ADDと超人とその短所と結局は長所。

mimisemi2009-04-04

スーサイダルっつーかさ、ADDと超人とか書いておいてあれだけどっつーかまぁあれだ、難点を書いてみようか。ADDが超人なんだったらみんなADDになりたいよね?でも全然実際は不幸っつーか辛いっつーか大変なんだよっつーのを今日の気分の変動を客観的に見つつ書いてみるねっつーのはね、まぁ相変わらず寝付きが悪くて、んで寝る前とかに薬を飲み過ぎて、んであんま睡眠の質が良く無いんだか残ってるんだかまぁ翌日気分が悪いわけ。あ、寝起きね。すんげーダルいっつーか。そんな体っつーか頭を起こすためにいつも多めにカフェインを摂るんだけどさ、まぁ今日は魔の天文学の3時間コースだったんだけど、行きの電車でさ、10ページぐらい残ってたっつーか読み終えてなかったシュトラウスのOn Tyrannyのコジェーヴへの回答っつーかrestatementを行きの電車で読んでたんだけど、比べるのは変なんだけどさ、ADDの本とかってまぁふつーの本じゃない?で、シュトラウスの本って妙な色気っつーかさ、変なオーラがあるんだよね。読んでて凄く興奮するっつーか知的刺激があるっつーかさ、まぁ行きの電車で読みいっちゃったわけよ。特にrestatementの最後の10ページぐらいが要点をまとめてるっつーか重要な点ってのが多くてまぁすげーそれこそ異常な集中をしてたんだよね。


で、ワールドトレードセンターっつーかまぁなんか大げさに言うと面白いなって思うのがさ、シュトラウスに目覚めた俺がいつもワールドトレードセンター駅に向かってるってなんか面白くない?まぁ面白くないか。なんか記号論的というかシンボリックっつーかまぁそれはともかくとして、駅降りてからもすんげースキゾになってる自分がいたんだけど、それってのがまぁ寝不足っつーかちょっと精神的に不安定だったっていうのもあったのかもしれないけど、シュトラウスの本で興奮しすぎたっつーのもあって気持ち悪くなっちゃっててさ、んで歩いてるときは俺はいつもそうなんだけど、いつにも増してずーっと下を向きながらブツブツとシュトラウスの文をパラフレーズしてみたり、それついて一人で小声で述べてみたり、まぁすげーヤバいやつなんだよね。映画に出てくる誇張された精神病院とかに出てくる精神病患者そのものっていうかね。で、クラスには早めについたんで、ヘッドフォンでヴェネチアンスネアを爆音で聞きながらクラスで周りを気にせずに続きを読んでたんだけど、なんかあまりにその姿が異様だったのかもう出席取っててさ、気がついたらね。誰か声かけてくれればいいのにって思ったんだけど、あまりに異様でみんなひいてたのかもな。いや、これもADD的っつーかまぁあれなんだよね、ADD的って言い方はやめようか。


まぁあれなんだ、好きな事に集中すると止まらなくなっちゃうのね。時間感覚とかが無くなっちゃって、んで昔も友達とレコード屋に行ってさ、んでディグるのに夢中になっちゃって、んで「先外出てるわ」っつって外で待ってた友達を30分以上待たせたなんてこともあるんだよね。さすがに温厚な友人二人も怒ってたみたいで凄い罪悪感だったよね。彼らの事を気にしてないわけじゃないんだけど、集中すると時間を忘れちゃって「30分も待ってたの!」なんてことになっちゃうの。俺が悪いのに30分待たせてたってことに俺が信じられないみたいな感じでさ、それを見て余計に友達は俺に不信感を得るっていうね、まぁ日本に居た頃の話だけどね。もちろんこの2人は俺の数少ない理解者で今も親友なんだけど、こういう大切な親友だからこそこういうことはしたくないのにやっちゃうんだよね。俺。で、家に帰ってから友達に嫌な思いをさせるぐらいなら死んだ方がマシだとか思ってマジで自殺したくなっちゃうの。


で、まぁそれはともかくさ、なんか最近ちょっと俺、変なんだけどっつーか出力もおかしいけど、天文学のクラスがもう死ぬほどつまらないじゃない?で、何を思ったのか授業中にシュトラウスの本を持って抜け出して、んでクラスの外のベンチで本を読み始めたんだよね。こんなこと滅多に無いんだけど、あとちょっとで読み終わるっつーのもあってさ、なんかもうすんげー読みたくなっちゃって、授業を抜け出しちゃったのね。で、また読んだ後に思った事を口走ったりしてさ、まぁ独り言なんだけどね、最近はもう普通にいるということを放棄してるから変に見られようがかまわないと思って普通に振る舞う事をやめているんだけど、そのおかげもあって歩く時にずーっと下を見ながらブツブツ言ってるっつーのがまぁ俺の素だから最近デフォルトになっちゃってるんだけど、それはともかくさ、そんな妙な気分でシュトラウスに感化されつつもさ、まぁ天文学の授業はつまらないからすんげー疲れるんだよね。エナジーが吸い取られる感じっつーかなんつーか。で、サブウェイでメシ食って、んでようやく帰ってきてさ、よっしゃーウォール伝の更新するべ!とか思ってウォール伝に繋いだんだけど繋がらないのね。いや、嫌な予感はしてたんだよ。今朝っつーか昼間ぐらいにネットが使えてたのに3時過ぎからいきなり使えなくなってさ、いつものことだから時間が経てば直るだろうとか思ってまぁ学校に行ったんだけど、11時頃に帰ってきてもまだネットが使えなくてさ、んでも一気にメルトダウンよ。メルトダウンっつーかメンタルブレイクね。


で、ここからはもうあれよ、この怒りがなぜか大家とか向かいの人にまで言っちゃってさ、ようはもう完全にスキゾな世界ね。「大家はなんでインフラに気を使わないんだ!」なんてさ、実際は大家っつーかプロバイダーが悪いわけだし、まぁ今回の場合、原因がモデムだったんだけど、そういうのも考えずにさ、ネットが使えなくなったってことが理由で一気にメルトダウンしちゃうのね。で、メルトダウンした後の俺と言えば酷いもんで、まぁ被害妄想とかそういう世界だよね。完全にスキゾで自分勝手な世界っつーか。で、一気にネガティブになってこの世から消えたくなっちゃうっていう、普通だったらネットが使えないってことと自殺とか全然繋がらない気がするんだけど、少なくともADDっつーか俺みたいなやつにはね、いくらでもこういう魔の瞬間ってのがあるんだよね。


行きの電車ではシュトラウスを読んで興奮していてさ、んで帰ってきてネットが使えないっつーきっかけからイライラし始めて、んでまた色々と余計なことを考えちゃって、んで一気に鬱になって気がついたら体が動かなくなってるっていうね、まぁ昼間興奮しすぎたっつーのもあるのかもしれないんだけど、気分の変動が凄いよね。ネットが使えないっていうこと如きで、それが鬱の引き金になるんだよ?で、それは散々書いたようにネットが使えないということよりかはそれがきっかけで色々と考える事で起こる鬱ね。普通の人なら問題ないことがADDっつーか俺みたいな人間には大事だったり全然違う知覚をしていたりするっつーのがあるわけでさ、で、まぁこれの繰り返しなんだよね。好きな事では今日のシュトラウスの本みたいに異常な集中力を発揮したり興奮したりしてさ、んでちょっと自分の予定とズレることがあったりするとそれが物凄く気に入らなくて、んでそのイライラ感から無駄なこと考えちゃって一気にヘビーな鬱になるっていうね。なんつーかADDの縮図みたいな日だったよね。この鬱をトリガーする要素ってのが色々なところにあるわけでさ、かといってそれを回避するって世の中で生きていくということにおいては不可能なんだよね。それと付き合って行かなきゃいけない。でもそれがすんげー大変なんだよね。ってことでまぁ実際はこんなことばっかってことでね、ADDを超人のポテンシャルを持った人間だと見なすのは、それだけでは絶望的なんで、そう思う事でポジティブに生きようっていうような前向きな姿勢なんだよね。実際の諸症状が辛いものばかりなので、だからこそ良いところに光を当ててそれを伸ばすしかないねっていう、まぁそういう話なんだよね。


