温泉男さんへの返信。

mimisemi2008-11-03

温泉男さんの書き込みに返事をしようと思ったんだけど、いかにも長くなりそうだったんで1エントリーにするっす。


いや、そんなに楽しんでもらえてありがたいわけですね。つまんないのもあるっていうのがミソですね。というのもそれは改めて自分の脳の出力に割と成功してるじゃないかってことなんですよ。つまり調子悪い時とかネガティブな時とかどうでもいいことを考えていて、それはつまらないかもしれないけど、ウォール伝は出力の塊なんで、そんな気分障害的なのも見事に出力できてるんだなと自分でも関心したわけですが、まぁとにかく考えるのが好きな人っていうのはマイノリティかもしれないけどいるんですよねー。やっぱり。僕は中学の頃になぜか相対性理論量子論にハマりましてね、なんというかアレですね、まぁもちろん登校拒否になってたんで、学校のやつらを見返してやろうみたいな、ネガティブな思考もあったにせよ、結構割と純粋にハマってたんですねぇー。何が面白かったって、例えば光の速度で移動すると時間が縮まるみたいな、普段なら考えないようなことが相対性理論やら量子論にはあってですねぇ、まぁ一種のファンタジーですね。どうでもいいんだけど考えたり理解しようとすることが楽しいみたいな、そんなのを発見させてくれたのがこの2つなんですが、まぁ媒体はニュートンでしたね。あと古代遺跡なんかにも異様に興味を持っていて、マヤ文明に関しては小学校の頃からハマっていました。今思えば早熟でなかなか聡明な子供だったんじゃないかって思うんですけど、基本的に今と一緒で普段の生活とか行動がダメダメだったんですよね。だから「俺、凄いじゃん」なんていうナルシシズムは一切生まれませんでしたね。常にあるのはあれですよ、自分はダメだみたいな考えですね。学校の成績とか酷かったし、親にも怒られてばかりいたので。


思えば最初からアカデミックっぽく見える分野のものを、素人的な観点から単純に楽しむっていうのが自分の何かを読んだり考えたりするっていう動機だったわけで、全然今と変わらないわけですね。なので今もずーっと趣味をやり続けている感じです。こういうのが恐らくフィロソファーなんだと思いますね。日本語の哲学者みたいな堅いイメージではなく、古代ギリシャ的なLove for Wisdomですね。実体のない知識とか知ることに異常な関心を覚える一種の異常者がフィロソファーなわけです。思うにソーカルも書いていたようにヘーゲル以降というか、ヘーゲルの弟子達が哲学を体系付けようとしたり、概念を説明するために数学やらを使い始めたっていうのが割とモダンな哲学の悪い癖を作っちゃったわけですね。それがデフォルトになっちゃったんで、哲学研究者みたいなただのインテリがフィロソファーぶってフィロソフィーをやろうとした結末がポストモダンなんだなと勝手に自分でソーカルを読みながら最近は納得しています。哲学者というかフィロソファーってかなりのニート体質だと思うんですね。だからやっぱ哲学研究者とフィロソファーって似ているようで全然差があると思いますというか全然違う人種ですね。


言葉が不完全だからキツいというのも全くそうですね。ヴィトケンシュタインじゃないですけど、言語と意識には解離があるんですよね。意識とか考えというのを言語に変換してそれを表現として出すのが文章だったり喋ることだったりすると思うのですが、言語というのが限界である以上、概念を言語に変換するプロセスというのが物凄く大変なわけですし、ましてや僕みたいなわけのわからないとりとめの無いようなことを考えている人間の考えを言葉にするというのはかなり大変なことです。ましてや僕はちゃんとした教育を受けてませんし、あれですね、文章の書き方とか全然ダメですからね。文章はほぼ書けませんよ。だから。ウォール伝かメールぐらいしか書けません。思うにだから今の学校のエッセイとかがイマイチなんだと思います。何かのテーマという枠組みを与えられて書くというのは本当に苦手なんですね。


