ソーカルと知的ヘゲモニー。そのに。

mimisemi2008-11-01

この楽曲は人間の主観における主観と客観という二項対立の調停という役割を、音色における作者の主観的利用や、音色そのものが持つ客観性がもたらす主体との亀裂などに当てはめながら、楽曲全体としての構成をあくまでそこにある音そのものが敷衍していくというような機能的構造を持った有機体であるみたいなコンセプトの音楽がMAX/MSPで行われているとそれだけでその衒学性にムカつくわけだけど、作者がプロセスの重要性を聴衆に押し付けるというのは思い上がりもいいところだと思う。あ、昨日の続きなんだけどね。


「だからどうした?」というようなね、音の現象そのものをコンセプトとして提示するサウンドアートみたいな類のやつにも面白いのがあるけど、やっぱりそこは前にも書いたようにそれを現象として提示しているならやはりそこに作家の嫌らしい自己権威欲なんて出すべきじゃないんだよ。音の現象を抽出したというだけだったら、作者は科学者のような存在でいるべきだと思う。それを発見したり提示したのは凄いけど、そこで起こっている現象自体は作者の作品ではないんだよということね。この辺がごっちゃになっていて、ドロドロの表現主義を好むような作家が、自分の想像力の限界を感じてサウンドアート的なものに逃げこむというのが俺は大嫌いなんだよな。自分は表現できないから、音の現象そのものを抽出するしかないみたいなのはね、オナニーした後にチンポにまとわりついてたティッシュをチンカスと共にぬぐい去ったそのカスの塊が作品みたいなね、そういうような往生際の悪さを感じるんだよね。思うになんのこっちゃない現象を衒学的な言葉やらコンセプトで塗り固めてそれらしく見せるというのはね、まさしくソーカルが批判してるような一連の往生際の悪いポストモダン思想と同じなんだよね。現代芸術やサウンドアートなんかにニューアカみたいな嫌らしさを感じるのは俺だけじゃないと思うわけ。


その最たるもんが一時期流行ってたMSPをプロジェクターで映してその複雑さを自慢するっつーライブ形態ね。実際はただのサンプルをパッチに取り込んでスライダーを動かしているだけなのに、その音を出しているのが作家で、あたかもその音そのものを作家が作り上げたかのように振る舞っているのがね、無知な聴衆に「マックスだぁー!」って思わせるような気色の悪い上から目線なんだよね。これから点を;にしてみようかな?今日はこれでいくわ。あ、んでね、美術界とかにうさんくさいのが多いのもアカデミアのうさんくささと一緒ね。スノッブなインテリが意味不明なオブジェを見ながらごにょごにょと何かを述べながら絶賛するわけよ。だからよく現代美術っていうのは醜さの代名詞として使われることがあるよね。皮肉を込めて「これは現代美術の傑作だな!」とかね。美術ってのもね、今、モダンアートの授業受けてるから本当に分かるんだけど、基本的に美術界にアカデミアなんて存在しなかったし、近代になるまで美術史なんてのは存在しなかったわけだよ。後の世代のインテリが何やら批評やらなにやらをはじめてさ、それを学問として確立してね、それこそこれも知的ヘゲモニーの一つだと思うんだけど、元々絵画とか表現物は気違い達によって作られてきたっつーのが多いわけで、基本的にアートのマスターピースなんて大抵がアウトサイダーアートだし、アールブリュ的なんだよ。なのにそこにアカデミックなサンクションや権威がつけられることで、後の世代はそこに判断が介在すること無く自動的に「傑作なのだ」って思い込まされる。ランシエールのThe distribution of sensibleという概念はこういうのを考える上で凄く有用だと思うんだけど、まだちょっと読んでる最中だから解説はやめるわ。中途半端なのは嫌だし、今日はランシエールのことを書くつもりはないので。ゴメンね。だったら書かなきゃいいのにね。いやね、これってシュルレアリズムの自動書記と一緒だからね。思ったことをただひたすら書くだけ。で、結果がウォール伝にアップされるっていうね。まぁいいや。シュルレアリズムっつーのもね、括弧付きの横文字で言うとかっこいいけど、当時はただのインディーズ的ムーヴメントだったんだよね。アートって凄く自由なはずなのに、今のモダンアートの授業を受けてると凄まじい息苦しさを感じるんだよな。もうアカデミアの材料になっちゃってるっつーかさ、もっと自由なものなのになんつーかファインアートっつーの?ハイカルチャーなんだよね。敷居が無駄に高い。元々は低いものだったのに。まぁいいや。ゴメン。話を続けるわ。


