温上げ闘争、その3。

mimisemi2009-02-27

木曜はクラスが6時半からなんで、学校にイク前に時間があるのでちょっと気が楽になるな。ってことでえーっと温上げ闘争その1からの続きです。


話がだいぶ逸れたな。あ、人間関係の辛さか。まぁそういう意味でね、すんげー色んな事に敏感なやつが世の中にはマイノリティかもしれないけどちょっといるってことだ。だからこういうやつらが孤立したり、あえて自分の世界に閉じこもるのも自明なことなんだよね。だって彼らにとっては人間関係なんて苦痛でしかないし、もしかしたら取るに足らない人間ばかりが世の中にいるので、人付き合いなんてする価値がないとかって思ってるかもしれないんだよね。だから結果的に自分と対話していたり思考しているほうが楽だし心地いいってことになって、そういうのが引きこもり体質というか孤立を生むんだと思うんだけど、でもそれは彼らの気質なんだからしょうがないんだよね。直す必要はない。あとこれは持論だけど知能指数と天才的精神構造はあんまり関係が無いものだと思ってるっつーのはね、浅田彰とか宮台真司みたいなのってさ、秀才タイプなんだよね。


日本ではこういうのを天才と呼ぶことが多いような気がするけど、彼らは秀才なんだよね。並外れた知能指数を持っているということで。だから彼らぐらいの知識を得ようと思ったら、そこは血の滲むような努力で達成することも可能なわけ。でも天才的精神構造を持った人達の領域に達する事は無理なわけっつーのはそれは神経構造というか先天的な脳の構造なんで勉強とか訓練で身に付くものじゃないんだよね。だから浅田彰とか宮台真司みたいなのは稀にみる超秀才なんであって天才じゃないわけね。他にも天才と言われている人の中に苫米地という脳科学者がいるけど、彼も浅田とか宮台と同じタイプの超秀才ね。天才ではない。天才というのはジミー大西とか松本人志みたいな人間のことを言うわけね。対比が極端だけど、あえて言わせてもらうとここに挙げた天才達って別に並外れた知能指数があるわけじゃないよね?でも美術学校とか芸能スクールとかで何百年と学んでも達成できないような独自の境地っつーか領域が彼らにはあるわけじゃない?それはもう先天的なものであって人が真似したり得たりできるものじゃないんだよね。分かったでしょ?天才と秀才の差。まぁ俺は天才のほうに魅力を感じるけどね。


むしろ天才達のほうがダウンオンジアースなんだよ。パンピー寄り。より日本的な天才のなんつーか雲の上みたいな世界にいるというイメージにピッタリなのがさっき挙げた超秀才の三者ね。いや、実際そうだろう。彼らの知能指数なんて雲の上だよ。競おうったってナンセンスなぐらい無理な話だよ。彼らみたいな能力はまさしく研究者とか学者に向いているんだよね。天才が向いているのは哲学とか芸術とかっていう感性的なもの全般だよね。だからいきなり下町から天才とかが出てくるわけ。でも秀才の場合、さっき書いた第三者のように遺伝的にすんげー良いものを受け継いでいるんだよね。どいつもこいつも血筋が良過ぎる。だから雲の上なんだよ。一気に世界が変わるけどフランシス・フクヤマなんかもそうね。遺伝子が良過ぎるタイプの秀才。まぁある意味で彼らも天才なんだけどね。あと遺伝子で言えば坂本龍一ね。坂本龍一の音楽を聴けばよく分かるけど、彼は秀才なんであって天才じゃないわけ。彼のパーソナリティーとか音楽に天才へのあこがれみたいなのが凄くあるよね。でも実際はただの秀才なんだよね。浅田彰とかと気が合うのも納得がいくね。同じタイプの秀才だから。ちなみに日本の知識人と呼ばれる人達の大半は秀才タイプね。だから俺に言わせると全然面白いと思わないわけ。


