疑心暗鬼について。そのに。

mimisemi2008-11-26

はい。では昨日の続き。


もちろんそこで問題になるのが構造的な力関係が働いている上での人間関係ね。職場だとかなんだとか、後は俺にしてもプロフェッサーとの関係とかね。それはまぁ書くまでもないね。だって今まで俺が書いてきたことの反論がこれだもんね。つまりは「君はニートだからそんなことが言えるのかもしれないけど、社会に出たらそういうわけにはいかない」ってことなわけだよね。ということは社会に出るということが簡単に言っちゃえば人間疎外を生むということだよね。それはマルクス的な疎外も含めて、スピノザ的な意味でも善から遠ざかるという反人間的な行為ということになるよね。それがストレスを生むというのは当然のことだね。そんなことが大前提で回っている社会なんて健全なわけがない。作為的な人間関係を作る技術が世渡りを規定するみたいなね、そんな反人間的な行為を社会でやっていくということのために身につけないといけないというか、無いとやっていけないなんて狂った社会だよ。本当に。それはすげー昔からウォール伝がはてなに来る前から俺は言い続けていることだけどね。バイト先とかでもバイトっていう底辺の話ということもあるけど、バイト先とかで上手くやってるやつの大半はダメなやつで、この二面性を上手く使い分けているやつが上司から気に入られたりしている。それはバイト先だから、そういう底辺の話だから下等な人間が多いんだろうという物言いは半分あっているけど、半分間違えている。というのは、こういうやつって大抵どういう場所でも出世するわけでしょ?いや、会社とか入ったことないから分からないけど、色々な話を聞いたり読んだりしている限りにおいては、なんというか、俺のかつてのバイト先みたいな、下等な人間が二面性を使い分けて保つような、不健全な人間関係が蔓延している集合体ってのが社会なんだよね。このことが意味するのは、つまり自分の善から遠ざかっている薄汚い人間が社会でやっていけて、良く言えばピュア、悪く言えばナイーブな人間は社会でやっていけないということになるよね。これは人間の本来的な意味においては非常に矛盾したことだよ。そういう薄汚いような人間がいる場所に行かないために頑張るという動機も涙ぐましいものがあるけど、基本的になんのこっちゃない場所でもふつーの人がふつーにやってるような社会ならいいよ。でもどういうわけか下手にずる賢いやつとかいじわるなやつとかが多いんだよね。で、こういうやつらが会社ではサバイブできたりするわけよ。親父の会社の話とか聞いててもね、今は没落したけど、没落前に務めてた一応は一流っぽいところでも、本当に人間的にレベルが低いやつばっかなんだよ。親父は俺みたいにいつもこうやって嘆いてたけど、そんな話をシャワーのように浴びている俺がまともに社会にコミットするわけが無いよね。ようはまともに馬鹿が大勢いるような企業とかに就職するわけが無い。まぁ就職できないし出来ても嫌だしね。


つまりね、社会でやっていくということを、上から押し付けられたようなニーチェ風に言えば貴族的価値判断によって「よい」ことだとするならね、純粋で素直であることが「わるい」ことになるよね。だって後者は社会不適応者でしょ?だから引きこもりに繊細なやつが多くて、社会に出てバリバリやってるやつがやさぐれている薄汚いやつが多いみたいな現象を生み出しちゃう。これはアイロニカルなことだよね。こういう観点から言うと多くの引きこもり肯定論者みたいな帰結になるんだけどね、つまりはまぁ社会が狂ってるんで、そんな狂った社会でやっていけない人間のほうが人間性があるってことになるわけ。俺はこういう理論を100パーセント肯定しないけど、でも言えてる部分もあるんだよっつーのは社会があまりにも薄汚れた人間を必要としすぎているので、こういうナイーブな意見に説得力を持たせちゃうんだよね。


