パラダイス・ガラージの補足と蛇足。

mimisemi2009-01-17

怖い夢を見たので。


なんかね、踏切があるんだけどね、妙に花束が置いてある踏切なのよ。いかにも供養っぽい感じの。で、全然見たこともないし、知らない風景なんだけど、俺と誰か(恐らく家族)と俺のおばあちゃんで歩いててさ、で、その町ってのがおばあちゃんが住んでいる町なんだよね。いや、実際のおばあちゃんが住んでいる町とは全然違うんだけど。で、俺が「花束怖いなぁー」とか言ってると、おばあちゃんがその花束の由来を語りだしてさ、なぜか分からんけどね。で、おばあちゃん曰く、踏切の近くの家が何回も放火されて死んだ人が大量にいるってことらしいんだわ。何回もっつーのがよく分からないんだけど、特に強烈だったのが、老婆と小さい子供が住んでいる家が放火されたときは子供の泣き叫ぶ声と老婆の「またあいつだぁーまたあいつだぁー」という恨めしい声が付近にこだましてたらしいんだよね。それが本当に脳裏に焼き付くような声だったらしくてね、で、放火以降に、その踏切付近に真っ赤なちょっと元気の無い、斜めに咲いている花ってのが大量に咲いたらしいんだけど、その花ってのが老婆の怨念ってことらしいんだわ。その証拠に花は火のように赤くて、で、その斜めに咲いている感じは老婆の姿そっくりらしいんだよね。ようは腰が曲がってる老婆だったらしいんだけど、ようはその老婆が火だるまになっているときの思念がそのまま花になったとのことらしいんだわ。で、あまりにその怨念が強いんで、踏切付近に簡単な供養塔みたいなのが出来てたりね、お地蔵さんがあったり、で、今も花をあげにくる人は絶えないらしいんだよね。言うまでもなくまぁその子供と老婆は焼死したんだけどね。


なんか妙にリアルな話でしょ?なんでこういう夢を見るのかがさっぱり分からん。フロイトとかユングの理論が彼方へ飛んで行ってしまうような夢だよね。


ところでパラダイスガラージのやつが小ヒットぐらいだったんで嬉しいですな。で、 detroit86さんから「ドラッグがあるかは知らんが、週末のパーティーを楽しみに生きる労働者階級の世界は今の日本にも存在しますよ。ハードコアパンクのライブとか行ってみたらどうですか? 」というツッコミがあったので、これについて書いてみます。


まぁーあれかなぁー・・・16ぐらいの最悪の時期にまぁ例のあの通信制の生徒が差別される通信制の学校に通ってたんだけど、そこで知り合ったモロプロレタリアートな兄ちゃんのパンクのライブに行ったことがあるんだよね。この兄ちゃんはまさしくdetoroit86さんがいうような労働者階級の世界に生きる男で、普段は溶接工をしながら週末は自分のパンクバンドのライブって感じのやつだったんだけど、まぁ俺の実存の経験でいうと基本的にライブというのはハレとはほど遠いもので、俗悪な言い方をすれば江戸の喧嘩みたいなもんなんだよね。てやんでぇーい!な感じで盛り上がるのがライブ。で、ハレというのはもっと神聖で、そこにいる人達が現世では感じられない何かを感じてしまうのがハレの場なんだよね。だからハレは古来から縁日とかではないリチュアルなお祭りであったり、それこそ死者が出るような儀式だったりしたわけだ。それはバリのバロンとランダが出てくるお祭りっつーか儀式を見ても明らかだし、今の日本でも
死者が出るぐらいの狂ったお祭りなんかはパンクのライブの比じゃないんだよね。


