ネオコンとかについての覚え書きとか妄想とか恋愛とか洗脳とか。

mimisemi2009-03-06

あんま書く事が無いんで放置プレイになってたウォール伝だけど、実際、あんま書く事が無いんだよね。やらなきゃいけないことが多過ぎて、そこまでプライオリティの高く無いウォール伝はどうしても後回しになっちゃうんだよね。プライオリティと言えば読書だけど、あれだよ、最近はネオコン関係の本を読んでるんだよね。もちろんシュトラウスの原著とかシュトラウス関係のものとかもあるんだけど、他にネオコンの歴史とかネオコン系のエッセイを集めたようなやつを読んでるんだけど、まぁこれについてはもうちょっとまとめて書きたいところだけど、今のところまぁーなんつーかなるほどなぁーと思ったのは、例えばネオコンが何らかの巨大なユダヤ系の悪の結社みたいなイメージとかね、元トロツキストがまだ世界革命を企てようとしているとかね、こういうのがようは陰謀論レベルの話なんだなってことね。


大半はイギリスとかアメリカの左翼系の記者がネオコン系を攻撃するためにでっち上げたっつーかまぁ大げさに色々なところを誇張して書いたデタラメらしい。ネオコンの実体は実際は実体なんか無くて、例えばシュトラウス派とかにしても全然意見が違う物同士がいたり、あとウォルフォウィッツみたいなのも実際はシュトラウスのクラスを2つぐらい受けていただけで、熱心なシュトラウス派かどうかなんて全然分からなかったり、大量破壊兵器があるっていうことのブラフの流布だとかイラク空爆だとかもシュトラウスの言っていたプラトン式の「高貴な嘘」の実践だったり、「最悪なことが起こる前にそれを阻止するべく先制攻撃をする」みたいなアイデアシュトラウスが言及していたとかで、そのタカ派的な外交姿勢だとかやり方とかに関してのものとのコネクションが取りだたされていたんだけど、実際は外交やら様々な政治的プロセスにシュトラウス派が大きく関わっていたなんて事実があるわけではないし、コネクションがあったとしても偶然だったみたいなのがネオコン側の反論の中にはあるみたいね。で、先制攻撃に関してはロックなんかが言及してたみたいで、別にシュトラウスの特権ってわけじゃないみたい。まぁそうだよね。「最悪な事がある前にそれを食い止める」なんて特定のイデオロギー足り得ないジェネラルな考えだよね。で、ロックの先制攻撃に関しての言及はSecond Treatise on Governmentにあるみたい。


いや、実際、ネオコンって相当少数なんだって。「エリートになるよりもシュトラウス派になるほうが難しい」って言われるぐらいシュトラウスの政治哲学ってのは難しいっつーか理論として簡単に理解できるものではないんで、例えばマルクスで言えば、実際のアルチュセールみたいに死ぬほどマルクスを精読していた学者とかが実際は少ないようにね、シュトラウスの政治哲学なんかも一部の人に伝達されているだけで、一般的には全然認知されていないし、政治的威力があるわけでもないらしいんだよね。あくまで一つの派閥なんであって、陰謀論的な、ユダヤの巨大な権力が関わっているみたいなのは左翼のでっち上げらしいよ。アカデミックなレベルでもネオコン関係に対する出資は左翼系のそれと比べれば少ないらしい。


でも世界的に凄いと思うんだよね。俺もそうだったけど、ネオコンっつーと特に左翼みたいなやつらにとっては悪の枢軸みたいなもんじゃない?なんかもう悪の本拠地みたいなさ、ドラクエで言うと魔王がいる城がネオコンみたいな勢いだよね。でも実際はただの学派なんだよね。で、俺の勝手な印象だとシュトラウス派ってのはプラトンアリストテレスなんかの古代ギリシャの賢人政治をベースにしたマキャベリアン達って感じで、それこそ理想的な善い社会を建設するためには手段を選ばないという学派なんだよね。いや、これは俺の勝手な定義だから鵜呑みにしないでね。まぁウォール伝を情報ソースとして使う人なんていないだろうからまぁ関係ないって感じだけど、まぁそれはともかく、俺の勝手な解釈は永遠と続くけど、その善い社会を建設するためのヘゲモニーとしてのアメリカなんであって、ようは軍事にしろ国家にしろシュトラウス派からしたらただのツールなんだよね。宗教右派との関係もあるとの見解があるけど、これもようはまぁ馬鹿な右翼系を宗教で動員するためのツールとして福音派みたいなのを利用しただけであって、実際の宗教右派や右翼なんかとは全然イデオロギーレベルでの繋がりは無いらしいっつーか、アービング・クリストルというネオコンゴッドファーザーの一人に言わせれば、ネオコンってのは「現実に目覚めたリベラル」らしいんだよね。ようは理想主義的な左翼が現実主義的になったってことで、まぁだから今の俺みたいなのがネオコンの思想に反応するのも必然的なんだよね。