こんな疎外された構造が当たり前のものとなると、人間の個人化が進んで行くのは当たり前のことだよね。つまり二面性を必要としないような、ネットでのface to faceじゃないが故に本音を言える楽なコミュニケーションに人が集中して、趣味もネットやゲームや個人での映画鑑賞や音楽鑑賞といった、人間関係を必要としないようなものばかりになってくる。それは疎外が生んだ疎外なんだよ。何しろ人付き合いというのは面倒なんで、やらなくなる人が増えるのは当たり前なんだよね。だから俺がよく言うのは、普段からもっと本音で生きればいいんじゃない?ってことなんだよね。社会がそうと言っても、例えば今、散々書いてきたような作為的な人間関係を自分で作ってしまっているのだとしたら、そういった自分からの疎外からの脱却のファースとステップはそういう人間関係をやめることだよね。ミクシィみたいな匿名性が普通のネットよりかはあるようなコテハンでコミュニケーションし合うような場所でミクシィ疲れというようなのが生まれるのは、それはミクシィが極めてリアルな人間関係に似ているからだよね。


つまり本音だけじゃミクシィでやってけないわけだ。上辺も使いこなしてネット上での人間関係を保たないといけなくなる。その結果、それを保つのに疲れるわけ。だからそういう人はミクシィだとか疲れを生み出しているようなネット上での人間関係というのも徹底的に切り捨てた方がいい。本当に気が合う人とだけリアルでもネットでも付き合えばいい。本音で付き合わない人間関係なんて散々書いているように自己疎外を生むだけだし、そんなものは害悪でしかない。精神的に相当有害だよ。逆にそういうのに慣れきった人間はそれがスタンダードになっちゃって、極めて非人間的になるんだよね。つまりは本来のヒューマニズムから見れば「わるい」パーソナリティがデフォルトになっちゃう。それが使い分けによる非ヒューマニズム的な人格ではなく、それがドミナントなものになって、それが自我になっちゃうってことね。こうなると怖いよね。もう取り返しがつかないんだから。慢性的な病気みたいなもんだよ。でも面白いもんでこういう悪魔みたいな人間が世の中では「やり手」とかって言われたりするんだよね。おかしなことだよ。本当に。


それがどういうものであれ、まずはやっぱりさっき書いた貴族的価値判断みたいな、何かからインポーズされたような、ドグマ的な考え方なり思考の枠組みを取り外して、自分で考えるという行為に出ることが重要だね。ドグマで人間関係を続けてるんじゃ、そこに疎外しか生まれない。自分で人間関係なり、もっと大げさに言えば生き方を選ぶということを「やる」という意志によってやることで初めて主体が主体の行動と一致するんだよ。いや、ラカン的な意味での断絶された主体みたいな話はとりあえず置いておいてね。意志と考えることは違うっつーのはスピノザも言っていたことだけど、意志で人間関係を続けるというのは、つまりはドグマという枠組み内でお決まりの人間関係をやっているというだけなんだよ。考えて人間関係を行うということは、自分でそれを選んでいることだよね。それは鳥かごの中だけで生きている鳥か、大空を羽ばたいている鳥かの違いぐらいの大きな違いがあるわけ。鳥かご生活がストレスフルなのは言うまでもない。それは主観という名のケージによって束縛された主体が、大空を知ること無く、その環境によってケージで生きていくということを選ぶしかないということなわけでね、まぁ逆を言えば最初からケージに入っていれば大空を知らないわけだからケージがスタンダードじゃんって言えなくもないんだけど、鳥ってのは羽があるよね。人間ってのにも考えるという能力がある。それを使わないというのは、まぁあくまで俺の意見だけど、飼いならされた犬みたいなもんなんだよ。


