『テロとの戦い』の真相について。

昨日貼った『テロとの戦い』の真相についてのちょっとしたメモ。テロとの戦いシュトラウスプラトン式の「高貴な嘘」や「ねつ造された神話」が強調されているけど、これこそがまさしく俗人自称ネオコンどもがシュトラウスの手法を利用しただけの形骸化されたイデオロギーだったわけね。実際のシュトラウスの高貴な嘘やねつ造された神話が有効なのは、無知な大衆を導くためのヴァーチューや道徳や倫理といったものを広めるためには宗教のようなアーキテクチャを持ったイデオロギー装置が有効であると説いていたわけで、政治家の思い込みの戦争にコミットさせるための誘導としての宗教や嘘や神話ではないんだよね。誘導としての宗教や嘘や神話というのはむしろ洗脳というかカルト的手法で、そこにヴァーチューも道徳もないんだよね。


あくまでシュトラウスの立ち位置は啓蒙にあったと思うんだけど、ネオコンはただ大衆を利用しただけなのね。民主主義というシステムの中で支持を集める必要があったので、嘘を流布させたり、シュミット式の敵/味方区別で右翼的なナショナリズムを発生させて国民の連帯を促したわけ。ほとんど同じ構造が911以降のアメリカにあったのは言うまでもない。ありもしない大量破壊兵器だの裏も取れていないテロの可能性だのなんだの、恐怖をフックとして排他的なナショナリズムを生み出すというやり方はネオコンお家芸なんだけど、こういった手法だけを見てシュトラウスの思想からの影響を受けただのと定義することはおかしいのね。手法だけ見たらただのポピュリズムだからね。シュトラウスの思想はあくまで賢人政治の徳のある古代ギリシャ社会みたいなものの復興だったわけだから。


あれだけね、知性だのWisdomといったものに価値観の重きを置いていたシュトラウスの思想なんてのがね、現存のネオコンと一緒と見なされるなんて本当におかしいことだよ。これは完全にシュトラウスが悪魔化されただけだと思う。まぁ影響は受けたかもしれないけど、敵/味方区別で言えば別にシュトラウス以前にシュミットがいるわけだし、この敵/味方区別でナショナルな国民の連帯を強めるなんてこともさ、シュミットは言っていたわけじゃない?大衆を利用してある一定の政治のベクトルに向かわせるみたいなことなんてマキャベリが言っていたようなことだし、別にシュトラウスがオリジンってわけじゃないんだよ。シュトラウスはあくまで賢人政治が行われている徳のある社会の創造だったわけで、そのためには手段は選ばないってことだったわけよ。それがさ、俗人である政治家どもの思い込みや私腹を肥やすためだけの政治ツールとして使われただけなんだよね。あんなアメリカの俗っぽい右派みたいなのがギリシャ社会みたいなのを建設できると思う?


ソビエト崩壊によって政治理念を失ったネオコンは・・・」ってナレーションがあるけど、これはいかにネオコンの思想自体がシュトラウスのものとは根底的に違うというのをよく表しているよね。だってシュトラウスの政治的理念は「ヴァーチューのある賢人政治家主導の善い社会の創造」だよ?間違っても俗人どもの権力の維持なんかじゃないんだよ。戦争をすることや嘘をついて民衆を惑わすのが目的じゃないんだよ。シュトラウスが言っていたのは善い社会の創造のための嘘や神話だったわけでさ、まぁあとはここは俺はシュトラウスには同意できないけど、まぁ戦争も辞さないみたいな考えはあるみたいだけどね。でも極端な話、戦争をして世界が本当に良くなるんであればその戦争は必要悪だよね。でも頭の悪いやつらがここを勘違いしちゃうと、やつらの利権やら個人的実存だけで判断して戦争を始めちゃうんだよね。「我々こそが創造者なのだ」と俗人が勘違いしちゃう。だからシュトラウスのような思想は危険なのかもしれないね。


