自然にゃあぁーかなわんよ。

mimisemi2008-11-16

いやはや、ゲームばかり。またもや学校に行っても図書館移動だったんで絶望慣れしちゃったっつーかさ、あまりにも意味ないから買い物しようと思っちゃうんだよね。いつもの意味付け
ルーティーンを採用するとアクションに対して必ず何らかの意味なりベネフィットが無いといけないということになるので、一番楽な方法は買い物なんだよね。ってことでハイソなWhole Foodsで買い物をしたんだけど隣にゲーム屋があるんで寄っちゃったんだよね。っつーかまぁ実際は逆だけどね。ゲーム屋に寄ってからスーパーに行った。でさ、前に書いたようなね、ドラクエとかシャドウハーツとかさ、PS2においてまともそうなやつを買おうと思ったんだけど両方とも無くてね、で、何を買ったかっていうとFF12とWay of the samurai2ってやつとマトリックスね。ウケるべ。マトリックスのゲームだよ。時代錯誤もいいところだよね。でもマイブームってこういうものなんだよ。


ようは誰も理解できないような個人的な次元で勝手にブームが起きる。で、このブームってのは社会的で意図的な大衆操作とかによるものではなくて、完全に自分によるものなんでピュアなブームなんだよね。まぁ突き詰めて言うと芸術も一緒。誰も理解できないようなことに固執して、んでそれを表現することで自分を昇華させるみたいなさ、個人的なマイブームと出力としてのカタルシスが芸術なんだよね。まぁ全部が全部そうじゃないけど、でも芸術が芸術足り得る所以ってやっぱりこの固有性にあると思うんだよ。なんでこんなことやろうと思ったの?っつーことを豊富な表現力でやっちゃうのが芸術家なんだけど、でもそれが勝手すぎるんで大体いつの時代もリアルタイムでは評価されないんだよね。勝手過ぎて分からないから。つまりあれだね、表出をメインとしてやってたアーティスト達の作品が、後世で表現として認められたことではじめて作品としての価値がつくみたいなもんだね。まぁアイロニカルなことだけど、でも芸術ってそういうもんだよね。だから表現と表出は全然違う。で、俺は表出がピュアな芸術だと思っていて、だからこそノイズが究極的な音楽だって言うわけよ。表現は相手に伝えないといけないんで、その伝えるという動機自体が不純なものを介在させる可能性になりかねなくなるわけね。つまり本来はドロドロしたものなんだけど、鑑賞者達に分かりやすく伝えるために、もうちょっとサラッとさせるとかさ、これはもう劣化以外のなんでもないと思うんだよね。ようは表出が洗練されたものが表現なんだよね。洗練ってのは前にも書いたように必ずしもポジティブな意味では無いんだよ。無駄なものがそぎ落とされたということはどういうことかというとプリミティブなものが不在になるってことなんだよね。表出ってのは叫びと似たようなもんで、すんげー原始的なわけ。その叫びを表現に高めようとするとそれが詩になったり歌になったりするわけ。まぁ歌や詩が悪いとは言わないけど、でもやっぱそれって結構ブルジョワチックなんだよね。


元の部分はやっぱり叫びだと思うんだよね。叫びの表現性を高めるために詩や歌というフォーマットを使うなら分かる。それはコアの部分にプリミティブな表出があって、あくまでそれを高めようとする営みが表現だからいいんだよ。でも伝えるための妥協とか改良とか迎合だったらそれはもう劣化でしかなくて、そういった意味だと表現というのは表出の劣化物でしか無いわけね。もちろん天才の作品はいつでも後世でただの表出が表現として評価されるんだけどね。もしくは表出が素晴らしい表現として、表現のフォーマットとして認識されて大衆化するみたいなね、だからアートの世俗化というのは逃れられないわけだよね。実際、世の中にどれだけピカソの作品を心から愛する人がいるのか相当疑問だよね。いや、ピカソが悪いとは言わないんだよ。それを本当に感覚的にヤバいものとして受け取っているのかどうかだよね。今のモダンアートのクラスとか聞いてて思うのが、まぁ批判ぱっかになっちゃうけど特に先生なんかがさ、典型的なアカデミックな領域で美術を語る人間なんだよね。まぁ当たり前だけどね。先生なんだから。でもすげー疑問なのが、この先生って実際はどの作品に感銘を受けているのかな?ってことなんだよね。俺の場合、美術品みたいなのを見て気持ち悪くなったのがダダとシュルレアリズムなんだけど、これは単純に自分の考えとか内面とかと共通するものがあったり共鳴するものがあったから感銘を受けたわけで、後付けのアカデミックな知識とかによるものではないんだよね。何かを見てあまりにも興奮しすぎて気持ち悪くなるというのは滅多に無いことだけど、感性が鋭い人ならそういうシンクロする作品に出会うとそういう感覚になるんだよね。そういう意味である作品に本当に感銘を受ける人なんてごく少数だと思うんだよね。


