画期的な鬱病治療?

mimisemi2009-03-08

意識も結局はまぁ脳の動きじゃない?でもさ、なんかここまでやられるとちょっとなぁーっつーのがこれねっつーかまずは動画を見てほしいんだけど。




これってオウムのヘッドギアと基本的な差は無いよね。差といえば動画のやつはまぁちゃんとした医療目的ってことだけど、基本的にやってることは同じっつーか、アニマトリックスでさ、人間があのタコみたいなマシーンに捉えられて脳に電極を与えられて泣いたり笑ったりしてるやつがあるじゃない?まさしくあれなんだよね。もちろん効果があるならそれはそれでいいんだけど、なんつーか物凄い違和感を覚えるよね。結局、電極?みたいなね。いや、結局電極なんだけど、電極で諦めたく無いみたいなところがあるよね。でもあれなんだよなぁーあまりに難治性っつーか酷過ぎる鬱の場合さ、もうそれって脳障害みたいなもんだから、こういった治療法しかないんだよね。逆を言えばなんつーかまぁ仮に電極を通さなくても、脳がちゃんと働くような外科手術をするっていうようなことは基本的にはまぁ電脳のチップをいじって主体の気分を変えるみたいなことだよね。


これを見て凄く怖いなと思ったのがまぁ人間の本来的な感情からの乖離ね。まぁ非人道的な使われ方なんてしないだろうけど、仮にさ、凄まじい苦痛を伴う労働をしている間に脳に快楽を伴う電極みたいなのが流れるようなシステムを労働環境に装備させちゃってさ、んで労働者の脳にその電極っつーかシグナルみたいなのを受け取るなんかを埋め込んじゃえば、それって人間の本来的な苦痛を伴う環境によってもたらされる嫌な感じってのが無くなって常に快楽状態になるわけだよね?そしたら一日レジをやってても楽しくてしょうがないみたいなさ、そんなこともありえるわけだけど、でも抗鬱剤を飲むとかっていうのもまぁ似たような行為なんだよね。


普通に生きてたら鬱になるしかないんだけど、それじゃ生きてけないっつーんで無理矢理脳を刺激するなり薬で働かさせて、んで鬱から逃れるみたいなさ、それって社会でやってかなきゃいけないっつー大前提があることからのまぁ妥協だよね。それしかないみたいな。でもこれって怖いよね。ホント。「これが俺の仕事なんだ」って自己洗脳っつーかさ、自分で納得させていかないと精神的なバランスが保てないっつーんで、あえて虚偽意識を自分に植え付けて現状に満足するみたいなのって結局、電極との差ってあんま無いんだよね。


いや、もうこうなると分からんね。現状の社会との関わり合いも込めての人格なんだっていう風に人間を定義すると、社会に適応するっていう行動もまぁ人間性を規定する要素になるわけじゃない?そうなるとちょっと嫌な事でも我慢するっつーかあんま文句を言わないみたいなさ、ストレス耐性みたいなのを学ぶっつーのも含めてそれって総合的な人格っつーか人間性みたいなのに還元されるよね?そうなると現状との社会との付き合いも含めての人間ということになると、主体なんてどこにあるか分かったもんじゃないね。


俺もこのデボラさんだかとの同じ経験があるからよく分かるんだけどっつーか俺の場合電極じゃなくて抗鬱剤だったけど、中学ぐらいの時に初めて抗鬱剤を飲んだ時は凄かったね。それが特に突発的に効果があるやつだったからかもしれないんだけど、部屋の片付けとか掃除機をかけたりしてさ、親が驚いてたと同時に怖がってたよね。リタリンを飲んだ時の話は前にしたからいいか。まぁ結局意識ってさ、脳内物質だの電流だのの動きと、あとはまぁ主体のコントロール、ようは考え方とかなんだよね。でもその考え方すらも電極っつーか電流に支配されてると思うとさ、どうすりゃいいの?って話になるよね。だから結局まぁ昨今みたいな脳ブームがあるんだろうね。結局まぁ脳をいじるしかないみたいな。シャブと同じ効果が得られて副作用が無い電極とか開発されたらハイな人が世の中に溢れ回って、んで生産性とかすんげー上がるのかもしれないけど、それってなんかどうなの?って気がするよね。まぁ抗鬱剤とか睡眠薬っつーかまぁ抗不安剤とかを普段から飲みまくっている俺が言うのもなんなんだけどさ、主体って一体どこにあるんだろうね?寝不足だと気分が悪くて上手く喋れなくなって落ち込んだりしてさ、んでよく寝たりすると気分が良いとかってもうホント、意志がいかに脳に支配されてるか?っていうことのいい証拠だよね。