いや、また繰り返しになるけどさ、まぁ今日が特に顕著だったけど、こういうのが日常単位であるんで大変なんだよね。落ち着かないっつーかさ、まぁハイな時は楽しいからいいんだけど、落ちた時が最悪なんだよね。特に今日みたいな躁鬱的なことがあると自分で自分の事が怖くなるね。ヴェネチアンを耳が潰れるようなフルボリュームで聞いててさっつーかあれなんだよね、CDプレイヤーとヘッドフォンの間に外付けのEQみたいなのをかましててね、で、それでアンプリファイしつつミッドとハイを最大に上げたりして聞いてたんだよね。今日。なんか妙なハイだったっつーかなんつーかさ、で、帰ってきたらこれだもんね。ジェットコースターみたいなもんだよ。マジで。本人はマジで辛いよね。これ。だからこそ「才能なんだ!」とか「超人なんだ!」とかって思わないとやってけねぇーっつのが現状なわけで、だからADDはギフトだみたいなことが書いてある本が出版されるのも、つまりはそういう意図なのね。本人達が辛過ぎるので、それを救う処方箋の一つとして彼らのユニークな才能を伸ばして、んで自分を責めないようにさせるっつーまぁあの本にも書いてあるけど、認知療法なんだよね。Cognitive Behavioral TherapyっつーまぁCBTって言われるやつなんだけど、まぁあくまで認知療法なわけ。なので自分を超人だって思うのも認知療法なんだよね。それを障害だとか病気だとかって捉えないことが患者にとって重要っていうね、そういうことなんだよね。なのでまぁ俺はそういったことを自明でまぁ色々と書いていたり言っていたりするわけで、勘違いして自分を超人扱いしてるわけじゃないのね。


で、俺みたいなやつが妥協して社会に迎合してもしょうがないどころか迎合する術すらも持ち合わせてないってことで、割と個人主義っつーか悪く言えば自分勝手な生き方が比較的許されるアメリカっつーかニューヨークに来てやってるわけだけど、思うに日本みたいな社会はADDみたいな人達にとって最高に向いてない社会かもね。逆を言えばギフテッド教育が進んでるアメリカみたいな国ではさ、むしろADDとかアスペルガーな人達が割と比較的救われるっていうね、それはそうなんだろうなってこっちにいて凄く思うもん。変人でもやってけるっつーかむしろそれを抑圧しないで全面に出す方が魅力的に見られたり人気がでたりするっていうさ、こっちではADDが魔法みたいにワークするんだよね。それを自明的に知った俺は徹底的に自分を解放してやろうと思って普通の人っぽく振る舞うことを一気にやめたのね。例えば電車の中で本を読むときにでも知的っぽくっつーかかっこいい感じで読むみたいなさ、まぁかっこつけるつもりはないんだけど、まぁ普通に本を読むっていうね、それをもうやめたの。それこそ貪るように真剣に読みたかったら貪るように読めばいいじゃんっつーね、こっちは変な人がいっぱいいるから、まぁ俺が変な感じで電車にいることでもその変な人が一人増えるだけでしょ?だからもう普通の人ぶるのは一切やめたのね。そしたらさ、まぁ最近そうだけどまぁアイデアが爆発するっつーかADD的傾向がもっと凄くなるんだよね。悪く言えば酷くなるんだけど、良く言えばドライブ大爆発っつーさ、ADDっつーよりかはADHDって感じなんだよね。ハイパーになるの。ADDっつーのは社会的振る舞いを覚えたADHDなんであってさっつーかまぁ俺の勝手な定義だけど、ハイパーの部分は振る舞いとかを覚えてなくすんだよね。でも俺はむしろ自分を発揮するためにハイパーの部分を取り戻そうってことなんだよね。


で、まぁ今日は政治学のテストだったんだけど、もう普通の人ぶるのやめてるからさ、まぁ似たようなのがまぁゲイであることを隠さないゲイっつーのかな?バレちゃったんで隠す必要がなくなって振る舞い方が完全にオカマなんだけど、そっちのほうが輝いてるっつーね、今の俺はそんな感じだね。それもあってか喋る事の敷居が凄く低くなってるんだよね。弁えたりして喋らなくていいから思いつきでも思った事をバッ!と喋っちゃえ!っつーさ、リミットを無くす事で英語を喋る事の敷居がすんげー下がって、そのおかげで最近凄いんだよ。スピーキングが。かなり喋れるようになったっつーかもう認識的なことだよね。今までは変なリミテーションがワークしてて「ちゃんと喋らなきゃ」みたいなのがあったんだけど、もうさ、俺が俺のまま思った事を喋ればいいじゃんっつーね、そのおかげであれだよ、クラスなんかでも発言する前にドキドキしなくなったのね。


普通に意見とか思った事をパッと言えるようになったっつーかさ、前は言おうか言うまいか、ちゃんと喋れるかっつーのもすげー気にしてたけど、リミテーションを無くすことでさ、間違っても変な人って思われてもいいからガンガン喋ろうっつーね、そのおかげですげーパワーが湧いてくるっつーかさ、まぁそれでなんかちょっとあれだよね、壁になってた英語の出力っつーのが一気に破壊できた感じなんだよね。で、政治学のクラスでもさ、「勉強してきた?」とかってクラスメートの割と仲が良いブラザーに聞かれたんで、まぁ俺が普段ウォール伝で書いているようなさ、「テストを俺は信じてない」っつーね、教育のシステムはoutdatedだ!みたいなのをベラベラ喋り始めたらさ、まぁクラスが始まる前だったんだけど、俺の演説みたいになっちゃってまぁまばらだったけどクラスに居た連中が俺の話を聞き始めてさ、んで黒人のおばさんがさ「ビル、私はあなたがスマートなのは知ってるわよっていうかみんな知ってるわよ。だって先週のプレゼンは凄かったから。でも勉強はしなきゃダメよ」なんて言っててさ、んで他のクラスメートも色々俺に言ってきたりして、なんか凄いんだよね。台風の目っつーかさ、まぁ日本的な観点から見れば場を弁えないKY野郎がベラベラ喋りまくってるって感じなんだけど、こっちではっつーか少なくともこの政治学のクラスとかではさ、オッケーっつーかなんつーか俺みたいなキャラがありなんだよね。ありどころか成功してるっつーかなんつーか。


で、まぁテストが終わって、んでまぁロバートと話す機会があったっつーかまぁ経緯を書くと長くなるからあれだけど、またあれよ、アスペルガーvsADDが始まっちゃってさ、んでまぁロバートが乗る電車が通ってる駅まで話すつもりだったんだけど、また前みたいに駅の前で結局1時間ぐらい喋っててさ、またその密度が凄かったんだよな。言語の話とか知識の話とかさ、まぁロバートは基本的に陰謀論を信じてて、まぁ前に電波だって書いたけど、でも基本的ななんつーのかな、陰謀論の話さえしなければ話せるやつなんだよね。物知りだし頭が良いしよく喋るっつーか俺がよく喋らないやつに見えるぐらいよく喋るからさ、まぁよく喋る同士がよく喋るから会話がエンドレスになっちゃうっつーかまぁ異様なんだけどね。駅の前で凄まじいスピードでなんか喋ってる変なやつらがいるんだからっつーのがさ、俺の最近のリミテーションを外したおかげもあって、俺がかなりロバートについていってる感じがあるんだよね。普通だったら俺が仮にネイティブスピーカーでも圧倒されるような密度でロバートは喋るんだけど、俺も同じ密度で喋ってたり会話についてったりしててさ、自分でもすげーなって思ったのね。はじめてロバートと喋ったときは相づちを打つぐらいだったけど、リミテーションを外した今は喋りたくてしょうがないっていうね、栗子の時もそうだったけど、俺の英語が下手だから早く会話を切り上げたいって思うんだけど今はもっと喋りたいって思うようになってるんだよね。そのおかげでまぁすんげー喋りすぎるんだけど、このADD的モーターを英語にアプライすることで劇的な英語のスピーキングの発展を遂げてるっつーか、ADD様々だなってマジで思ったんだよね。なんで今までリミテーションなんて設けてたんだ?って疑問に思うぐらい俺は今喋れてるね。特にまぁあのプレゼンが契機になったのは言うまでもないけど。