ライブというのはあくまで日常の延長上にある何らかのストレスを発散させる爆発の場なんであって、そこにあるのは現世なんだよね。それと対照的にドラッグとセットのクラブっていうのはもう現世とはオサラバするどっか違う場所なんだよね。それは脳が主観を規定するように、ドラッグで違う知覚を得た状態で感じる爆音の音楽とか照明のレーザービームっつーのはもう宗教的体験なんだよね。それはマエストロに出てくるパラダイスガラージを特別視する過去にパラダイスガラージに通っていた人達の話を見ればよく分かる。それはもう週末の楽しみだのなんだのっていうのを超越した世界だったんだよ。もちろんドラッグをやれば知覚が変わるんで、それだけでハレ的な経験を得られるかもしれないけど、特にこのパラダイスガラージが凄かったのは、ドラッグによるトリップとその空間の神懸かり的な雰囲気だったんじゃないかな?ようはその辺のライブハウスやクラブでは再現できないような神聖な雰囲気があったというかなんというか。それはあの時代背景もあっただろうし、ああいったサウンドシステムで音楽を聴くという経験が人々にはまだそんなに無かったというのもあって、何かしらのまぁ特別な何かがあったんだろうと思うんだけどね。つまりリチュアルな儀式を日常生活ベースでやるような空間があったということなんだよね。これは普通のクラブイベントやライブじゃ恐らく再現は無理なことだと思うね。


でもあれだよね、ニューヨークって夏なんかだといろんな無料フェスが野外であったりしてさ、んでそこに行くとすんげー草の匂いがするらしいんだよね。まぁ警察も半ば容認ってところなんだろうけどさ、でもやっぱこのお祭りの不思議なところって人々が集まるってところなんだよね。哲学的な認知科学みたいなパラダイムで言えば、意識さえ変わってしまえばそれがもうハレになりお祭り状態になるってことなんだろうけど、これって本当のお祭りにはかなわないんだよね。で、なんでかなわないのか?っていうと恐らくあれなんだよね、説明が面倒なんだけど、恐らくお祭りという場にはリアリティの延長上があるんだよねっつーのはそれは普段から存在する人々であったりなんであったり、なんらかの日常が垣間みれる何かってのがお祭りにはあるんだけど、その一方でドラッグや独特の雰囲気から醸し出されるオーラみたいなのがね、その日常性みたいなのをぶっ壊すんだよね。そのプロセスがハレを生み出しているんじゃないか?と思うわけ。ようは人間がいきなり他の惑星のクラブにいって「うわーやべぇー!」とかって感じるのはただの新鮮な体験なのであって、それはハレじゃないってことね。ハレってのは日常に存在しうる何かが全く違うものに変わる瞬間に起こるものなんだよね。それを考えると恐らく昔のクリスマスも徹底的にハレ舞台だったんじゃないかと思うわけっつーのはね、アメリカだったかどっか忘れたんだけど、クリスマス前後の数週間だけ奴隷だろうがなんだろうが無礼講でどんちゃん騒ぎをやってたんだよね。で、これは無礼講ってのがポイントなんだよね。ようは場所自体は変わらないんだよ。その無礼講をする場所ってのは日常なんだけど、その日常で行われる非日常が超越的体験をもたらすってことね。


普段じゃ考えられないようなヒエラルキーの破壊だとかさ、普段は食えないような食事を食べるとか飲むとかドラッグをやるだとか、普段ではやれないような姉ちゃんとやるだとかさ、日常を規定しているリミッターみたいなのが壊れる時にハレが生まれるってわけで、だからあくまで軸は日常にあるんだよね。あぁちょっとした構造主義っつーのかな?あれだよね、ネグリ・ハートが言ってたような主権の概念と同じで、主権権力っつーのは独立した実体のあるものではなくて、それは統治者と被統治者という関係性の中で生まれる概念ってことなんだよね。日常という残酷なものが人々の生活を規定していて、人々は日常という概念に抑圧されて支配されている。ただその日常との関係を一時的ではあっても拒否する、つまりはまぁ日常からの脱出という行為がハレを規定するわけね。統治者と被統治者の関係で言えばレジスタンスというかクーデターみたいなもんだね。もちろんそれが毎日起こっていてはそれはカオスになるのは言うまでもないよね。クーデターが毎日続いたらそれはただの戦争かアナーキー状態なわけだし、お祭りも一緒でそれが毎日続いたらそれはお祭りではなくなるよね。