それはともかく言語の話に戻りますけどね、言語の物質性ってはじめて聞きましたけど、恐らくデカルトなんかと近いんじゃないでしょうかね?言葉じゃ分けの分からないようなことを図形で表したらそれは視覚的な情報なので分かりやすいわけですが、デカルトは概念を数学やら幾何学やらなんやらで説明することに成功していたので、まぁだから凄いというかなんというか、あとやはり死という言葉と中指を立てる死ねというサインもシニフィアンシニフィエの問題だと思いますね。シニフィアンは「くたばれ」でも中指を立てるというシニフィアンを知らない人達は、そのシニフィアンからシニフィエを読み取らないですよね。温泉男さんの言うことは死ぬほどというか死ぬよりも良く分かります。ボディーランゲージの違いというのは結構面白くて、例えばブラジルではお金を意味するジェスチャーがフランスではファックを表すとかですね、まぁこれは例えなんで正確ではないですよ。実際の具体的な例は知りませんが、こんなことはいくらでもあるっていう意味です。まぁそれはともかく、このボディーランゲージのシニフィアンシニフィエの解離というのはまさしく西洋的な概念と東洋的な概念の解離を考える上で凄く重要なんですが、これは僕がアメリカで生活していてというか、英語を学ぶ上で凄く重要だと思った認識なんですが、温泉男さんの「死」がただの便利な概念ということに照らし合わせて言うとですね、insertion ruleとかって言うんですけど、英語って何かを表す時に「There」を使ったり「It」を使ったりしますが、このThereやIt自体は何も表していないんですね。英語ってのは極端なぐらい主語にこだわりますから、ThereやItといった実際は何も表さないようなものにも主体を与えるわけです。だからIt is rainingみたいなおかしな文章が英語にはあります。日本語の場合「雨だ」とか「雨」で済むことなのに、英語は何を表しているのか分からない「It」というのを必要とするわけです。分かった?とかもGet it?ですね。このItは恐らくこの分かった?と聞いている問いに対する主体なんですね。それはアイデアだったりなんだったりするわけですが、はっきりいってunderstand?で十分だと思います。まぁそれはともかくこの英語の概念と日本語のThereとかItを使わないことによる差で出てくるのは、そもそもの概念の考え方の差異です。何事にも主体がある英語と状態だけでも表せる日本語なんですが、こういった考え方自体が人間の考え方までをもシェイピングする可能性があるというのは言うまでもないです。


こういう文法の差があるんで、英語の翻訳本は読みづらいわけです。仮に翻訳が良くても日本語に比べたら不自然で読みづらいですね。それに比べてこれは僕がよく書くことですが、大まかにアルファベット系言語と分けると、大抵のアルファベット系の言語はオリジンの派生だったりするんで、フォームは同じだったり似ていたりするんです。だから恐らく僕が勝手に思うにアルファベット系から別のアルファベット系の言語への翻訳はそこまで酷いものにはならないんだと思います。まぁもちろんその言語が持っている固有の表現というのが翻訳で失われるというのはよくあることですが、英語から日本語を考えればマシなもんです。


結局、哲学用語も大半が輸入なんで、明治時代やら何やらで輸入された時に無理矢理日本語に変換したものが多いんで、だから日本語で哲学書を読むのは面倒なんですね。例えばExistenceとかにしても、これは少なくとも英語では日常的とまでは言わないにしても、別に哲学のジャーゴンというわけではないんです。「既存のアイデア」とかだと「Existing idea」とかになります。でもこのExistenceを日本語に訳すと「実存」とかわけの分からない言葉になるわけで、ここに西洋的なExistenceという概念と、それを輸入して無理矢理言葉を当てた「実存」の概念の
差がありますね。いや、実際、実存という言葉が西洋的な概念の輸入かどうかは分からないんですけど、まぁ哲学的な用語って輸入ばかりなんです。「市民」とかもそうですね。そんな概念は日本には無かったわけです。


これは明らかに哲学という文脈があるから「実存」なり「市民」という当て字が意味を持ったのであって、それ自体には意味が無いんです。まぁ日本語内でという意味です。西洋的な概念の
直輸入の言葉ということで、タクシーを的士だかなんだかの当て字にするのと同じことですね。的士もタクシーという西洋概念があるから成り立っているただの当て字です。だからそもそも的士なんてものは存在しないんです。もっと突き詰めて言えば、まぁ根底を覆しちゃうような話になっちゃいますけど、タクシーもタクシーというものを表す言葉なわけで、タクシーという言葉そのものが意味を持っているわけではないんですね。それは人間の共通前提で成り立っているタクシーという概念がシェアされることで浮かびあがってくる意味です。そういう意味で言語とは社会的というか政治的なもので、アリストテレスが人間は言葉を喋る以上、それ自体が政治的だみたいなことを言っていたのは本当に的を得ていたと思います。


