ソーカルと知的ヘゲモニー。

mimisemi2008-10-31

今日は絶対休んじゃダメだ!と思って学校に行ったんだけど、ビタミンショップとかに寄ってたら遅刻しちゃって、んで例によってまた授業を図書館でやるとか言ってさ、結局まぁこういうのってあれなんだよね。プロフェッサーが授業休んでるんで代理の人が図書室のラボとかで練習問題とかをやらせてるだけだと思うんだけど、この英語の先生ってさ、まぁ俺のエッセイが酷いっつーのもあるんだけど、ホント、評価師に徹してるんだよね。授業はほとんど何もやらなかったりさ、映画についての話とか、最近の不景気についての雑談とかでさ、で、ちょっと練習問題をやった後に、「ハイんじゃあ39ページから41ページまでの問題を20分でやってください」っつって丸投げなのね。で、それの答え合わせをして授業が終わる。


もちろんね、こないだURLを貼ったナイスな留学情報のページじゃないけどね、俺のこの不満っつーのはこの留学情報ページに照らし合わせて言うと、エコノミカルなコースを自分の意志で
選んでるくせに、そのクオリティに文句を言っているっていう矛盾なんだよね。つまり安いパンを買ってマズいっつって文句を言ってるようなもんなのよ。だったらちょっとでも高いパンを
買って味に満足すればいいのに俺はそれをやってない。まぁ選択肢が無いのは前にも書いたよね。何しろ俺は英語力が4大とかでやっていくにはまだまだ不足してるからね、やっぱりなんつーかエッセイとかさ、リーディングアサインメントにしてもサラッっとできるぐらいじゃないととてもついていけないと思うんだよ。そこで努力家は自分の英語力不足を補うために他のネイティブの生徒の倍以上の時間をかけて取り組むんだけど、恐らく標準的な生徒以下ぐらいの努力しか学校の勉強に注げない俺にとってはね、ゲンズブールがその辺のアイドルの曲をサラッと書いちゃうぐらいの文句を言われない程度の手抜き加減でこなすぐらいの英語力が無いとダメってことになるのよ。足りない英語力を補うための努力をするということが、大学でやっていくということの前提になってたら、もうそれは不可能ってことなんだよね。俺はそういう努力は出来ない。だから今の英語力でも適当にやってればなんとかなるっていうレベルの学校だとコミカレぐらいしか無いんだよね。なのに俺は文句を言ってるわけで、それは矛盾してるんだよね。


まぁそれはともかくね、図書館っつーか図書室なんだけどさ、前もそうだったんだけど、うちのクラスっぽいクルーがどこにもいないんだよね。で、ただですら遅刻してるわけじゃない?で、探してる間にもっと遅刻するわけよ。で、さすがに授業が始まってから30分ぐらい経っちゃうともう出る気がなくなるのね。こんな大遅刻をして出席するってのも気が引けるしね、何よりやる気が無いから「もういいや」ってなっちゃう。それはそれでいいんだけど、このためだけにわざわざフォレストヒルズなんていう辺鄙な場所からね、しかも駅から徒歩20分の家のバンカーからさ、ノコノコ出てきたわけだけどさ、それで目的の授業に出ないって凄まじいナンセンスだよね。人間ってナンセンスを感じると怒りを感じるんだよ。まぁ俺が悪いんだけどね。遅刻した俺が悪い。仮に出席したとして授業がしょーもなくても、それも俺が悪い。俺の英語力の無さが悪いわけで誰も悪くない。それはいつも俺が書くように小泉とか麻生みたいな人がいてもいい。それはしょうがない。ただ問題はそれを選んでいる国民とか、国民の選択無しに勝手に総理になってるっていうことなわけで、俺で言えばね、コミカレの存在はいい。留学のページにも書いてあるように、あれはある意味でドロップアウターとかの受け皿にもなっているわけで、質なんて望めないわけだ。それに文句を言ってもしょうがない。問題は俺がそこに行くしか方法が無いっていうことなんだよね。だから問題はコミカレにあるんじゃなくて俺にあるわけだ。