それはそれを書いた人間と同じような感性を持っていたり感受性の高さを持っていないとおそらくは感じられない感情なわけで、だから実際世の中の評価なんて相当怪しいもんだよね。大半が名作だと言われているから名作だと信じるような人達ばっかだと思うんだよ。逆に純粋な感性で作品を捉えていれば過去の名作なんて関係ないはずなんだよね。便所の落書きに物凄いものを感じる人もいるかもしれないし、ネットにある無名のアマチュア画家の作品に物凄いものを感じるかもしれないわけでさ、いつの時代もピカソやダリやゴッホムンクが「凄い」なんておかしな話だよね。それは完全にイデオロギー装置が機能して起こっている評価であって、個々人の評価ではないよね。だって個々人の評価で芸術が受け入れられているとしたら、もうそれはカオスになるからね。一定の地平線みたいな評価なんてあり得なくなるわけよ。一人一人が違う感受性でいろいろなものを見るわけだから統一性が無くて当たり前だよね。だから逆に言えば、一定性のあるアートの評価の基盤ってのは相当怪しいもんなんだよ。商業主義なり芸術へのブルジョワ達の囲い込みっつーのが結果的に表現の劣化を生むってのはある意味で必然的でさ、だってそういう一定のクライテリオンを与える装置ってのが表出を無視した形骸化された括弧付きの表現ってのをスポイルして成り立っているわけだからね。で、それを人々にインポーズする。そこに不在なのは芸術のコアの部分の表出ね。どの作品にも表出はあるんだろうけど、大体がブルジョワチックな手あかに塗れたクリティークやらなんやらになっちゃってて、それが作品の表出を余計に見えづらくするんだよね。そういう意味だとさっきも書いたように元々さ、表出なんていう個人的な行為が大衆に受け入れられるわけがないわけ。しつこいようだけど、受け入れられるようになるきっかけというのが形骸化されたアートという名のペダンティックな記号であったりさ、富やら知性やらの象徴だったりさ、そういうスノッブな要素でアートというのは受け入れられるんだよね。そこにあるのはむしろ表出というプリミティブな行為を野蛮なものとして嫌悪するような矛盾した姿勢だよね。日本なんかではアートそのものが何らかの記号として機能するようなバックグラウンドすらないんでまぁ終わってるんだけどね。まぁアートが利用されたところでもうそれはただの抜け殻だし、そういう意味だとまぁ同じなんだけどね。機能するもしないも結果は同じ。ただどーもねぇ、有名な画家の絵に高値がつくって本当にただの象徴だと思うんだよなぁー。


後天的な理由で価値がついたんで、普遍的に価値があるものとしての、まぁ金の延べ棒的なものとして手元に置くっていうような資本主義的な消費ってのが成立しているんだろうけど、実際、凄まじいアウラを放っているアートなんて無名のものでもいっぱいあると思うんだよね。でもこういうのって社会的なさ、散々書いているような象徴的な価値がないんで見向きもされないんだよね。それを展示したところでネームバリューが無いんで誰も来ないし絵も高く売れない。いや、こんなもんなんだよ。実際は。元々人々は見向きもしないんだよ。で、限られたシンクロする感性を持った人だけがそれを社会的コンテキストとか関係なく評価するんだけど、まぁ彼らは常にマイノリティだよね。美術館になんで人が集まるのか?っつーとやっぱそれはネームバリューだよね。凄いと言われているゴッホの絵があるんだって!凄いね!というような歴史的価値のあるものみたいな見せ物的な感覚なんだよね。すんげー下劣。だからアート界みたいなのってうさんくさい連中が多いんだよ。スノッブというかさ、ワインを飲みながら名画について語り合うみたいな、セックスアンドシティみたいなスノビズムを地で行くような感じね。実際、ムンクの叫びみたいなのにヤバい共感を得れる人なんて気違いしかいないよね。でも本当の評価者ってこういう気違いなんだと思うんだよね。