飛ぶ能力を持った羽を使わない鳥ってどう思う?だから俺は大空を羽ばたくことが「善い」ことだと断言するわけね。つまりはそれがまぁ一気に色んなのを端折るとアナーキズムになるわけね。まぁそれで政治をやるかはともかく、思想としてはそんな感じっていう意味でアナーキズムというか、まぁダダイズムというかね。「えーそんなこと言ったら自分は友達がいなくなる」なんて孤独を恐れる人にはこう言ってやりたいね。自分を欺くことによって、自分から疎外されることというのが真に孤独なんだよってね。つまりは自分を欺くことで保っている人間関係なんて、友達が一人もいないより孤独なことなんだよ。それによって自分との疎外がより大きくなっちゃって、その不在を埋めるためにまたより多くの欺瞞的な人間関係を必要とするようになるわけ。あとは消費とかね。一時期のあのアホな女子高生がやってたような、携帯のメモリーに知り合いの電話番号をより多く入れることを競うみたいなね、あれほど悲惨な孤独は無いよね。彼女達はそれに気がついていなくて、自分には友達が大勢いるとかって思っているから本当に悲惨。気がつくことがないと、マルクスのFalse Consciousnessみたいに一生、疎外に気がついていないプロレタリアートで終わっちゃう。資本主義を打倒とかってなると大変な話になるけど、少なくとも自己欺瞞ってのはね、自分の努力によってやめることができるわけよ。まぁ自己革命だね。自分で出来るんだから本当の革命より楽なことだよ。まぁ強い意志の力が必要だけどね。


なんか今日はウォール伝らしくない、かなりまともな正論を書いてしまった気がする。まぁたまにはこういうのもいいか。ってことで今日はこの辺で。


・・・・ってことで昨日の続きでした。未だにネットは使えず、誰かの回線を盗んでいます。気が向いたら大家に聞きに行こうと思います。というかね、アートの授業なんだけど、前に美術館に行ってないのがバレたってのは書いたよね。で、最終ペーパーでさ、また美術館に行かなきゃいけないわけよ。この先生はどうしても生徒に作品をアウラを感じさせたいらしい。理解できなくもないけど。ただ面倒なんだよねー。外出るの。学校以外では。ましてや駅まで15分ぐらい徒歩でかかるから、前みたいに気楽に外に出れないのよね。あまりに面倒で。ましてや生活が昼夜逆転裁判してるし、MOMAは金曜ですら8時までしかやってないから、早く起きなきゃいけないのよ。え?普段の起床時間?学校が無い日は6時とかだよ。授業も普段は5時半からとかなんで、もうここ数ヶ月、地下室からちょっと見える明け方の日の明かり以外は直接日に当たってないんだよね。太陽というか、日差しというのを長らく見ていない。まぁ昔の引き蘢りの頃と一緒だけどね。


あとね。なんかあれなんだよ、まぁさ、最終ペーパーは20世紀のアートムーブメントについて書くってやつなんだけど、目的としては、生徒にリサーチをさせて、それをまぁ結果的に授業というか知識にさせようとしているんだよね。ようは授業でディティールはカバーしきれないので、ディティールは自分が気になったアートムーブメントについてのリサーチということなんだけど、まぁこの先生あまり好きではないけど、全てにおいて、彼が何をしたいのかは理解できる。ただ面倒だな。ダダをやろうと思ってるっつーか、あんま意味無いんだけどね。知らないことをリサーチして知るのが目的なわけで、既に知っていることを書いてもしょうがないんだけど、知らないことを一から英語でやるのが面倒だし、なんかね、リファレンス用の本を任意のやつを3冊用意しないといけないんだよね。参考文献の本は最低3冊必要ってこと。ようはウィキとか一つの情報源でリサーチを簡単にできなくしてるんだよね。ってことですげー面倒なの。まぁ適当にでっち上げればいいんだけどさ。どうせ良いグレードなんて取れないだろうし。それにしても本当に英語で何かを書くのって面倒だな。読むのなら普段からやってるからいいんだけど、書くのは本当に面倒。ましてやアートムーブメントのリサーチだなんてね。最低限8ページ書かなきゃいけないしさ、コミカレなんだから勘弁してくれよって感じ。普通の4大でやるようなリサーチをゴミガレの生徒にさせないでくれ。そう思うと将来っつってもそんなに先じゃない将来にさ、仮に4大に入れたら俺はやっていけるのかね?まぁ専攻はまだ内緒だけど、まぁこのダダみたいにすでに予備知識があるから1からってわけじゃないんだけど、それにしても鬼のようなペーパーの宿題とかが出たらもうそれだけで自殺したくなりそうになっちゃうと思うんだよね。本当に面倒っつーか俺って怠惰なんだよ。