それはともかくさ、わざわざ一時間以上もかけて来てんで授業出ないでとんぼ返りって最高にナンセンスじゃない?だからね、そこで俺の得意な意味作りが始まるわけよ。ナンセンスに意味を作るというのは人生と一緒なんだよね。これはハイデガーで言うところの被投性と一緒なんだよね。つまりね、自分が選んだわけではない状況とか選択に否応無しに投げ出されてね、んであたふたするってのが人生なんだけど、人生自体がナンセンスと言えばそれまでだけど、俺が言いたいのは、特定の例えば今回の俺の状況みたいなナンセンスね。それに対して意味付けをすることで自分を納得させるというか騙すというかね、人生なら「俺はこれをやるために生まれてきたんだ」とかっていう後付け的な意味付けをすることで人生に意味を与えるのと同じで、このままじゃ意味が無いからこの状況を活かして何かをしようっていうことが俺のナンセンスに対処する方法論なんだけど、今回の場合は読書ね。最近さ、Fatal Frameとかね、ロマサガとね、Fatal Frameに関してはクリアしちゃったんだけど、かなりゲーム三昧だったんだよね。あと映画とかね。あんま読書をしてなかった。ってことでその埋め合わせをするために今日、俺はここに投げ出されたのだと意味付けして、んで図書館っつーか自習室に2時間ちょいぐらい籠ってずーっと読書をしてたんだけど、たまたまね、ペーパーブックを二冊も持ってきてたとかね、これがまぁ凄く良かったんだわ。二冊も持ってきたというのは、このナンセンス的状況を予期してのことだったかもしれないね。まぁそれはともかくね、この2冊は両方とも読みかけだったんだけど読破したんだよね。一応。ただ両方とも難しいやつなんで20パーセントぐらいしか理解してないと思うけどね。でもまぁとりあえずもう慣れるしかないんだよね。洋書を読むということのハードルを和書を読むぐらいのハードルにしないといけないんで、内容はともかくもう多読しかない。で、慣れるしかない。で、内容も理解できたら儲けもんってな話で、ようは目的は何かを学ぶというよりかは英語に慣れるってことなんだよね。まぁもうだいぶ慣れてきてはいるけど、やっぱり洋書を読むということのハードルは和書ほどは下がってはいないんだよ。やっぱ面倒だったりする。


ただね、最近思うのはね、クラスを二つもドロップしたんでもうほぼニート状態なんだけどさ、家に籠ってるほうが学校に行くよりよっぽど建設的っつーのはね、映画にしてもゲームにしても本にしても一応全部英語だから、英語に慣れるということを今の一番の目標と考えると家に籠ってるのが一番いいんだよね。学校に行ってもくだらないクラスしかないし、英語に特化したことをやるわけじゃないんでね、家で何かしらの英語に関わることをやっていたほうがよっぽどいいんだよ。ましてや今のゲームってフルボイスだからさ、まぁリスニングとかにはバッチリだしさ、RPGなんかだといつも書いてるように読むということが不可避だからもうゲームをやるということ自体が英語のリーディングになるんだよね。ただね、最近はそこまで高度なものじゃなかったら理解できるようになってるんだよね。リスニングは当然として、英文にしてもだいぶ板についてきた。ってことがどういうことを意味するのか?っていうと、家に籠っててももうあんまり意味ないってことなんだよね。英語のシャワーを浴びて慣れるっていう段階をもう結構かなり過ぎるとね、そこにあるのはただの惰性なんだよね。ただゲームをやっているだけだったり、ただ映画を見ているだけだったりさ、そこから学ぶものが無くなっちゃうと、本当にただの娯楽になっちゃうんだよね。まぁ例えばね、一語一句ね、分からない単語があったら全部辞書で調べるとかって徹底すればまだまだ有効性はあるんだけど、ゲームにしても映画にしても、そんなことやってたら内容もクソもなくなるじゃない?良いところでストップして辞書を引くなんてことは出来ない。まぁメモしておいて後で調べればいいんだけど。まぁ何が言いたいのか?っていうと、こういうなんつーかね、エンターテイメントから英語を学ぶっていうレベルを過ぎたかな?って気がするんだよね。映画にもよるしゲームにもよるんだけどね、ただ分かることが多くなると相対的に学べることも少なくなってくるじゃない?そこに能動的なコミットが必要になってくるんだよね。大体の理解ではなく、一語一句理解して徹底的に理解をするっていうぐらいの能動性が必要になる。まぁやれよって話なんだけどさ、まぁこれはいいことだけどね。英語力は伸びてるってことだから。


