努力について。

mimisemi2009-02-09

12月26日のエントリーに対して肉彦さんから書き込みがあったので、またまた私信を1エントリー分にしてみます。


http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20081226#c1234089895

肉彦
2009/02/08 19:44
駄文失礼します


まぁ釣りかもしれないけど一応コメントすると、9時間ってのは授業時間含めての時間だぞ?普通の高校生でも授業時間含めた勉強時間だったら9時間行くだろ?それに成功者は須らく努力してるんだぞ?努力がかっこ悪いとかは敗者もしくは生まれたときから何もかもすべて兼ね備えている人間が言う言葉なんだよ。別に努力を美化するわけではないけど同じ高校の3年間を過ごしてお前は東大より下の大学にいったわけだろそれはお前が東大生より努力をしなかったんだろそれならお前は東大生を馬鹿にすることなんてできるわけないだろ簡単な例えをするならニートが激務で有名な外資系の奴らのことを働きすぎプギャーって笑っているようなもんなんだよ働きもしない奴が働いている奴らを馬鹿にするのとと同じかそれ以下だ用はお前は自分より上の大学行ってるやつらは努力のおかげで大学に行けているんだよ!っていう自分への慰めもしくは負け犬の遠吠えでしかないんだよ


耳蝉
2009/02/08 16:32
長文失礼します


まずその言葉使いなんとかならないですか?前にもここで書いたことですが、ネットが普及してからのユーザーのネチケット不足には本当に呆れています。「だろ」だとか「だぞ?」なんて言葉遣いは知らないもの同士がはじめてネットでコミュニケーションする時の言葉遣いではないですよね?


肉彦さんの意見は分かりますが、そもそもこういう書き込みの仕方をされますと建設的な議論ができにくくなると思います。ここには僕の極端な意見に反論を述べてくれるくださる方々がたまに書き込んでくれますが、今まではどの方々も適切な言葉遣いで反論なり書き込みをしてくださっていました。しかしながら今回の肉彦さんの書き込みはせっかく良いツッコミであるのにも関わらず、その言葉遣いにより主張が台無しになっていると思います。今後も何かツッコミがあれば書き込みをしてくださってもかまいませんが、次回は言葉遣いに気をつけて書き込みをしてください。あと「釣りかもしれないけど」とのことですが、ここではそういう目的で書いているエントリーは一つもありません。あと僕自身は物事を対象化して考えつつ書いているつもりなので、東大生への個人的な恨みやルサンチマンなどを元に東大生を批判しているわけではありません。なので僕自身がニートであろうが負け犬であろうが関係のないことです。


で、肉彦さんのご意見についてですが、「成功者は努力している」というのはごもっともです。ただ肉彦さんは僕のエントリーに関して致命的な読み違えをしていて(僕の説明不足によるものでしょうけど)成功者は努力などをしなくても成功するという僕の意見は、例えば僕が度々批判しているような、血反吐を吐く思いをするような努力をしなくても成功者は成功をするということなんです。


全てを兼ね備えている人間じゃなくても、人間というものは好きな事に関しては時間や労力を使うことを厭いません。その没頭できること自体が成功者にとっての夢への道であったり、やりたい事そのものだったりするわけで、そこに日本的な美学が介在する「血反吐を吐くような思い」というような苦痛は存在しません。僕は前からこの日本的なマゾキスティックな「努力」という概念が大嫌いで度々批判してきましたが、僕は恐らく成功者っていうのはそういうマゾキスティクな努力とは無縁だと考えるわけです。


