続・欲情する主体。

mimisemi2009-01-29

昨日のフェチについての補足をしたいんで書いてみる。というかまずは俺なりの勝手な去年の秋葉原事件の再考から。


事件があった当初に俺はあの事件を社会的な表象だという風に書いたけど、後日談的というかなんというか、まぁ別にあの犯人自体は派遣どうので悩んでいたのではなくて、むしろ現代的な孤立に悩んでいたと。で、ネットでも良き相談相手が見つからずにあの凶行に及んだということなんだけど、俺から言わせればはっきりいって所謂、世の中で社会的事件と言われているものの大半がこういったものだと思うっつーのはむしろ犯人が事件に及んだ個人的動機なんていうことはむしろどうでもよくて、それが社会的なコンテキストの中でどういった意味が表れてくるのか?ということが重要なわけね。事件の社会性を定義するのはこの社会的なコンテキストなわけで、廣松風に言えば関係論的な事的世界観なわけね。あれはただの本人の勘違いがもたらした事件だった・・・というのが物事の真相なんだけど、それを共同主観性が「テロ」だとか「彼の気持ちはわからなくもない」と認識してしまうことが、つまりはあの事件の社会性を生み出すわけ。


おおざっぱな言い方でなおかつ色んな事件を極端に一般化してしまうようだけど、コロンバイン事件もヴァージニアも個人単位で言えば誤解を恐れずに言えばただのサイコの犯行だったわけだけど、それが社会的な意味を生み出してしまうということが、あれらの事件の社会性を規定しているわけね。だから銃の所持が問題になったり、ティーンエイジャーの精神状態やら彼らが生活している社会的環境ということが見直されたりするわけ。ただ実際はそれがどんなに辛かろうが大半の人はああいう凶行に及ばないわけだけど、一部のサイコが大量殺人を行ったという事件そのものを認識する共同主観性が介在することで社会的な意味が立ち上がるわけ。なので問題は本人達のことというよりかは、我々があれを社会的な事件だと誤認にせよ認識してしまう現在の社会情勢に問題があるわけ。つまりあれをテロだと言っても成立しなくもないという状況がヤバいわけ。シンパシーを覚える人間が多いというのも完全に異常な状況だよね。


で、この深刻な問題から一気にフェチの話に戻すとだね、昨日の性的シニフィアンシニフィエの関係性の話なんだけど、例えばブーツなりハイヒールなりブラジャーといったものは衣類だという風に人々は認識しているし、それが一般的だし、他人がそれを衣類というか、履くものなり身につけるものだと思うということを知っているから物事の概念が成立しているわけだけど、ここに性的な意味が介在するとブーツなりハイヒールなりストッキングといったものが性的な意味をもたらすものになって、そこでそれ自体が意味するシニフィエが主体にとっての性的シニフィエに変換されるわけ。それがなぜ常に象徴界にのみ存在することというのはつまりはそれが差異によって成立しているものだからなんだよね。ブーツなりストッキングは「履くもの」なんだけど、それに欲情する主体にとってはそれが性欲を想起するシニフィアンになるわけね。だからこの性的オブジェクトというのは主体にとっての性的シニフィエを分母にするときに、常にそれは語られない差異の体系の構成要素の一つとしてのオブジェクトXになるというわけ。それは分母が代わればXも代わるんだけど、そのXについては主体がカミングアウトでも
しない限り常にはそれはブラックボックスというわけね。


社会的な事件としての象徴化というのが共同主観性によってもたらされるもので、その一方で、共同主観性によってそれがXとして成立し続けるという差異の体系を規定するのがフェティシズムなんだよね。それはフェティシズムというのが常に個人的なレベルで成立するシニフィエシニフィアンの関係性で、社会的事件というのは脱個人的な共同主観性で成立するものなわけね。前者は主体とモノそれ自体との関係性によってのみ成立するものなのに対して、後者は主体と事件そのもの、もしくは犯人と事件そのものという関係性の中だけでは社会性は生まれないわけね。


で、最後にちょっとまとめてみようと思うんだけど、ようはフェティシズムっつーのは人間の性の志向性が対象Xを変様体として規定するという差異の体系で、社会的な事件というのは客観世界を間主観性がもたらす世界観と理解することで生まれてくる概念ってなわけ。だから必ずしも社会的な事件というのはそれ自体が実際に社会的かどうかだったかは分からないわけね。むしろあんま関係ないということのほうが多いんじゃないか?なんて俺は思うわけで。人々の多重化された意識ってのが客観世界を捉えて、んで何らかの志向的統一性というのが生まれた時に事件の社会性が生まれるというか解釈されるってわけね。つまり人々の志向的契機がその事件の社会性を規定するわけ。で、フェティシズムにおいてはそれが徹底的な独我論的世界観で行われるわけねっつーのは繰り返しになるけど、人間の性の志向性が対象Xのエロスを規定するというわけで、まぁこれはフェティッシュというかエロス全般がそうだと思うんだけど、それは極端に分節化された個人的で観念的な世界観の中に存在する価値/差異の体系というわけね。


ってことでこれが補足でした。では今日はこの辺で。

All Systems Are Go Go

All Systems Are Go Go

↑発売当初に死ぬほど聴いて、んで最近また改めて聴いたんだけどこれやっぱすんげーいいや。この手の音だとトップクラスのミックスだろうね。