で、まぁ読書が終わった後にね、さらに意味付けするためにSt Marks Placeの日系スーパーに行って買い物をしようと思ってさ、ただね、気になってたのがキムズなんだよね。こないだのパーティーでキムズが移転するっつーんでセールをやってるっつー情報を得たんだけど、DVD禁止令を自分で出したからね、もうDVDはなるべく買わないようにしようとかって思ってたんだけど、全品30パーセントオフとかだったからさ、やっぱ通りがかったら気になっちゃうわけよ。で、とりあえず見るだけにしようとかって思ってたんだけどね、買うか買わないか相当迷ったね。買わないという選択肢を選べばね、俺はセールの情報なんて知らなかったんだっていうことに出来ちゃうのよ。ようは素通りすることで、俺には関係ないことだってことで、セールを逃した!なんて思う必要は無いし、意図的に事柄を削除することでなかったことにしちゃえば楽なんだよ。ただ買うことにしちゃうとさ、DVD禁止令を破ることになるし、まぁこれが例外状態といえばそれまでだけど、あとはね、セールが始まってから何日か経ってたんでもうだいぶ荒らされてたんだよね。良さそうなやつは大体もう売り切れちゃってるのよ。俺がもし買えるなら買おうって思ってたやつは全部無くなってた。ただね、まぁ書くと長くなるんだけど、最近、俺の中でキューブリック再評価が出てきててね、まぁベタだけどいいかなってことでキューブリックを買ったのね。博士とかシャイニングとかフルメタルとか。アメリカ映画って基本的に安いんだよ。高くても20ドルちょいぐらい。それが30パーセントオフだからCDより安いね。まぁケチな話だけどね。セールなら高いヨーロッパ映画のボックスとか買えばいいんだけど、いやまぁそれはもう売り切れてたからね、俺が買おうとしてたやつは。だからまぁベタなアメリカ映画でもいいかなってことでねっつってもあれだね、荒れ果てた後はアメリカ映画は相当売り残ってたね。無くなってるのは大体がヨーロッパ映画ばっか。


まぁアメリカ映画なんてアメリカ人から見ればいくらでもテレビでやってるし録画とかがあるだろうからあえてDVDとかを買わなくてもいいんだろうな。まぁでもいいや。あとあれね、トリコロール三部作のボックスを買ったね。これは相当売れ残ってたね。これはヨーロッパ映画っつっても相当メジャーなんで買う人はもうとっくに買ってたんだろうな。あとあれ、スターシップトゥルーパーズとか。あとドッグヴィルね。でも全部で100ドルいかなかったね。相当良い買い物をしたと思う。特に今はキューブリックが見たかったんで、グッドタイミングだったかもなとか思うと、今日、クラスに出なかったということがこういう結果によって全て良かったことのように思えてくるんだよね。読書には集中できて二冊も読破できたし、行くと買っちゃうから行かないと決めていたキムズのセールでキューブリックを手に入れたしさ、まぁその後、本屋に寄ってたりしたら11時過ぎちゃって、本来の目的だったスーパーは閉まっちゃったんだけどね。で、本屋ではソーカルの知の欺瞞を買ってきたんだよ。面白いのがさ、前日の夜にいきなり頭にソーカルの名前がよぎったんだよね。で、今日、まぐれな巡り合わせでソーカルを買ったっつーのもなんか因果的なものを感じるな。・・・・・っていうのが意味付けの醍醐味ね。ナンセンスが有意義に変わるんだよ。まぁあと偶然もあったけどね。ただ本をたまたま何かを予感したかのように二冊持っていったとかさ、ソーカルの名前が前日の寝る前によぎったとかさ、キムズのセールとかさ、予定調和説的に言えば今日はイーストヴィレッジに行くために俺は家を出たのだって言えなくもないけどね、まぁただこれはかなりラッキーだったと思うね。読書だけでも十分だったんだけど、キムズとかソーカルとかがあったんで、余計になんつーか良かったなってことでさ、意味付けがかなり有効に働いたって感じかしらね。