で、ロバートと喋ってて帰ってきたのが11時過ぎになっちゃったんだけど、フォレストヒルズのサブウェイでメシを食ってたんだけどシートがいっぱいでさ、ただお持ち帰りにしてなかったから、まぁどっかで食わなきゃってことで相席でもいいかなって思って若いやつの席に相席したんだけど、まぁ面白いのがさ、ここのサブウェイって近所の老人が集まって喋ったりしてるのね。いつも。新聞を持ってきて政治について語ってたり経済について語ってたりさ、まぁ一種のコミュニティーっつーか、若造ならぬ老人のたまり場になってるんだよね。もちろん若造もいるんだけど、11時過ぎなのに老人が集まって喋ってるって凄いよね。で、その老人達なんだけどさ、俺が不便そうに若造の席に相席してサンドイッチを食おうとしてたら爺さんが「若造!ここに座れ」っつって爺さんばあさんが占領してた席っつーのに俺を座らせてくれたんだけど、すげー異様なのがさ、白人の爺婆のサークルに一人、アジアの若者が座ってるっつーさ、イメージ的に老人ホームのカフェテリアのテーブルに一人俺が混ざってるような感じね。いや、客が爺婆ばっかってわけじゃないんだけど、まぁそのあたりは爺婆ばっかってことだったんだけどね、で、本読みながらサンドイッチ食ってたらさ、まぁ聞き耳立ててたんだけど、まぁコミュニティがどうだのさ、最近の政治家はコミュニティっつー概念が無いみたいな話をしてたり、金があれば結局なんでもできるんだ!Money is honey!とかって言ってたりさ、まぁ典型的なアメリカの保守主義の爺婆って感じなんだけど、そんな席に俺はジョインしたんだよね。で、別の席にいた爺さんがさ「おー若いの。今何時だね?」なんて何回も聞いてきたりさ、で、新しい客でまた同じようなもうヨボヨボの爺さんが入ってきてコーラを飲んでたり、アメリカやべーな!って感じだよね。11時過ぎに老人達がサブウェイで溜まってるっつーさ、みんな顔見知りってわけじゃないんだけど、なんなんだろうな?あの老人率は。


で、一人でただ席に座ってたよぼよぼの爺さんに何回も声をかけられつつ「この爺さんゲイなのかな?」とか思ったりしつつ、サンドイッチをいつものように半分残して席を去ろうとしたら、そのコミュニティがどうだのって話してた爺さんの一人がさ「おー若いの。すまんー食事の邪魔をしてしまって」なんて声をかけてきてさ、「いや、全然そんなことないですよ。席を譲ってくれてありがとうございました!」なんつったら老人達はみんな笑顔でさ、んで調子に乗った俺はさっつーかここがポイントなんだけどリミテーションを外す一環として大胆な行動に出たのがさ、「ちょっと僕の意見を聞いてくれますか?」なんて言ったんだよね。そしたら「フムフム。なんだね若いの?」なんて色々喋ってた爺さんばあさんが俺に釘付けになっててさ、で、俺が何を言ったかっていうと「お金が全てという考えは間違いで、一番大事なのはヴァーチューと知識なんです」なんて最近の俺のマイブームであるヴァーチューについて俺なりに語り始めたら爺さんばあさん達がみんな聞き入ってるのね。俺の意見に。で、「若いの。言いたいことは分かるがやっぱ金は必要だろ」なんて言ってきてさ、で、その回答に俺は「確かにそうですけど一番大事なのはヴァーチューです。で、次がお金です」なんて言ったらさ、「ほぉー」みたいなリアクションを爺さんばあさんがしててさ、んで俺は「な・・・何を言ってるんだ俺は!」とか思って「あ、とにかくまぁそういうことです。んじゃ」って店を出たんだよね。


このさ、俺がリミテーションを外して出た大胆な行動に対する回答ってのがあるっつーのが凄いと思わない?「なんだね?若いの」って人種とか年齢とかを超えて会話が成立するのが面白い。すげー異様だよね?老人達が11時過ぎのサブウェイに溜まって喋ってるっつーのも異様なんだけど、それに一瞬でも参加してる俺っつーのも異様だし、それをアクセプトする老人達も異様だよね。でもまぁ拡大解釈すればこれがアメリカっつーかさ、まぁニューヨークならではのことなのかもしれないけど、こういうところなんだよね。俺がアメリカに心底惚れるところは。この爺さんばあさん達が11時過ぎにサブウェイで喋ってるっつーこと自体も好きなんだけど、まぁ俺が今書いたような全般のことがね、アメリカならではでこういうところがなんつーか個人レベルでの余裕なんだよね。日本にはないゆとりっつーかさ、それは生活のゆとりとか金銭的なゆとりではなく、人間関係っつーか社会っつー有機体の隙間隙間にあるゆとりね。日本ってのはもう網目状なんだよね。ゆとり一切なし。でもアメリカってすんげー余裕あるんだよ。経済的に余裕なくてもなんつーかアメリカ文化とでも言うべき生活圏のゆとりがあるんだよね。それはみんな暇してるっていう意味ではなく感覚的なゆとりっつーか殺伐としていないという意味でのゆとりね。日本ってどいつもこいつも喧嘩をはじめそうな殺伐とした雰囲気があるじゃない?あれとは正反対の世界がアメリカっつーかニューヨークなんだよね。


それが俺はたまらなく好きでさ、で、サブウェイを出た後もなんつーか変な話なんだけど、俺はアメリカ的な意味での愛国者みたいになるかもなって思ったのね。ようはアメリカ的なもの全般に関しての絶対的な愛着を持つ人間っつーかさ、変な話なんだけどね。それって。俺はまだ日本人だし日本育ちなんだけど、でもカルチャーから生活圏のゆとりも含めたアメリカ的なものってのが大好きなんだよね。すげー変な感覚なんだけど、なんつーかさ、生活圏とか場所そのものに愛着ってのを今まで全く持ったことが無かったけど、ニューヨークに来てからはアメリカ的なものやニューヨーク的なものに凄い愛着を持つようになったんだよね。で、「これがナショナリズムか!」ってすげー思ったわけ。場所とか文化とかあり方そのものを愛するっていう感覚ね。それはお上からの植え付けではなく内面からわき上がってくる自然な愛着ね。それは長くいるからとかここで育ったからっていう慣性的なものではなく感覚的なものね。すげー不思議だけど、まぁ俺はアメリカが好きなんだよね。なんつーかあれだわ、生まれる場所間違ったのかもしれない。俺っていう人間はあってるんだけど場所間違えたみたいなね、最近はまぁリミテーションを外したことがまたアメリカ的なものとシンクロして凄い相乗効果をもたらしてるってことで、「日本には帰れないからここしかない」っつー消極的な理由ではなく、「ここが俺の場所だ」っつー積極的な理由でアメリカが好きになっているんだよね。全てがなんか合ってる気がするっつーかさ、ここが俺の場所なんだなって凄く感じるのね。それはまぁニューヨークと龍脈っつー話で色々と書いた事だけども。


なんつーかアメリカって適当っつーか大雑把って言われるじゃない?その大雑把で不真面目な感じっつーのがさ、俺みたいな人間に対しての寛大さを生んでるんだよね。だからもう俺みたいなのがリミテーションを外してやりたい放題やっても逆にそれがプラスにしかワークしなくなるわけ。日本だったら「なんだこいつ?」なんだけどこっちの場合「目が輝いてる面白いやつ」っつー扱いになるのね。こりゃー凄いよね。つまりはADD的っつーとあれだけど、俺みたいな変わり者っつーのは社会っつー大きなアクセプタンスが無いと変わり者のままでいられないし、その能力を発揮出来ないってことなのね。で、まぁ従来通り鬱とかになったりもしているんだけど、基本的に波乗りジョニーなんだよね。消極的じゃない自分を全面に出したナチュラルハイな自分っつーのが色々なものを引き寄せてるんだよね。でもこれは理性ありきなんだよね。つまりは今までは散々リミットしてきたっつーさ、むしろ「普通であること」というのを過剰に重用視してきたっつー前提ありきでのリミテーションを外すっていうことなのね。なのであまりにやったらアウトなこととそうじゃないことっつーのはやっぱまぁ最低限のところは押さえてるんだよね。でも必要ないし抑えなくていいところはガンガン出しちゃうっていうさ、その方がこっちでは評価されるっつーかむしろ凄いんだよ。みんなの俺の評価が。最近自分がスーパースターになったような感じがするんだよね。もちろんそれは俺が凄くなったのではなく、リミテーションを外すことを許してくれるような社会的アクセプタンスってのがあるからその感覚を得られたって感じなのね。まぁあと嬉しい事にモテているかはどうかとしてすんげーモテるしね。当社比で。