だから主権も日常も、クーデター的なものに対して常に監視をしなければいけないし、管理して封じ込めなきゃいけないものなわけだよね。ただその抑圧から生まれてくる一時的なカオスというのがようはお祭りでありクーデターでありハレなわけだね。で、パンクのライブみたいなのはまぁ俺に言わせればハレからはほど遠いんだよね。それはパンクに限らずだけど、それは日常にある居酒屋レベルのどんちゃん騒ぎで、聖なるものからはほど遠いってことなのね。いや、別にパンクのライブが悪いって言ってるわけじゃないんだよ。ただハレの度合いが当時のパラダイスガラージみたいなのとは全然レベルが違うってことね。抑圧・ドラッグ・特別な場・・・みたいな色んな要素が合わさってハレが生まれるわけで、それは世界的に見ても人々が日常に抗うかのようにそのハレを有効的に利用してきたという歴史があるし、今もあることだよね。もちろん近代化によって脱魔術化は進むんで、お祭りも人畜無害の形骸化されたものに成り下がったり、ただの観光ビジネスの道具に成り果てたりするんだけどね。だからこそ逆に今こそ呪術的なものってのが必要とされているんじゃないか?って俺は思うわけ。そういう意味で俺は草の合法化を進めるべきだと思うし、極端な話、ハリウッドスターみたいに上手く中毒性のあるドラッグと付き合って行けるならどんなドラッグでも個人の裁量でいくらでもやればいいと思うんだよね。まぁこれは極論だけども。何しろ国家権力が個人への楽しみに介入するなんてさ、暴力的な話だよね。まぁ依存性のあるドラッグに関しては微妙な話なんだけど、んでもさ、例えば超リッチな人が現世で得られるもの全てを得ても実存的欠落に耐えられずに呪術的な何かに救いを求めるってのはシンボリックだと思うよね。つまり人間には超越体験というのが必要ってことなわけだ。それはDNAレベルで刻み込まれている太古の記憶なのかもしれないよね。同じような文脈で俺はADHDが狩猟民族だったっつー説に共感を覚えるんだけど。


パラダイスガラージのエントリーに関してimaokazukiさんが「なんで日本は居酒屋どまりなんだろう?ソ連的だな」って言っているけど本当にそうなのね。ソ連的なアルコールの負のスパイラルってのは良くないんだよ。あれは典型的な全体主義社会主義の形態でさ、労働が日常のほとんどを占めてしまっているので、酒に頼るしか生き甲斐が無いみたいな話なんだよね。だから俺は昔から思っていたことなんだけど、終電とかさ、夜の満員電車でグデングデンに酔っぱらってるサラリーマンとかさ、つり革につかまりながら泥酔して寝てるサラリーマンとかを見ながら「これってソ連とどういう差があるの?」って思ってたよね。あれほど惨めで悲惨な人間の姿って無いよね。だからまぁ今はああいうのを見なくてもいい場所にいるのでちょっと幸せなんだけど、ホント、俺は日本には帰れないと思うな。ソ連からアメリカに亡命したようなもんだからね。だから変な話、大げさでかっこいい言い方になるけどサイード的な亡命の感覚っつーかさ、抑圧的な国に耐えられなくて移住するみたいなのがさ、まぁ第三諸国のね、特に独裁が続いているような国々とは比較はできないんだけど、でもすんげー彼らの気持ちが分かるんだよね。ニューヨークっていまだに若い人も含めて、そういう抑圧的な国から移住したっていう移民多いからね。特に俺の場合、コミカレに通ってるんでそういうやつと会う確率が高い。日本って経済的には豊かだと言われているけど、内面はスッカラカンだと思うし、何より社会が鬱屈していて抑圧的だよね。そういう現状に「それでも経済大国だ」みたいなクリシェに踊らされて気がついていないか、向き合おうとしない人が本当に多いと思う。で、内的なナショナリズムに関するクリシェみたいな言い方になるけど、ナショナリズムとか倒錯した愛国みたいなのが負のフィードバックみたいな力学によってどんどん生み出されるわけね。気持ちが外に行かないで、どんどん内に向かっちゃうっつーかさ、それは人間性でもそうだし、社会性もそうね。これってグローバリゼーションに対しては丸腰だよね。本当に。俺がいつも書くようにグローバリゼーションに抗うには外に向かう力が必要なんだよね。それは「英語なんてどうでもいい。俺は美しい日本語を愛する」みたいなさ、そういう内向的なものではどうにもならないんだよね。むしろあっちから来るならこっちから迎え撃つぐらいの力が無いとただただ飲み込まれて終わっちゃう。日本が経済大国だなんて言えるのはここ数年ぐらいの話で、何十年後かにはもう日本並の経済大国がブリスクみたいな国々から出てくるわけで、そんな呑気なことを言っていられるのは今のうちだよね。本当に日本は経済的にも国民のメンタル面でも本当にミゾウユウの危機に瀕していると思うね。