成功者というのはビジネスなり学問なり芸術なりにしても、恐らくそれが好きでしょうがなくてやってる結果、それが好きなことであるが故に凄まじい能力を発揮して、それで業績を残すんだと思うわけです。肉体的には無理をして血反吐を吐く可能性はありますが、精神的な苦痛は感じていないはずです。というのはそもそも精神的な苦痛を感じていたら常人が考えられないほどの時間や労力を事柄に費やせないはずなんです。つまり快楽原則と彼らの社会的行為が重なっているものほど成功しやすいということですね。ビルゲイツみたいなやつが典型的です。元々天才で、で、なおかつプログラミングオタクでプログラミングを一日中やってたりすることを厭わないどころか、彼はそれが楽しくてしょうがなかったわけです。その結果があれですね。ちなみに10000時間積み上げの法則というのがあります。詳しくは以下のURLからどうぞ。


http://lifehacking.jp/2008/11/the-law-of-10000-hours/


これの科学的な根拠はともかくとして、こういったことが示唆するのは、つまりはシンプルなことで、時間も忘れるぐらい一つのことに没頭できるやつは、10000時間を境にして何らかの偶然のタイミングにより成功者になるということです。まぁ別にそれが10000時間を境をする必要はないんですが、まぁそういう面白いデータが出ているということですね。あと別に僕はビルゲイツが好きなわけじゃないですが、彼は典型的な卓越した地頭+時間積み重ね型のオブセッション型の天才だと思います。


ここには常人がなし得ない快楽原則と社会的行為の繋がりがあります。多くの人々にとっての自分が時間も忘れて労力を惜しみなく捧げる事のできるものというものは社会的なものが介在しない趣味的なことであったりするわけですね。例えば漫画を読むだとかゲームをやるだとかずーっとネットをやっているだとかどれもこれも社会的なものには結びつかないものばかりです。ただ僕は本質的に快楽原則においては、例えばガンダムの台詞を頭から丸々暗記しているやつと一日中好きでプログラミングをやっているとの差はあまりないと思っています。というのは両者共に彼らの快楽原則が元になってそれらのオブセッションが動機づけられているということにおいて、それらに没頭できているからです。もちろん内容の質の差はありますが、僕が言いたいのは快楽原則においては動機付けはほぼ同じであろうということです。


そこで東大に話を戻すと、僕の勝手な東大生のイメージというのは、学問が好きでしょうがないという人達が、彼らの快楽原則に任せてひたすら彼らの興味に没頭しているような人達だったわけですが、実際はこのエントリーで書いたように「いや、実際は凄まじい努力をする普通の人達の吹きだまりなんじゃないか?」っていうことだったわけですね。いや、実体は分かりませんし、恐らくそういう学問好きのタイプもいれば、努力家タイプもいるんでしょう。ただ大半の人達が血反吐を吐く思いで好きでもない学問をただひたすら東大に入る事を目的にやってきた結果、東大生になれた人達なんであれば、それこそ前に書いたように「それって全然たいした事ないじゃん」ってことなんです。別に普通の人でも血反吐を吐く思いをすれば誰でも東大に入れるってことになりますよね。まぁ多少の地頭は必要かもしれませんが。


それに比べて例えばビルゲイツの例などで言うと、普通の人が血反吐を吐く思いでプログラミングに専念したところで、恐らく彼のような業績を残せる可能性は低いわけですよね。それは彼らの地頭もありますが、大きな要素の一つにビルゲイツほどのコンピューター狂いではないからということが挙げられると思います。逆を言えば普通の地頭でもビルゲイツ並のコンピューター狂いなら何らかの社会的業績を残す可能性は高くなるわけです。それがさっき書いた快楽原則と社会的行為の一致です。それがエジソンの言う99パーセントの努力と1パーセントのひらめきなんだと僕は勝手に解釈しています。1パーセントというのが彼の天才的な感性で、残りの99パーセントはそれに没頭できるオブセッションや環境や金銭的・時間的な余裕でしょう。


つまり僕は言いたい事は何らかの秀でた才能を持った人達というのは、常人には考えられないようなある分野に対する興味があるということなんですね。なのでガンダムの台詞を頭から全て丸暗記している人も、変な言い方になりますがガンダムの天才というわけです。ようはそれに対する興味やパッションが異常ということですね。ただ残念ながらこういった能力は社会的行為には繋がりません。しかしながら異常な興味やそれに対するパワーという意味では世の中の成功者とそんなに変わらないんじゃないか?というのが勝手な僕の憶測です。ところで、単純に台詞を頭から全て全て記憶していたら「こいつすげー!」ってことになりますよね。何が凄いってこいつの記憶力ではなく、ガンダムに対する異常なパッションですよね。


