宿題多くね?っていう。

mimisemi2009-02-13

なっかなか狂ってるよ。宿題の量。特にポリサイのクラスは毎週教科書の1チャプターを読む(30ページぐらい)っつーのがデフォルトで、なおかつもう一個のDemocracy for the fewっつー本も1チャプター読まなきゃいけなくて、んでなおかつネットでデモクラシーじゃないほうのポリサイの教科書の内容に関する選択問題を受けないといけなくてっつーかこれは何回も受けれてなおかつやり直しが効くんでいくらでもズルはできるんだけどズルするにしても60問とかが毎週あるんでズルするにしても時間がかかるんだよね。で、もちろん宿題ってのはこれだけじゃなくて他の学科もほぼもれなく宿題があるんで、なんつーか俺みたいなフルタイムの学生ですら一個一個をこなすことができないのにこれで働いてたりしたらありえないね。まぁ俺はそんなに宿題に時間はかけないけど、それにしてもやっぱり多いとこなすのに時間がかかっちゃうんだよな。ましてや中間テストとかにさしかかるとテスト勉強以外にリサーチペーパーとか課題があったりしてさ、なんなの?って感じだよね。「アメリカの大学はやることが多くて卒業が難しい」ってコミカレレベルなのにも関わらず俺ってまっただ中にいるじゃんとか何気に思っちゃったんだけど、さてまぁね、今回はこの宿題の多さについて思った事があるので精液は溜まっているけども、オナニーを我慢して書いてみるね。これを書き終わったらオナニーするテンションで。


っつーかさ、宿題が多過ぎるっつーのはダメだよね。シンプルに。人間ってのはバランスが必要なんだよ。仕事をする時間、勉強をする時間、快楽に耽る時間、遊ぶ時間、家事全般をする時間・・・などなど、教師っていう存在が生徒の私生活に影響を及ぼすような量の宿題を出しちゃダメなんだよ。それってのは教師の怠慢だと思うんだよね。有能な教師は授業で生徒に内容を覚えさせると思うんだけど、ダメな教師ってのは宿題を出しまくってんで生徒に丸投げするんだよね。で、やってないと「お前が悪い」っていうわけ。いや、別に例のマイケルムーア先生を批判したいわけじゃないんだけど、基本的に宿題の多さに関しては本当に疑問なわけだけどね、あとはやっぱり今みたいな学校に行ってて感じるのはさ、特に俺が夜のクラスを取ってるっつーのもあってか働いてる人が大半なんだよね。クラスメートね。で、アメリカってさ、何かの統計によると学費のためにバイトをしなきゃいけないっつー生徒が凄まじく多いらしくてさ、ようは生活基準の低さっつーか、学費すらもままならないっつーか親も余裕があって出せるっつー家が少なくなってきてて、それは親が子供にしつけのためにバイトをやらせてるっつーよりかはもう不可避的にやらざるを得ないってやつらが多いんだよね。で、結果的にそれが学業にも影響してきちゃう。ようはバイトと学校の掛け持ちでんで例えば今の俺みたいな量の宿題をこなすなんてほぼ不可能なんだよね。だから結局、パートタイムの学生になるしかなくなっちゃう。まぁ中にはフルタイムで生徒をやりつつバイトをしてるってやつもいるかもしれないけど、これはもう異常だよ。明らかにHuman natureに反していると思う。


俺みたいなやつはいいんだけど、こういう状況も考慮してアメリカの大学って変わって行かなきゃいけないと思うね。ようは物理的に不可能な宿題なんて逆にその生徒の学業意欲を奪ったり、多過ぎるがあまり効率よくやっつけ仕事的にやらなきゃいけなくなることが多くなりすぎて学問そのものにフォーカスがいかなくなると思うんだよね。「へぇーそうなんだぁーおーもしれぇー」っつーような発見とか驚きの暇がないっつーかさ、時間に追われて必死になってるから脳が別な意味で働かなくなってると思うんだよ。これは読書を考えてみれば分かりやすいっつーのはさ、例えば俺も一時期あったんだけど、「月に何冊読まなきゃいけない」みたいな目標を立てちゃうと結局、その量をこなすことにフォーカスが行き過ぎてんで内容に目がいかなくなるんだよね。読んでる時もノルマのことばかりが思い浮かんでしまって、実際読んでいて読んでいないみたいなダメな読書が永遠と続いちゃう。これは目的と目標がわけのわからないパラドックスを起こしてダメになっちゃうっていう良い例だよね。このパラドックスを「双子の姉妹のわけわかめ酒」と命名することにしよう。なんつーかさ、例えば「何かを得る」という目標があって読書をしてるなら、むしろ必要なのは速読なんかじゃなくて精読だよね。「何冊以上読む」という目的がデカくなりすぎると速読できるような内容じゃないような本も速読で読まないとノルマをこなせなかったりして、んで読書自体がもう時間の無駄になっちゃうんだよね。