本当の賢人にしか理解できないし実行できないような崇高なものなんだけど、形だけだとマキャベリズム満載の冷酷な政治理論みたいになっちゃうからね。これがまさしく理念の無い形骸化されたイデオロギーとしてのシュトラウスなんだよ。つまりはまぁネオコン思想ってことね。ここはマルクス主義も同じ。マルクスが言ってたのとマルクス思想を元に建国や政治をしたと言われている共産国の大間抜け政治家どもや独裁者どもの思想ってのは全然違うんだよ。マルクス主義全体主義的で抑圧的なところだけをピックアップして政治手法として利用されたんだよね。マルクスは気違い共産国の台頭で悪魔にされちゃったけど、今度は右派のほうでシュトラウスの思想がマルクスのように悪魔化されて勘違いされているよね。これは由々しき自体だよ。マルクス自体にもシュトラウス自体にも学ぶ事は多いのに「悪魔の思想」というレッテルが貼られることで、そこに誰も向かわなくなるんだよね。もしくはダメな思想なのだという思い込みみたいなのが先行しちゃって伝わりづらくなったり歪曲されて解釈されちゃったりする。


シュトラウスは哲学というのは奥義として一部の人にだけ伝わるものだということを言っていたけど、馬鹿なネオコン連中には伝わらないのは当然だよね。彼らはそんな一部じゃないわけでさ。マルクス然り。思想がイデオロギーとして乱用される背景には、俺が今回書いたようなマルクスシュトラウスのような読み間違えや部分的抽出というご都合主義みたいなものがあるわけだね。でさ、あれなんだよね、ようは大国の力を利用するというのは、善い世界を作るためのただのツールでしかないんだよね。ここにシュトラウスの思想の真髄があるんだよ。もちろんその「善い」がアメリカの一方的な押しつけだろうというのは言えているんだけど、ちょっと考えてもみてほしいのは、シュトラウスの思惑とは時代も関係無しにアメリカ流の「善い」社会がインポーズによって出来上がったってのがどこなのか?って話だよね。そうだよね。日本だよね(パッション風に)


今はアメリカもダメになって日本もダメになってるので神話が崩壊したわけだけど、日本を支えてきた神話って何か?っていうとアメリカ流のドクトリンだよね。アメリカ流の見せかけだけの民主主義や夢や自己実現だよね。それを集産的な社会で行って成功したというモデルが日本というわけだ。もちろんそのおかげで日本国民にはほぼ漏れなく虚偽主義が蔓延することになったわけだけど、少なくとも日本社会が崩壊する前は割とハッピーだったわけだよね?ここに奇しくも攻殻機動隊の合田のイデオロギーとの一致があるよね。ようは80年代の虚偽的なポストモダン社会が大衆にとっては桃源郷だったというわけだ。80年代の虚偽的なポストモダン社会のような世界観で時事関わらず今でもそれを保ち続けているのがオタク達だよね。「萌え」だの「2次元」だのというありもしない世界に思いを馳せて、それらを消費したり萌えたりすることに人生の意味を見いだしてるわけでしょ?で、それが経済効果まで生んでいて一つのカルチャーとなっている。これこそがまさしく大衆のあるべき姿なんだよ。幻想なんだけどそこに居続けられば幸せな世界観というのを与えられて、んでそれに向かって突き進めるような人生が送れれば人々は幸せなんだよ。別にみんながみんな真理や真実を知る必要はないわけでさ。


オタク的な桃源郷の中でその萌えや二次元の世界にどっぷりハマれるだけの職とかさ、社会環境とかがそろってたら完璧じゃない?搾取されているのは分かるんだけど、そこそこ稼げるし身軽ってことでフリーターを続けるやつらがさ、まぁオタクの全員がフリーターだなんていうつもりは全然無いんだけど、ようはこういうやつらがひたすら何かを消費して経済効果を生むわけよね。そういった労働力はまさしく資本家が求めるような安い使い捨ての労働力だよね。でもそこでね、働いている側も好きでやっているという合意があれば最高なんだよ。そこそこ楽で稼げていつでもやめれるみたいな志の低いやつも消費に向かって突き進める社会ね。で、路頭に迷わず衣食住が得られて社会保障もあるというような社会ね。もちろんそこで自分はすげーやつになるんだっつって会社を立ち上げるのもいいし、政治にコミットしたりするのもいいし、何やってもいいわけ。人々が人々の能力とニーズに応じた仕事や生き方ができる社会ね。