クオリアの話になりますけど、僕の考えでは確かにあれは旧来の哲学的概念の亜流なんですが、どちらかと言えば割と面白い現象なんですけど、なんとなくアブストラクトに哲学的な概念で述べられていたことが、後になって科学で説明がつくとか、医学で説明がつくようになったとか、そういうことなんだと思います。宇宙の理論なんかも相当大規模なものになると仏教に近いようなものがあったりします。それと同じことで、クオリアというのは、その脳が感じているそれ自体の現象と、現世にたゆたう概念のように存在している、脳の外にいる主観のコンビネーションのことなんだと思います。感覚的クオリアと志向的クオリアというのも、例えばチョムスキー言語学で言えば、さっきのThereだとかItのような、感覚的クオリアがそれ自体で述べられていなくても、人間は志向的クオリアを勝手に予想して認識できるということなんですね。だからItって?という問いが生まれるのではなく、あー雨のことね、と納得がいくわけです。これはデカルトの完璧な三角形は存在しないみたいな話と同じことだと思います。完璧な三角形は無いし、我々が三角形と思っている三角形は実は端っこが繋がっていなかったりして、実際は三角形じゃないのにも関わらず、志向的クオリアを利用してそれを三角形だと認識するわけです。チョムスキーの言う普遍文法なるものが生来的に人間に備わっているとされる仮定の大前提にあるのは、プラトンの問題に見られるような、言語自体は完璧ではないのにそれを完璧に理解するような矛盾なのですが、これがどういうことを表すのかというと、恐らく人間というのは知覚において、その情報がどういうものであれ、そこから何かを汲み取って理解するプロセスが常にあるということです。つまり言語そのものを丸々理解しているのではなく、不完全なところは自分の知覚において補強することで理解するわけです。さっきの三角形の話と同じですね。


クオリア理論は恐らくこういったある意味で普遍的に存在するような人間の認識のおけるアポリア脳科学で説明しようじゃないかという試みなんだと思いますし、それはただのアイデアではなく、脳科学の研究によって分かった様々な材料から始まっている研究なのであって、あながちトンデモ理論というわけではないんですね、クオリア理論は何気にカントのコペ転とほぼ同一のことを科学的に述べているに過ぎないんです。つまり脳が現実だと認識していることも、脳内イメージによって作られている世界なのだということですね。これを脳科学に置き換えれば、全ての現象は脳内現象にしか過ぎないということですね。それは僕がここでよく書くような恋愛は、ただの脳内におけるドーパミンやらエンドルフィン放出だというようなことと同じです。


そういう意味でチョムスキーの徹底して意味を読み取ろうとしないような言語学における科学的態度であるとか、クオリア理論だとかというのは、温泉男さんが言うような「ただのもの」として見ようよというまさしくそのものだと思いますよ。人間はただの現象なわけですね。知覚は脳内現象です。認識も志向も同じです。そういう意味で全ての人がイデアの世界に生きていると言えなくもないわけですね。こういった世界観はスピーカーの中の粉薬の現象と同じ世界観だと思うんですが、どうでしょうね?こういった粉薬の現象の繋がりや連鎖が人類であり、そこに意味なんて無いわけです。だから人間というのは慢性的に自分の実存に対して不満や不安を抱くわけですね。でもそれはしょうがないことですね。だって元々意味が無いわけですからね。「あの感じ!」というのをただの脳内物質の分泌と捉えるのも、ファンタスティックなものだと捉えるのも、それは主体次第ですね。そういった意味の無い脳のただの現象一つ一つに自分なり意味意味付けをあたえていくのが、まぁ大げさな言い方になりますけど人生なんだと思いますね。だから「人生の意味とは?」ってどこの国の人間も問う問題です。まぁ人間における普遍的な問題なんでしょうね。僕は考える時間や読書の時間が普通の人の倍以上あるので、こういう問題はとっくにクリアできました。だから認識面に置いてはかなり楽ですね。まぁ辛いのは現実ですけどね。単純に金を稼がなきゃいけないだとか、飯を食わなきゃいけないだとか、そういう諸問題です。あとハゲたらどうしよう!とかですね。


ちなみに僕は現象学というのが哲学の頂点だと思っています。で、そのもっと上を行くと東洋哲学に行くと思うんですね。東洋哲学といっても東洋の神秘みたいなオリエンタルな見方やドグマティックな仏教的観点ではなく、西洋哲学もなにやらも俯瞰した上での東洋哲学ですね。最近は老子フッサールにハマっています。元々ショーペンハウエルが大好きなので、まぁ哲学といっても同じ系統だと思いますね。あ、なんというか東洋的という意味でです。


やはり長くなりました。例によってまたガーッ!!と書いたんで間違いもあるかと思いますが、とりあえず返信はここまでにしておきます。書き込みありがとうございました!

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