まぁ世の中の成功者というのが必ずしも天才であったり何かの分野に対して恐ろしい能力を発揮する人達というわけではないのですが、成功の鍵を握るのが快楽原則と社会的行為の一致であるということに関しては僕は勝手に「そうなんだろうな」って確信を得ています。それは訓練して得られる類のものではないので、そういったものを持っている人達が天才と呼ばれたりすることもあるのでしょう。


そこで僕は東大というのはこういう凄い人達が集まっている場所なんだって勝手に思っていたわけですが、実際は「東大に入る」という浅い目的だけで頑張ってきた人達が大半なんじゃないか?と勝手に思ったので「なぁーんだ」と勝手に思ったわけです。ちなみに僕は努力というのを人間の最大限のヴァーチューの一つに置くことは凄く危険だと思っています。というのがこの東大に入る事だけをヴァーチューとしてきたような能無し東大生に見られるような、勘違いした目的と努力の重なり合いです。「血反吐を吐くような思いをしてでも、東大に入れば安泰だ」なんて勘違いして努力をすることは、その努力は無駄とは言いませんが、建設的とは言いがたいです。それよりも本当に凄い人達というのは、そんな血反吐を吐くというような概念も忘れて没頭できる事を見つけて、それにコミットしまくっていた結果、凄い結果を残していたというような人達であるからです。


そこに「努力」というような涙ぐましいようなヴァーチューは無く、そこあるのは全ての人間が持っているような快楽原則に従うということなんです。もちろんその好きな事をやるための努力というのは必要でしょう。というのは例えばそれを続けるための日々の糧を得るための労働であるとか実務であるとかですね。でも当然ながらそういった努力が最大限の目的ではないことは明らかですね。それは好きな事をやるための努力なんであって、好きな事をやることに関しての努力ではないんです。それはただ快楽原則に身を任せておけば体が勝手にそれとエンゲージするわけですから、そこに「努力」なんていう涙ぐましいことは必要ありません。面白い漫画を読むのに努力はいりませんね。気がついたら全巻読んでたっていうのが身近に存在する日常的なオブセッションです。ただ漫画を買うためにお金を稼ぐ必要はあるわけですね。そこに漫画を買うための努力は必要かもしれませんが、漫画を読むための努力は必要ありません。オタクが究極的な例で、美少女に萌えることを人生最大の美徳となるならば、日々の労働など萌えに比べたら微々たるものなわけです。目的のための努力ならいくらでもするというわけですね。彼らがポストモダン社会の強者たる所以です。


努力自体を良い事だと思うのはただの錯覚です。それよりも何のための努力か?ということが重要です。東大に入る事だけが目的の学生の努力というのがただの錯覚なのは言うまでもありません。むしろ東大に入るということは目的に対するただの方法なのであって、問題は東大に入って何をするか?ということですね。例えば経営学を勉強してビジネスを立ち上げるということが目的なのであれば、東大で勉強する事などただのステップですね。ただその目的のために例えばやりたくもない宿題をこなさなきゃいけないとか、あまり重要とは思えないような講義も卒業のために出席しなきゃいけないといったような類の努力は必要になるでしょう。でもそれは目的を遂行するための努力なのであって、目的そのものに対する努力ではないんですね。そこを努力が最大限の美徳だのと勘違いしてしまうと、苦痛に耐えて雨の日も風の日も、ましてや風邪の日も頑張って講義に出たり宿題をやるということ自体が目的になってしまうわけです。


で、そんな努力をしている自分に自己満足するわけです。「今日も頑張ったな」と。これはただ自己内においての行為と努力がフィードバックし合いながら完結しているただのマスターベーションです。こういう勘違いをしている人達が卒業後にその努力を捧げる対象が無くなってスッカラカンになってしまうのはある意味で必然的です。それはただ仕事するということだけに美徳を置いてきたサラリーマンがその仕事をこなすということを失って定年後に鬱になったりするようなことと同じ構造と言えるでしょう。