そういうのを賢人達が設計しなきゃいけないわけだ。そのための高貴な嘘や神話作りは許されるって話なんだよ。「萌えいいですね」って嘘をつくのがありなの。政治家もそれで統治ができて、統治される側も本人幸せっていう最高の図式だよ。80年代の日本みたいな社会ってさ、そこにアメリカの支配ってのがあるにせよ、今よりかは人々は幸せだったわけだよね?物語もあったし経済も良かったし仕事もあった。もうこれでオッケーなんだよ。「いや、我々はアメリカに騙されてるんだ!」なんてあえて真実を言う必要はないわけ。騙されてるもなにも騙されていることで幸せになっていて社会も回っているならそれでいいんだよ。そういった設計者の立場というのがシュトラウスの真のイデオロギーなんだよ。あ、ゴメン。言い直すわ。・・・・というのが俺のシュトラウスの解釈なんだよ。


ってことでね、シュトラウスが生きてたらアメリカの馬鹿な右派共に絶対「ノー!」って言ってたと思うよ。もちろんそれはアラーも同じね。イスラムの教えなんてのは、あんな歪曲した過激主義じゃないんだよ。あの歪曲した過激主義というのが出てきた背景にはイスラム思想を抱えた思想家の歪んだ実存があるよね。そこに拷問があったり人間不信になるようなネガティブのパワーというのが作用して、ああいった過激主義思想が生まれてきたというのがこのドキュメンタリーではよく分かる。こないだのザ・シークレットの話で言えば、まさしく「アンチ」みたいなネガティブな何かを潰そうという力が作用しているからまたその思想が別の戦争や悲劇を生むということだよね。イスラム系の過激派なんてのはその典型だろう。実際、こっちで何人ものイスラム教徒に会ったけど、彼らは口々に過激派に対して言っていたね。「あんなのイスラム主義でもなんでもないし、教義に反している」ってね。ああいうののおかげでイスラム教が悪魔教のような扱いを受けてしまっていて本当に迷惑してるんだそうだ。そうだろうな。そりゃキリスト教も同じだからね。そこに恐らくこのドキュメンタリーにあるような奇妙なイスラム過激派とキリスト原理主義との一致があるんだろうね。両者とも大きい宗教という物語に支えられたイデオロギーがあり、そこにエリート思想が介在して、それがねじ曲がった形で様々な人間のネガティブなオーラを持った実存によって伝えられて、本来のものとは似て非なるようなフランケンシュタインみたいな形骸化したつぎはぎの思想が生まれちゃうわけ。


ベルリンの壁崩壊からソ連の崩壊まで、個々の国の人々がそれを自分たちの都合の良いように解釈して、んで勝手な神話を作り上げて、んでそこに壮大なる勘違いが生まれるわけだよね。その壮大なる勘違いが政治的な不和を生み、で、戦争を生んじゃうわけ。そこにあるのは結局、シュトラウスが危惧していたような個人の利害だけで動く愚かな人々なんだよね。だからシュトラウスの政治哲学というのはメタレベルなんだよ。こういうやつらも含めた馬鹿をどうするか?という話なわけだから。で、実際、シュトラウスの弟子達であったはずのネオコンの中核(?)の人達も、ひたすら世界革命へに向けての容赦ない恐怖のポリティクスにどっぷりで、結果的にただのコンフリクトや政治的係争を生んでるってだけになっちゃってる感じがあるね。彼らは目的のためなら手段も選ばないってことで、容赦なく嘘をついたり裏工作をしていたりするんだろうけど、これもシュトラウス思想の形骸化で、その先にある理念というよりかはもう目先の覇権掌握ばかりが彼らのアクションのメインになっちゃってるんだよね。