で、前にも書いたようにRCAシンセを使いこなせるのが凄いという時代はとっくに終わったんだよね。あの程度のものならソフトのプリセットでいくらでも出来る。当時はそれに触れられたという特権階級;つまり昨日書いたような知的ヘゲモニーによってなされていたわけだけど、今では誰でもエレクトロニクスを使える時代なわけで、プロセスが凄いとか操作が凄いみたいな時代じゃないんだよ:なのにも関わらずね、あえて過去の現代音楽が凄かったように見えたような表面的な方法を今の自体で使い続けるというのは如何なものか?ってな話だよね。MSPとか使ってるやつは大きく分けて二つあって、一つはそれを必要なツールとして使っている作家ね。で、もう一つはその見た目の頭の良さに誘われて使うっつーただのフォロワー。もちろん後者には馬鹿が多い。特に2000年過ぎてからMSPとか始めてるやつは本当に馬鹿が多い。何を今更?って話だろう。あんなもん。いや、これはね、2000年過ぎてからMSPを使うことがダサいとか時代遅れってわけじゃなくて、それをツールとして見なしていなくてね、まるで自分のクリエイティビティの欠如をMSPで埋めようとしているようなマケインっつーのは基本的にダメってことなんだよね。ああいうパッチソフトは使いこなせる人にとっては夢のワークステーションだけどね、完全に使いこなせる人なんて滅多にいないよ。オウテカみたいなインテリコンビじゃないと使えない。


だったらシンプルにクールだと思ったサウンドを切り貼りして音楽を作ったりね、ソフトがなんであれ面白い音が出来たんでこれを広げてみようみたいな安易な方法で音楽を作った方がよっぽどダウンオンジアースなわけよ。理解もしてないのにそれを使いこなしているような気分になっているというのはまさしくジャーゴンや数式や科学的概念の乱用によって凄いものかのように見せているポストモダン系と同じなんだよね。ようはMSPみたいなのはインテリ装置ってことね。使いこなせば凄いけど、理解してないくせに使いこなしているつもりでいても聴衆は分からないという意味で衒学的な使い方も出来るっていうことでね、基本的にこういうのっていうのは人間の本性を現しているよね。他人によく見られたいだと俺は違うんだぞ!というような自己顕示欲で自分を慰めたり満足させるというようなオナニー的行為というのは思想や音楽に限ったことではなく、人間の原動力なんだと思う。その辺ではホッブズスピノザは本当に言い得ているわけだよね。人間ってのは本当にどうしようもない。中途半端に頭がいいやつもやることは低俗だったりする。まぁもちろん全てのポストモダンやMSPで作られたような音楽が衒学的というわけではないよ。ただそういうのも多いよねってことね。


音楽における自己顕示欲と表現欲の混同の良い例がDJというのは前にも書いたよね。DJというのはクールの代名詞なんだけど、自己顕示がごっちゃになっているやつは、かっこいい曲をスピンしている自分がかっこいいみたいなのを聴衆に見せるためにかっこつけた動きをしたりサングラスをしてみたりそれっぽい格好をしてみたりするんだけど、恐らくDJになりたいやつというのの大半がこういった自己顕示の動機によって動かされているんだと思うね。良い曲をスピンするだけなら家で出来る。良い曲をミックスさせるだけでも家でも出来る。その辺ではDJ Little Dickを見習ってほしいと思う。じゃあなんでそれを人前でやりたいのか?っていうとフロアとの一体感とかサウンドシステムの良さとかを味わいたいみたいなね、そういうのはある意味でプリミティヴな動機なんだよね。いや、そういう理由だったらいいと思うんだよ。まぁ何を良いとするかだけどさ。いやね、自己顕示欲じゃなくて、それこそラリー・レーヴァンなんかを見れば分かるけどね、DJってああいうもんだと思うんだよな。上半身裸で汗まみれになりながらフロアを熱くさせるようなね、ようは儀式におけるマスターオブセレモニーなんだよね。別にかっこいい必要はないし、そこにある音はあくまで儀式のための音楽なんであって、祈祷師なり魔術師をかっこよく見せるためのものではないんだよ。それこそマトリックス2の最初みたいなもんだね。ザイオンで汗まみれで踊りまくる土着的で原始的なダンスフロアね。だから俺はクラブとかDJが大嫌いなんだよな。音楽そのものは好きだけど、そこにいるやつらが大嫌い。単純に踊り狂っている人はいいけど、DJがカリスマになるような聴衆とグルの階層化みたいなのが嫌だし、何よりあの特に日本のDJみたいな芸能界みたいなスター性が大嫌いなんだよね。あれは完全に音楽と自己権威がごっちゃになっている世界だよね。チョムスキーが自伝的なことを語りたがらないのは、チョムスキーがカリスマになってしまうことで、チョムスキーが言っていることが全て凄いみたいな、チョムスキーの言説と言説それ自体の解離が起こってしまうのを恐れているからなんだよね。スター化というのはロクな結果を生まない。凄い人でも間違うことはあるんだけど、スター化することで言説が全て神託になっちゃう。