努力を美徳として考える事が日本人の「頑張る気質」を支えているのは言うまでもありません。それは目的のための努力ではなく、努力をする事自体が良い事なのだと勘違いしていることから無理をしてしまうような行動に見られるようなことです。体の調子が悪かったり疲れているのならその目的のための体力の温存をしたほうがいいのにも関わらず、「頑張らなきゃ!」とか思って「努力」をしてしまって、それで体を壊して目的に向かえなくなるようなことは皮肉としか言いようがありません。目的があればまだマシですが、頑張る事自体が人生の目的になっているような人達はもうただの奴隷でしょう。支配者というのは被支配者側にそういった服従するメンタリティみたいなのを植え付けますが、それにGHQが絡んでいるとかっていう話はともかくとして、日本人というのはそういう意味で本当に服従しやすいメンタリティを持っていると言えると思います。そういったメンタリティが鬱病などの原因になるのは言うまでもありませんし、労働基準法も知らない労働者達が企業にこき使われるという力学を担っているのも、日本人の奴隷体質があるからこそ成り立っている構造と言えなくもないでしょう。


繰り返しになりますが、僕の勝手な意見ではその「努力は素晴らしい」という概念が日本人の奴隷体質と深く結びついていると思うわけです。それはソ連の労働者が「労働は素晴らしい!」と思うようなことと全く同じです。そういった勘違いしたヴァーチューを持つ事はマルクスの言う虚偽意識と非常に似ていると思います。まぁ個々人は勝手に努力をすればいいと思いますが、「何のための努力なのか?」というのに意識的になりながら努力をしないと、そんな努力などただの苦労なのであって、何の結果も生まないってことです。それは定年後に「俺の人生って何だったのかなぁー?」なんて考えながら鬱になって自殺する元サラリーマンのようなものです。こういうのは奴隷体質が生んだ悲劇です。ましてや今の日本なんて努力をしてても首を切られたりするわけで、余計に虚偽意識的な努力の概念は非常に危険です。


そういった意味も含めて僕は日本的な努力の概念を批判しているわけです。昔のような結果を出さない努力が認められるような共同体的社会が存在しているなら努力にも価値があるかもしれませんが、殺伐とした今の日本のような社会では自己満足的な努力など意味がありませんし、むしろそれは個々を蝕む精神的な鎖にもなりかねないでしょう。東大に入る人達というのが社会を担って行くようなエリートであるはずが、実際は普通の奴隷意識を持った連中が血反吐を吐くような思いをして東大生になったやつらが大半なのであれば、それは様々な教育機関で量産され続けている奴隷達とたいした差は無いということです。まぁちょっと頭の良い奴隷達って感じですね。エリート育成をしなければいけないような最高学府に奴隷がたくさんいるなんて由々しき自体です。だから僕は勝手に東大といっても実際のエリートは少数なんだろうなって勝手に失望したわけです。


あと勉強の時間数ですが、こんなものははっきり言ってどうでもいいことです。目的のために自分の頭と照らし合わせて、どれだけの時間数を勉強すればいいのか?というのは個々人が考えることなのであって、それはお風呂にどのくらい入っているのか?ということを重要な事として語るのと同じぐらいナンセンスなことです。なのにも関わらず講義の時間も含めようが含めまいが一日9時間以上も勉強している連中が多いというのは、これまた由々しき自体です。僕が9時間勉強を批判したのは、それは僕の勝手なエリート像がアメリカ的なジェントルマンズBを名門校で実践できるような連中ということだったわけですが、ジェントルマンズB的な総合的な自己育成(実践的な人間関係や恋愛や芸術観賞や趣味なども含めた)ができていない人間など、エリートではないと思うからです。努力という意味での勉強馬鹿が東大に多いということになれば、最高学府の名が泣きます。