今日もお転婆娘が授業中にわざわざ俺の方を向いてきてウィンクするわけよ。「ハーイ!ビル」みたいな感じで。「おおおおおおお俺のこと好きなのかい?こここここここの子は」って感じになるけど、そこは俺ももうアメリカンでいいんだよね。明るく「ハーイ!お転婆娘!」って言い返すようなさ、そういう感じね。恋愛とかそういうのを置いておいてね。そういうアメリカンな感じっつーのをちょっと得ると女の子達の俺への興味っつーのもなんとなく理解出来るんだよね。それってのは残念な事に特別な感情ってわけじゃなくて、「面白いやつ」っていう、まぁ純粋な人間的な魅力を感じてまぁコンタクトしてきてるっつーね、それなんだよね。まぁでもいいんだ。まぁ当社比の当社は俺なわけで、当社比では俺はモテまくっているわけだ。もうウハウハだよ。目の輝きさえ保っていればね。あの自分が誰か?っつーのが分かった上で現実界に来たペルソナ4のテディーみたいな感じだよね。ああいう感じがするな。今の俺は。もちろん毎日ハイじゃなくてアッペンダウンが激しいんだけど、まぁハイなときはハイでいいじゃんっていうね、もう消極的になるのはやめようっていうね、まぁ楽観的なアメリカンになるっつーのがまぁ今の俺の目標かもね。まぁ実存は暗い哲学タイプなんだけど、でもそれはコアの部分なんであってさ、周りはいくらでも変えられるんだよね。別に根暗ってわけじゃないんだから。


で、調子に乗ってさ、政治学のクラスの前になんか右利きとか左利きとかの話にまぁ卵とかロバートはいなかったけど、まぁ俺の席周辺の男子諸君の間でそんな話になったんで、まぁリミットを外した俺はさ、調子に乗って「左手でシコるといいよ」みたいなことを言ったらもう大ウケでさ、「俺は両ききのオールマイティーだ」とか言いつつ「いや、でもマジなレベルで例えば左手も積極的に使うってことで歯磨きとかも左手でやってるよ。もちろんオナニーもね」みたいなまぁそれこそウォール伝をそのまま出したようなことをまぁさすがにクラスには女の子もいるから明らかじゃない言い方で言ってたんだけど、もう凄かったね。俺の周りはみんな大爆笑で俺も馬鹿笑いしててさ、その光景っつーのがまさしくジョークで笑ってるアメリカンそのものだったんだよね。「これがアメリカン感覚か!」ってマジで実感したね。まぁそれを同化と言えばそれまでだけど、これほど俺がこっちに合ってるとは思わなかったね。それは同化ってよりかは俺がむしろ隠さず自分を出す事でアクセプトされるっつーかむしろ彼らから歓迎されるっつーね、これには驚きだよね。マジで。これからもまぁこのまま変な事は考えずに変な俺のままでいよーっとって感じなんだけどね。その方が成功するなっつーね、今の俺はヤバいよ。マジで。なんでこんなポピュラーなんだ?ってぐらいポピュラーだからね。前は英語学校レベルだったけど今は大学レベルだから凄いよね。井の中の蛙じゃないっつーね、周りはみんなアメリカンっつーそういう環境でそういうやつらと一緒に議論したりジョークを言い合ったりしているわけだからさ、なんかすげーなって思うんだよね。こんな変な俺をアクセプトしてくれる彼らっつーかまぁアメリカの寛大さってのにマジで感謝って感じなんだけど。ヤバいよね?これ。


俺は実家では自分を出しまくりでまぁ家族もそういうやつだって思ってるんだけど、あの実家のやりたい放題な感じっつーのが外でも通用するっつーのがヤバいなって思うんだよね。実家の全て丸出しの完全にキチガイな俺っつーこのままでやってけるどころかこっちのほうが周りに認知されるっつーか評価されるっつーね、これマジで楽だよね。ある程度の配慮をしつつ素でいればもうそれだけでオッケーどころかプラスにしかならないっつーね、ビバ!変人!って感じでしょ。ヤバいよ。これは。マジで。で、こうなってる俺っつーのはもう表情がいいんだろうね。地下鉄で電車を待ってる時に目がロンパリのホームレスに声をかけられてさ、んで「オーイ!兄ちゃん!兄ちゃんよぉーオメェーはあれだろーコンピューターの天才なんだろぉ?で、すげー金儲けるんだろぉー」なんて言われてさ、で、俺もリミテーションを外してるからホームレスに「僕はコンピューターの天才じゃなく哲学の天才になろうと思ってるんです。哲学が僕の仕事なんです」なんてニーチェの本をホームレスに見せながら言ったら「おぅー!そうかよぉー!兄ちゃんよぉー!ってーとぉーお前はもうそれがお前の仕事って決めたんだなぁー?えぇ?」「はい。これが僕の仕事です」っつったときのもう電車が来ててさ、「もう行かなきゃいけないんですけど」っつたらこのホームレスが大笑いでさ「そーかそーか!兄ちゃん!お前はもう決めたんだなぁー!ガハハハハ!」なんてもう地下鉄中に響き渡るぐらいの大音量の声で笑っててさ、みんな「なんなんだ!」みたいな感じでこっちを見ててさ、んで中近東系のおばさんが「ちょいとお兄さん。早く電車に乗りなさい」みたいな感じで俺を電車に引っ張ってくれてさ、まぁ俺はこの黒人のホームレスと意思疎通が出来たんで嬉しくて「Take care!」なんて別れ際も挨拶してさ、で、電車が走り出したんだけど電車の窓からホームを見たらこのホームレスが俺の方を見てさ、凄まじい笑顔で手を挙げてるのね。で、俺も手を振ってさ、なんかすげーなって思ったね。これもリミテーションを外した効果なのか?っていうね、なんか説明出来ないような凄まじい変化があるのね。ここ最近。


この声のかけられかたっつーかさ、まぁ例の老人達もそうなんだけど、ロバートと一緒に帰ってるときもさ、姉ちゃんに声をかけられたりねっつっても道を聞かれたんだけど、「34ストまで歩くんだけど一緒に来ない?」みたいなニュアンスでさ、まぁ全部結びつけすぎかもしれないけど、声のかけられ率が半端じゃないっつーね、でもまぁ俺らはアスペルガーとADDのコンビなんで逆ナン系のインプリケーションされても全然ダメですよーっつーね、女性に興味が無いコンビだよーって感じだったんだけど、でもまぁなんか今日は凄かったね。今日っつーかまぁここ最近なんだけどね。プレゼンをきっかけにリミットを外した俺に対する周りの評価っつーか知らない人も含めた俺への評価っつーかさ、まるでリミットを外した俺に「ウェルカム!」って周りが言ってるような感覚を受けるんだよね。先生とかにしても最近褒められてばっかだしっつってもまぁ基本的にやり直しをしなきゃいけないんだけど基本はいいよっつーまぁそういう褒め方なんだけどね。


まぁこれで全てがうまくいくとは限らないけど、少なくとも自分を隠さないでいいんだっつーね、それは凄く最近感じていることだよね。ADDな自分を全面に出してオッケーな社会なんだここは!って勝手に思って出しまくってればみんな俺の事をアクセプトしてくれるっつーね、そういう地盤がある場所なんだなここはって凄く思ったのね。いやーすげー。マジで。今日は特にヤバかったなぁー。いや、まぁあれだよね、The science of getting richとかThe secretがマジでワークしてる感じがあるよね。前にこれについて書いたときに俺には確信みたいなのがあったけど、まぁメンタルな並はあるにしてもまぁ基本的にワークしてるね。まぁあれだよね、まぁ今に始まった事じゃないんだよね。好きな事について周りを気にせずガンガン喋るっつーことでクラスの人気者になったっつーのは去年の哲学のクラスでもあったわけだし、リア二千からのお誘いとかさ、まぁ俺が気がついてないだけで、まぁ俺には何かがあるんだろうね。でも今まではそこまで自覚的じゃなかったっつーね。で、今はリミットみたいなのを外してやりたいようにやっちゃえ!っつーね、もう日本で俺は一度死んだっつーさ、自殺未遂が実際は自殺だったぐらいに考えてもうやりたいようにやっちゃえばいいんだよね。自分を爆発させちゃえばいいっつーかさ、躊躇してると逆にそれが足かせになるわけだから、特にハイなときはハイなままでいいじゃんっていうね、それはまぁこないだ書いたADDはギフトみたいなことが書いてある本を読んでも改めて思った事だよね。こっちには俺みたいなやつをアクセプトする地盤があるんだからもうそれを思う存分利用させてもらえばいいじゃないかと。