まぁ別に知識人ってのは面白さじゃないんだけど、もっと天才タイプのぶっ飛んだ学者とか知識人がいてもいいのになって思うんだけど、恐らくそういう人間はアカデミアに入れなかったり、排除を受けたりして表に出て来れないんだろうって思うわけね。ただ俺に言わせればそういうやつらこそ俺の言う社会の設計者になるような素質を備えている可能性があるわけね。そういうやつらこそ賢人政治ができるものだと俺は思っているわけ。もちろんチェックアンドバランスのチェックの部分は秀才達が徹底的にやらなきゃいけないんだけどね。ただ並外れたヴァーチューってのは秀才とかには身に付いてなくて、むしろ葛藤が多い中で内面的に成長した天才タイプに身に付くものだと俺は思うのね。だからエリートっつってもあれなのよ、秀才ばっかじゃダメなの。むしろ中核は並外れたヴァーチューを持ったような天才達が担わないとダメなのね。


話は戻ると、ホントさ、天才の精神構造ってさ、真似したってトレーニングしたって彼らみたいな知能指数に達することはできないんだから、それはさ、セルロンでどれだけ頑張っても基本的にペンティアムには敵わないんだよって話ね。ただ秀才が得ているようなものというのは普通の人にもアクセス可能なものなので、努力によっては彼ら並の知識は得られるんだよね。でも天才というのはもうCPUの構造が違うから、セルロンとかペンティアムを改造したところで、それにはならないんだよね。全く異質のCPUだから。


そんなCPUを俺は持っているんだって自負することが俺への最大の救済だし慰みなわけね。そうなるとさ、例えば学校の成績が極端だとかさ、天才だったらとっくにハーバードとか行ってろよ!みたいな矛盾も解消されるんだよね。だって知能指数で言えばそこまで極端に高いわけじゃないんだから。まぁそれをエクスキューズにして怠けていてもダメなんだけどね。でもまぁ天才という言葉は使わないとして、特殊な精神構造を持つということは大変な事が多いわけよ。日々躁鬱に悩まされることになるわけだし、今回の大家みたいなこともあるわけだしさ、人から見たら「馬鹿じゃねぇの?」ってことになるんだけど、馬鹿じゃねぇーんだよ。彼らは彼らの心で色んな事を捉えているから、だから彼らの内面では常に葛藤が起こっているわけね。これはすんげー辛い事なんだよね。ただ彼らは普通の人になったことがないから、普通の心の平穏さとかつまんなさってのが理解できないわけね。体験できないというか。


だから彼らは同じ人間のように見えて全く違う世界観に生きているある意味で超人のポテンシャルを持った人達なわけ・・・っつーのはまぁここ半年ぐらい脳の本とか天才に関する本とか色々読んでまぁ行き着いた結論なんだけどね。もし俺がそうだったら天晴じゃないか。そうカルヴィニズム的に信じることでしか俺は自分を肯定できないんだよね。まぁ欠如だらけって意味でも俺は天才との共通点があると思う。あー天才って言葉使いたくないんだけどなー。凄い人みたいな言い方になるからね。いや、そうじゃないんだよね。ただの精神構造の話だから。何らかのサンクションがなければただの変人ってことで、まぁだから今の俺は変人なわけだね。で、誰かが「あいつ凄いぞ!」とかって言いだしたらそれが天才という共同主観的認識における概念が発生して、社会的ラベリングが変人から天才に変わるわけね。だから今の俺は全然凄くないわけ。そういう精神構造を持っているというだけで、何の業績もないんだからただの変人なんだよ。で、もっと突っ込んだ話をすると、こういった精神構造を持っている中にもまた色々種類があるんだよね。


社会的なサンクションが得られそうなポテンシャルを持っている天才と、そのまま精神崩壊して病院行きになりそうな天才ね。両方とも似たような性質の精神構造を持っているんだけど、それが時代のニーズとか環境とか社会との関わりによって「天才と呼ばれる人」になるのか「ただの変人」になるのかが決まるわけね。元々危なくても社会のニーズとか運とか巡り合わせによって天才と呼ばれる人もいれば、時代が変われば埋もれていたって天才もいくらでもいるっつーか天才ってそういうもんだよね。恐らく。これはThe creative brainという本に書いてあったことだけどもね。