大学教授とか会社社長とか貴族とか医者とか弁護士じゃないわけよ。だから俺って常に美術館ってものにうさんくささを感じるんだよね。クイーンズのPS1みたいなやつが本当の美術館だと思うんだよね。本来逆だと思うんだよ。PS1がアップタウンにあって、MOMAがクイーンズにあればいいと思うんだけどな。もうこういうのを考えると本当に嫌な気分になるね。世の中って本当に表面的だよね。ちなみに俺で言うとさ、本当に大好きな作品ってのは本当に最たるもんでさ、大半が理解不能だよ。いやね、アートってのは感性が高いインテリだけが理解しうるもんなんだ!なんてインテリ宣言をしたいわけじゃなくて、俺なんかで言うと例えばセザンヌだとかさ、ゴッホとかさ、あと過去の西洋の宗教画とか何が良いのかさっぱり分からないんだよね。絵を見ても全く何も感じない。でも一連のダダとかシュルレアリズムのやつに関してはもう凄まじい鳥肌が立つぐらい感性がシンクロするんだよ。だからはっきり言って俺はアート好きなんじゃなくて、ただのダダ・シュルレアリズム好きなんだよね。だからデヴィット・リンチとかさ、ミュージックコンクレートもそうだし、ブニュエルとかね、俺が好むのってシュルレアリスティックなやつばっかでしょ?これが俺の感性なのよ。感性というか好みというか。こんな人間がゴッホを絵を見て感銘受けるわけがないよね。でもおかしいのはさ、美術館だの美術界にいる人間だのっつって歴史的に価値のある絵に関してはどれも平等に褒めるんだよね。これが凄いあれが凄いって。絶対嘘だろって思っちゃう。人間ってのは好みがあるわけだし、ましてや美術作品なんて感性に直結するものだから、個々の好みが作品の評価を規定するわけでさ、歴史的価値とか金銭的価値とかじゃないよね。でもスノッブな連中はそれに気づかずにずーっと歴史的絵画を褒め続けるんだよね。こういうのには本当にうんざりだよな。今のモダンアートのクラスを受けてて思うのはそういう憤りだけだね。まぁ単純にいろいろな歴史が知れるんでいいんだけど、あの先生が象徴的に表すような美術業界の矛盾というのに凄まじい憎悪を感じるね。元々アートなんてアマチュアなものなのにね。すげー権威化されてるんだもん。アートって。凄く嫌。だからさ、俺のウォーホール解釈とか全然独自だと思うんだよね。いや、独自っていうか勝手な解釈なんだよね。もしかしたらそれは通俗的な評価と同じなのかもしれないけど、ついでだからちょっと書くね。


っつーのはよく俺が最近、特にマトリックス以降頻繁に使うようになったシミュラクラって言葉だけど、ウォーホールは色んな意味で象徴的なのがね、それはベンヤミンとかが書いてたようにさ、写真とかが出来てから、所謂、リアリズムを絵で表現する必要が無くなったんだよね。もちろんフォームとしての印象派とかは残っていたけど、リアリズムを追求する姿勢というのが技術の進歩によって不必要なものになっちゃったんだよね。まぁ一応歴史的な観点から言えばね。でさ、何もかもが複製可能になってアウラもクソも無くなった後こそ新たなミメーシスの分解としてのアートというのが生まれるっていうさ、まぁそれの象徴がデュシャンだと思うんだけど、それを徹底的に資本主義とアメリカというアイコンと戦後みたいなシンボルとをミックスしまくって出力したのがウォーホールなんだよね。あの高度な安易さは本当に凄い。で、ウォーホールすらもあのスタイルとかが模倣されてさ、ガンガンコピーされて商用利用されてさ、もうシミュレーショニズムそのものだよね。アートっつってももう大半のことがすでにやられてきちゃってて、俺のミュージックコンクレートとかソフトウェアノイズとかじゃないけどさ、勝手に俺が発明したと思ってたことがもうとっくに過去にやられたりしてるんだよね。だからもうオリジナルなんて無いんだっつー諦めがあるわけだけど、それを逆利用して超越しちゃうのがウォーホールでありサンプリングでありコラージュなんだよね。