んじゃあ普段から睡眠をとれない人とかってどうなの?っていうさ、学校と職場と組合を行き来している子とかってどうなの?っていうね、あ、まぁ政治学のクラスにまぁ組合に相談に行っては職場にかけあえなんて言われて、んで職場に行っては組合に行けなんて言われて、んでただですら時間がないんでさっぱり自分の労働に関するプロセスが進まないとかさ、そんな説明をクラスでしていたらまぁ泣き出しちゃったんだけど、「なんだかなぁー」って感じだよね。この子の状況も含めた社会と主体じゃない?主体があくまで社会との関係性によって保たれるものなら、この子の時間が無さ過ぎてどうしようもなくビジーな生活っつーのもさ、この子の主体性を規定する要素になるわけよね?その一方で俺みたいに呑気なフルタイムな生徒もいるわけでさ、なんなの?って感じだよね。俺は本を山ほど読めて、好きな事を研究できて、んでこの子は会社と組合と学校を行ったり来たりきたりしながら辛抱強く人生に堪えているとかさ、それでも恵まれている俺ですら鬱になったりすることがあってっつーか俺は本来的なものだけど、この本来的なものと社会的なものとの割合みたいなのも分からなくなるんだよね。


俺が割とまぁ上向きになってきたのはアメリカに来たからだけど、かといってこれは恵まれた環境からもたらされたもんなんであってさ、だったらまぁ日本にあのままいたら当然、今の俺みたいなのはいないんだけど、かといってんじゃあ仮にあのまま日本で引きこもりになったままの俺が電極手術をして人生上向きに感じられたらそれでいいのか?っていうさ、今の俺っつーのもアメリカに来て俺なりに色々苦労した結果、得られたものとか上向きになるように自分で自分を操作したみたいなところがあるわけじゃない?でも別にアメリカに来なくても日本で電極をさせば万事解決でさ、日本社会に関してもそこまで嫌には感じなくなるとかさ、それはまぁ極端だけど、ありえなくもない話だよね。んじゃあみんな頭に電極をさせば万事解決なの?ってかなり疑問だよね。環境も含めた自分の脳と調和できる社会とか職場とか生きる目的みたいなのを見つけることができたら脳がフル活動して能力を発揮できるかもしれないんだけど、その調和を電極によってもたらすことができるんだったら仮に辛いようにしか感じない場でも電極の刺激によってはやっていけるわけだよね?


もちろんまぁこれは難治性の鬱の人用の治療方法なんだっつーのは分かるんだけど、なんかトレパネーションを思い出したんだよね。


http://x51.org/x/04/12/1035.php


これはまぁ俺のお気に入りのオカルトサイトっつーかまぁ真面目なサイトではなくてムー系なんだけど、より効果的で実践的なトレパネーションって電極だよねっつーか脳をいじることってつまりはこういうことだよね。こうなると主体性についての認識がすんげーグラつくんだよなぁー。結局脳をいじればオッケーなのか?っていうね。むしろ哲学とか宗教が目指していたのって、それを内面的っつーか精神的に達成することじゃなかったのか?っていうね、まぁハイになることが哲学とか宗教の目的ではないんだけど、でも認知的な問題とかも結局は頭蓋骨に穴を空けたり、脳に電極を通せば解決するんだったら、なんつーかさ、ヘレニズムっつーかなんつーのかな?賢人が到達する精神的な平和こそが幸せの源流なのだみたいな言い方もさ、それが賢い脳と思索や読書によってもたらされた内面的な平和なのかさ、電極によって即物的に得られた平和なのかさ、その価値っつーか意味論みたいなのを規定するのって結局主体次第で、客観的に見て仮に両者の状態が同一のものであったら、それって結局電極の方が楽じゃんって話にもなりかねないよね。読書したり物思いに耽っている時間も脳内キャパも無いみたいな人はんじゃあ電極なのか?っつーね、見つけ出された幸福というのと物理的な刺激に与えられた幸福の差ってどういう違いがあるのか?ってかなり微妙だよね。


結局、セックスが気持ちいいのってまぁ脳に刺激がイクからだよね。んじゃあそれって自分でイっちゃえばいいじゃんって話でオナニーに走るやつとさ、ナンパやらゼンギ(変換でない)やらアイブ(これまた変換でない)といった身体的なものも含めたものがオーガズムなんじゃないかって言うやつとの差って結局、電極という名の即物的なオナニーか、時間やらコストのかかる内面的な鍛錬によって得られる幸福というかレベルの高い認識レベルに到着することなのかさ、ただまぁ結局、射精という点では到着点は一緒だから、逆にオナニーっつか電極で十分じゃないかって話になるよね。まぁ俺みたいなのがそうなんだけどね。


