がかかるとしかいいようがないね。安物買いの銭失いは教育でも全然起こりうるってことが本当によく分かった。金が全てじゃないんだけどね。でも金的な要素もあるよってことだね。やっぱり良いものはそれなりの値がはるわけだね。安いものには理由がある。曰く付き中古車だの曰く付き物件だの。俺の大学は曰く付き大学だな。完全に。霊が出るんじゃなくて馬鹿が教壇に出るって意味で。なんかマジで日本の大学入りたくなってきた。どっちもどっちなら母国語で難なくやれたほうが全然いい。アメリカに期待しすぎてたかもしれない。俺。恥ずかしいぃーーーーー!!!!良い教育は値がはるならうちじゃ経済的に無理だからね。マジで。どうしよう?

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