派遣村にいたのは誰か?について。

mimisemi2009-01-22

派遣村にいたのは誰か?っていう記事についてだけどね。


http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/090118/wlf0901181801000-n1.htm


こういったものに政治色やイデオロギーがあるのは当然。そんなのあえて言うまでもなく自明なこった。っつーのもまぁラカンというかラクラウ風に言えば、多様な運動体というものは偶発的でなおかつ、「貧困の撲滅」だの「人権」だのという空虚なシニフィアンのもとで連帯したり活動したりするわけだけど、実際はその様々な運動体というのはそれぞれの個別の利害関係の中で動いているわけで、今回の派遣村の場合、「派遣村」という標語がそれぞれの共通の利害や目的などを表しているわけではないのね。こういう運動をすることで食っている人もいれば、こういう運動に参加することで自己満足している人もいる。信念でこういう運動をしている人もいれば、政治的な理由で「参加」したりする人もいる。こういった現象がまさしく運動体の偶発性と、スローガンが空虚なシニフィアンとして機能していることを表しているわけだよね。「派遣村」というシニフィアンが運動体同士の連帯を強めるし、運動そのものの枠組みを提供するわけだ。


それは完全な「善」に見える教会による炊き出しだってそう。そこにはイデオロギーや政治的なコミットメントがある。だからそもそもこういった運動に純粋な善を求めること自体がおかしいんだよね。完全な善として善そのものを行える人というのはある意味での社会的逸脱者だよ。全てを投げ出して慈善運動にコミットできるなんて、それこそある意味での異常な信念やら意志が無いと無理。よく俺が例に出すのはマザーテレサガンジーだけど、まぁ彼らに完全な政治色が無かったと言えば嘘になるけど、本質的なことは彼らの心にあるわけで、それは他者が知ることができるものではないし、そもそも組織性というものがすでに運動体の偶発性や恣意性や複合性を規定しているわけで、完全な善というのはそもそも組織レベルでは存在しないと言えなくもない。そこにあるのは作為的な善か、あるいは偽善だけかもしれないんだよね。


派遣村も同じ。これは様々な利害関係を持った人達による運動なので、中には本当にマザーテレサのような意志で運動に参加している人もいるだろうけど、実際は複合的で偶発的なものなので、全体性を俯瞰したときにイデオロギー色や政治色が見えてしまうのは必然なわけね。


あとフリーライダーの件だけど、炊き出しに参加した人達というのが必ずしも派遣切りにあった人達じゃないのも当たり前ね。それは生活保護とかと一緒で、社会的なセーフティーネットを悪用する人もいっぱいいるわけ。ただ問題は悪用されるかもしれないという蓋然性だけをもとにセーフティーネットの存在を否定するのか?ということね。フリーライダーはいくらでもいるかもしれない。生活保護で年間400万近くもらっているのにも関わらず、お菓子を8000円分万引きして、んで「生活が苦しかった」なんて言い訳をするやつもいるかもしれない。ただこういうやつらがいるという理由だけで、そのシステムそのものを無くすのは得策なのか?ってことね。むしろセーフティーネットの役割としては、10人ぐらいはフリーライダーがいるかもしれないけど、それで100人が助かればそれでいいっていうような機能なわけでさ、派遣村も同じよ。フリーライダーもいるかもしれないけど、派遣切りにあった人もいるし、現在的な状況から炊き出しをもらうしか生きて行く術が無い人というのもいるわけで、その派遣村の目的のメインであるそういった人達を助けることができれば、多少のフリーライダーがいてもそれはしょうがないってことなんだよね。そもそも派遣村っつって都合良く派遣切りにあった元労働者だけが集まるわけないでしょ。そんなもんフリーライダーが寄ってくるのは当然だ。だから「実際はどうだったの?」なんていう疑問はお門違いね。こんなもんセーフティーネット全般における問題なわけで、特に今回の派遣村が顕著だったわけじゃないわけだ。生活再建の足がかりの提供ということが出来ればそれだけで十分。こういったことを冷ややかな目で見る人達というのは前に書いた癌だった元AV女優の花嫁と一緒なんだよね。派遣村やその運動に何らかのイノセントなものを求めるか、そういった観点を全体にこの運動を見ているので、そのリアリティが露呈した時に彼らの脳内におけるファンタジー、つまりは象徴的なものと、現実的なものの間にある断絶が彼らの不信感を煽るわけだよね。でもそりゃー彼らの勘違いなわけだよ。最初から。勘違いがもとで勝手に後から失望しているだけなんだから。