まぁそれはともかくソーカルなんだが、これって知の欺瞞ってタイトルじゃなくて、Fashionable Nonsenseってタイトルなのね。原題は。まぁ元がフランス語で出版されたらしいんだけど、英語版も本人達が直接翻訳したやつらしいんで相当読みやすいんだけど、あれなんだよね、俺ってよくソーカルの名前を出すじゃない?まぁよくってほとでもないけど。で、それで読んでないっつーのが本当に許せないんだよね。これこそ知の欺瞞なんだよね。ウィキレベルの知識であたかもそれを知っているかのように概念を振り回すっつーのは、ポストモダン系の思想家の数式やら言葉の乱用より酷いものがあるよね。ただソーカルも書いているように、数式になじみの無い読者はその乱用された数式が偽物であるっていうのが分からないんだよね。だからもう使ったもん勝ちみたいなところがある。それは概念も一緒ね。「ソーカルが書いてたように・・・」って俺が書いたら、俺は少なくともソーカルを読んでいるかのように見える。もしくは完全に理解したかのように見える。ただ実際はウィキレベルの知識なんだよね。あとはウェブ検索レベルっつーかさ、とにかく本は読んでないってことね。こういうのが俺は許せないんだよね。だから俺は自分でこうやってもう言っちゃったことに関しては元ネタが難しかろうが自己責任として原著を読むことにしてるのね。「ニーチェが言ってたように・・・」って2年前ぐらいの英語学校の授業で知ったかぶってウィキレベルの知識を振りかざした後はさ、もうこの授業後に凄まじい罪悪感が出てきたよね。罪悪感というより自己嫌悪かな。入門書程度しか読んでないくせに、あたかもニーチェを読破したかのように振る舞っている衒学的な自分が許せないっつーかさ、だからこの後にニーチェを何冊も買ってきて読んだよね。まぁ全部は読破してないけどね。まぁでも読まないよりかはマシでしょ?


で、ソーカルなんだけどね、英語版はだいぶ改訂されてて、フランスで出版されたときに勘違いされたこととかね、分かりづらいとかっていう指摘があったような部分にだいぶ改訂とか加筆が加えられてるらしいんだよね。だからイントロダクションで特に強調されてたのが、ソーカルらが批判しているのは彼らによって挙げられた思想家達の数式やら科学的概念の乱用・誤用なんであって、その批判した思想家達の思想そのものの批判じゃないってことね。まぁまだ半分ぐらいしか読んでないんだけどさ、本の構成はシンプルね。批判対象になっている思想家がチャプターごとに分かれてて、んでその乱用されている元ネタの引用があって、んでその後になぜこれがナンセンスなのか?ということの解説があるってな感じなんだけど、基本的にやっぱり思ったのは数式やら科学的概念の誤用及び乱用ということが批判の軸になっていながらもね、やっぱりメインは「分かりづらい文章を書くな」ってことに尽きると思うのね。例えとかトポロジーにしても、抽象的なり小難しい概念というのを分かりやすくするためのものであって、その逆ではないというのは本当に言えてるっつーか、それを言いだすと哲学って終わるよね。本質的なものはともかくとして、恐らく半分ぐらいはポストモダン系以外にしても、もっと分かりやすい書き方をすればいいのに、あえて難しい言葉を使って読者を煙に巻いているようにしか思えないっつーのが多いよね。象徴的なのが竹田青嗣西研のよみがえれ哲学って言う本で述べられてたようなポストモダン系哲学に対する批判ね。これは前にもウォール伝で書いたことだけど、基本的にポストモダンだのなんだのっていう哲学は過去に散々書かれてきていたような哲学の概念なりアポリアなんかを装飾的な形容詞だの詩的な言葉だのメタファーなんかを多用してファッショナブルに焼き増ししたようなのが多いってことなんだけど、これは本当にソーカルに通じるものがあるよね。ソーカルも直接的に述べていないにしても、ポストモダン系の哲学者による数式だの科学的概念の乱用というのを軸にして、基本的には竹田青嗣西研が言っているようなことと似ているんだよね。つまりコアの部分は「ファッショナブルな装飾・衒学的態度への批判」ってことなんだよね。表面的にしても色々な哲学の本とかを読みあさってると思いつくのが意外なことねっつーのはね、読み始める前は、俺の場合で言う音楽がそうであったように、まるで思想というのは行き止まりが無い砂漠というか宇宙みたいなもんで、読んでも読んでも足りないというかね、量が半端じゃないし、もう凄まじく大変なことだって思ってたわけよ。分かりづらいかもしれないけど、なんつーか俺の音楽の場合、中学ぐらいでテクノとかを聞き始めてさ、んでその頃ってのはお金もなかったし、あと音楽っつーのを知り始めていた頃だったから、音楽っつーのがもう宇宙のように思えたんだよね。ただ実際、いろいろと聞きあさってみると、別々のように存在しているように見えるもののルーツが一緒であったり、実際は同じようなことを別の音色でやっているだけだったりしてさ、で、音楽を聴き始めて10年もすると掘り尽くしちゃうんだよね。もちろん全てではないけど、聞きたいやつに関してはもう大体知ってる。あとは新しいのをチェックするとかっていうようなね、情報的な問題になってくるんだよね。中学の頃は宇宙に思えたことが、今ではただの行き詰まりにしか見えない。