DJも同じね。スターが回す曲は全て神が奏でる音楽になるわけだよね。またソーカルに戻るけど権威化というのは大体こんなもんだと思う。アカデミックなサンクションや権威化が認められるとそれに客観的になれる人が少なくなる。Ph.dって出ると「頭が良いのだな」とか「正しいことを言ってるのだな」と思考停止的に思ってしまうのと一緒ね。それに異を唱えると「お前、何言ってんの?」ってことになるんだよね。例えばDJで言えばね、ジャイルス・ピーターソンっているじゃない?まぁ基本的に俺は好きだけど、別にあの人って天才でもなんでもないんだよね。ミックス聞けば分かるけど、どちらかと言えば短所のほうが多い。なんでこんな曲入れちゃうの?っていうようなのが本当に多い。でも彼はあの手の音のオリジンとして絶大な支持を得ているし、何より開拓者としての評価が高いんでやっぱり信用されているDJなんだと思う。ただでも普通のDJなんだよね。光るような独自のセンスは感じない。ただの音楽に詳しいおっさんが色んなものをコンパイルしているというレベルで、冗談音楽で言えばドクター・ディメントみたいなもんだね。ただミックスとかDJとは違ったレベルで彼がやってきた活動の重要性というのを見るとやはりジャイルスは偉いし凄いんだよね。それは政治的振る舞いと一緒で、その振る舞いそのものだけでそれは判断できないんだよ。それはその状況や歴史的背景も含めたコンテキストの上でその政治的振る舞いを理解しないといけない。そういう意味で言うとジャイルスは超一流DJなんだよね。やはり。


あ、んで話が相当逸れているけどね、恐らく欲に関わることっつーかね、それは何回も書くようだけど自己顕示欲だとかね、金を儲けたいだの有名になりたいだのモテたいだのね、行為なり
表現の背後にそういうものがあると大抵はそれはもうコラプトするんだよね。純粋な表現じゃ無くなる。そういう意味で前のノイズは本当にピュアな表現だと書いたのはそういう意味ね。インキャパほどストレートでピュアな表現は無いだろうと本当に思うわけ。あとその精神を受け継いでるのがメゴね。音はともかくその背後に有名になりたいだとか金を儲けたいだとかね、あと流行に乗るような音の雰囲気とかが一切無いんだよね。大友さんが言うような、まさしく電子機材でパンクをやってる連中なんでね、例えば使ってるソフトがMSPでも出てる音はジャンクだったりするんだよね。それこそクズの塊みたいなクラスターノイズとかグリッチノイズを出している。そこにラップトップだのMSPを使うことによる知的ヘゲモニーは全く感じないよね。そういう意味で彼らの手法はノイズ音楽に極めて近いものなんだよ。まぁメゴっつっても色々いるから一概には言えないけどさ。フェネスみたいなスターもいるからね。まぁでもフェネスも別に対したことやってないからね。綺麗なメロディーのループだけとかさ、アンビエントグリッチとアコギの融合みたいな感じだからね。なんで俺がカルちゃんとかハズェルとかピタが好きなのかというとね、それらがもう音そのものだからなんだよね。こういう音が出ました、ハイっつーのをそのまま出してる。ややこしいコンセプトとかもあるのかもしれないけど、基本的に出た音勝負っていう意味で、そこに認識の木の実を貪る厭らしい人間の主観は介在してない。だからピュアなんだよね。まぁヘッカーもそういう意味ではジャンキーなのかな。手法はアカデミックなんだけど、出している音は極めてピュアな電子音っていう意味で、過去のエレクトロニックな現代音楽の系統を継承しているよね。まぁチュードアの現代版という感じかな。


まだ昨日、学校に行く前に書きたかったことが書ききれてない。また思い出したら続きを書くね。ってことで今日はこの辺で。

In the House

In the House