疑心暗鬼について。

mimisemi2008-11-25

べらまっちゃまであと一ヶ月か。思うにべらまっちゃは恋人と・・・なんていうのも酷いプロパガンダだよね。なんの根拠も無いことなのにね。恵方巻とかバレンタインとかも商人のアイデアだからね。由来は全然それと関係ないのが勝手にモダンなイベントとして再定義されて利用されてるわけだよね。べらまっちゃ系の音楽が流れると「ロマンティック」がすぐに想起されて、恋人のいない連中は自分の孤独を悲しむわけだけど、それだったらクリスマスだけクリトリス買えばいいじゃんね。全く理解に苦しむな。クリスマスだけ一緒に過ごせるテンポラリーな恋人探しとかするぐらいなら買った方が早い。思うにこれ商売になると思うんだよ。紀子の食卓のレンタル家族ならぬレンタルラマン。イヴとクリスマスのセットでケーキ付きとかね。それだけでもいいし、セックスもオプションでみたいなね。ホント、普通にビジネスが成り立つと思うんだよね。出張べらまっちゃ嬢。


っつーか最近、ネットが使えなくなって、大家のやつじゃない、近所の誰かのパスワード無しで使える回線を盗んでるんだけど遅いんだよね。でも大家のやつはなぜか日中もっと遅いんだよ。!キロとかしか出ないわけ。で、頻繁に切れるし。「ネット使えないんですけど」って聞きに行けばいいんだけど、人と話すのが面倒なんでいいやって感じになってるんだよね。俺って相当ヤバいと思うね。人とのコミュニケーションが全く意味の無いものだと認識してしまっているので、もう他人に何も見いだしてないんだよね。で、自分にとって合理的なことしかしない。だから生活がゲームとか読書とかばっかになる。まぁコミュニケーションっつっても本当に気が合う友達は別だけどね。日本語も英語も全然喋ってない。だからいざってときに上手く喋れない。まぁいつものことだけどね。喋る機会が多いとウォール伝の出力は減るんだよね。で、喋る機会が無いとその逆になると。だから出力が多い時って全くコミュニケーションが無いような時が多いんだけど、ウォール伝の履歴を見ると、一年の半分以上がそんな感じだよね。俺ってホント、インフラとか都市へのアクセスとかがある人里離れたところでふつーにやってける自信があるな。孤独というのを全く感じない。というのが今日の話題にも繋がるので本題に入ります。


で、今日はね、疑心暗鬼についてだけどね、特に日本的な対人関係でこれが発生しやすくなるというのは、人間関係が作為的なものだからなんだよね。


日本は人との争いを好まないからね、だから穏便に済ませようとすることに関するオブセッションが凄いんだよね。例えば嫌なことには嫌だと言うことが、ネガティブな意味での村社会的で
前時代的な観念が残っている場合、その場なり関係性の協調性を保つためにあえて出さないんだよね。これは一見、高度な技術かのように見える。でもKYに象徴されるかの如く、これは日本のカルチャーで、別に日本人が特に人間関係に関してセンシティヴな感覚を持っているというわけではないと思う。


いや、損得勘定でもね、自分が折れて穏便に済ませた方が、相手との対立なり争いが生まれないんで、逆に自分の感情を出さないほうが、争いを生まないという点で得だという風に考えられるかもしれない。まぁこれはずいぶんと先のことを見越した判断で高度なもののように見えるけど、そこにあるのは結果的に作為的な人間関係をズルズル作り出してしまったことによる被拘束性の発生なんだよね。例えば、実際、同意したくないことでも、同意しないことで生まれる相手との口論なり争いが嫌なんで、厄介ごとを避けたいという意味で同意する。で、それが作為的であればあるほど、後に相手との関係がもっと難しくなる。というのはね、相手はその同意をリテラルに「同意した」ものだと判断してしまうわけだけど、ここで相手が自分に対して思っていることと、自分が相手に対して思っていることの相違が生まれるんだよね。で、嘘をついたら、その嘘をサポートするためにもっと多くの嘘が必要になるように、一見、同意したかのように見えるアグリーメントを続けるためには、より多くの相手への妥協が必要になる。個人で考えれば簡単なことで、本来の自分の考えとは違う、押し付けられた道徳規準や規範なんかに沿ってばかりいると、本来の自分の衝動的というか生き生きした感情を殺すことになって、結果的に自分とルールに従う自分の疎外が生まれるんだよね。この疎外が精神的な恒常性を著しく傷つけるものだというのは言うまでもない。