ってことがまぁ前書きっつーか今回の本編はCarchemishさんへの返信第二弾なんだけどね、なんかADDの短所とかを書いていくとかって言った割に結局最後はポジティブになっちゃったけど、まぁそれはともかくまた前回みたいにCarchemishさんの書き込みの返事ってのをエントリーを利用して書かせてもらうねっつーかCarchemishさんの書き込みが素晴らしいので。あとまぁあれね、エントリーの最初のほうで「今日」って書いてたのが昨日で、今日っつーのがロバートと話したりホームレスと話したりした今日ね。はじめは明日で終わりは昨日ってアリスに出てくるドードーの歌にあったでしょ?あれなのよ。はじめと終わりがピッタンこ。最近お気に入りの3Pの洋物でさ、金髪の姉ちゃん2人と短髪の兄貴がハッスルしてるっつーのがあるんだけど、凄いのがさ、最後のほうのシーンで、男が一人にハメてて、んでそのハメられてる女がもう一人の女をクンニしてて、んで男はそのハメている女ではない、女にクンニされている女とキスしてるっていうね、この性欲というか快楽というかハメハメの力学が完全にサークルしてるっつーのに真理を見たよね。つまりはこれはウロボロスの輪なんだよ。生と性の無限性。凄いね。マジで。あ、んで以下はCarchemishさんの書き込みと、俺の返事ってのがかなり長く続きまする。



Carchemish 2009/04/03 09:36


うわあ、これは酷い。私が言えることだなんてほとんど残っちゃいないじゃありませんか。何もかも探偵さんのおっしゃる通りですってサスペンスのエンディング十分前じゃあるまいし。


基本的に説明するということが……とりわけ意味付けのしっかりした単語を操って行われる理路整然とした説明(哲学ってその最たるものですよね)をすることが、私ってどうも苦手なんです。頭の回転速度が途端に落ちて、耳鳴りが始まり、右後頭部が軋みだす。ようは苦手っていうか、向いてないんでしょうね。あるいは表面的には興味があっても本能的には興味がない。耳蝉さんの文章は、私にとって「苦手なこと」とか「やりたくない作業」を肩代わりして頂いているようなものなので、読みやすい上に納得できるってわけなんです、おそらく。


なんとも言いがたい敗北感に苛まれてプライドがちくちくするのが玉に瑕(笑)


で、本筋からちょっとズレますけど、


>ADDっつーかアスペルガーってさ、繊細な割にコモンセンスが無いんだよね

 
これはまさしくそうだと思いますね。コモンセンスが無いっていうか、コモンセンスがきちんと馴染んでないって感じ。


いわゆる常識に照らし合わせて考えると、たとえば二日前の私のやたら長くて趣旨不明瞭なコメントなんてやるべきじゃない。まあ耳蝉さんは理解のある方だと思ったので大丈夫だろうなあとは考えていたんですが、それにしたってかなり見てくれの悪いやり口です。そういう事実を何となく了解しつつもアクションだけはしっかりと起こしてしまう、そうすることが正しいのだと変に確信している。で、やっちゃってからマズったなーと思う。そのくせ後悔はしない。後悔しないのだけど、精神的なダメージはしっかり貰う。……理詰めで考えるとやってることとその結果と結果に対する対処がしっちゃかめっちゃかなんですが、なんかこの辺におかしな剥離感があって、「自分の行いが正しいという確信」と「精神的なダメージを負う」っていうのと「後悔しない」は矛盾せずに並立できるんです。もっとも、この辺は私独特の症状かもしれないので共感を得られるかどうかはわかりませんけれど。表面化する結果(この場合コモンセンスの欠如)が同じでも、そこに到るまでの過程にはかなり個人差があるようですから。


あと、「繊細」な理由は、アスペルガー(私の交友関係はアスペルガーがメインなんでADDはどうか分からないですけど)って自律神経系が弱い傾向があるようなんで、しょっちゅう身体壊してるってことも関係してるんじゃないかなあ。現に私もストレスからか消化器系がズダボロですし。そこまで酷くはないにせよ、規則正しい生活って奴がどうやっても身につかずに会社勤めをドロップアウトしただとか、一日27時間進数のパラレルワールドにご生息なすっていて日毎に3時間ずつスケジュールがズレ込んでいくだとか、その手の適応力の低さを曝け出している知り合いが何人かいます。私含むアスペルガーの人々が妙にペシミスティックな理由はその辺にあるんじゃなかろうかと。病気のときって人間弱気になりやすいですからね。そして病人っていうのは得てして繊細さを醸し出しているもんですよ。


……ん、なんかこの物言いが既に悲観的極まってますね。やれやれ。

 
才能の安楽死の云々については、もうこりゃ私の言えることはなーんにも無さそうな感じ。ってかですね、既視感が凄いです。そうそう、そんなふうに論旨を展開させたかったんですよ! 脳みそがガリガリ言うんで遣り通せなかったけど、みたいな。ただ、私が耳蝉さんと違ってアスペルガーやADDを比較的ネガティブな目で見てしまうっていうのは、残念ながら変わらないんですが。これはもう完璧にお互いのポジショニングの問題なんで、論の段階でどっちが正しいかっていうのを詳らかにするのは難しい。

 
もっともこの件についてディベートしたら100%耳蝉さんが勝つでしょうけれど。説得力がある。それに前向きだし、論旨が首尾一貫している。そもそも私の発言は論というより単なる散文であって、元より張り合えるレベルにない。料理を出すべき場に食材をそのまま並べているみたいなもので、これが大学の討議系の講義の場だったら即刻一昨日きやがれっていう話になるでしょう。論戦っていうのがヘタなんですな。どうしても浮っついた意見やファジーな言葉が口をついて出てきて、即興の詩吟独唱大会になってしまうというわけ。こうやって文章にしていてもその気が芬々としているのに、ましてや喋くりの場ともなればその醜態は推して知るべしって感じです。なんとかしなくちゃな、とは思うんですが、どうしようもないんですよね、実際。それが私の性分ってものらしい。

 
余談ですが、今までの人生のなかで、数えるほどですけど自分自身に対して素直になって、脳内麻薬全開で思索に耽れたっていう経験があります。そのときは有り体にいって天にも昇らんばかりの気持ちでした。運動音痴の人が突如しなやかな筋肉を手に入れたようなものでね。振舞いたい通りに身体が動く、望んだとおりにステップが踏める。ただすぐさま疑念が首をもたげてきて(「この状態は危険だぞ! 酷い負担になってる。足をもつれさせて転げ落ちる前に、しっかりと足下を踏ん張っておくんだ!」)、いつの間にやらステージを降りてしまっていましたが。

 
実際に私にそれだけのポテンシャルがあって、内因とか外因(言っちまえばこれが日本的なモラルって奴ですか)とかによって抑え付けられているのだか、それともそれは一時的な過熱状態に過ぎなかったのかというのは分かりません。ですがもし仮にそのテンションがしっかりと固着化して、スマートに振舞うことが出来るようになっていたのなら、私は諸手を挙げて耳蝉さんの意見に追従していたことでしょう。そういうのが「あり得る未来」だったのか、それとも単なる「泡沫の夢」でしかないのかは、今のところはっきりとしませんけど。今後の動向次第って感じでしょうか。

 
他人事なら試合か何かを観戦するみたいで面白いんでしょうけどねえ。残念ながら我が身は舞台の上、リングの中。やれやれってなものです。

 
話を戻します。

 
恥ずかしながらハイデガーはだいぶん昔に投げて以来手にとってないので分かりません(苦笑) 一時期「教養を身に付けなくちゃ」っていう考えに支配されていた時期があったんですが、やっぱりそういう不純な動機で読み齧ってもなしのつぶてですね。ファッションみたいに表面をなぞるだけじゃどうしようもなくて、本質を追い求める気概がないといけない。その点、文学的っていうか、詩的な言説っていうのは私好みのフォーマットであって、私がその本質を愛せているのは確かだと思います。少なくともそれなりには。だからこそ私はそういった文章を読むし、そういった文章を曲がりなりにも描こうとしているわけであって。