話がデカくなりすぎたな。いつもそうだよ。俺って。最終的に政治みたいな話になるんだよね。なんなんだろう?この傾向。


あとね、妙にアクセス数が多いリンク先があったんでね、調べてみたらここからのリンクだったんだけど


http://gohan.wotaku.jp/gomi/528


W/Hさん曰く俺は「ユニークという点で」ギフテッドということなんだけど、まぁそれは一言で言えばそれは言えているね。もちろんユニークという点でのみね。もちろんここでも散々書いたように天才というのは社会的な定義やサンクションなのであって、それが社会になんらかの形で認められたり、それを才能として食えないとそれはただの変人になってしまうんだよね。残酷だ。非常に残酷だ。だから中途半端な天才や変人みたいなのはその特出した何かが必ずしも社会に受け入れられるものだったり役に立つようなものじゃなかったりするので、逆にその他者性というか、変人力みたいなのがネックになったりするんだよね。特に日本みたいな凄い奴=普通の人みたいな二項対立が激しい国だと中途半端な変人や天才が枠からこぼれ落ちてしまう。そうじゃなくて俺はいつも書くように他者性への寛大さというのが必要だと思うんだけど、これについて書いてないことを思い出したので、すでに長いっつーのもあってなるタケ短く書くようにするけどね、例えば会社なり組織でさ、「うちはこういう人間を求めています」ということに関しての多様性があればそれって社会が多元化すると思うんだよね。つまり一定の組織やら会社みたいなね、普通の人がオマンマのために寄生しないといけないような場所である一定の人材しか求めてないとさ、それ自体が人間性みたいなのをシェイピングしちゃうんだよね。つまり「遅刻しないで従順で真面目で文句を言わないで空気が読める奴」みたいなのがどこの組織でも平均的に不気味なぐらい統一的に求められるとさ、そこで人間の多様性というのは必要なくなるどころか、この社会が求める理想的な人間になるための思想教育なり規律教育というのが激化するよねっつーか日本は典型的にそういう国なんだけどね。それはドゥルーズ的管理社会という意味でもフーコー的主体化社会という意味でもね。


管理が先なのか主体が先なのか?っつーアポリアはともかく、俺が思うに日本人ってのはそういう風になるために教育をされているし、そういう風になるのを主体が求めている気がしてならないんだよね。もちろんそこでアルチュセールじゃないけどさ、イデオロギー装置としての教育機関や社会的概念そのものを変えれば人間も自ずと変わるという可能性はあるけど、どうも日本人って歴史的に見ても従順というか、何らかの大きな力の服従することで生きてきたような感じがあるよね。そういう意味での主体という意味でも日本人はむしろ管理されることを望んでいるんじゃないか?と思ったりするわけ。ようは自由というのを使いこなせない国民性を持っているということで、映画カリスマで言えば、あの森を守る若いやつのイデオロギーみたいなのを地で行くような感じなのね。つまりファシズム全体主義と非常に相性がいい国民性を持っていると言えなくもない。