最後に僕の話をしておきます。僕は鬱病パニック発作などの精神病がありながらも、日本とは違う環境のアメリカの学校に毎日通っていて、自分の英語力の低さやパニック発作に苦しみながらもプレゼンテーションやテスト(テストという状況もパニック発作を引き起こす要素になります)をこなし、宿題などもきちんとこなしながら貧乏生活に耐えつつ、限られたお金で書籍を買ったりして・・・・と書いたりすると日本的な努力を美徳とした言い方になりますが、アメリカで職を得て綺麗な奥さんと結婚をして好きなことをやりながら過ごすという壮大な目的がある僕としては、こんなものは努力でもなんでもなく、自分の夢を遂行するためのステップでしかないわけです。なので将来の目的を考えればパニック発作があろうが英語で学業をこなすのが大変だろうが、そんなものはとるに足らない事なわけです。それは将来的に僕が好きなことだけやって食っていくという、自分の社会的行為と自分の快楽原則と一致させるという目的があるので、日々、どれだけ辛い事があろうがそんなものは目的を前にすれば微々たることなわけです。


自分が成功者になる確信があると言うわけではなくて、僕が日本にいたころには持てなかったような壮大な夢を持ちながらそれに向かい続ける事ができている現在において、この状況自体が他の成功者の体験を僕に追体験させるわけです。「なるほど!だから成功者ってのはあんだけ凄い努力をするんだな!」と。僕の状況に照らし合わせれば先ほども書いたように、僕には目的があるので、日々の物理的なことなど目的に比べたらとるに足らないことなわけですが、それを第三者が見ると「凄い努力だ!」と思ったりするわけです。僕の生活を見て第三者が「凄い努力だ!」と思うかは分かりませんが、ちなみに僕の生活で言えば講義の時間と個人的な読書の時間と学校の宿題や課題や準備の時間を含めれば総合勉強時間は毎日10時間を越します。でも僕はこれらを涙ぐましい努力だと思った事も感じた事も一度もありません。なぜならそれは目的のために必要な事だからです。学問それ自体も政治学サイコロジーや哲学といった自分の興味があるものであればより苦痛など感じなくなるのは先ほども書いた通りです。つまりは快楽原則と自分の学生生活(社会的行為)が完璧ではないながらもおぼろげながら結びついているということです。


そこで第三者が勘違いして「自分も頑張ろう!」とその苦悩が伴う「努力」の部分だけを見習って、自分の日々の大変な事柄をこなすことを努力として美化するようなことは本当に馬鹿げたことなわけです。それが奴隷体質をより深める原因となるわけです。なので目的の無い努力などただの虚偽意識だというわけです。東大生の多くがこういった虚偽意識を持っているのだとしたら、「あいつらたいしたことねぇーな」って話になるわけです。なので彼らの努力や勉強時間などはどうでもいい話です。


ということで大体のことに答えたと思うので、返事を終わりたいと思います。ところで繰り返しになりますが、ここ以外でもどこかに書き込む際にはネチケットというのを本当に意識していただきたいと思います。ネチケットというのは政治と違って一人一人が変えていけば全体が変わるマルチチュード的広がりが可能なものなんです。それは「変えていく」というよりかは今のマナーもへったくれも無い日本のインターネットというものを過去のネチケットがあった頃に戻すという感じです。まぁもっとも状況そのものを見ると、少数ではなく多数が政治にコミットすることになることで衆愚政治が生まれるように、インターネットもまた少数ではなく多数が利用する事になりモラルの退廃が生まれるのだとしたら、ネチケットもまた政治的な意味でのマルチチュードの不可能性と同意義になってしまうわけですが、まぁ少なくとも肉彦さんには気をつけていただきたいと思います。マナーの悪い書き込みは悪質な連鎖を生みますので。


・・・・ってのが今日のエントリーでした。ところで「駄文失礼します」って先に断っておけば言葉遣いって気にしなくてもいいものなのかね?ってことでみんなネチケットには気をつけようね!俺もこれ以上「日本の混沌としたネット社会そのものが公共性のない日本社会を体現しているかのようだ」とかって言いたくないので。ってことで今日はこの辺で。

ジジェク自身によるジジェク

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