で、話を大きく戻したいんだが、環境管理型権力だけどもね、例えばニューヨークがさ、例えば夜10時から朝の6時までは華氏55度を維持することが大家の義務であるみたいなことが条例にあったとしたら、これってある意味でさ、ニューヨークにアパートの温度を管理するようなマシーンがあって、それがニューヨーク全土に行き渡っているようなもんだよね。もちろん個々の家で微調整は可能なんだが、基本的に55度と決められているってことは、ある意味で今の俺の家みたいな55度に保っているのであればスチームは必要ないと言えなくもないんだよね。だから今の大家みたいな、ギリギリで55度を保って金をセーブするような方法が可能になるわけ。前のアストリアのアパートではスチームのサービスは良くて、自分の部屋で調節しないと部屋が猛暑になるぐらいのスチームが来ていたけど、これは大家の操作だよね。で、今の俺の家では55度以下に下がらなければオッケーなんだろうってことで、環境管理型権力が55度という俺の部屋の室温を規定する要素になっているわけ。ここで俺が「いや、でもこれは寒いです」って言って大家にもの申すというのは、俺が権力側にもの申すということなんだよね。つまりは賃上げ闘争と凄く似ているということね。法律で最低賃金が守られていなければそこには法が介入して企業は罰せられるわけだけど、最低賃金だったらオッケーなんだよね。でも労働者達が「生活が苦しい!」って言えばさ、例えばそこで暴動を起こされたりボイコットを起こされたら嫌だから経営者はその防止のために賃上げをするよね。


アストリアのアパートではスチームのサービスが良いと書いたけど、これはスチームという名のペイが良いのではなく、何十人と色んな人が住んでいるアパートで文句を言われたら大変なことになるので、暴動予防のためにもスチームはどんな体感温度でも心地よいぐらいに感じるように設定されているわけだよね。それに比べて今の俺の家は向かいの部屋の人と俺だけの小さいコントラクチュアルな関係なので、大家が「電気ヒーターで我慢してくれ」というような「一ヶ月分の米で我慢してくれ」みたいな独自の交渉が可能になっているわけだよね。向かいの人の部屋は狭いから俺ほどの寒さは感じてないっつーのは例えば向かいの人は安アパートに住んでいるんでこの程度の賃金(温度)でもやっていけるってことなんだけど、彼よりかは広い部屋に住んでいる俺としては体感温度は寒く感じるっつーか実質室温は低いわけで、俺だけが大家に向かって温度上げ闘争を展開することになるわけだよね。


ここで向かいの人との温度共闘があれば威力は協力になるかもしれないけど、大家としては今までそんな文句があったこともないし、向かいの人も文句を言ってないし、寒いなんて言われたのは初めてだなんて経験的に言うわけだし、それが賃上げに対しての抑制という意味でのパフォーマティブな振る舞いとして成立する要素になっているわけだよね。「前は米一ヶ月分だったけど、んじゃあ今度は二ヶ月分でどうだ?」って言われているのが今の俺だよね。全体的な労働者の賃上げはないんだけど、俺は独自の俺の部屋の性質から言って適切な温度が必要なので、もう一つヒーターを増やせば大丈夫だろうって話になるわけ。そこで大家の負担はそのもう一つのヒーターによる電気代だけで済むわけで、スチームを使う事で発生する全体へのガス代っつーかスチーム代は払わなくて済むわけだよね。


凄まじく政治的だと思わない?感心しちゃったよ。これ。俺の微妙な部屋の温度がニューヨークの法によって規定されていて、んでなおかつ大家の実存レベルでの必要性によって、俺の部屋の室温まで規定されているわけよ?ようは大家が家にいないって時もさ、大家は「私がいないときってのはあなたも学校に言っているわけで家には誰もいないからスチームの必要はないわよね」って言うんだけど、そんなのは分からないじゃん?学校の都合で休校になることだってあるし、システム的なことで学校独自の休みというのが生まれるわけで、俺の休みというのは必ずしもアメリカ社会での休みと一致するわけではないんだよね。なのにも関わらず大家はあくまで自分の都合で部屋の温度を決めようとするわけだよね。まぁ実際、日中ぐらいだったら電気ラジエーターで十分なことが多いし、最低賃金ならぬ最低気温なんて気にしなかったわけだけど、さすがに深夜の寒さに耐えかねて賃上げを要求したわけだけど、一応最低賃金は守ってるってことになるみたいだね。この家の室温計測器によれば。