宿題も全く同じ。ツールとしての学問なら別かもしれないけど、その学問に興味があってやっているのならやはり一番良い学習の仕方ってのは自分のペースでやることだよね。人から膨大な量の課題を与えられてやるようなもんじゃない。結局はまぁ前に書いた快楽原則なんだよね。快楽原則が原動力になるとこれ以上のパワーがあるものってのはなかなか無いよ。それこそ人間がセックスに励むのと同じようなエネルギーを何かに注入できるっつーのは凄いことでしょ?「自分が最も力を発揮できる範囲を見極め、そこに時間とエネルギーを集中することである」っつーのはビルゲイツの言葉だけど、これこそまさしく快楽原則をエネルギーにせよという話なのよ。まぁ俺の場合、その「自分が最も力を発揮できる範囲」というのを「見極め」る基準というのが「何に快楽を覚えるか?」なんだよね。もちろん快楽っつって短絡的にオナニーばっかしてればいいってわけじゃなくて、そこそこの社会性があってなおかつ自分の快楽原則と一致しているものというのを見極める事が重要ってことなんだよね。まぁビルゲイツが言っていることとはだいぶ違うかもしれないけど、まぁ俺の勝手なセオリーに当てはめるとその発揮できる範囲というのを見極めることが何気に難しいわけで、そこはシンプルに「自分がやりたいと思う事」でいいんじゃないか?って話なわけね。だから人生における悲劇ってのは自分の好きな事を探し出せないってことなんだよね。これは言うまでもないことだ。


そういう範囲を見極めるきっかけを与えるのが教育だと思うんだけど、例えば宿題が多過ぎたら見極めとか発見をする前に物理的な事柄に押しつぶされちゃうだろって話なんだよね。まぁ大学ってのはもうすでにそれらを見極めたものが修行をするところなんだって定義すればまぁ話は別なんだけど、でもそれにしてもやっぱりその好きな事が自分の生活をも圧迫し始めたら人間は本能的にそれを嫌がるようになるよね。そういう傾向を与えるようなことは教育側は絶対やっちゃダメなんだよね。だからそういう意味で無茶な量の宿題ってのは本当に良くない。ドロップアウターを増やすだけだと思うんだよ。これは。かといって日本みたいに無さ過ぎもダメなんだけどね。そこはでもやっぱり教師の裁量っつーか力の見せ所だよね。いかに生徒にその学科に対して興味を引きつけつつ離さずに知識を植え付けるかってことがようはあれだよね、The art of teachingってことだと思うよ。そこはもうアリストテレスとかが使ってたような意味での「art」っていう匠レベルの技術が必要になる。だから教師ってのは世間で思われているよりも敷居が高くて重要な職業なんだけど、現状を見るとそうでもないんだよね。ただの「職」になっちゃってる。実際は凄まじく高度な技術を要する職なはずなんだけどね。


俺さぁー一回でいいから先生やってみたいんだよなぁー。「俺だったらこうするぜ!」っつーよーなのを実行してみたいんだよね。まぁ教えるだけのネタが無いと始まらないんだけど、でも生徒を楽しませる自信はあるなぁー。なんつーか本来的な意味での学問の楽しさみたいなのを教えられそうな気がするっていうと大げさ過ぎるね。たださ、なんかデータのインプットとアウトプットみたいな感覚で教えてる教師とかを見るといつも書く事だけど「俺にやらせてくれ!」って思うんだよね。本当に。でも「そうじゃないんだよ!」っていうね。


そう。だから宿題ってのはオフの時も生徒にその科目に対する注意を引きつけておくようなツールとして使うべきなんだよね。言語学で言うところのThe phatic functionね。言語のアウトプットとレシーバーをオンにしておく機能ってわけよ。言葉で言うなら「んーでもあれだよねぇー」とか「そうだよねぇー」とかっていうような、その言葉自体で伝える事は無いんだけど、会話というデータのやり取りをする上での言葉のアイドリングというかさ、オンにしておくための装置なんだよね。で、宿題ってのは講義と講義を繋ぐそのThe phatic functionなんだと思うんだよ。でもおかしいのがね、講義がただのオマケでメインが山のようにある宿題っていう風なことね。だから俺は宿題の多さってのは本当にただの教師の怠慢か、もしくはシステム的な負荷による結果だと思うわけ。ようはある特定の時間でここまでカバーしなきゃいけないみたいな範囲が明らかに講義でカバーできる量じゃないんだけどでもコースはそうしないといけないっつーんで仕方なくその範囲をカバーするために狂ったような宿題を出すしか無くなっちゃうっていうね、ようは日本の歴史っつーかそれこそ縄文時代から現代までっつーのを週2ペースの各1時間半の講義で一ヶ月で終わらせろっていうなのは無理な話なんで、基本的に生徒達に教科書を家で読んできてもらうしか無くなっちゃう・・・というような話ね。しかも膨大な量ね。恐らくアメリカの大学ってそういうアホなスパイラルに陥ってるんだと思うんだよね。もっとゆっくりじっくり講義で時間をかけてやればいいことをすんげー早くやらなきゃいけないんで詰め込み学習的に宿題とかが増えちゃうわけ。ようは過剰なインプットが必要になっちゃうってことね。これってのは本当に意味が無い事だと思うね。だから全然アメリカの大学の宿題の多さって良いと思わないね。こんなのみんな嫌がるだけだし、大半の人達は「学歴のため」に我慢してやることになっちゃうわけ。学問の終焉ですよ。これは。だから学校ってのが職業訓練施設みたいになっちゃうんだよね。俺はこれを奴隷生産施設って思っているわけだけど。