最近もさ、ボックスで買ったデビルメイクライをあまりハマらなかったとかいってたくせにハマり倒して一気に1から3までクリアしたんだけど、ゲームにハマってる時なんて、なすびの電車でGOみたいなもんでさ、飲まず食わずだもん。もうキッチンに行くことすら面倒というか、トイレに行くのも面倒になるんで、トイレは我慢してたりね、だから貧乏ゆすりしながら、ゲームでは銃を乱射してたりするんだけど、客観的に見ると本当に酷いよね。なんでここまで怠惰なんだろう?いまだに俺以上の怠け者に会ったことがない。食うことすらも面倒でやらずに、胃が痛くなるまで空腹を我慢するとかありえないよね。読書でもたまにこういうことがあって、こないだはまぐれがあって記録を更新しちゃったよ。12時間以上本を読んでた。ただ残念ながら全部日本語だったけどね。これが英語になればなぁ・・・凄いんだけどなぁー。ゲームと読書の波がムンベとハウスみたいな波なのは前にも書いたね。ゲームに飽きると読書になって、読書に飽きるとゲームになるという、とんでもない生活サイクル。ただもちろん楽という意味でやっぱりゲーム率が高いし、読書もやっぱ一日読んでいられるのは日本語だよね。


ADHDの本を読むとこういう人間が腐るほど出てくるんで、余計に自分がそうなんだっていうのを確信するんだけど、これはこれでやっぱ悩みなんだよね。好きなことしか出来ないというのは、やっているときは幸せだけど、でもやっぱ私生活では支障が出てくるんだよ。楽なように見えて、結構、本人達はこういう自分の生態に悩んでいるんだよね。だから俺はADHDの長所にかけているんだけどね。人生を。もうどうにかして治せるようなことじゃないからね。マジで。ホント、自分でも呆れるもん。部屋は引っ越してから一度も片付けやら掃除をしてないんで、散らかりっぱなしだし、洗濯機が前と違って近くにあるのにも関わらず二ヶ月に一回ぐらしかやらないし(だから大量の靴下やトランクスがある。替えが無くなるとしかたなくやる感じ)時間にはルーズだし、どうしようもないんだよね。前に結婚は嫌だと書いたけど、面倒を見てくれるような奥さんがいたら是非、結婚したいと思うね。まぁいないけどね。そんな人。なんで俺ってどこからどこまで変わってるんだろう?エキセントリックさを狙ってこういう変な髪型にしてたり眼鏡にしているわけじゃないんだけど、エキセントリズムとか言わんばかりの、強烈な違いがあるんだよね。それが見た目にも中身にも何やら何まで全部に出ちゃってる。まぁこれは俺が「普通」であることに合わせるのを放棄した結果だからしょうがないんだけど、やっぱたまに普通の人が羨ましくなるときがある。少しでも普通の感覚があればいいのに全然無いんだもん。俺。これを普段は謳歌しているけど、さっきも書いたように悩むときはとことんこれについて悩むんだよね。


だからこの違いを「天才」とかさ、「才能」とかって嘘でも言ってくれる人がいると本当に救われた気分になるんだよね。自分のこの違いってのが一気に肯定できるでしょ?気違いと天才の差は紙一重みたいなロジックに自分も当てはめることが出来るし、レベルは違えど、過去の偉人やら奇人やらと自分も同じコロラリーにいると思うと誇らしくなってくる。もちろん、そういう風に思い込むことで自分を肯定しようと思っているわけだし、まぁそれはもう散々書いてきたけど、やっぱこれについて悩んでいるほうが多いんだよね。これについての弊害しか無いからね。今は。ホント、だから俺みたいなタイプって二者択一というかさ、凄くなるか凄まじくダメになるかのどっちかしかないんだよね。中間が無いっていうか。で、両方とも度が過ぎてるっていうね。それが凄さになると本当に凄いわけだけど、ダメさになるととことんダメなんだよね。やっぱりだからね、こんだけ自分がダメなんで、誰かに認めてもらいたいみたいな気持ちは何気に凄くあるね。山ごもりが夢とか言っているくせに、すんげー人から認められたがっているわけ。矛盾してるよねぇー。