そうなるとさ、俺の賃上げってのはもう俺と大家との個人的な闘争になるんだよね。ここで俺がそこまで頑張りたく無いって思うのは、自分が寒さに耐えれば季節的に暖かくなって問題もなくなるだろうみたいな、日本的な長いものに巻かれろっつーか事なかれ主義みたいなのがあるよね。大家と俺との関係性を考えれば俺が寒さに耐えたほうが良いみたいな計算が働く。でもここで和を強調することってつまりは服従するってことだよね。自分が堪えれば問題は無くなるんだっつー自己犠牲があるよね。んじゃあ俺の体や生活はどうなるの?っていう。ここで俺が文句を言えばKYだとか言われて大げさに騒ぐなとかさ、もめ事を起こすなってことになりそうだけど、でも自分が体感しながら思った事を相手に主張することって割と人権的に基本的なことだよね。仮に55度と決められていても、「これじゃああんまりだ!」と感じているなら何かを言わなきゃダメだよね。ここで55度で我慢することってのがようは経営者っつーか権力者に従うことで荒波を立てずに済ませるっていうような、自己犠牲を元にした事なかれ主義なんだよね。これが慢性的な服従的体質を生むのは言うまでもない。


だから日本人は従順で飼いならしやすいと言われるわけだ。個人主義が当たり前のアメリカならアメリカ人は「寒い!温度を上げろ!」って言うわけだよね。それが社会を変えてきたし彼らの生活を育んできたわけだよね。個人主義も行き過ぎは良く無いけど、無さ過ぎはただの従属を生むんだよね。だからやっぱり日本人には足りない自己主張をするということはね、もっと重要視されていいと思うね。ちなみに俺は温度闘争の真っ最中で、まだまだ妥協する気はないけどね、でも一瞬「もう二月も末だし・・・」みたいな考え方がよぎるんだよね。これがやっぱり自分の日本人性なんだろう。あえてここは「ここはアメリカだ!イカンイカン!」と思って常識の範囲で交渉をしようと思うんだけど、こういうのができないとアメリカでやってけないんだよね。アメリカって今の大家みたいな基本的に自己利益再優先みたいな考えの元で他人を平気で理想したりする残酷なところがあるからね。まぁ逆に日本ではそういったアメリカ的な図々しさを持った人達が社会の上層部にいるんだろうね。さらにその上層部の上にはアメリカがいるって皮肉だよね?すんげーピラミッド型だと思わない?


で、ちょっと大家の話に戻ろうか。俺はまぁ主観的体験をさらに主観化しすぎているというのはあるよ。大家はもしかしたらマジで電気ラジエーターで十分部屋が暖かくなるとかって勘違いしているのかもしれないわけでさ、そうだとしたら俺の主張は「?」になるよね。今でも十分暖かいだろうって言いたくなるっつーか。恐らくこういう主観レベルでの本人達の思い込みによってもたらされる不和というのが衝突を生むんだろうね。両方の利害関係も違うし、何より違う基準で話し合っているから話が全然噛み合ない。だからそこで恐らく話をかみ合うように俺が説明しなきゃいけないんだよね。あなたはこういう風に思っているかもしれませんが・・・って。まぁ俺はそれを言ったんだけど、何しろ英語が完璧じゃないからちゃんと伝えられないんだよね。で、あといざ人を前にすると事なかれ主義というイデオロギーが全面に出てきて争いっぽくなったらとっとと俺が妥協して話を終わらせようみたいに思っちゃってる。これがイカンのよね。本質的には両者の利害関係に基づく合意があって問題が解決すればコントラクトに影響を及ぼさないわけでさ、ここをなーなーに適当にやってると大家との合意によってなされているコントラクト自体がおかしくなってきちゃったりするんだろうね。誤解がさらに誤解を呼ぶっつーのはよくあることでしょ?


今日はこの辺で区切るね。あと二回分ぐらいあると思う。これを一回で書いたなんて今でも信じられぬ。

Booty House Anthems

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