まぁーでもやっぱあれだな、俺はフルタイムで仕事が無いくせに今ぐらいのレベルでも多いって感じるんだから4大とか入ったらヤバいなっつーかやっぱゆっくりやってくしかないんだよね。俺って気分障害とかがあるし忙しくなりすぎると分裂病気質やら鬱が酷くなるからね。だから自分でやれそうなぐらいの量の講義を取って、んでそれを週4ぐらいで受けて、んで自分の時間を持ちつつ余裕を持って宿題とか課題もこなすみたいなね、そういうんじゃないと無理だわ。俺。まぁ卒業がその分遅くなって親に迷惑がかかるんだけど、でも考えても見れば無理してドロップアウトしたり酷い成績取るよりも多少時間がかかってもじっくり大学に腰を据えて色々吸収しながらじっくり取り組んで行った方が結果的にはプラスなんだよね。「何を呑気なことを!」って言われそうだけど高い学費とか払ってるんだから逆にじっくりやらなきゃ勿体ないんだよね。ましてや社会に出たらもう詰め込みでやったことは全部忘れたとかだったらもうただ金と時間と労力を溝に捨てるようなもんだからね。という話をしてもうちの親は理解してくれるんで問題ないんだけどね。目先の経済危機というか「早く卒業して働いてくれぇー!」っつー思いを優先せず、長期的な視野で見るという俺という生徒としてのパースペクティヴを共有できているわけ。まぁ俺が説明が上手いっつーのもあるんだけどね。だから親って需要なのよ。


ここで親が馬鹿だったら「馬鹿モン!」とかいって理解しないわけでしょ?だから親って重要だよね。遺伝子レベルの問題もあるけど、こういったコミュニケーションレベルでの問題ってのはもっと大きい。だから極端に言えば馬鹿は子供を産むなって話になるんだけどね。馬鹿が馬鹿を産んでんでその馬鹿がまた馬鹿を産むっていうようなゴキブリの繁殖みたいなのを繰り返すわけだからね、どんどん人間の質が低くなっちゃうよね。ましてや今なんてそこそこ頭が働く人なら短絡的に子供を作ったりしないでしょ?だから余計に馬鹿が増えちゃう。馬鹿はそんなことを考えずに中出ししてガンガン子供を産むわけだからね。そういう輩がただの労働力になって、一部の優秀な連中が世の中をコントロールするっつー過去からずーっと続いてきた自然の法則みたいなことに関してタブー視しているからダメなんだよね。そういった議論はナチス的な優生学のような概念を生むとか言って危険視するけど、これはシュトラウスとかニーチェも散々書いていることだけど、事実ってのは大概が危険で不幸なものなんだよ。ただそこから目を背けていては永遠と真実ってのは分からないままになっちゃうよね。だからタブー視ってのは良くないわけ。色々なことを対象化して合理的に論理的に考えることが重要なのね。恐らく社会科学とかの役割っていうのはこういうことだよね。


なんか全然話がまた別になっちゃった。まぁいいや。いつものことだね。なんだったっけ?あ、宿題の話だったね。まぁいいや、書きたい事は書いたし。ってことで今日はこれで終わりね。んじゃまた。


PS


馬鹿が親になることのリスクについて書いてなかったんで補足をすると、ようは馬鹿が親になると負のスパイラルを生むのね。親が馬鹿で子供も遺伝子的に相当ダメなんだろうけど、そこでさらに追い打ちをかけるかの如くのヘタクソな教育と見本どころか反面教師にすらもならないような酷い親の行動やパーソナリティーを見ながらその馬鹿親の子供が育ってしまって、んでなおかつその地頭の悪さが追い打ちをかけてクソみたいな掃き溜め公立学校みたいなところに行くしかなくなっちゃって、んでそこで馬鹿親の子供同士のコミュニケーションが生まれて、んでそれが社会に底上げされて、んでその馬鹿が共有している間主観性がマジョリティの専制を生んでアホな社会が生まれるっていうね。マイノリティのレベルが低い理由がここにある。ようはダメなスパイラルがダメなスパイラルを生んだり、ダメ親から生まれた良質な子供もそのマジョリティの専制に飲み込まれて才能を発揮する事無いままマジョリティに埋没していっちゃうというような底なし沼みたいな構造がマジョリティの原則なのね。だからそういった画一的な馬鹿が幅を効かせるような世の中ではなくて、もっと多様性のある世の中にしないと何も変わらないってことなのね。それは全然日本に限った話とかじゃなくて。

権力の系譜学―フーコー以後の政治理論に向けて

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