基本的にやっぱ俺ってルサンチマンの塊なんだよね。本当に。全てのエナジーが負のものから来ているんだもん。学校に行く理由とか、無理にでも英語で本を読もうとするとかさ、これってのも全部が自分がダメだからっていう理由からなんだよね。ダメだから人並みに何かをやらないとただのダメ人間になるってのが分かってるから、やれる範囲のことはなんとかやろうとするのね。まぁ単純にこっちでやっていくには大学ぐらい出ておかないと話にならないっつーのもあるけどね、まぁ全てはダメさ回避だよね。本当に。だから仮に俺がボンボンだったらここまでオブセッシブに英語とか知識に関して貪欲にならないと思うんだよな。適当にやってれば親が金を送ってくれるんで、いくらでもこっちでやってけるっつーバックグラウンドがあれば、それこそ俺みたいな性格だったらダメ留学生を地で行くような生活が出来る。でもそうじゃないからね、まぁそうじゃないからこそ良いんだけどね、でもやっぱこういうような崖っぷちの状況に自分を置かないと動き出さないっつーのがまたダメだよね。逆にまぁ親や親戚なんかは俺がマジメに学校に行って自炊とかしてたりするのに驚いていたらしいんだけどね、それは分かるなぁー。でもねぇー親戚や家族のみなさん、人間って目的があるとどんなダメ人間でも動くんですよ。ニートでも好きなゲームソフトの発売日には寝ないで朝からゲーム屋に行ったりするんですよ。このニートのゲーム屋に行く動機みたいなのが、今の俺の亡命の動機みたいなもんだね。基本ダメなんだけど、目的があるんで、普段には見せないような行動力を見せるっていうね。


そう思うと目的設定って凄く重要なんだよね。今の日本みたいなのは若者が目的設定できないんで本当に悲劇だよね。まぁアメリカでも似たようなものらしいけど、でもやっぱりね、将来の目標とかを「分からない」って答えるのって先進国で日本がずば抜けてるらしいんだよね。確か。どうなんだろうね?教育が悪いのか社会が悪いのか親が悪いのか、全然分からないね。だからどのせいにもできない。ただ彼らが悪いとも言いきれない。


あ、そんなことはどうでもいいんだよ。っつーか一応明日学校だから寝ないとダメなんだよ。またいつものアメリカと日本の比較とかになるとワンパターンになるからあれなんだけどさ、あれなんだよね、凄く思ったのがね、寝不足とかで頭が働いていないときに考えたっつーか思い浮かぶような被害妄想とかさ、鬱っぽい考えとかってね、原因が寝不足だからね、脳が働いてないんだよ。だからそっから出たものなんて悪いものに決まってるんだよね。RPGで例えるならね、ステータスが毒とかで能力が下がっているような状態でそのキャラの能力が発揮できるわけないってことでさ、そういう時のコンディションの自分というのを、ようは壊れた機械と定義するんだよね。そうすると結構スルーできるんだよ。もう何も考えずに無理せずに十分な睡眠を取ることだけを、そういうときはしたほうがいいわけ。っつって今日は13時間寝たけどね。こういうのでまた時間がずれて、学校に行く前の日とかは必ず寝れなくなるんだよな。前の日寝すぎているからね。これも悪いルーティンなんだよな。学校に行く日は必ず寝不足で、行かなくていい日はありえないぐらい寝るんで、学校に行く日になる前の日は必ず寝れないっつーか、眠くならない。で、睡眠時間が確保できなくてっつーか俺みたいなありえないロングスリーパーにとってはさ、6時間とか7時間なんて普通の人で言うところの2時間とか3時間みたいなもんだからね。だからそれで相対的に学校が鬱になるっつーのはベストコンディションで学校に挑んでないんで、その壊れた機械の状態のまま、学校なり外を知覚しているんで、その知覚がそれらのイメージを規定しちゃって、だから外やら学校が余計に嫌になるんだよね。なんで家にいるのがいいのか?っつーと家にいて本とかゲームやってるときって大抵がベストコンディションだからなんだよね。精液がありえないぐらい溜まるぐらい寝てるわけだからさ、家にいる時の自分の家っつーか地下のイメージが良いんだよね。居心地がいい。っつーのもその居心地を知覚しているのがベストコンディションのときの自分だからなんだよね。