 
ただ、正直なところ、自分の適性が実は「意味付けのしっかりした単語を操って行われる理路整然とした説明」にあるってことは何となく分かっているんです。明らかにそちらの分野(経済学とか?)のほうが能力が発揮できるであろう感触がある。アスペルガーの人ってしっかりと整ったもの、規則性や法則性のあるものを好む傾向があるらしいですから、まあおかしな話じゃない。現実として、私が「お勉強で良い成績を取って褒められる」ってことに執着していた時期は、現代文よか数学のほうがずっと出来がよろしかったという過去があります。はっきりとした意味付けのされた言葉を操って、直進する光線のようなシンプルで美しい主張を織り上げること。それって数式を書くのに幾分似ているのではないかと思っています、数学記号っていうのはこれ以上ないほど明白な意味付けの成された単語ですしね。その手のやり口のほうがおそらく私には合っているらしい。でも、興味が持てずに脳みそがノイズまみれになるので実際にそのように演ることはできない。「適性」と「執着」がズレてしまっているというわけ。

 
やまあ、だからどうしたって話ではあるんですが。そういうふうに理解したからって、何かが変わるわけじゃないし、変えられるわけでもない。演り方を人形の首を挿げ替えるみたいにころころ変えることなんてできないのだから。それにリタラリーな文章を書くっていうのは、苦しいけれどやりがいのあることではあるし、けっして嫌いなわけではない。好きじゃなきゃやってられませんや。表現するべき「何か」があって、それを形にしたいという欲求がある。それに私は私にとっての第一の読者でもあるわけで、読者の期待には応えないといけない。「私」という構造体はおおかた完結していて、もはや車輪は回り始めてしまっている。海原に漕ぎ出した後に後ろを振り返っても時間の無駄。精一杯やるつもりではいるんです、もちろん。

 
ですが、それでもちょっと「惜しいなあ」と思うことがないではありません。今よりも綺麗に踊れるテクニックがある。だけどそのやり口にさっぱり愛着を感じられないので、食指がそそられず、結果として上達するようなこともない。この辺はのんべんだらりとした私の生のなかでも、ちょっぴり悲劇的な部分じゃないかなと思ってますね。そして今フト思いましたが、私が才能の安楽死(なんかいつの間にかこの言い回しが定着しちゃってますな)に肯定的な理由の一端として、この辺りの経緯があるのかもしれません。人それぞれにとって最も「身の丈に合った」生き方と、その人その人がナイーブにも「望んでいる」生き方のズレ。それを補整する選択肢は残しておくべきなんじゃないかなと。それが可能なのかどうかは分からないですけどね。だけどこのままじゃあドン・キホーテを量産することになりかねない。それも風車に突進するようなある種の滑稽で純粋な行動力のあるドン・キホーテじゃなくて、病床に臥せって妄執に取り付かれながら徐々に徐々に衰弱していく見るも無残なドン・キホーテをですよ。そういった人々を想像するとき、あるいは人々のそういった側面を見せ付けられたような気がしたとき、私は心の底から悲しい気持ちになって、叫びだしたくなるんです……ってまた偉く仰々しい上に曖昧かつ抽象的で、意味の取りづらい言いっぷりだなあ(苦笑) 申し訳ない。

 
とまあ、書こうと思えばまだまだ書けるような気がしますが、そろそろ疲れてきたのでこの辺で切ります。長々と独演会まがいのことをヤラカしてすみませんでした。まあアスペルガー症候群患者の一類型として、何かしらの参考にでもなればと思います。自分自身ことについてぺらぺら語り明かすっていうのもアスペルガーの特徴なんだそうですよ。その点、私はそこそこありきたりなアスペルガーなのかもしれません。もしかしたら全然別物なのかもしれませんが。私の「確からしい足下」は未だ形成過程で、はっきりとしたことはまだ何も言えやしないんです。もしかしたらこれからもずうっと言えやしないのかもしれない。それを思うと酷く怖くなりますが、反面、「確からしい足下」を育てて行くっていうのはある種の楽しみにもなりうるのかもしれません。

 
なお、ニーチェに関しては、そもそも致命的な問題点として「私がニーチェを散文的にしか読んでいない」ってことがありまして、本当にあの一文は「単なる私の印象」なんですよ。しかしこの記事を読ませて頂いて、耳蝉さんのスタンスは理解しました。たぶん出来ている、はずです。もっともそれを論じるだけの頭が私に無いのが残念ですが。それでも、刺激にはなりました。私が私の文章を書くとき、その刺激を反映させられるよう頑張りたいと思います。独り善がりかもしれませんが、それが私に出来る「答え」の形であるように思いますので。


敗北感といってもまぁ別に僕はCarchemishさんと言い争うつもりは無いですし、まぁこれは競争じゃないですからね。あと別にどっちが優れてるというか、どっちの意見が優れているかっていう問題でも無い気がします。特に僕にとっては安楽死論が盲点だったわけで、ハッとさせられたわけですね。まぁ今日の書き込みを見ていただいても分かると思いますが、僕は今、正反対の位置にいるわけですけど、それは今の僕みたいな環境ありきなわけで、「世の中のADDよ!リミテーションを外すのだ!」みたいなことは言えませんね。悲しい事に安楽死するしかないような社会で生きていかなきゃいけない人達もたくさんいるわけで、そういう人達にとっての僕の意見というのは、ただの勝ち組の成功理論にしか聞こえないでしょうね。これは成功哲学パラドックスなんですね。成功哲学といってもネカフェ暮らしの派遣労働者成功哲学とか読ませたところで、それを実行出来るような基盤が彼らには無いんですよね。それは彼らの能力が無いのではなくて彼らの環境がそれを許さないっていう意味です。そんな環境を作らないのが政府の役目じゃないかって当たり前のことなんですが、それを政府がやらないからまぁ政府打倒しかないんじゃない?ってことになってまぁ基本的に政府打倒のまぁ体制側から見れば危険な政治思想にばかりのめり込むようなことになるわけですが、それはともかく、コモンセンスとかに関してもそれは僕が前に書いたようなことと同じで「コモン」というのはあくまでマジョリティにとってのコモンですよね。コモンセンスという概念は恐らくトマス・ペインから由来しているものだと思いますが、まぁそれが事実かはともかくとして、マイノリティの意見が絶対であるというアメリカ的なマジョリティールールの原理がこの「コモンセンス」そのものに半ば民主主義的な概念の一つとして含まれているのは言うまでもありません。


ちなみにそんなコモンセンスを持ち合わせていないマイノリティの僕からすれば、Carchemishさんの二日前の書き込みはやるべきじゃないなんて全く思いませんし、それどころか議論というと大げさですけど、色々なアイデアがまたわき上がる源流となったわけで、僕にとっては最高のものであったわけです。返事をいただいたときは家に帰るのが楽しみでしょうがなかったわけです。というのはCarchemishさんへの返事を書くのが楽しみだったからです。そんなのもあってかまぁ今日のエントリーにもあるようのそんなテンションでいた僕にとってネットが使えないということは一大事だったわけで、それが鬱へのトリガーになったわけですが、それはともかくとして、そんなマイノリティの感覚に立脚していないどころか排除までして人権やマイノリティの自由を奪う共通感覚など糞食らえだと僕は思うわけです。そういう観点から言えば日本は本当に最低の国です。そういう観点から言うと僕から言わせてみればあんな国沈没してしまえとすら思います。まぁ沈没しては困るんですけどね。実際は。で、今日のエントリーにもあるように、アメリカにはマイノリティールールというマジョリティを排除するかのようなマジョリティールールという名のタイラニーがありつつも興味深いところは、そのマジョリティの部分にリベラルなマイノリティへの配慮とかマジョリティそのものの多様性というのがあるわけです。つまりはマジョリティの定義自体が相当広いんで、かなりそれが社会的に見れば包容力のあるものということになるわけですね。


