コミュニケーションってそもそも何なの?っていう。

mimisemi2009-01-26

明日っつーか今日が学校なんだけど、夜中の二時に起きたわけじゃない?で、学校が4時半からだからちょうどなんつーか寝る時間に学校が始まるって感じなんだよね。日付ってのを考えた時に、例えば今の俺みたいな状況だと学校はほとんど明日なんだよねっつーのは学校が始まるまでに12時間以上あるからね。ただ睡眠を挟まないという意味で今日なわけだけど、これを思うといかに日付だの時間だのという概念が所与のものだということが分かるよね。前にも書いたことだけど、時間とか日付とか日程みたいなさ、所与のシステマティックな要素に縛られて生活するのが人間だよね。社会で生きることってそういうことだ。究極的に言えば、完全に人間が変化をもたらすことが出来ない概念を基本に生活をしているわけで、そこには疎外があるかもしれないよね。仮に好きな時に寝て、好きな時に起きるっつーのが自然なんだとしたら、システマティックに構成された概念の中で生きるということは自然から疎外されて生きるってことだよね。


これは全く現実的にはありえない話なんだけど、仮に人々が完全に自給自足できたらね、他者とのコミュニケーションって成り立つっつーか必要とされるのかな?って思うわけね。人間の根源的な欲求として、例えば表現としての喋りだとか何かを書くということがあったとしても、それって相互的な他者との関係性を求めているというよりかは、どちらかというと自分の欲求を満たすために他者を利用しているということになるよね。俺のも含めた私的なブログの垂れ流しとか、2ちゃんねるなんかが良い例だよね。何かを出したいっつー主体の欲求が渦巻いている場ってのがネットなんだとしたら、むしろそこにパブリックな何かというのを要求すること自体が難しいのかもしれない。本来的な意味でネットというのが表出と表現が入り乱れる場なんだと措定したらね、そこに公なるものは存在しないのはむしろ必然かもしれないってことね。


で、自給自足なんだけど、人間が他者なり社会と関わっていかないといけないということの根源には、個々のニーズを満たすという動機があるよねっつーのは単純に自分の食い扶持を探すとかさ、給料をもらうとかさ、最低限な話だけど、モノを調達するとかさ、でもこういう風に考えるとむしろ社会なんてものはただのシステムで、実際は個々が個々のニーズを満たすためだけに存在するディスペンサー的な存在なのかもしれないんだよね。ディスペンサーという媒介に触れるための条件としての他者とのコミュニケーションがあるだけで、本質的なコミュニケーションに重点を置いた行動が占めるウェイトというのは意外に少ないかもしれない。その証拠に、直接人々と関わるというよりかは、ネットなりメールなりで人間関係らしきものを持続ないしは調達するということに満足感を得ているという人が多いでしょ?そこにあるのは象徴的な他者だけで、他者の現前性ってのは無いんだよね。


仮にそのディスペンサーにすらも関わること無く生きるということが出来るのだとしたら、もしかしたら大半の人間はコミュニケーションというものを求めなくなるかもしれないんだよね。コミュニケーションっつーのは前にも書いたけど社会学で言うところのセカンダリグループ、ようは学校なり職場といったような場所なんだけど、そういった媒介によって維持されている人間関係ってのは多いんだよね。だから逆説的に言うと、そういうのが無くなると自然消滅する人間関係というのはかなり多いわけ。それは色んな人が例えば学校を卒業した後に同級生と疎遠になったとかってのを経験していると思うんだけど、これが表すのはいかにセカンダリーグループが人間関係において重要な機能を果たしていたかっつーことだよね。実際の人間関係なんて、そういった二次的な要素から生まれた蛇足でしか無いのかもしれない。何らかの共通した場で出会った人々と知り合って、その一部とその後も付き合い続けるっていうようなね、こういうのを考えると何らかの社会的な場というのが常に人間関係なりコミュニケーションを提供していると言えなくもないんだけど、逆に社会がディスペンサー的な機能だけを担うようになると、そこにあるのはそういった場の空洞化だよね。まぁベタな例で言うと共同体の空洞化ってこういうことなのかもしれない。社会的な要素なりニーズで人と関わる機会が減ってきているので、自ずとその関係性を提供するきっかけみたいなのを人々が失うっていうね、元々、コミュニケーション的なものを要求するために行ったわけではない場所でコミュニケーションが生まれるのだとしたらさ、社会のシステム化が進めば進むほどコミュニケーション的なものが不在になるのはある意味で必然だよね。


つまり最低限必要なものは半ば打算的というか妥協的に社会と関わって調達するんだけど、大半のものは人との関わりを無くして得られるようになったら、コミュニケーションってのは希薄になってさ、で、コミュニケーション的なものが人間の欲求に立脚したものになりがちになるっていうのが、さっき書いたネットの例なんだけどね。ほとんど生活は通販とかで済むんだけど、でも自分の出力の欲求を満たしたいからネットで色んなアバターを駆使してその欲求を満たすっていうさ、コミュニケーションの動機が公的なものから私的なものへとどんどんシフトしていくんだよね。もちろんそこで社会のシステム化が公的なものを妨げるとは単純には言いたくはないんだけど、でもコミュニケーションを提供する蛇足的というかセカンダリーなものっていうのを人々が意識しなくなったり必要としなくなったら、それってコミュニケーションの機会が減るってことなんだよね。