もちろん覇権を掌握しない限りは彼らの世界革命は実践できないからまぁ当然といえば当然のことなんだろうけど、ここにリアルポリティクスの限界を見た気がするね。彼らの「善い社会設計」に向けての政治的行動というのは分かるんだけど、実際やってるのは詐欺行為ばっかだもんね。で、そういった現実がシュトラウスのダーティーな部分ばかりに目を向けることになっちゃって、んであたかもシュトラウスの思想が悪の思想みたいになっちゃってるんだけど、いや、実際にはその先に崇高な理念に立脚した社会設計があるんだよっつっても理解されないし、俺としても現在のネオコンなんて信用できないよね。あんなやつらが善い社会を設計できるとは到底思えない。あと「ネオコン」という言葉も一人歩きし過ぎている感じがあるけど、実際は少数なんだよね。


組織の中核に居座って、んでネオコン思想を元に政治をやっているってことなんだけど、そんなに大きな敵じゃないんだよね。まぁ権力を握っていて世界に恐怖をばらまいているという意味だと大きな敵ではあるんだけど、問題はイスラム過激派の思想が伝達する危険性と一緒で、これまたシュトラウスの思想がねじ曲がった形で実行されたり解釈されたりするというほうがよっぽどヤバいんだよね。ネオコンの問題は高貴な嘘や神話ねつ造や大衆洗脳といった詐欺行為ばかりが現実にあって、目標が達成されてないんでただの詐欺師集団ってことになっちゃってるんだよね。もちろんそれはダーティーな手法ありきの目標へ向けての政治だから詐欺的行為が目立つのはしょうがない。でもどうしても俺が疑問なのは「彼らって賢人なの?」ってところなんだよね。恐らくね、話はかなりシンプルでまずシュトラウスの思想を完全に推敲するためには完全にシュトラウス的な政治モデルでやらないといけないわけ。だからまずね、ほぼ不可能と思われるようなね、ヴァーチューがあって自分の利害で動かない理想の社会へ向けての政治的行動をやっていける賢人達を集めて、んでその賢人達で政治をはじめないといけないんだよね。で、それから作戦遂行なわけよ。


今は中途半端な俗人も含めたっつーか大半が俗人の政治家どもが共和党にいるわけでさ、そんな中でシュトラウスの思想を実行しようっつったって物理的に無理だよね。条件が整ってないんだもん。だから思うのはさ、すんげー単純な話なんだけど、宗教とかで人々を洗脳するとかさ、敵を作るとかさ、シュトラウスが言ってたようなことをわざわざ実行しなくても、善い社会は作っていけるんじゃないの?って思うんだよね。ネオコンに抜けているのはその政治的理念の部分だと思うんだよね。「善い社会」っつって実際彼らはどういう善い社会を想定しているのかが全然見えてこないよね。だからひたすらなんつーか印象的にもネオコン的手法でのヘゲモニー掌握みたいなダーティーなイメージしか無くなっちゃう。


あとやっぱプラクティカルなレベルだと俺も認めざるを得なかったのが「エリート達が」っつってんじゃあそのエリート達はどうすればいいの?って言う疑問ね。俺もこれには答えられない。ただ抽象的に「エリート政治」と言っているだけなんでプラクティカルなレベルでの具体的な話はできないんだよね。いや、レーガン政権の中核にいたネオコン子ブッシュ政権にいたネオコンっつーのがさ、仮にエリート達だったとして、で、彼らがシュトラウス流の方法で「善い社会」を目指してるってことになると結局手法がああなるんだよね。そうなると露骨に悪の政治になる。でも彼らの頭には「善なる社会」のビジョンがある。彼らはそれがあるんで汚いこともやる・・・ってことなんだけど、んー誰が彼らの頭の中を知る事ができるの?って感じだよね。やってることは悪にしか見えないんだけど、それは目標のための悪であるっつってそれは目的が達成されない限り理念は見えないんだっつーのがネオコンなんだとしたら、まぁ実質、その「善い社会のビジョン」って誰も分からないってことになるよね。ここはすげーパラドキシカルだな。アメリカのネオコンは反面教師っつーかさ、あれだけネオコン的手法を実行した結果、こうなんだっつーのを知っておく必要があるね。思うに高貴な嘘もバレちゃダメなんだよね。大量破壊兵器だのソ連が敵だのなんだのってさ、まぁ彼らは失敗ばかりしていたってことだね。