これと同じことが哲学だの思想で起こってるね。特に俺の中では最近。限りない地平線の大半は実際は衒学的な裸の王様で、根本的なコアの部分は古代ギリシャ哲学で語り尽くされていたり、もしくはカントだとかヒュームだとかヘーゲルみたいな伝統的で硬派な哲学が重要な概念を生み出していて、残りはただのフォロワーだらけってことなんだよね。いや、そうじゃないかもしれない。ただ装飾的形容詞で着飾った衒学的な哲学っていうのを取り除くと哲学とか思想ってコアの重要な部分しか残らないよね。それってのが所謂、お堅い哲学ばっかなんだよ。読む気が失せるような伝統的な哲学ばっかり。


ハイ。ここまで書いて学校に行かなきゃいけなかったので中断したわけです。今は続きを書くつもりだけど、前とつながりがあるかどうか分からない。まぁあれだわ、ソーカルの話の続きを
するとだね、装飾的言語だとかアカデミックだとか学歴だとかっつーので権威化されることで価値が高まるものが哲学なんだとすればね、もっと分かりやすいのが音楽だね。音楽といっても
現代音楽ね。何やら数式やら科学的概念を駆使して作られたらしいけど音はカオスでしかない・・・というか何が良いのかさっぱり分からないって音楽は多い。クセナキスは方法論では評価できるけど音楽としては全然良いと思わないってのがね、基本的に竹村がモンドミュージックで批判してたようなね、強面のケージ信望者達のCDの中身を変えたところで彼らはそのわけの分からない音楽を評価し続けるだろうってことと一緒なんだよね。アカデミックだの現代音楽だのっていう権威で評価されているようなわけの分からないコンテンポラリーも裸の王様が多いと思うんだよね。ポイントは方法論がやけに難しそうで学術的ってことね。出された音がカオスでもそれは方法論が凄いんで評価される。その一方でちょっと狂った感じのあるホームレスの歌は現代音楽とは評価されないよね。もしかしたらこのホームレスは現代音楽の声楽の曲を演奏してるかもしれないのに見た目がホームレスなんで誰も気にしない。いや、音だけ聞いていればかなりヤバい歌とかたまにあるよ。ニューヨークのホームレス。現代曲ですって言われたら納得しちゃうぐらい変な歌があったりする。


これを哲学だのなんだのっつーのに置き換えるとね、分裂病のホームレスが書きなぐっている電波系思想もアカデミックな装飾と権威さえあれば評価されるかもしれないってことなんだよね。ようは見た目。ソーカルの本に引用されているドゥルーズの文章なんて電波系と見れなくもないもんな。いや、そうじゃないんだよっつってもアメリカの雑誌にソーカルが作ったお洒落ナンセンスな論文が載っちゃったんだからね、電波と哲学の差がないってことを証明しちゃったようなもんだよね。言葉やセンテンスや文の構造さえそれっぽければもうどうでもいいっていうね、くだらない世界なわけだ。で、そういうのを駆使しまくって過去の哲学の焼き増しをしたのがポストモダン系の思想ってことなんだよね。全部がそうじゃないけど、そういうのが多いってことだ。だからいきなりお洒落なポストモダンじゃなくて、ソクラテスから哲学をみっちりやればポストモダン系の思想の斬新さなんて全然ないってのが明らかになるんだろうし、そういうことを言ってたのがさっき書いた竹田青嗣西研なんだよね。いや、全部が全部そうじゃないんだろうし、俺も分からないけどね。俺なんて初心者も良いところだから。全部独学だし。