これってかなり重要なんだよね。その時の自分の体調なり脳の具合によって知覚って変わるからさ、ベストコンディションじゃないと基準って分からないんだよ。ましてや俺みたいに睡眠時間がありえないぐらい必要で、なおかつ睡眠不足だと酷いスキゾになるとか鬱になるとかっていうような脳だとね、そんなスキゾな脳が知覚したシックな何らかのイメージなんて信頼性が無いんだよ。だからベストコンディションを整えることって重要なんだよね。まぁ俺の場合、社会に照らし合わせると無理だけどね。社会は10時間以上寝る人を中心に成り立ってはいないので。いや、とにかくまぁこれは凄く重要ですよ。基本的に全部脳が牛耳ってるんだよね。悲しいことに。全ての自分の脳と他とのものは自分との関係性によって成り立っているんだよね。だからこそ、その関係性をまともに知覚できるような認識のバックグラウンドが無いと世界が歪んじゃうんだよね。だから睡眠不足とかストレスとかってさ、その人間にとっては世界を壊すよなものなんだよね。そう思うと自殺者ってのはあくまで当然のことをしているにすぎないって分かるよね。まぁ自殺にもよるけどさ、でもやっぱ絶望って本当に死に至る病なんだよ。本当に。


まぁ逆にこれが自明過ぎるとさ、睡眠にこだわりすぎるようになって、またそれがストレスになるんだけどね。まぁそれが俺だわ。原因と結果が分かっているのはいいんだけど、その原因について考えすぎるのでそれに支配されちゃうっていうね。バランスって難しいよね。本当に。


あ、もう完全に寝るわ。もう今日は終わり。


PS


どうでもいいんだけど分割作戦大失敗だね。昨日の分と今日の一言みたいなのを付け足そうと思ったらまた阿修羅のごとく長くなっちゃって、結果、またまたいつもの長文になっちゃった。いやね、今後はあれなんだよ、一気に書いて一気にアップして書かないじゃなくて、一気に書いたらそれを小出しにしつつね、コンスタントに出来るだけまぁ毎日とは言わないけど、まぁ頻繁に更新していこうと思ったのね。何か書こうと思うときと思わないときのギャップが激しいんでね、一気に一週間とか更新しないとかどうなの?って気がしてきたからね、まぁ一週間は無いか。4日ぐらいか。まぁ4日ぐらいだったらたいしたことないな。まぁーいいや、まぁそんな感じなんですよ。ってことで書き溜めてるやつが腐るほどあるんでね、それをまた今後に小出しにしていきます。なんかさ、新書って読みやすいじゃない?一ページの文字数が少ないと300ページの本でも読める気がする。でもね、英語のペーパーブックとかに多いんだけど、150ページとかでもさ、一ページにありえなぐらいの量の文字があるとげんなりするよね。思うに本が分厚くなってもいいからあれだよね、一ページの文字の量って少なくあるべきだよね。なんかさ、本を読んでるとさ、ページをめくれるって幸せじゃない?前に進んでる感じがする。でも凄まじい文字数のページでずーっと止まってるだけだとイライラしてくるよね?専門書なんかに多いんだけど、あれは酷いな。中世とかのさ、ロードオブザリングとかに出てきそうなああいう時代の図書館にあるような分厚い本の一ページとかって読む気しないよね。で、その専門書なんだけど、1ページが日本の新書の4ページ分ぐらいあるんだよね。これは本当に酷いよ。あとVersoっていう左翼系の出版社のやつね、ここのも字が小さくてさ、まぁ本がコンパクトなのはいいんだけど、ホント、文字が読みにくくてさ、しかもなんかポストモダンとかポスト・ストラクチャリズムみたいな晦渋な文章で書かれたようなやつが多いっつーか、リアルにアドルノとかデリダとかのやつが出てるような出版社なんだけどさ、読みづらい文体の本が読みづらいフォントと読みづらい細かい文字で印字されてるって最低の組み合わせだよね。本の読みやすさって凄く重要だよね。もう内容はしょうがない。ハイデガーとかヘーゲルとかさ、それ自体が分かりづらいんじゃしょうがない。でも本のフォーマットでなんとかそれを読みやすくできなくもないよね。数年前にマルクス系の本が新訳でいっぱい出たけど、ああいう試みが必要ね。ああいうので小難しい思想とか哲学の敷居が下がればいいと思うんだよ。見ただけでゲンナリするような文体で、なおかつ本自体が読みにくく出来てるって最悪だからね。マジで。まぁVersoとかってインテリが読むから関係ないのかな。俗人のことなんて視野に入れてないんだろう。感じ悪いな。