もしくはセカンダリーなものでも、その場で行われるコミュニケーションというのはシステマティックなもので、そこで行われるべき個々人の目的というのを満たすために行われる、ようはディスペンサーと人間みたいな形骸化したコミュニケーションでさ、個々人がその目的を満たしたらもうそれは用済みなんでそこで関わりが終わるみたいなね、本質的にコミュニケーションってこういうものなのかもしれないけど、そう思うと特にポストモダン的なパラダイムで考える社会ってーので言うと例えば人間ってのが政治的動物なんだみたいな概念は本当にバカバカしくなるよね。だから恐らく政治とか公的なものというのは政治的ロゴスを持った人でしか担えない高度なことなんであって、市民全てが政治的ロゴスを持つべくパターナルな教育を受けるだとか啓蒙されるなんてのはむしろ大きなお世話かもしれないんだよね。彼らは彼らで公的なり政治的なものにコミットしなくても全然いいと思っているのなら、もうそこで話が終わり
っつーか、それでいいんだよね。もうしょうがない。他人の実存にまで口出しなんてするべきじゃないんだから。


だからやっぱり選挙民って免許制にすればいいと思うんだよね。政治的ロゴスを持った人じゃないと政治は担えないんだから、政治を担う市民というのが大衆ではなく、代議士とは違ったレイヤーでの条件を満たした大衆によるものっていうね、代議士と大衆の間にもう一つのレイヤーを存在させるみたいな話なんだよねつーのはさ、昨日書いた超人的な何かに政治を期待するっていう自分のパラダイムに嫌気が指しているんだよね。それはファシズム的というよりかは、そこに超人的なものに政治を任せるっていうことで、とりあえず思考を留保している感じがあってさ、これって情けないんだよね。思考停止っつーかなんつーか。だから抽象的に「エリート」だの「超人」だのっつーのを考えるのはやめることにするよ。やっぱり政治の焦点は大衆にあるものだと考えるのがベストだとは思うけど、それは朴訥な民主主義的な大衆というよりかはまぁ群れっつーよりかは、政治的ロゴスを持った大衆に政治的主体を担わせるっていうね、んじゃあそういったものを持っている人間を選ぶなり育成するのはどうしたらいいのか?っていう風な話になりそうだけど、それはまた後で考えることにしよっと。まぁやっぱ教育だと思うけどね。エリート教育ね。頭ごなしに政治的な市民化というのを強制するんじゃなくて、そういうのを担いたい人が学べるようなギムナジウム的な高等教育機関があればいいんだよね。んじゃあその政治的ロゴスのドグマが既存の体制から与えられたものだとしたら、それはただの洗脳じゃないかっていうような話になりそうだけど、そこでやっぱ知識人の役割ってのがあるよね。そんなのにはダマされてない知識人ってのがいるわけで、こういう体制側に迎合しないラディカルな知識人が一部のエリート教育を担えばいいんだよね。


そう思うとやはり知識人という存在は凄く重要だし、そういった人々が育成されるということはもっと重要だよね。何しろそれは公的なもの、つまりは政治的なものに関わることなんだから。んじゃあそういうのを教育する知識人を増やすにはどうしたらいいか?っつーとやっぱそういうロールモデルが必要なのは言うまでもないけど、超人的な知識人じゃなくても、なんとか食えるっつーシステム的な基盤が必要だね。中学生とかが「社会的なことにコミットしながら食えるんだ」って思えるようなシステムが必要だよね。日本の場合、目立つ自称知識人みたいなのが、くだらないバラエティー番組に出てたり、朝生みたいなのに出てたりして、象徴的なロールモデルってのがいないんだよね。いや、俺に言わせればいるんだけど、テレビに出てるお茶の間知識人に比べると存在がアンダーグラウンド過ぎるんだよね。で、スター化する知識人のベストセラーと言えば例えば姜尚中の悩む力みたいな、ある意味でどうでもいいエッセイみたいな本でさ、んじゃあその知識人の理論的なことはどうなのよ?ってことだよね。姜さんだって割とマシな政治的なエッセイを書いているとは思うんだけど、こういう本だけ売れるっつーのもどうなのかなぁー?って気がするよね。


ってことで今日はこの辺でっつーか、あー眠くなりそうだなぁー。午後。可愛い子いるといいなぁー。午後。午後の学校で。


PS


文字の表示おかしくない?俺はいつも通りちゃんとやってますからね、システム障害かしらね?分からんけど。

認識の分析 (叢書・ウニベルシタス)

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