ただね、知識人の役目ってこういうところにあるんだよ。こんなもん過去の哲学の焼き増しをお洒落にやってるだけですよっていうのを暴いたり、本質をextractしてプレーンな言葉でその思想を解説したりだとかね、そういうのをやらなきゃいけない。ただ実際はなんつーかこれは哲学の悪い癖だと思うんだけど、それっぽく見せるってことに後の世代も連中も苦心するんだよね。前の世代が馬鹿なことを繰り返していたので、そんな過ちは今の世代で終わりだっつって難しい言い回しとかジャーゴンを多用するということを避けなきゃいけないのに、下手にポストモダン系とか読んでるとそれが伝染しちゃって、んでそれがスタイルなんだみたいな解釈で後の世代も似たような晦渋な文章を書くようになるんだよね。これは本当に情けないことだと思う。ちなみに文章が難しいからといってそれに意味が無いというのは全くの誤りね。それはソーカルも竹田・西もそんなことは言ってない。文章が難しいんだけど中身があるってことになるとやっぱり世界を見てもダントツなのが廣松渉だよね。もしチョムスキーが日本語を理解したら真っ先に批判しそうなのが廣松渉だし、俺はあの晦渋な文が好きじゃないし、あれは典型的な哲学者の悪い癖だと思うんだけど、廣松渉のは中身があるから分からないっつって投げ出せないんだよね。だからサマリーみたいなのが凄く欲しいわけ。


あ、んでゴメン。抽象的で衒学的な哲学の話に戻るけど、ラカンなんかは理解・不理解という次元で言葉を理解しないということが良いというか本質だみたいな老子みたいなことを言ってたような気がするんだけど、それってある意味で逃げなんだよね。抽象的な概念を抽象的にしたまま読者に委ねてるっつーのは汚い。ただね、それを言いだすと全ては具体的じゃなきゃいけないのか?ってことでさ、必ずしもソーカルみたいな科学者的態度が全てのことに適用されるわけじゃないっつーのは、例えば最近ようやく返してもらって見たリンチのインランド・エンパイアみたいなさ、ああいう抽象的なものをそのままにしておいて、監督すらも分からないというようなものを映画として出すっつーのはありっつーのはね、それは抽象画なんかもそうなんだけど、そこに人間の感性というのが介在するから、必ずしも具体化されていなくてもいいってことなんだよね。イメージそのままとかね、質感そのものみたいなのに何かを感じてそれを良いとするものもいる。そういう意味だとソーカルは本の中で詩みたいなフォーマットのものは抽象的だろうがメタファーがいくらでもあろうが科学用語の使い方が間違っていようが良いっつーのはね、そういうのが許されるっつーかありうるフォーマットっていうのもあるんだよ。それは主に芸術だろうけど、哲学は芸術と似ているところがあるにしても、やはり抽象画やリンチの映画のように文章を書くわけにはいかないよね。それが哲学である以上、やはり具体性が無いと何もならないと思うわけ。もしくは他の学者が謎のテキストの意味なんかを抽出するっつーのもさ、もはや書かれたエクリチュールになっちゃっててなおかつ著者が死んでたりすると確認のしようがないと思うんだよね。


これはどういう意味なのか?っつーのがね、その意味の解釈も他の人間に委ねられるとそれはもう個々の解釈に委ねられちゃって、それこそエクリチュールインランド・エンパイアみたいになっちゃう。それじゃあやっぱりダメだと思うんだよな。逆を言えば元々がインランド・エンパイアみたいなコンセプトで作られたものに後付け的に意味合いを他の哲学者なりなんなりがコメントするっつーのも変な話なんだよね。読者なり鑑賞者なりに解釈が委ねられている以上、正当な解釈なんてのは存在しないわけだ。だからなんというか哲学と詩とか言葉遊びみたいなのはやはり線引きをしなきゃいけないと思う。1ページで済むことを、グダグダと言葉遊びとかジャーゴンや数式の乱用を重ねてページを稼いで10ページにするとかね、それってTrue Steppersのアルバムみたいなもんなんだよ。メインの曲以外は捨て曲みたいなアルバム作りは良くない。だったらシングルだけで十分じゃないかと。だから思うにああいう思想の説明とかは東浩紀とか浅田彰みたいなブレインがある連中に任せちゃって、パンピーはその知識人が書いたサマリーだけ読んでれば十分だと思うんだよね。晦渋な文章の解読にただですら足りない知能を使うんだったら、ちゃんとした哲学の勉強をしたほうが建設的だと思う。だから思うに伝統的な哲学からの地続きであるはずのポストモダン思想ってのがね、伝統的な哲学のバックグラウンドが無いような連中に読まれてるっつーのはやっぱりファッションだと思うんだよね。それは日本だけではなく世界でね。思うにポストモダン思想なんてのを完全に理解しようと思ったら大変なことだよ。哲学を基礎からやんなきゃいけないんだから。サルトルにしたってデリダにしたってまずはデカルトを読んで、それから現象学を理解しなきゃ始まらない。