それにしても怖いのがマッチポンプだよね。ソ連との冷戦も敵/味方区別を実行するためのただのアメリカのでっち上げだと過程して、フセインアルカイダなんつーのも同じ類のものだとしたらさ、911が内部犯行だったっつーのも妙に信憑性を得てくるよね。いや、俺は内部犯行説は支持しないけど、でもありえなくもないっつーのが怖い。ネオコンならやりかねないっつーのがあるよねっつーのは、例えばシュトラウスイデオロギーには凄まじく冷徹な部分があるから「善い社会」を設計できるなら、自国のビル破壊も辞さないみたいなさ、その確率が無くも無いのが怖いなっていうね。前に俺がテロをこんな風に肯定したことがあったっけね。1000人殺す事で何万以上の人が救えるならそれはやるべきだみたいな。それが確実に分かっているのならやるべきだっつー議論はブッタだかのさ、あれだよね、色んな人間が乗っている船の中に人を殺しかねない野蛮な盗賊みたいなのがいたら、その船の人々を助けるためにはこの盗賊を海に沈めることは必要悪だみたいなね、これってネオコンやらイスラム過激派思想やらなんやらに通じるもんがあるよね。これがもっと極端に主観的になりすぎたのがイスラム過激派だったり、キリスト原理主義が行き過ぎておかしくなったネオコンだったりするのかもね。


まぁ両者に共通しているのはその辺の過激派では太刀打ちできないような過激さだよね。んーすんげージレンマだ。人を殺したくてやってるんじゃなくて人類を救うためにはしょうがないことなんだみたいなのってさ、彼らの頭に善い社会のビジョンがあればあるほどそれは彼らの頭の中で正当化されるんだもんね。見た目はただの虐殺だけど彼らにとっては必要悪っていうね、んームズイ。そこに善い社会に繋がるという保証がどこにもないし、ビジョンは一部のネオコンの頭だけにあるわけで、理解するのが難しいよね。本当に。彼らは反民主主義者だから、彼らのビジョンなんて絶対国民には言わないだろうし。あとリベラル派に対しての敵対心もリベラルっぽい考え方は堕落を生むというドグマが頭に存在していれば彼らの異常とも思えるリベラルへの攻撃ってのも理解できるよね。それは彼らが政権を握りたいからっていう短絡的な理由なんじゃなくて、あいつらは人々を堕落させるんだっていう強い信念があるからあそこまでダーティーな事ができるんだよね。リベラルな政策のどこが悪い?って俺はいつも思うんだけど、彼らにしてみたらそれは人々を堕落させる政策なわけでさ、その政策によって人々がハッピーになっても、そんなのは偽りで堕落だってネオコンは考えるわけだよね。


やはり人々の自由を認めないってところにネオコンの問題があるような気がするな。自由が堕落を生むというシュトラウス的ドグマが非常にネックだね。人々を啓蒙しようとするから自由が邪魔になる。でも人々はそれが堕落であれ自由を謳歌できるんだったら俺はそれでいいと思うんだよね。そこをネオコンは「ノー!」って言うからリベラルに反対するわけだね。そこにネオコンの傲慢さっつーかエリートの傲慢さがあるというのは昨日書いた通りね。パンピーは楽で楽しい生活を求めているんだから、むしろ設計者はそれを提供しなきゃいけないんだよ。どうもシュトラウスは人間の本質を見抜けていなかった気がするな。そう思うと。