俺はまさしく絵に描いたように過去の左翼やトロツキストだった連中がネオコンにシフトしたような経験をしたわけだねってまぁこれは前に書いたことだけど。ただクリストルもネオコンの父の一人なんであって、そういった「現実に目覚めたリベラル」みたいな見解に疑問を示すネオコンもいるらしくて、まぁホントにだからあれだよね、学派の一部なんだよね。マルクス主義者・左翼・トロツキストアナーキストレーニン主義者・毛沢東主義者みたいなさ、政治的に左翼で括れるような中にでも全然違う党派っつーか学派みたいなのがあるわけじゃない?で、ネオコンっつーのはまぁ右派の一部なんだよね。で、その中にはシュトラウス派も含まれるってわけで、必ずしもネオコンシュトラウス派ってわけではないんだよね。それは左翼=マルクス主義者じゃないのと同じ。


で、ちなみに右翼でもバーキアンみたいな伝統主義者とか福音派みたいな宗教右翼とは全く繋がりが無いらしい。ネオコンは。まぁ基本的にネオコンは政策的にはリベラルで、それこそクリストルなんかは「保守福祉国家」なんて提案もしているぐらいで、まぁどちらかというとかなり左翼寄りなんだよね。まぁリベラル寄りっつーかなんつーか。でもまぁ無批判にみんなを平等にするってわけじゃなくて、そこにはやっぱり右的なまぁ国家が人々の自立を促すだとか、能力主義だとか、まぁ機会平等主義とかね、その辺はまぁ右寄りなんだよね。ただまぁなんつーかシュトラウスとの関係が揶揄されるような手段を選ばない非情なところがあるんで、その辺はまぁ徹底的にタカ派なんだよね。だから例えば無駄にことを荒立てない穏健派っつーと変だけど、仮に相手の政府が「悪」であっても上手くやっていこうとはネオコンはしないんだよね。悪は悪だから民主主義っつーかまぁ民主主義的社会のためにぶっ潰すっつーラディカルな姿勢なわけ。ちなみにネオコンが言う「民主主義」という言葉はリテラルな意味で取ってはダメで、実際の意味合いとしては「民主主義的国家」なんだよね。ようは人々が善い生活を送れるような民主的社会ってことで、それは必ずしも人々が政治のイニシアチブを握り続けている社会っていうわけではないんだよね。まぁこれは俺の勝手な解釈だけど、恐らくまぁネオコンは実際の政治的な反民主的態度ってのは当然ながら出さないんだよね。だってそんなこと言ったら反発を受けるじゃない?だからデモクラシーって言葉を使うんだけど、それは彼らの定義する善いデモクラティックなソサエティーってことなんであって、政治的な意味での民主制ってわけではないんだよね。あくまで政治的イニシアチブは我々賢人にありますよという態度なの。人々の政治的イニシアチブを一切信じていないというところにはまぁ現実主義的な面があるよね。俺にとってもこれは本当に同意できるところだよね。政治なんてアマチュアに務まらないっつーのはもう散々言い続けてきているよね。