でもね、なんかあれなんだよね。デリダっつーとかっこいいみたいなのはやっぱりそれを読んでる自分に酔ってるっつー知的欺瞞があると思うんだよね。ウィキにもあるように浅田彰の構造と力が流行ったときは、これを片手にナンパするのが流行ったっつーのも知的欺瞞の良い例でしょう。クッズとしての哲学ね。あとはやっぱりMAX/MSPね。パッチをプロジェクターで映して
それをライブとか知的欺瞞以外のなんでもない。俺はこんな難しいソフトを使ってこんな音を出してますよっつーのを自慢するわけだから最悪だね。まさしくあれはもうコンテンポラリーミュージックの腐敗としか言いようがないよね。別に電子音楽をやるのにシンセを一から組み立てられるような知識が無くたっていいんだよ。それはミュージックインダストリー側が作ればいいわけで、作り手がなんやかんや言うもんではない。まぁ理想的なのがカルちゃんみたいに自分が欲しいと思うようなソフトの設計を専門家に頼んでパッチを組んでもらうってことね。思うにMSPとかにしてもジャーゴンだらけの文章にしても、ほぼ自己顕示なんだよね。そういう言葉を振りかざすことに心酔してたりね、あとはそれをやって他人に凄く見られたいとか、あとは何よりパンピーと自分との線引きをすることなんだよね。俺はこれを知的ヘゲモニーと呼んでいるんだけど、どういうことかというと、つまり暇人が哲学やらMSPのパッチ作りに時間を費やせるということを特権化させるのがね、その成果を見せびらかすことなんだよ。分かる人にだけ分かればいいっつって難しいような音楽とか文章を書くっつーのは、それは普通の人にはなかなか出来ないことだから、それだけで凄いみたいな印象を与えるためなんだよね。


自分にはそういうのを作るだけの脳があります、語彙があります、というのを見せびらかすことで自分を権威化ないしは特権化しようとするわけ。マーティンとセレニーとかグールドナーの知の資本みたいな話だけどね。つまりはまぁ高学歴者の特権ってことだね。大学に入ってニート生活みたいなのをしながら労働せずに思索なり読書に耽るという生活を許されている恵まれたブルジョワ的な人間がインテリになって、彼らしか理解しないような言葉で業界を蛸壺化させて閉鎖的にして特権化することで彼らの地位というのを守るというのがアカデミアという名の欺瞞的な業界っていうね、いや、これはグールドナーでもないしマーティンでもセレニーでもなくまぁ似たような文脈での俺の勝手な考えなんだけど。だからそういう意味では俺も一緒なんだよ。学生という特権を利用して英語を勉強したり本を読んだりするということは、そんなことを成人化してからはとても出来ないという人達に対して差別を生むんだよね。それは俺がよく言うというか考えることなんだけど、俺が音楽や映画に詳しいのは当たり前なんだよ。っつーのはまぁ俺の場合、精神病もあってか労働がexemptされてるっつーのもあるにせよ、それによって生まれたフリータイムの限りを尽くして音楽なり映画なり本を貪ってるわけだから、労働に追われている人より知識があるのは当たり前なんだよ。それは俺の頭ではなく単純にフリータイムの多さに帰依するものなんだよね。プラス俺の場合、明らかにADD的な偏った過集中があるんで好きなことに関する知識なりが偏った形で強化されるというのはあるね。それを特権化しちゃおうじゃないかというのがまさしく今の俺のやっていることなんだよね。暇人とか精神病者とかADDじゃないと出来ないようなことを徹底してやることでそれを特権化させてポジティブな意味でのマイノリティになるということなんだよね。それは社会から「凄いですねぇー」と内容はともかく簡単に判断されるような特権というのを手に入れて、それを使うことで生きていくということなんだけど、それはまさしくブルジョワ知識人ということなんだよ。だから知識人というのはダメなやつが多い。なぜならそれを取り除いたら何も残らないようなダメなやつが多いからなんだよ。それはアーティストでも同じね。アーティストから表現という術を取り除くと残るのはただのダメ人間みたいなね。