いや、でも姉ちゃんを口説くテクニックだとか恋愛だとかって素晴らしいんだよってオナニー主義者に言ったところでそれって説得材料にはならないよね。いや、セックスにはリプロダクションという人類にとっての重要な目的があるんだって言われても、そんなもんやりたいやつだけやればいいじゃないかっつーなんつーか子づくりみたいなのが好事家のすることになるよね。人間の実体が明らかになればなるほど、その実体の虚無さ加減っつーのに呆れ返ったニヒリストが増えて、んでオナニー主義者が増えるわけだよね。下手に賢いやつはニヒリストになってしまうに違いないよ。だから逆に下手に認識というものが介在せずに、本能というものが行動に直接的に結びついている行動体系のほうがよりピュアなんだみたいなさ、攻殻機動隊のキムみたいなある種の達観した人間的認識否定論みたいなのが生まれて来るわけだけど、それは例えば電極を入れる手術なんてのを見せられたらそんな風に思っちゃう人は多く無いかもしれないけど、少なくともいるんじゃないかな?


素晴らしいものだと思っていた認識が実際はただのバイナリデータレベルの電気信号に過ぎなかったっていうさ、こういった事実から来る虚無感って半端じゃないよね。頑張って勉強を続けているわけだけど、将来にはなんかのチップに入ったデータを脳に差し込むだけでそのデータが得られるとかさ、言語も例えば英語の言語データが入ったやつを脳に差し込むっつーかインストールすれば喋れるようになるとかさ、意識やら認識なんてのが所詮は電気信号の所産なんだって分かってしまうことってある意味危険だよね。いや、実際はそんな単純なものではないんだけど、実際はかなり単純な要素もあるっていう良い例が今回の電極の話だよね。幸福って何なの?っていうさ、意識とか感情って結局なんなの?っていうね。俺は俺の答えっつーか考えがあるから別に戸惑っているわけではないんだけど、やっぱり気になるところではあるよね。恐らくそこには常に解釈が必要なんだと思うね。こういうプロセスで得られた幸福なのだこれは!とかこういうプロセスで得られた結果なのだ!とかっていう、ようは自分の人生というコンテキストの中でのそのデータの解釈というのが仮に恣意的なものであれ、それがその時点で行われて少なくとも主体がそれに満足するということが重要なんだと思うよね。仮にそれが独りよがりなものであったとしても、やはり物事の解釈装置としての主観というのは人間の意志を規定するという点でも人生というものを規定する点でも凄く重要な要素だと思うよね。


その解釈によって納得して電極をさすならまぁそれでいいかもしれないし、恋愛を放棄してオナニーに励むのもいいかもしれないんだけど、そこに必要なのは主体の思想というか思考だよね。それを解釈して選ぶという主体性と自由意志が介在することの重要性ね。まぁもっともその解釈すらも脳の電流次第じゃないかって言われればそれまでなんだけどさ、それは政治と一緒で常に解釈というのにはコンテキストを踏まえた上で行われなければいけないんだよね。コンテキスト抜きでの解釈や部分的な幸福など真実ではないっていうね。まぁ真実という言葉を出すとまた話がややこしくなるんだけど、ようはあれだよね、常に自分の人生という物語を書き上げ続ける一流の作家じゃなきゃいけないんだよね。人間ってのは。ん?でもその書き上げも電流によって行えば・・・って話が堂々巡りしそうなんでこの辺でやめにするか。エポケーしてもその先にまたエポケーがあるって考えたりするとキリが無いよね。エポケーする自分をエポケーするって鏡の中の自分の鏡を見つめる自分を見つめる自分・・・・・みたいなもんで、まぁデカルト的な話になっちゃうんだけど、人生という物語にはその書き上げた主体にしか理解できない尊さみたいなのがあるんだよね。恐らく。それが意味論ということなのだろうし、その場その場との強度と意味合いの恒常性を保つ鍵なんだと思うよね。どこまでが幻想でどこまでが真実なのか?っつーのは分からないし、それを考えた先にあるのって冷たい相対主義であったりさ、さっき書いた即物的な意味でのオナニー主義だったりするんだよね。恐らくそれも全部含めてエポケーしながら達観して生きることができたらそれってかなり高い認識のレベルにあると思うんだよね。


まぁいいや。まぁ今日はこんなところで。

mur mur-conversation mix

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