民主主義と核武装。

mimisemi2009-01-24

核武装と民主主義なんだけど、状況がメキシカン・スタンドオフなのがね、まぁあれなんだ、核はいらない!といったところで、すでに他国が核を持っているという状況下でその理論はただの空虚な理念でしかないっていうような意味と同じで、まぁいつもの調子の反民主主義的な論調を反復するとだね、民主主義に関してもメキシカン・スタンドオフなんだよねっつーのはさ、ロールズ的な無知のヴェールが適用されるのは極めて原始的な村社会というか、民主主義なるものが立ち上がったばかりの小さい共同体でのみ機能する話なわけでさ、まぁこれはもちろん政治理論としての装置なんで、実際ありえるかありえないか?って議論はあんま意味ないんだけど、まぁあえて言うと、「おっしゃ!民主主義はじめるべ!」っつースタートがあってこその個人主義だよね。言うまでもなく、シュミットではないけど、個人主義なるものを措定した概念というのの行き着く先は政治なき個人主義なんだよね。つまりは私的エゴイズムが渦巻くアナーキーになる。


すでに社会があり権力がある中でノマド個人主義などあり得ないのは自明なことだけど、こういったすでに存在する社会の中で行われる政治の中ではもう民主主義は機能しないんだよねっつーのはね、すでにみんなが同一の主権者としての権利を行使できるような環境が無いんだよね。括弧つきの「社会」に生まれてくる人間は生まれながらにしてイデオロギーに染まっているわけだし、その環境やら文化資本のヘリテージやらで、その原初状態の不可能性というのが規定されているわけだけど、前にランシエールの例を出しつつ書いた政治的ロゴスなんだがね、生まれながらにして政治的ロゴスを持っているような人間、まぁそれは環境との相関性なんかも含めてなんだけど、それと政治的ロゴスを後天的に得る人間ってのもいるけど、これってのは実はマイノリティーなのは言うまでもないよね。大半の人は政治的ロゴスを持っていないし、市民社会を担うだけの政治的感性やら知識は無い。


もちろんそこでの陣地戦とヘゲモニー獲得の重要性は言うまでもないんだけど、これを書き出すとまたいつもの調子になるんで今日は置いておいて、民主主義の不可能性にフォーカスしたんだが、つまりはね、その生来的な社会が孕んでいる政治的ロゴスの布置の不平等性がつまりは市民が担う主権性の不在を表しているわけ。ロゴスを行使できる人間も出来ない人間も持ってない人間も民主主義という虚構の中で投票権を持っているわけだけど、こういった虚構が「いや、世の中は民主主義でしょ?」っていうエキスキューズを権力者に与えているのは言うまでもない。つまりは民主主義ってのは権力者が民衆を飼いならすための虚構ってなわけだ。不可能ながらもあたかも存在するかのように思える崇高な理念のようの見えるので、そこに疑問を持たず従属することが出来る。でも実際はこの従属というのが何気にサバルタンの存在を許しているわけだよね。


みんなが平等に同じような知識と見識で協議しながら政治的決定というものがくだされるなんてのがありえないのはさっきの政治的ロゴスの不平等性なんだけど、この不平等性を解消する方法としてまずはパターナルな教育というのが考えられるよね。すんげー面倒っつーかすでに頭の中がこんがらがっちゃって書きたいことがありすぎて爆発しそうなんで簡単に書くけど、ようは政治的ロゴスを持った市民としての適切な教育を国家が提供することね。これは感性的なるものの布置とも言えるかもしれないけど、ある意味では国家が民度の底上げをするという言い方も出来るわけで、それはちょっと国家が介入し過ぎなんじゃないか?っつー問題もある。だからといって放置すれば衆愚政治が永遠と続くことになる。


ではなぜこれがメキシカン・スタンドオフなのかというと、つまりは主権もへったくれもない民衆というのが都合の良い理屈や理念でコントロールされているという状況が民主主義という政治なら、これは権力者が国民に常に銃を突きつけているようなもんなんだよね。分からないように銃を突きつけているっていうのかな?国民は危機を感じないけど、分かってる人はすんげー危機を感じてるっていう。ただ気がつかない人が大半だから、んじゃあ民主主義なんてやめちゃえと。権力者が民主主義という虚構を利用することで独裁的な権力を振りかざし続けるなら、その民主主義とやらをやめちゃえばいいんだよね。もちろん腐敗した権力側がそのまま権力を牛耳ることになれば意味が無いんだけど、ここでまぁ一気に観念的なレベルになるけど、いつも書くようにちゃんとしたエリートというかアーキテクトみたいな人達が国を操縦することが出来たんだとしたら、むしろ政治的に無知な民衆の声なんてのを聞く必要は無くて、政治的エリートは民衆の個人のレイヤーでの自由というのを提供し続ければいいんだよね。つまりは民衆が彼らの可能性を最大限に発揮できて、失敗しても何度でもやり直せて、セーフティーネットが充実していて・・・みたいなまぁアナーキスト的な理想的な社会ね。まぁそういう意味で俺はアナーキストなんだが、それはともかくとして、自由には大きく分けて二つのレイヤーがあって、一つは政治的なレイヤー、で、もう一つは個人のレイヤーなんだよね。