http://www.versobooks.com/


俺がよく買うのはこのradical thinkersってやつね。このシリーズのやつが読みづらくて困ったもんなんだよ。印字とかが酷いんだ。マジで。


http://www.versobooks.com/series/radical_thinkers.shtml


あ、んでね、これ凄くいいのよ。


http://www.versobooks.com/books/ab/b-titles/bobbio_liberalism_democracy_rt.shtml


このシリーズの中ではダントツに分かりやすい。邦訳があるか分からんけど、とりあえずオススメしておきます。このボッビオって人はイタリアの政治学者かなんかで、グラムシの研究とかもしてる人です。イタリア・フランス・ドイツってのがやっぱ最高のラディカル思想トライアングルだよね。


PS2


Versoなんだけど別に印字は酷くなかったよ。思ったより。問題は彼らの文体だね。俺の脳にフィットしない文体だ。特にランシエールのOn the Shores of Politicsとか読んでても何が書いてあるのかさっぱり分からない。ランシエールって最近マイブームだったけど、最近、結局微妙になってきたなっつーのもさ、フランスの哲学者の悪い癖を持ってるよね。まぁ世代的にそういう人なんだけど、晦渋なレトリックとか例えが多かったり、例えにしても分かりづらい例えが多いんだよね。あと言い回しとかも、もっとシンプルにすればいいのに、なんか回りくどい言い方をしすぎるんで読んでてイライラするんだよね。アリストテレスプラトンの話をよく出してくるあたりが好きなんだけど、もうちょっと簡単に説明してくれればいいのになぁーって思っちゃう。読むの大変なんだもん。ランシエールの本って。それに比べて元ランシエールの師匠のアルチュセールはね、興味深いことに概念は難しいのが多いんだけど、書き言葉は意外とそうでもないんだよ。ようは無駄にレトリカルな言葉とか、無駄に長い文章とかを書いてないんで、難しいながらも分かりやすいんだよね。そこが俺がアルチュセールの好きなところなんだよね。哲学者として凄く良い仕事をしてるんだよ。この人は。本当に。酷い鬱があったというのもシンパシーを感じるしね、あの年代の哲学者にしては本当に真摯なんだよね。衒学性が全く無い。演劇だの芸術だのを軸に哲学を語るというようなスタイルの類似性がランシエールアルチュセールにはあるわけだけどっつーか、ランシエールは常にレトリカルで分かりづらい比喩なりなんなりを使うのに対して、アルチュセールのね、特にあれよ、「「ピッコロ」、ベルトラッチーとブレヒト」の分かりやすさなんて恐ろしいよ。