それに比べて日本では「こうあるべき」というべき論が酷いので、だからみんなロボットみたいになってしまい、本来的なhuman beingからの本質的な疎外が起こり、結果的にホメオスタシスが保たれなくなっておかしくなる人が多くなるわけです。それは元々日本人が根暗なのではなく日本社会が腐っているから、だからあれだけの人が自殺をしたり鬱になったりするわけですね。社会的な厳しさ然りです。僕は普段からアメリカ的な適当さを社会に存在する「ゆとり」として高く評価していますが、日本は適当が許されない国ですね。まぁもっとも昔は恐らく適当だった部分や緩い部分が相当あったのだと思いますが、今の日本というのは完全に狂っていますね。あんな社会のあり方が良いはずがありませんね。だから僕の一貫した日本批判というのは変な言い方になりますが、基本的に的を得ていると思っています。あんなもの全く認められるものではないわけです。その証拠に一部を除いてみんな不幸ですよね。日本人は。アメリカ人は経済的に不幸だったり生活が苦しくても日本に比べたらハッピーな人が多いわけです。それはホットドッグ屋で働いているメキシカンの移民ですら良い笑顔でいるわけです。この違いたるやもう僕が日本に帰れないと思うのが全く正論と思えるぐらい体感幸福度というのが違います。


で、僕の勝手な理解だとCarchemishさんの「マズったなー」とかって思う感覚も社会的な包容力の無さから来ているものなわけですね。変な比較になりますが、それはアメリカみたいな適当な国だったら気にしなくてもいいような些細なことを日本では気にしなきゃいけなくてなおかつそういったものを気にするという習慣が身に付いていますから、結果的に僕らのような人間にとって最悪とも言えるぐらい住みづらい社会になっているわけです。書き込みを見ていてCarchemishさんは過去の僕と同じであくまで共通前提みたいなものが日本のマジョリティになっていると思います。なので違いのあるCarchemishさんの様々な行いが、Carchemishさんが持っている「普通の日本人感覚」から言うとマズいように思えてくるわけです。これは本人にとっても見えない凄まじいリミットなわけですね。まぁ見えない監獄のようなものです。僕もこっちに来てからこういったことに自覚的に気がついたわけで、日本にいたらそれが当たり前なので分からないのは当然ですね。


あと繊細な人達の話ですが、僕が思うにそれは自律神経系が弱いというよりかは敏感という感じがするんですね。その証拠に馬鹿は鬱になったりしないわけです。人の立場になって者を考えたり、エンパシーのような感覚がない人達にとって鬱やパニック発作というのは全く想像出来ない感覚なわけですね。僕の親戚にそういった人がいるのでそれはよく分かります。別にこの親戚に恨みがあるわけではないのですが、彼らにしてみたら繊細という感覚や鬱になるという感覚が生涯にわたって理解出来ない感覚のままであり続けるんだろうなって思えるわけです。消化器系がズタボロになるというのも僕やCarchemishさんの消化器系が弱かったり自律神経が弱いのではなく、敏感だからそうなるわけですね。この敏感という繊細な感覚が鈍感な連中には理解されないわけで、こういった連中がアスペルガーやADDなど存在しない!だとか鬱とかパニック発作だなんてただの言い訳だ!なんて言うわけです。それはアメリカの本を読んでもそういう理解しない人達が多いということが書いてあるので、これはもう普遍的なことなんでしょう。世の中の大多数が鈍感な馬鹿ってわけです。まぁ馬鹿は言い過ぎかもしれませんが、まぁ繊細さは持ち合わせてないというわけですね。そんな鈍感で愚鈍な連中に繊細なマイノリティが適応しなきゃいけないみたいな世の中になっているわけで、だから繊細組が苦労したり自殺したりするわけです。繊細組が残酷な被投性を味わわなきゃいけないというのが今の世の中です。それは日本と比べてリベラルなアメリカですらそうなのですから、日本における残酷な被投性の残虐さたるやもうホロコーストの比になりませんね。


ちなみにその3時間ずつスケジュールがズレ込んでいくというのも適応力の低さというよりかはそれはそういう人達が元々持っている性質なわけです。適応力が低いという感覚もまたコモンセンスから来ているわけです。つまりは一日7時間睡眠ぐらいで十分で24時間サークルでちゃんとやっていけるマジョリティールールの法則から来る3時間ズレ込むという性質を持った人達への排除があるわけですね。なのでそういう人達のことも考慮して例えば労働時間のフレキシビリティなどがあればそういう人達は今よりかはかなり生きやすいと感じるようになるでしょう。それはADDの本にも書いてあったことで、時間がフレキシブルというだけで、単純作業や繰り返しが苦手なADDの人達ですら比較的そういったものと付き合いやすくなるわけです。「朝起きるのが普通」なんていうのもマイノリティの意見を排したマジョリティーの暴論です。夜のほうが効率が良い人達もいるわけで、そういった人達のことも配慮するのが社会の役目なのにも関わらず、特に日本みたいな国はみんな朝起きて同じ電車に乗って通学・出勤するというのが当たり前なんですよね。かつてのソ連の労働者みたいなもんですね。メモリーズという映画の砲台の街だったか、大砲をただ発射するだけに人々が動かされているナンセンスな社会というか街というのが描かれているんですが、あれはソ連や日本的な集産主義的な全体主義カリカチュアなんだと思います。


なんというか僕はこっちに来て色々と思索をしたり色々な人達と出会ったりすることで世界観が広がったのは言うまでもないんですが、いかに今までの僕のアイデアというのが特に日本的なアイデアによってリミットをかけられていたかというのが本当に明らかになっていると思うわけです。なので僕の考えはポジティブと捉えることもできますが、むしろそれは逆で、僕の考え方が本来の考え方で、ネガティブな考え方というのが日本的な安楽死的発想なんだと思います。まぁ本来性という言葉を使うと誤謬がありますが、つまりは僕が言っているようなことが真実というかまぁ正論たるべき意見なわけです。そういった意見もある、ではなく、それはゲイやレズビアン達が市民運動のようなものの果てに得たゲイやレズビアンや性的マイノリティの市民権なわけで、僕が主張しているのはADDやアスペルガー鬱病患者や分裂病患者も含めた精神病患者の市民権です。僕らのような人間が当たり前のように排除されている社会というのがまともなわけがありません。なのでそれは変える必要がありますし、それは市民権運動が普遍的な揺るぎなき正しい価値を得ているように、僕の精神病患者の市民権という主張も基本的には過去にあった市民権運動と同じ概念なわけですね。なので僕はこれをはっきりと「正論だ」と言いきれるわけです。


ところで気になったのがCarchemishさんが脳内麻薬全開期を降りた理由というのは何だったんですか?答えれる範囲内でお答えいただけますか?というのは僕の今日のエントリーでも書いたようなことが、つまりはその脳内麻薬全開期というのを僕らが常に保ちながら能力を発揮出来る社会というのを目指すというのが僕らのようなマイノリティにとっての市民権運動そのものだと思うんですが、どうでしょうか?で、僕の実感としては、少なくとも今の僕の生活圏では僕は脳内麻薬を抑えず全開でいるほうが全てがうまくいくという実感があります。モテているとか声をかけられる率が高くなったとか色々な人から褒められるというのは妄想でも誇張でもなんでもなく事実です。こういった事実が僕のADD=超人説を裏付けているわけですね。つまりはそれは理論レベルではなく、僕が実行をして証明してみせれば僕の理論は正しいというわけです。


あと「適性」と「執着」のズレですが、それは今の僕で言うところの英語で書いたり喋る事の葛藤と似たようなものだと思います。つまりは特に昔は興味がある本を買ってきても英語をスラスラ読めないという問題があって、それそのもの自体に執着があるのに、言語のおかげでそれに対応するような適性が無かったというのが今までの僕でした。「でもそれは越えなければいけない壁なんだ!」と自分に言い聞かせて日常単位で個人レベルで困難な英語というものに向かうことで僕はその適性を得たわけです。で、それが今の結果です。難しいシュトラウスのような本を貪り読む事が出来ているわけです。もうこれが楽しくてしょうがなくて、もう日本語の本を読む事を必要としなくなりました。最近はブックオフとか紀伊国屋に行こうと全く思いません。これも僕が「執着」への「適性」を得たおかげでしょう。ちなみに僕の葛藤はまだ終わっていません。ウォール伝にもあるようにエッセイは書き直しを要求されますし喋りも全然ダメです。でもそのダメというレベルはネイティヴレベルで見たときの「ダメ」なんですが、それは僕がこっちの大学にいるのでこの感覚は当たり前の事です。「留学生の割には」という感覚が通用するのは英語学校までで、大学に入ってしまうと残酷なぐらいネイティブレベルの英語と僕の幼稚な英語のレベルの差を感じるわけです。「そんなの当たり前じゃん」と言ってしまえばそれまでですが、少なくともこっちでやっていこうと思っているのなら、それは当たり前じゃなく、克服しなければいけない壁なわけです。


実際は合っていることに対してそれを合っていると思うのなら自分を合わせるということも必要なんだと思います。それは本質的に自分に合っていることだからこそ適性を養う価値があるわけですね。興味が持てないことにノイズは発生しませんよね。僕にとっては少なくともそうです。天文学の授業の時はもう白昼夢の中の白昼夢って感じです。おかげでミックス制作のペースが上がっているわけです。かつてレジのバイトをしていたときに客が来ない時にミックスや曲作りの構想を練っていたのと同じですね。これはノイズが発生していてはありえない話です。ノイズが発生しているということは脳がそれに反応しているということですよね?これは僕はCarchemishさんじゃ無いので分かりかねますが、この辺はどうなんでしょうか?