ただね、でも勘違いしてた彼らの気持ちが分からなくないのはね、左翼的な運動に関しては、そういったものに良い印象を覚えない人達にも良い印象を与えるための政治的に象徴的な振る舞いとして、あえてそこで左翼臭さを出さないってことが重要なのに、今回の派遣村に関しては記事を見る限りではヘタクソなデモをやっちゃったおかげで、その左翼臭さがよりいっそう強調される形になっちゃったんだよね。むしろ政治的な振る舞いとしてはノンポリの自発的共同体による相互扶助的な運動として見せるべきだったのに、ただの左翼運動の見本市みたいになっちゃった感が否めないよね。そこは相変わらず左翼ってバカだからしょうがないんだけどね。これだから本当の左翼が困るんだよね。へたくそなデモとかやられるとさ、これって馬鹿右翼の街宣車と同じなんだよね。真性右翼は馬鹿右翼に呆れてて迷惑していると思うわけ。ランシエールがデモが目的の無いただのフーリガンの騒ぎになりやすいっつー批判をしていたと思うんだけど、Youtubeで見た講演ではあのシアトルのデモに関しても批判してたけど、いや、本当にその通りなんだよね。デモがお祭り化してしまったらそれはスポーツに熱狂するフーリガンとなんにも変わらない。ましてやそこでフーリガンが窓ガラスを割るとかそういうことをすると余計に運動そのものの価値が下がって、今後もデモのイメージってのは「烏合の衆」っていうレッテル場貼りをされちゃうんだよね。甲高い声の女性がシュプレヒコールを唱えるというのはもうそこですでに象徴性が表れているわけで、例えるなら宗教臭さを出さない必要性があったのに、みんなでマントラ唱えだしちゃったとか、みんなで一斉にお祈りをし始めちゃったみたいなことなんだよね。政治的なものの契機のイニシアチブを取得するには、脱イデオロギー的な政治的振る舞いの作為が必要なわけよ。仮にそれがイデオロギー的なものであってもね。これに関してはオバマが良い例で、彼はそういう意味での政治的な振る舞いの天才だと思うわけ。まぁ彼を操っているイデオローグみたいなのが半ば陰謀論的にいるとすれば、そのイデオローグの操縦が見事ってことだね。


つまり運動というのは、それ自体が表出で終わるのでなく表現として帰結しなければいけないわけ。つまりは人々にメッセージを伝えつつ、そこに実践的な政治的コミットメントを計るようなモチベーションを与えなければそれってのはただの表出止まりなんだよ。だから今回の派遣村に関しても「政治くせぇー」とか「共産くせぇー」って思われている時点でかなり政治的には失敗してるよね。それは彼らが下手なことをやったりやり方が下手だったからだろう。まぁでも根本的には俺はこの運動を支持するけどね。こういった運動のアーキタイプを提示したということが大きいと思う。とりあえずグローバル単位で見たときの経済的な観点からの派遣の是非なんかはとりあえず置いておいてね。人権だの賃金だのって言いすぎると経済とのバランスが取れなくなるっつーか、どうもここは政治学というか倫理学政治学が混ざったような政治哲学と経済学の仲の悪さみたいなのが垣間見れる気がするね。倫理や道徳だけでは社会は維持できないわけよ。運動一辺倒の人はそういった社会的均衡の重要性とかって考えないだろうからね。難しいところなんだけど。その一方で「んじゃあ飢え死にを見過ごすのか!」みたいな感情的な意見もあるしさ、本当に難しいよね。これって。まぁでもガバナンスの本義、つまりは政治の契機ってここにあるよね。そういう意味だとやっぱ日本って絶望的なんだけど。


ってことで今日はこの辺で。

これのLFOのリミックスがすんげーかっこいいんだよ。