ただこの2つの自由のレイヤーは相反するものなんだよね。両方独占しようと思ってもそれは無理。どちらかを選ばなきゃいけない。というのは政治的な自由というのを求めれば、ある程度の個人の自由というのは制限されるんだよね。というのは民衆に政治的な判断なんて出来るわけがないから、そこで民衆が下す決定で自分たちの首を絞めることにもなりかねないというわけ。ブッシュや小泉が当選しちゃって国がどんどんダメになっていくような現象を見れば明らかだけどね。その一方で政治的自由を諦めれば、条件次第では個人の自由が保全されるというのはね、政治的判断というのをエリートに任せれば、そのエリート達が現時点での最善の選択というのを下しつつ、民衆をリードしてくれるわけよ。まぁはっきり言っちゃえばクソ大きな政府だけどね。一見、自由が脅かされているように見えるようなことがたくさんあるかもしれないけど、でもそれによって現時点での個人の自由というのが最大限に提供されているのであれば
その若干不自由に見えるところも自分たちの生活の自由というのを考えて妥協するしかないっていうね。なんか全体主義国家だね。これって。んー書きながら微妙になってきた・・・。


で、最後はナチスみたいになっちゃうけど、最初に出した核武装なんだけど、民衆の政治的自由を尊重して核反対ってことでんじゃあ核やら軍備ってのをやめにしよう。でも結果的にそれが外交的にマイナスな作用を及ぼして、その一見理念的で平和に見える国民の選択というのが結果的に国民の生活や自由を奪うものになってしまうかもしれないんだよね。んじゃあ逆に自分たちの国を守るためにっつーかアメリカから独立するためにっつーか核を使わせないっつー外交カードとして核を持つっつーかさ、核反対論から言えば全く反対に見える選択が実は民衆の平和を提供するものになるかもしれないわけね。ここがつまりは民衆がエリートに政治的判断を任せるという政治的な自由を担保に個人の自由を獲得するという構造ね。ナチスと似ているけど、なんつーか平和主義的なナチスっつーのかな、ヒトラーガンジーとかマザーテレサみたいな存在だったらありえなくもない話。側近もみんな解脱済みの僧侶みたいなのばっかで。まぁ無理だけどね。いや、公明党みたいな政教分離してない馬鹿みたいな政党って意味じゃないよ。まぁあいつらは解脱からもっとも遠い似而非仏教者達の集団だけど、俺が書きたかったのは、解脱済みの僧侶ではなくて解脱済みの僧侶「みたいなやつ」ってことね。


いや、まぁ別にこれは例だからいいんだけど、今回書きたかったのは2つの異なる背反する自由のレイヤーってことね。繰り返すと政治的な自由と個人的な自由ね。この両立というのは可能なのかな?俺は不可能だと思うんだけどどうかしら?もちろん単純な二項対立ではないんだけどね、っつーのは政治的自由を諦めるか?個人の自由を諦めるか?みたいなね、そういうことだけではないんだけど、でも自由の落とし穴ってここにあってさ、この2つを混同してしまうと話がめちゃめちゃになっちゃうんだよね。直接民主主義ほど危険なものはないと考える俺にとって、この異なる相反する2つの自由のレイヤーという概念は非常に重要だと思ったので、まぁ実験的に色々と書いてみました。


ちょっと最後に整理するか。2つのメキシカン・スタンドオフな状況というのが、世の中は緊張状態にありながらも核は無い。ただ核なるものは作れるらしい。さてどうする?なんていう原初状態じゃないんで、核を持つしか方法が無いでしょっつーようなね、他国から核を突きつけされているっていう状況が一つと、俺らが民主主義っつー擬制を信じることでヘタクソな寡頭政治ならぬ下等政治は永遠と続くらしいよ?んじゃあそんなのやめちゃわない?っつー民主主義っつー虚構を常に突きつけられながら騙されている国民という状況がもう一つね。ただ後者に関しては民主主義を諦めることで、んじゃあ寡頭政治が無くなるか?っつったらそうじゃないんで問題なんだけどね。かといって実際に俺が言うような政治的リーダーというかエリートっつーのもあんまいなさそうだし、実際は政治ってのは利権やらなんやらに塗れまくってて汚染されているっていうことから言っても、結局はポストモダン的に限られた市民が常に腐敗した権力と
戦い続けるっつー闘争的なパラダイムしか無いのかな?って感じもするよね。結局そうなるとネグリ・ハートみたいな話と同じになるんだよね。つまんねぇーな。これじゃあ。来るべき民主主義のままではいつまで経っても左翼的文化エリートが抵抗だの闘争だのっつーのを唱えながらその状況を繰り返すっていうのが永遠と続くだけだよね。結局そこには政治的なるものを現代的な諸条件、まぁテクノロジーやら現代的な政治的状況やら経済やら文化やらと照らし合わせつつ常に更新していくっていうようなアゴーンとしての民主主義しかないのかしらね。これってすんげーラカンチックだよね。対象aと自我との関係性みたいなもんだよね。


もし権力が無くなる時ってのがあるとすれば、それは完全に民衆が彼らの政治的自由を完全に委任したときかもしれないね。少なくともそこに「権力=民衆」というアンタゴニスティックな関係性は無くなるわけだからね。もちろんそれは政治の不在を意味することにもなりかねないんだけど、むしろ俺がここで提案しているのはね、いつもの話に戻るけど、アナルコ・シンディカリズムじゃないけどね、むしろ市民の中間団体だの生産集団だのっつーのがさ、政府や国家に依存しない形で独立しながら共生していければそれって最強のアナーキズムの実現なんだよね。俺はこういう意味でのアナーキズムを信望しているわけだけど、まぁある意味でネオコン的でもあるのかな?究極的な自由主義と言えなくもないよね。自律を促すわけだから。


まぁいいや。ってことで今日はこの辺で。今日は本当に微妙だな。色んなところで矛盾し過ぎ。でもまぁいいでしょ。実験的で。政治的な自由(決定権)が必ずしも個人の自由をもたらすとは限らないってアイロニカルな構造だよね。本当に。

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