もしくはその「綺麗に踊れるテクニック」というのは僕にとってのアカデミックライティングのようなものなのでしょうか?僕はフリーライティングしか出来ないので、アウトラインを書いてぴったりとシステマティックに書くようなアカデミックエッセイが死ぬほど大嫌いです。今日もシステマティックに書き直してこいとエッセイのやり直しを求められました。しかしながらフリーシンカーな僕としてはシステマティックに書くということが苦痛でしかありません。ウォール伝もそうですが、もっと分かりやすく書けばいいのにそれをやろうとしないし、やることにも興味が無い。それをやればもっと凄くなれるというか、もっと読者が増えたり学校での評価が高くなるかもしれないのに、フォーマルな文章の書き方やシステマティックに何かを書くということに全く興味が持てないので、仮にそれが出来ればもっと綺麗に踊れたとしても、それ自体に興味が無いのでやりたく無い・・・というようなことがCachemishさんのおっしゃっていることに近いのでしょうか?


仮にそうだとすれば、僕の超人理論では、そんなものを気にせずともフォーマルな書き方を要求している側を屈服させるぐらいの凄いものを書いてしまえば、主導権はこっちにあるっていう話なんですね。つまりはこっちが凄くなってあっちを凌駕してやろうじゃないかというのが僕の超人理論です。それが学校のエッセイだとしても、システマティックではないにしても、基本的な文章のストラクチャや語彙、文法といったものは完璧にしてしまえば先生も文句を言えなくなるんじゃないか?って勝手に思っているわけです。「ビル、お前は特別だから許す」とかって言われるぐらいの文章を僕が英語のフリーライティングでやってしまえば、学校の先生は僕に屈服してしまうだろうという考えです。些か傲慢ではありますが、そういった不器用な力技でしか自分の能力を発揮出来ないわけですから、だとしたらそれを徹底的にやるしかないなというのが僕の考えです。


これを実行出来てある程度の結果が出来てそれが自分の生活そのものになったときこそが「望んでいる」生き方と僕の生き方そのものがインテグラルに一致した時だと言えるわけです。そういった「望んでいる」自分を徹底的に描きまくってそれに向かって突進するというダイナマイトな生き方をしてみようというのが僕の行き着いた決断といいますか、まぁ最近考えている僕なりの超人思想です。これはちなみに最終的に社会的なアクセプタンスやサンクションを伴って成立するものなので、ダイナマイトな生き方と社会的な生き方がコンパチブルなわけで、だからこそこれがインテグラルたる所以なわけです。どちらかが欠けても僕の超人思想は成立しません。なのでまとめると僕の考えは反社会的であるのにも関わらず、それが結果的に社会的なコントリビューションとしてワークするような、インテグラルな考え方というか生き方のモデルなわけです。危険も伴いますが、そもそも普通に適応するだとか、そこそこ社会と折り合いをつけて上手くやっていくということが全く出来ない僕にとって危険も何も無いわけです。なにしろそれしか生き方が無いわけで、ポジティブにそれを超人思想だと捉えても、ネガティブにそれを消去法により残ったやり方と捉えても、まぁ基本的には同じ事なんですね。それしか道はないというまぁ常に崖っぷちな生き方です。


まぁ常にエッジに居続けることでしか生きられない人間ということですね。なのでそのエッジに居る感じを活かすことでしか僕は生きられないわけです。そういった生き方を最近の僕の周りを見るとまぁ受容してくれているというか、評価してくれる人達がいるどころか、引っ込み思案でいるよりかはエッジにいながら自分をそのままの勢いで爆発させていたほうが上手くいくというのが感覚的に分かってきたので、あとはもう自分なりの超人思想の実行しかありませんね。その実行とプロセスとある程度の結果によって僕の考え方がワークしているというか、まぁある程度は正当性のあるものだと、僕のアクションによってのみそれが証明可能なんだと思っていますし、世の中の成功しているADDタイプの人達の大半がこれを実行して成功したという人達ばかりです。すでに先駆者がいるので、僕も同じ道を爆走して彼らみたいになるか、それ以上になってやる!っつーのがまぁ今の僕の考えです。僕が最初の開拓者というわけではないので、まぁある意味で気が楽と言えば楽ではありますけどね。その能力を活かして成功している人達がいるなら、自分もまたある程度は能力を活かす事で成功出来るだろうと先駆者達を見て確信出来るわけですね。なので意外とまぁ思ったよりリスキーではないということです。それしか道はないしそれが最善であるならそれを選ぶしかないですよね。


なので僕は自分のこの生き方に対して一切の妥協をしないことを決めたわけです。妥協するということが失敗への道なんだと認識したわけです。ADD的な能力や特徴を無理に抑える事然りです。これが僕にとっての失敗への道ですね。なので僕にとってはもう自分の行くべき道しか見えていないわけですね。そこに過去の痛い経験や酷い体験というものが重なっているので鬼に金棒です。ここで元々死ぬ寸前だった日本の引き蘢りという過去の要素が一気にプラスへの要素へと昇華するわけですね。なので今の僕はあらゆる意味でコンディション的に最高です。このコンディションであり続けることが僕の人生であるし、それは今、恣意的にハイな気分で語っている自分の考えから来るものではなく、二年前ぐらいに似たような事を書いていました。ただ今はそのちゃんとした道を常に見据えながら自覚的に進んでいくことの重要性を感じているわけですね。あとはその道を進む事で全てがうまくいくという実感を得ているという、まぁ経験段階ですね。なのでまぁ乗り続けて自分のディーゼルエンジンをブンブン言わせていれば自ずと結果はついてくるっていうわけですね。まぁここにティピカルな成功哲学への共通性を感じますが、まぁ結局成功するってそういうことなんだと思います。ちなみに僕が言う成功とは金銭的なものではなく、全てにおいてのことです。


ということでまた例によって凄まじい量の返信になってしまいましたが、いくつかのポイントについてお返事をいただけたら幸いに思います。


・・・・というのが今日のエントリーでした。つまりはあれだ、守るものを守ることである程度のものを得られる人は、あえて危険な道を選ばなくても何かを守る事で何かを得る事で生きて行けるならそれでいいんだけど、俺みたいに守るものもなくて、んで普通に生きているだけではホームレスになるぐらいしかないような人間にとって、それが危険な道であってもそれが道である限りはその道を歩むしか無いんだよね。これがまぁつまりはポジティヴにそれを捉えようが消去法としてネガティヴに捉えようが道は道でそれしかないってことね。なので俺が今みたいにハイじゃなくても鬱の時でも俺にとっての道はただ一つしかないのね。そこで世間体とかを気にしたり、自分の病的な部分をネガティヴに見たり、エンジンを抑えようとするとその危険である道すらからも落ちてしまうっていうことなわけで、まぁ常に絶望というか死と隣り合わせの生き方なんだよね。だからまぁ俺は浪人であるよりかは侍でありたいのね。なので俺は本質的な意味でアメリカにいながらも大和魂を持った侍ってわけ。日本の妥協しまくった大和魂を失った連中とは大違いね。なので俺こそがニューヨークで「俺はジャパニーズだ!」って言えるわけね。これこそが俺が日本人である所以だよ。俺は日本人であるしアメリカに住もうがそれは一生変わらない。で、大和魂を持っているけど、ナショナルな部分では現状ではアメリカに愛着を感じているっていうね、まぁ矛盾してないよね。侍が西部開拓時代の街に居心地の良さを感じてそこに居続けるみたいなもんだね。まぁ半分ジョーダン23のジョーダン11.5な話だけど、まぁそういうことだね。食うためだけに生きるなら俺は潔い死を選ぶ。これこそが侍でしょう。


武士道 (岩波文庫 青118-1)

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