ようはさ、なんかを題材に何かを語るっていう手法を使うことで、それが妙にインテリ臭くなっちゃって分かりづらくなるっていうのが、例えばランシエールとかアガンベンの悪い癖なんだよね。アガンベンランシエール以上に酷い。ただですら分かりづらいようなことを、変な例えを出してくることで余計分かりづらくしちゃってるようなのが多いんだよね。でもアルチュセールって演劇を軸にイデオロギーだの唯物論だのを論じてても、それに成功しているんだよね。むしろ演劇を出してくることで論点の構造が分かりやすくなるっていうね、これこそがまさしくレトリックのメインポイントなんだけどね。恐らく昔のアメリカでもアルチュセールの哲学の好意的な受け入れがあったのって、まぁグラムシの翻訳が確か80年代ぐらいになるまで英訳されてなかったんで、ヘゲモニー的な概念のパラダイムが、アルチュセールイデオロギー装置論によって、ディティールは違えど、マルクスドミナントイデオロギー論みたいなのを分かりやすく解説したっつーかまぁ再定義したっつーかさ、まぁそれしかなかったし、だからこそ新鮮だったっつーのがあるにしても、やっぱ分かりやすさだと思うね。内容は高度だけど文体は割と分かりやすいってのがすげーポイントだよね。それがアルチュセールがさ、あの年代の悪しきポストモダンだのポストストラクチャリズムだののさ、分かりづらい晦渋なやつが多かった時代の中の産物でもいまだに輝いている理由の一つだと思うんだよね。まぁ今、アルチュセールが流行ってるわけないんだけど、俺の中では勝手に流行ってるわけです。ホント、アルチュセール最高って感じです。


あとあれなんだよ、最近気がついたのはね、ムフなんだけど、ラクラウとの共著ではさ、あのSocialist Strategyのやつね、これは難しいっつーか分かりづらいんだけど、恐らくラクラウのせいなんだよね。ラクラウはポストモダンをモロによくも悪くも引き継いじゃったおっさんで、文章がやたら難しいんだけど、ムフはそんなラクラウを見て思ったのかなんなのか、特に90年代以降の論文は本当に分かりやすいっつーか、これってラクラウと一緒にやってた人?ってぐらい分かりやすいんだよ。プレーンに書くことを努力している気がするんだよな。なんかね、あれなんだよ、読者に伝えようとする努力をしているのとしていないのって色々読んでいると結構はっきりとしてくるんだよね。あと最近ヒドかったのか、サイモン・クリッチリーのInfinitely Demandingってやつね。このおっさんも言ってることはいいことが多いんだけど、これまたマニアックな言葉とかジャーゴンを多用するんだよね。あと変な言い回しとか。この人もまぁ大陸界隈の同じ穴の狢なんだよね。イギリス人だけど、中身は大陸系の分かりづらい文章を書く人の一人って感じ。っつーか抽象的な政治とか倫理の議論にはうんざりなんだよね。最近。こういう本を読みすぎているというのもあるんだけど、こういう人達ってプラクティカルさが本当に欠けてると思うんだよ。それが読んでてむかつくね。とは言え、クリッチリーのanarchic meta-politicsに関してはちょっと勃起したかな。ただ完全に理解はしてないんで深追いは避けておくね。興味がある人は読んでみて。ちょっと難しいけど。これもversoです。左翼天国verso。タイトルはInfinitely Demandingね。ただこういうのって読者が当然、哲学を理解しているっていうのを前提に書いてるんで、平気で色んな哲学の話を軸に議論を進めるんだけど、分からない人にとっては「は?」って感じなんだよね。まぁ専門書だからしょうがないのかな。


PS書いてたら10時になっちゃった。あーあ。明日っつーか今日の午後もまた睡眠不足だ。


Glory in a Line: A Life of Foujita--The Artist Caught Between East & West

Glory in a Line: A Life of Foujita--The Artist Caught Between East & West


繋がらないんで動画は無しで。