それの究極系がポストモダン思想というわけ。それはオリジネーター達というよりかはフォロワーとかその研究者に多いような気がするな。あ、その特権的で蛸壺的な閉鎖空間でやっていけるということを利用して飯を食うみたいなね、オメコ汁でオマンマ食うようなもんだね。だからポストモダンとかを研究してるやつってのは中流かボンボンみたいなタイプが多いんだよね。なんか人間的に好きになれないような嫌な感じのインテリが多い。まぁ簡単に言うとあれだ、ゴダールとかを理解してる自分に酔いながら小難しい本を読んでいるような若者ね。俺が殺したいと思うタイプの人間の一つだね。ゴダールはそういう意味で衒学的インテリの集合体みたいなもんなんだよ。知的ヘゲモニーリバイアサン。実際はただの裸の王様なわけだ。だから俺は基本的にゴダールは好きだけど、大嫌いなんだよね。18ぐらいの頃は典型的に今の俺が殺したいような若いやつだったんでね、それがよく分かるんだな。ゴダールを見ながら読書はマルクスで音楽はクセナキスとかケージとか輸入で買ったGRM系のCDとかね、これって凄まじくスノッブなんだよね。まさしく知的スノビズムそのものだね。まぁ俺はそういうのが単純に好きだからやっていたわけだけど、「自分は違うんだ」みたいなオルタナを地で行くような態度に心酔していなかったといえば絶対嘘になるわけね。まぁ俺は良く言えば早熟というか今でも思うのは中学で相対性理論とか量子論とかに興味を持ったり、古代遺跡とかに興味を持って学校に行かずニュートンを読んでたとかね、年齢で言えば高校の頃にもうケージにバリバリ影響を受けつつクセナキスとかさ、映画はゴダールからデレクジャーマンからなにからさ、そういうのを貪ってたっつーのは早熟と言えば聞こえはいいけど、まさしく青二歳的インテリそのものなんだよね。ああいうのを一生続けちゃうとあのサックスの菊池なんたらみたいなダメ人間になっちゃう。でもこういう10代後半みたいなのを30代になってから始めるような人もいるからね、そういう意味だと俺はそういう時期はあったけど、とっとと卒業できて良かったと思う。


知的なもののグッズ化というのはだから本当に危険なんだよね。それがファッションになると最低なものに成り果てちゃう。でも哲学って本来、本当に興味を持つ人以外には全く必要ないようなもんだしつまらないもんだと思うんだよね。だって本質はさっきも書いたようなエンターテイメント性ゼロみたいな伝統的な哲学ばっかなんだから。思うに哲学という翻訳が良くなかったと思う。本来的な意味に照らし合わせて愛知っつーと地名になっちゃうけど、愛識とかさ、ネクロフィリアならぬフィロソフィアなんだからね、ソフィーフェチなわけよ。フェチが趣味じゃなくて性癖なのと同じで、哲学や思想なんてのも性癖だと思うんだよね。だからファッション化なんてことはありえない。ありえるとしたらポピュリズム的な知的イメージとしての消費物だよね。ここにやっぱり哲学研究者と哲学者の差があると思うな。哲学を生成する人とそれを研究する人ね。一緒のように見えて全然違う。前者はアーティストで後者は歴史家と言っても過言ではないと思う。まぁ世の中には両方を兼ね備えている人が多いけどね。そういう意味だとドゥルーズって哲学者というよりかは哲学研究者としては超一流だったんじゃないかなと思うけどね。


んー長くなってるな。というか学校に行く前に書こうとしていたことがなかなか思い出せないままここまで来てしまったよ。まぁまた思い出したら書くわ。今日はこの辺で。

よみがえれ、哲学 (NHKブックス)

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「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

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