で、実際、俺が本当に共感を覚えるようなシュトラウス派ってのは実際はネオコンの中でも少数派なんだよね。まぁこれは当たり前のことで俗人や俗人エリートはシュトラウス派にはなれないから、だからまぁ必然的に哲学者が世の中に多くないように、シュトラウス派ってのは多くないんだよ。それを完全に理解して実践できる人なんて相当少ないわけ。だからシュトラウスがね、死後30年経った後、墓からブッシュ政権に指令を出し続けているなんて言い方はもう本当に陰謀論レベルの話なんだよねっつーかまぁ最初にも書いたように元が左翼ライターの書いたことなんだけど、まぁ上手い事それがまぁ一般的に広まっちゃったってことだね。まぁ「自称シュトラウス派」の俺としてはそんなものは本当に馬鹿げていると思うんだけど。


もちろんシュトラウス派も含めてネオコンはまぁ権力とか特に金とか利権関係のきな臭いダークな話ってのは常にあるわけなんだけど、元のシュトラウスと言えば全く権力や実際の政治には興味が無い徹底的に人生を学問っつーか主に哲学に費やした哲人なのね。だからシュトラウスは生前は一切メディアとかに出ずに、一部のエリートっつーかまぁ自分の生徒達に秘伝の政治学を伝える事だけに集中していたわけ。だからこそ今こそマルクスを読み返すならぬシュトラウスイデオロギー抜きに純粋に読み直す必要があるわけね。っつーかまぁ俺はまぁ読み始めだけども。マルクスが実際はちゃんと理解されずに部分的に政治的な手法や思想なんかを乱用されたように、前にも書いたようにシュトラウスにも同じ事が起きているわけで、一部のシュトラウス派っつーかシュトラウスに共感する人達ってのはちゃんとした読み込みを行って理解をしていかないとダメだね。かつての右翼がマルクスを悪魔化したように、今っつーかまぁここ10年ぐらいは左翼がシュトラウスを悪魔化したわけで、シュトラウスへの誤解ってのは結構深刻なんだなってまぁ痛感したわけだね。シュトラウスもそうだけど、ネオコンに関しても色々な誤解があるね。陰謀論が膨らみすぎてなんつーかネオコンシオニストの集団だとかさ、世界中から支援がある秘密結社みたいなイメージがあるんだよね。これは本当にナンセンスだなって思ったね。本当に。


まぁ今日はそんな感じでいいか。ネオコンシュトラウスに関してはまぁ今後も学校の勉強をせずに色々と調べていくつもりなんで、まぁまた色々書きたい事があったらまた書くかもしんない。っつーかマジで学校の勉強どころじゃないんだよね。最近。ネオコンとかシュトラウス系の文献も含めてだけど、最近、学校のことでもまぁ読むのが多いし自主的にも色々読んでいるのもあってかまぁ昔に比べてこれまた英語で読むのが苦じゃ無くなってきているんだよね。かなりスラスラ読めるようになってきている。だから割と読破が大変だった英語の本も割と難なく読破できるようになってきていて、なんつーか洋書読みのハードルがかなり下がってきているんだよね。だからもう読むのが楽しくてしょうがなくてどんどんビブリオマニアみたいに本を買っちゃうのね。で、もう読みたいけど読んでないみたいなのがいっぱいになっちゃって、んで学校の勉強なんてどうでもよくなってきちゃうのっつーかまぁ学校でやることはまぁレベルが低いし興味があるのは少ないからね。ホント、だからさ、まぁ仕事のためっつーのはあるんだけど学校に行ってる意味が分からなくなるよね。結局自分で本を読んだり色々調べたりしているのが一番の勉強になっているわけでさ、それに比べて学校の勉強ってもう無駄だらけなんだよね。時間の無駄っつーか。


だからあんまテスト勉強とか宿題に時間かけたくないのね。読書の時間が減るからね。あと学校と言えば栗子とか天文学の割と可愛い女の子から妙なアプローチを感じるんだけど、これってさ、これまた色々ググるじゃない?そうすると男ってのはちょっと気になってる女の子に関してはちょっと目が合っただけで「気があるんでは?」とかって勘違いするらしいんだよね。ようは俺が興味ない子と目が合っても俺は「気があるんでは?」とは思わないし、仮に他に俺の気がある子がいたとしても、俺の眼中に無かったら俺は全然その気になるオーラを感じないわけだよね。つまりは全ては主観性の元で行われている壮大な勘違いってことだね。なんか人生そのものって気がするよね。その一方で女の子もちょっと男に「気にされている?」という意識があると、そいつに対して気になってオーラを出すらしい。ようは女ってのは愛されたい生き物で、チヤホヤされたいがためにちょっと自分のことを気にしているかもしれないと予想される男に対してちょっと色目を使ったり男が勘違いしてしまうような行動をあえてしたりするらしい。悪魔だね。これは。