俺が昔からコラージュに魅せられるのはこういう理由がある。だからウォーホールを評価するのもある意味で当然なんだよね。そこで俺は勝手に象徴的な理由と、後はウォーホールの資本主義を賛美するような姿勢というのが実はそれを批判するアイロニストとしての姿勢だったっていうような勝手な評価もあってね、ウォーホールはそういった資本主義的なシステムとかコピペ文化に嫌気が指していたんだけど、それを逆利用してんで自分もそのアイコンになっちゃえっていうようなね、嫌いなものに対しての究極的な復讐がウォーホールのアートなんだよね。だからあれだけ資本主義とかコピーとかね、アウラの不在だとかを批判的にアートに取り入れた人ってのはウォーホールだけだと思うんだよね。一般的には資本主義賛美のアートみたいに捉えられているのかもしれないけど、あれは全く逆だよ。で、また資本主義的なコンテキストで評価されたっつーのが余計にアイロニカルなわけね。ウォーホールが「ほらみたことか」って言っているのが見えるかのようなわけ。お洒落なファッション的なアイコンとしての、所謂、ポップアートとしてのウォーホールはクズだし、ポップアート全般はもうクズそのものだけど、背後にある脱構築やらシミュラクラやら資本主義へのアイロニーっていうようなコンテキストを理解するとそれが一気にクールになるんだよね。だから俺のウォーホールバッグコレクションはアイロニーそのものなわけ。ドルマークがいっぱい書いてあったりさ、俺のイデオロギーとは対照的なデザインなんだけど、実際、そのデザインのイデオロギーとは全く同じなんだよね。そのなんというか表面に出ない表現性というのがまた凄く好きだね。


見た目では資本主義賛美にしか見えないっていうそのアイロニーがまた凄くいいわけ。っていうのが俺の勝手な評価なわけだけど、アートの評価ってこういうもんだと思うんだよ。だから感銘を受けるにしても、それが世の中の通説と同じ意味合いで感銘を受けているわけじゃないわけ。だから解釈なんてのはいくらでもあるわけだけど、「これはこういうコンセプトでこういう意図で作られました」っていうようなのをアホなイデオロギー装置を牛耳っている連中達が人々にインポーズすることで、そのアートのエッセンスやら表出やらをスポイルしているというのはさっきも書いたね。だからね、まぁ恐らく世の中的にもあっているんだろうけど、デュシャンウォーホールを過剰に結びつけるっていうのもね、これは俺の捉え方なんでそれはそれでいいわけ。で、仮に世の中がそういう理解でも俺には関係のないことなんだよね。だってそれは俺にとってのウォーホールの理解なんであって、他人のとは無関係なわけだからね。アートの解釈に「違う!」なんてことはないんだよ。でもアートの授業となるとある一定のやり方とか考え方とか絵の見方っつーのをインポーズするわけだよね。これは本当に危険なことだよね。アートの形骸化がだからこういうところで生まれちゃうわけで広まっちゃうわけだよ。これこそまさしくイデオロギー装置の機能そのものだよね。本当に酷い。


で、アートアートとさっきから偉そうに書いているけど、俺はアート好きでもなんでもないからね。ただのダダ好きシュルレアリズム好きなだけ。他のアートに関しては好きなものもあるけど、大半が理解不能ね。例えば風景画というのは理解できるけど、何が良いのかがさっぱり分からないみたいなことね。あ、んでそういう意味でエロってのもアートね。それは別に荒木みたいな意味じゃなくて、例えばラテックスのテカりとか手触りにフェティシズムを感じる人達にとっては、それはもうラテックスというだけで至上のアート作品なわけだよね。全身タイツに興奮するとしたら、それを着ながら体中を触って興奮する人達にとっては、その瞬間瞬間にアウラがあるよね。だから俺は究極のアウラってのはエロスなんじゃないかと思っているわけ。それは前に書いた少年愛の話と繋がるけどね。俺にとって美しい少年ほど至上なものはないね。あんな完成された芸術作品は他に無い。アウラといえばだいぶ前にサウンドスケープの話で書いたけど、俺が結局、一番良いと思う音楽ってのが結局自然音だったってなんか凄い話のオチみたいな感じだけど、自然音ほど凄い音楽は無いんだよ。例えばね、山の中に行って、んでずーっと耳に神経を集中して聞いてるとさ、「カサカサ・・・」って落ち葉が風で鳴ってたりさ、強風が来ると林が「ザワーっ」としたりさ、そこの空間のサラウンドとかさ、匂いとか気温とかも含めて総合芸術じゃない?自然音を聞くってことは。主観が聴覚に完全にオキュパイドされている状態で、ただの他の感覚を受け取るだけのものとなった体は体の諸感覚を聴覚の延長として感じるわけだよね。つまり自然音に耳を傾けている時というのは、他の感覚というのも全て聴覚に従属する感覚でしかなくなるというわけ。