逆にさっきの同意に関していえば、例えばそこで露骨に嫌な顔をして「No」と言ったらどうなんだろう。これは当然、本来の自分が思うことであって、例えば空気を読むだとか、争い事を作らないということを至上の目的とするような個人的な規範とかじゃないよね。もちろん、この意志を表明することで、相手との意見の対立が生まれるわけだけど、それは本質的に言えば本来的なものなんだよね。つまり自然に考えれば、自分がそれについてNoと思ったなら、最初からこの相手が言うことに対して同意なんて出来ないわけで、それは自然な反応によって生まれる意見の相違だよね。でもこんなのが生まれるのは当たり前で、人間ってのは個々でバックグラウンドも違えば、考え方も違うわけで、完全な合理的合意なんて出来ないわけ。大抵はどちらかが妥協していたり、何かの自分の考えなり感情を押し殺すことで成り立っている合意なわけね。まぁその主題にもよるんだけど。


その相手に無理矢理合わせることで生まれる元々亀裂のある見せかけの同意がね、結果的により多くの軋轢を生んで収拾がつかないことになっちゃうわけ。もしくはその亀裂を常に亀裂じゃないように見せるための努力をするというストレスフルな行動を強いられる。でもそれは同意してしまった以上、自分が選んだことなんだよ。それが仮に相手から半ばインポーズされるように求められた同意であったとしても、仮にそこでnoだと思った自分を欺いて同意をしたのであれば、それは自分が作った亀裂だし軋轢だと言える。だから究極的に言っちゃえば最初からそんな欺瞞的な同意なんて作らなきゃいいじゃないってことなんだよね。後に続く関係の保全やら調整にかかる努力に比べたら、この場の意見の不一致によって作り出される一時的な争いのほうがよっぽど楽。


欧米というと一般化し過ぎだけど、アメリカってのは感情を露骨に出す国民性を持っていると思う。もちろん作戦で作為的な態度というのはあるかもしれないけど、それは例えばビジネス上
であったり政治上のことであったりして、あまり個人間の人間関係では見られないことだと思う。それに比べて日本は争いを好まないとか、とりあえず相手に合わせるという悪しき風習があるがために、自然に考えればありえないような人間関係を亀裂入りで生産することになって、結果的にその亀裂入りの人間関係を保つのに苦労することになる。例えばね、日本的な人間関係の二面性ってこういう作為的な人間関係を作るというのが割と当たり前という背景から出てくるわけ。それが最初に書いた疑心暗鬼ね。笑顔で接してくれているけど、実際は陰で何かを言われているかもしれない。ブログに悪口を書かれているかもしれない。とか疑いだしたらキリが無くなるような脆弱な人間関係が多いわけ。でもそれを作り出しているのはその関係を続けている人達なんだよ。本音と建前を使い分けて、腹を割って話さないような、表面的な人間関係を形成しているから、その背後が気になるわけ。俺に言わせれば相手のことを心配しなきゃいけないような人間関係なんて何の価値があるの?って思うよ。マジで。逆に自分が常に本音を言う人間でね、つまりは自分からの疎外を恐れる人間であったら、そんな作為的な人間関係なんて生まれないんだよ。だって好きな人としか付き合わないし(恋愛だけじゃなくて)、どうでもいい人とは付き合わないでしょ?もちろん合えばいつも口論になるような友達もいるかもしれないけど、逆を言えば、その口論も含めて好きだというような人間関係もあるよね。つまり腹を割って話し合うがために生まれる不和というのは、それは人間同士が本音でぶつかっている証拠なわけで、これこそまさしく人間関係というやつなんだよ。喧嘩するほど仲が良いという言葉の背景にはこういう意味がある。まぁ別に背景じゃないか。自明のことだよね。


続く。


ちょっとやっぱやめ。長文化を避けようと思ってるんだよね。それは長文を書かないということじゃなくて、長文を一気にアップしないってことね。今日は一旦、全部アップしたんだけど、長過ぎるので、分割するわ。ってことで明日また来てくれ。


現代政治の思想と行動

現代政治の思想と行動

↑これいいよねぇー!ナルシスティックな詩は大嫌いだけど、こういう詩は大好きだね。