まぁルイーダの地下室に引き蘢りっぱなしの恋愛経験値ゼロの俺としては全然分からないことだらけだけど、まぁとにかくどの道まぁ最優先事項は読書ってことでまぁ恋愛なんてしている暇は無いんだけどね。でもやっぱ外に出るとムラムラするよね。可愛い子が多過ぎて。むしろその事を考えないためにエクリチュールに逃げているのかも?とかって思う事もあるね。まぁ実際は単なる知識欲だけどね。それとまぁウェーバーが言ってたようなプロテスタンティズムの精神の読書バージョンって感じで、英文による読書に労力や時間を費やす事は無批判に良い事なのだという自分で自分を洗脳するための力学みたいなのが働いているのはまぁ前にも書いた通りだけどね。そういうのを作り出すことでただですら読書が好きな俺がもっと読書っつーか特に英文を読むということに生活の中心が行くようになるわけね。その洗脳によって俺にとっての最大の難関である英文での読み書きっつー障壁が無くなれば完璧なんだよ。それこそ神に救われる時ってのは障壁が無くなったときだね。ある意味での宗教的な洗脳ってのを自分に意図的にやるってのはまぁ自分でコントロールできてオブジェクトを遂行できるのであればかなり使えることだね。まぁオブセッションを意図的に生み出す装置としての自己洗脳っつーかなんつーか。


まぁいいや。ってことで今日はこの辺で。


PS


書き忘れ。アーヴィング・クリストルがただ一人のネオコントロツキストの繋がりを持つ人物なんであって、他のネオコン連中はトロツキズムとは全く関係が無いみたいです。まぁ類似はあったとしても直接的な繋がりは無いってことね。ようは仮にネオコンの誰かがトロツキストのように見えたとしても本人達は全く意識してないってことね。だからまぁこれも膨張しすぎた陰謀論の一種ってことだねっつーかちょっと行き過ぎた左翼系のライターによるネオコン論ってのは日本でも酷いみたいね。だからまぁこれだけ間違った情報が流布しちゃったんだろうな。


あとリンク先を見てたらウォール伝について書いてあるのがあったんで勝手に引用させてもらいます。まずは以下のURLに飛んで記事を読んでみてください。


http://d.hatena.ne.jp/blupy/20090306/p1

こういうのは「何について」バランスをとるのか、によっても変わってくると思う。授業についてだったら、自己主張してすっきりする、虚栄心をみたす(個人の)権利などいったいどれほど重要だというのだ。授業を円滑に進めるのを優先してもほとんどの人はしょうがないと思うだろう。一方で、命についてだったらどうだろう。たとえば、10人が乗った船が転覆したが、救命ボートに9名*1しか乗れないとしよう。「9名の生存のために1名が犠牲になるのはしょうがない」といえるだとうか。もちろん、いえるけど、それってそんなに自明なのかって話。少なくともボートに乗って助かった人で「あれはしょうがない」とさらりというもんなら、私は反感を覚えてしまうだろう。9人が助かることは正しいのだけど、正しい気がしない。福耳先生事件を思い出した。


で、勝手にblupyさんに私信をさせてもらうと「9名の生存のために1名が犠牲になるのはしょうがない」と決断するのが政治でありリアリズムであるわけです。こういった判断が自明でないと10名みんな溺れ死ぬことになってしまい、こういった決断の曖昧さこそが悲劇を生むわけです。その1名を殺めてでも9名を救うのが政治的「決断」であり、政治家に必要とされる「決断力」なわけです。補足をするとbluepyさんが「正しい気がしない」と感じるのは人として当然の感情なのであって、それは変な言い方になりますが正しい感情だと思います。ただ決断を下す側は手を汚してでもやらなければいけない仕事があるわけで、それが例えば政治だったりするわけです。


Chrominance Decoder

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April Marchヤバ過ぎ。これは麻薬だよ。マジで。