で、あと最後に俺の考えを。俺はね、やっぱ結局まぁアナーキストだからさ、人々が国家にそこまで極端に依存しなくても生きていける社会ってのがベストだと思うわけ。それは人々の自立であり自律なんだよね。自律した人々が多元的なフリーアソシエーショニズムによって彼らの社会を育んでいくというのが彼らの社会にとってのベストなんだよね。だから設計者はそういった社会が可能になる基盤を提供しなきゃいけないわけ。それは自由放任主義に見えるかもしれないけど、少なくとも生活レベルではそれが一番なんだよね。で、そういった動きを俯瞰して「彼らはこれがベストだと信じているかもしれないけど、結果的にこれは大惨事を生むぞ」というようなことがあれば、市民セクターのシンクタンクや設計者達がそこに介入するっていうね。まぁ結局あれだ、矛盾したような言葉だけど、自由社会主義みたいな感じだね。最低限の生活の基盤は嫌でも提供させられるし、人権は嫌でも持たされる。そこで何をするのかは国民次第っていうね、まぁそういうことですよ。ゲームに乗るも良し乗らないも良し、それは人々次第っていうね。こういった自由が提供されている国だったら、例えばハイデガーの言う被投性みたいなのって社会によってだいぶ緩和されると思うんだよね。社会でやってくのがそこまで苦痛じゃないし、むしろ何かに向かっているほうが楽しいみたいなさ、人々がその動機とか能力に応じて彼らの善に向かい続けられるような社会ってのが俺は善い社会だと思うんだよね。


もちろんそこにはユニバーサルな合意なんてないよ。人々によって善の定義は違うんで、そこには常に消えないコンフリクトがある。そこを多元的なレベルで保ちながら社会のレベルや国民のレベルを上げていくっつーのがさ、恐らく闘技的社会なんだと思うよね。別にそれは闘技的「民主主義」である必要はないわけ。で、そこは前に書いたね、政治の自由と生活の自由という2つ違う次元での自由というレベルがあるっていう前提でね、生活の自由が保証されていれば、政治の自由なんてなくたっていいんだよ。そこで生活の自由を常に保証できるようなエリート達が政治を担えばいいわけ。で、「なんかおかしいぞ?」とかって思ったら異議を申し立てたり、武装蜂起して革命でも起こせばいいわけ。革命権というのが常に人権の中にある限り、そこには究極的に言えば人がいくらでも政治を変えられる余地というのは存在しているわけ。ただ生活の自由が保障されているような善い社会で革命を起こす必要なんてないし、無駄に政治にコミットする必要はないわけ。まぁやりたい人はいくらでもやればいいし、政治の世界ってのが国民にも常に開かれた状態であればいくらでも志のある頭の良いやつが政治にコミットするようになるわけよ。だから別に政治というのを全ての国民に委ねる必要性なんて全くないわけ。それが俺の反民主主義理論ね。


言葉遊びをするとそれは汎民主主義理論かもしれないっつーのはさ、万物ってのが人間の意思の表れなのよ。全てにおいて人間に関する社会的な要素が備わっていて、そこで動く有機的ダイナミズムというのが社会という有機体なわけ。だから部分部分ってことはないのね。全ては全体に帰するわけ。全体主義という意味ではなく、万物は繋がっているという意味でね。好きなように生きるという自由意志の存在する社会というのはそれだけでも民主的なんだよ。その自由で民主的な生き方というのが全体の社会性を規定するみたいなね、善い自由というポジティブなパワーが社会の原動力になると言うわけね。一部のエリートや金持ちだけではなく、全ての人にそういう生き方が提供されていたら、社会や国家のパラダイムってそれだけで変わると思うんだよね。別に政治権を持つということが必ずしも自由を意味するわけじゃないわけでさ、それの良い例がアメリカとか日本でしょ?政治権っつーか主権は国民にあるんだけど、なーんも変わらないし人生は全然面白く無いっつーさ、それは社会というのを個別に考え過ぎだからなんだよね。一人一人の変化が大きな変化を生むというのは幻想だよ。そうではなくて民主的な生活ができるような生活圏というのが保証されて始めて社会という有機体は上手く動くようになるんだよ。そこにはアーキテクチャの設計が必要なのは言うまでもない。だから政治はエリートが担わないとダメなんだよ。


なんかまとまってないけど今日はこの辺で。


また繋がらないんでオススメは無しで。