聴覚がメインなんで匂いや寒さや風の肌触りなんかも全て音楽作品として感じることができるわけね。これ以上の音楽は無い。本当に。たぶん恐らく昔の人がやってたようなことと同じようなことをすればいいんだよね。たぶん葉っぱみたいなのを吸いながら大自然の音に耳を傾けてたらね、もうそれ以上の音楽は無いよ。断言できる。それはもう究極の総合芸術だよ。本当に。芸術ってのは自然に対するミメーシスから生まれたみたいなことって誰かが言ってたような気がするんだけどまぁいいや。まぁでも自然にはかなわないよ。あの音の偶然性やら何やら全てがもう聴衆にとっての音楽になるわけだからね、もう人間がかなうわけがない。


ダメだ。ゲームの話をする前にもうすでに長くなってしまった。ってことで今日はこの辺で区切るわ。また次に続きを書くね。あ、その例のどうでもいいゲームの話ね。あとね、日本語の本を禁止してたんだけどね、久々にちょっと読もうと思ったらいやー凄いね。何週間か読んでなかったんで、まるで養分を吸い取る有機体の如く日本語を読みあさったね。こういうサイクルはいいかもしれない。あまりに日本語の活字そのものに飽きてきたら英語に移行して、で、英語が飽きてきたら日本に移行して・・・・っていうような、音楽で言うところのハウス飽きたんでムンベ、ムンベ飽きたんでダウンテンポみたいなサークルね。やっぱビバニート生活だな。学校行くよりも引き蘢っている方が建設的だ。ゲームも読書欲を持続させるためのネタとして考えると潤滑油なんだよね。あとゲームばっかやってるとすげー罪悪感が生まれてくるから読書に駆り立てられるっつーのもあるね。まぁ俺って典型的なダメ人間だから。そう思うとプロフェッショナルにはなれないんだよね。俺。一生アマチュアディレッタントのままなんだよな。だから誰かに食わせてもらわないと。そこでやはり白人のブルジョワブロンドの奴隷になるという話が出てくるわけだけどまぁそれに関しては前に散々書いたんでいいや。んじゃあまたね。


PS


大学が大麻で汚染されているみたいな記事を見たけど良いことじゃないか。これ。みんなアルコールなんて悪しき者を取り去っちゃって草に移行すればいいんだよ。そうすれば新入生が一気飲みで急死なんてこともなくなるだろうに。「一気一気!」のかけ声を「イッキーイッキー!」にすれば済む話だよね。全く理解できないのはね、前後不覚になるまで飲みまくってフラフラしているような普通のサラリーマンとかが夜の街にいるのが当たり前のカルチャーでさ、なんで草が悪者になるの?って話だよね。肝硬変やら胃がんやら何やらさ、飲酒だとかなんだとかっていう色んなトラブルって酒が当たり前だから発生するんじゃんね?まぁ草でも肺がんになるけどさ、でもまぁーあれだよね、絶対アルコールより草のほうがいいよね。あと草を麻薬扱いするのはいい加減やめよう。これは完全に間違いなので。こっちなんて街歩いているだけで草の匂いがしますよ。パーティーとか行けば匂いがスティッキーだしね。酒で泥酔して暴れているよりよっぽど健全ですよ。乱用するとヤバいのは酒も草も一緒です。そうなると酒のほうがよっぽどドラッグですよ。あとカフェインとかね。とにかく日本の泥酔カルチャーにはうんざりだね。あと強いっつーのを見せるのが男らしいみたいなのも本当に悪しき文化だと思うね。それで青二才が無理して死んだりしてるわけじゃない?多く飲むのが良いことだっつーか男らしいみたいなさ、「お、いくねー!」って飲むのをガンガン推奨するような風潮って本当に良くないと思うんだよね。もう俺、酒は大嫌いね。本当に。まぁ本音を言えば酒もタバコもドラッグも大好きだけど、結局、ほとんどが体に悪いっつーか脳に悪かったりするから、もうどれもやらないんだけどね。大学の大麻化、大いに結構です。乱用さえしなければね。もっと言わせてもらえば、これで酒をやめればもっといいと思うんだな。草吸いながら鍋パーティーとか最高に平和だと思うよ。本当に。草は平和のシンボルです。酒は悪のシンボルです。草吸いますか?それとも人間辞めますか?草がダメというならそれでいい。いや、違法なんだからしょうがない。だったらでもね、フェアじゃないから酒とかタバコも禁止にしてくれよ。マジで。あっちのほうがよっぽど害があるんだよ。なんというか、俺は草推奨というよりかは、酒が当たり前で泥酔するのが恥ずかしくないっていう泥酔カルチャーをもっと見直すべきだと思うんだよね。あれは本当に酷いよ。

リアル国家論

リアル国家論

斉藤貴男さんのやつが泣けるぐらい素晴らしいので、これだけでも買いです。