組織に話を戻すとだね、「うちは変わり者を求めています」というような組織があってもいいんじゃないか?と思うわけ。そこでは遅刻やだらしなさというのは多めに見られる代わりに、何らかの特出した才能やオリジナリティが求められるみたいなさ、それは会社のセクションごとに求人に対する要求が違ってもいいかもしれない。あの部署は変わり者が多くて困るみたいな、様々な人間による組織内でのアゴーンがあって、それが弁証法的に作用して会社の力が強まるみたいなさ、いや、半分冗談だけどね、でも言えてなくもないよね。こういうのがあれば社会の包括性ってかなり上がると思うんだけどなぁー。「あいつは才能あるんだけど遅刻してくるからダメだ」みたいなのでクビを切られているとかすんげーもったいないことだと思うんだよ。その才能さえあれば遅刻なんてどうでもいいみたいな価値観を持った会社なり社会なり部署があってもいいんじゃないかと思うよね。社会が多様な人間を求めるようになると逆に日本みたいな画一的教育なり人格のシェイピングというのはネガティブに見えるようになるよね。まぁアメリカナイズすればいいって話じゃないんだけど、まぁアメリカ風のさ、その子の個性を生かす
みたいな価値観で人間が育ってやっていければそれって結果的にすんげー国力になると思うし、グローバルな勢力にも抗えるポテンシャルを保全できると思うんだけどね。


元々遺伝子レベルでは色々な子がいるんだけど、社会が画一的なある一定の形の人間しか求めてないっつーのがつまりは悲劇を生むわけだね。そこに社会不定後者だとかさ、逸脱とかっていうようなさ、乱暴なレッテル場貼りが生まれるわけだよね。社会学で言うところのラベリング理論ですよ。それそのものというよりかは他者の客観がそのものを定義するっていうね、その他者の客観性というのが既存の画一的な社会性によって作られたものであるとすれば、それは多様性の排除が永遠に連鎖する同調圧力のように働いているってことだよね。まぁ空気が支配するのも似たようなロジックだわ。空気というのは既存の凝り固まった価値観から生まれるもので、それを新しい世代も感じ取るようになってそこに順応してしまうというか、順応することが社会性を身につけるということなら、それは古い画一的な価値観のネガティブな意味でのヘリテージだよね。そこで「空気なんてどうでもいいじゃないか!」と言える例えば俺みたいなやつが社会から邪魔者扱いされてしまうと、こういった差異のある価値観というのが永遠に排除されたままになっちゃうんだよね。だから俺はいつも書いているように「んなもんクソ食らえだ!」って自分を抑圧しないで、最低限のラインを超さない程度に思ったことをやったり口にするということがそういった空気や既存の価値観への抵抗になるわけで、まぁダダ的精神を日常生活で実行するって感じかもしれないし、別にダダほど奇抜じゃなくても、自分を表現するってことだけでも十分なんだよね。ということで抵抗という運動は特に日本みたいな国では日常単位で実行可能なわけ。何も抵抗ってデモとか革命とか武装蜂起だけじゃないんだよ。むしろ今の時代の武器ってのは概念だからね。支配に抗うインテリジェンスというか選択というか生き方というか。


あ、また話がデカくなってきた。まぁ分かったでしょ。多様性の重要さね。社会側が異質なものを受け入れるっつーのがいかに重要なことかっつーか、ようは包括性なんだよね。社会の。俺の考えで言えばちょっと違うやつのほうがパンピーより変な才能があったりすることが多かったりするんだからさ、そういうのを活かさないでどうするんだ?って話よね。


ってことであースッキリしたぁー!脳内の膿が出た感じだね。特に最後のさ、多様性の話はもう一ヶ月前ぐらいから書こうと思っててんで書いてなかったのよね。映画を見たりゲームをやったりミックス作ったりするのに忙しくてって全部趣味じゃんっていう。まぁいいや。今日はこの辺で。あー分ければ良かったかなぁー。でも最近、分けるのってどうなの?って気がしてきてるんだよね。俺のって大抵が支離滅裂ながらも結局全部一回でガーッと書いてるからさ、全体で一個って感じだから分けちゃうとなんか微妙にニュアンスが変わっちゃうような気がしなくもないよね。まぁいいや。


PS


"パラダイスガラージのエントリーに関してimaokazukiさんが「なんで日本は居酒屋どまりなんだろう?ソ連的だな」って言っているけど本当にそうなのね"ってのはimaokazukiさんが書いた文章じゃなくて、俺が書いた文章なのね。読み返してみて今更分かりました。


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