共通善と便所と政治。その2。

mimisemi2009-04-05

はい、ってことで本編の共通善と便所と政治からの続きです。


まぁこれだけが全てじゃないんだけど、前にも書いたかもしれないけど、こういうのってまぁある意味過去から言われ続けてきたことだよね。シュトラウスの元ネタであるソクラテスプラトンアリストテレスは言わずもがなだけど、孔子も同じようなことを言っていたし、恐らく老子も同じようなことを言っていたよね。古代ギリシャ哲学と仏教や東洋哲学との共通点はともかく、まぁ俺にとって凄く興味深い概念がヴァーチューって概念なんだよね。古代ギリシャでも中国でも「徳」という概念があって、しかも両者とも直接的な関わり合いがあったわけでもないのに凄く似ているんだよねっつーかほぼ同じなんだよね。


まぁヴァーチューという概念に関してはもっと研究が必要だとは思うんだけど、まぁ少なくとも今の俺にはそう思えるね。そのぐらいヴァーチューという概念は普遍的で、いかなる相対主義や歴史主義にも屈する事が無い絶対的な概念で、なおかつそれはほぼ全ての人間が訓練して得るに値するものなのね。ヴァーチューって概念が古代ギリシャから今にも劣化する事無く受け継がれてきているという歴史そのものがむしろその普遍性を語っているとも言えなくもないよね。なので相対主義的になったりニヒリスティックになって全てを諦めたり俯瞰しながら笑みを浮かべるニヒリストになったりするなんてもってのほかなんだよ。それはただの愚か者なんだよ。ましてや哲学という学問にコミットした上で相対主義ニヒリズムに陥るなんて最悪だね。哲学がそんなものでしかないのならこんなもの世の中から消えるべきだし学科から消えるべきだね。それこそ一般的に言われるような「哲学なんて意味ねぇーじゃん」ってのの説得力が増すわけでさ、まぁ哲学が本来そういうものなのであったとしたらまぁ俺も「意味ねぇーじゃん」って意見に賛同するね。でも俺はそうじゃないって分かったからまぁよりコミットする心構えが出来たんだけどね。


中島義道が「馬鹿じゃないのか!こいつは!青臭い!」って言いたくなるような哲学的パッションね。まぁ俺は幸いなことに中島義道が持っていない哲学的パッションを持っていたってわけだね。まさしく哲学ってのはこういったパッションというかさ、哲学というものを受容するレセプターとしての魂みたいなのが無いとダメなんだろうね。それは他の学問と同じく、数学には数学者の才能があるわけだし、科学者には科学者の才能があるように、哲学にもまた哲学者の才能ってのがあるわけだね。で、恐らくその才能の一つにまぁパッションがある魂ってのがあるんじゃないかな?って思ったわけね。プラトニックなイデアというかなんというか。


で、シュトラウスの教えというのもまぁ俺流に解釈すればこういうことになるかもしれないっつーのはね、ようは一般的に流布しているシュトラウスシュトラウス派の冷徹で「フハハハハ」的なエリートのイメージっつーかさ、「フッ!愚か者達め!」みたいな視点じゃなくてね、まぁ人々が愚かなのは残念な事実だけど、だからこそ愚かじゃない賢人達が統治をしなきゃいけないんだっていうね、哲学的情熱なんだよね。哲学的情熱と賢人統治がどう繋がるわけ?飛躍してない?って言われそうだけど、それはまぁプロセスを見れば分かるでしょ?哲学や政治を考えれば考えるほど民主主義というものは不可能だし、まぁ可能であったとしてもそれは衆愚政治なわけで、結果的に社会を悪くするものでしかないってのが分かるんだよ。それは政治をやる前に人間の本質を見抜く事の重要性を説いていたというか分かっていたホッブズスピノザを見れば分かるよね。だから彼らの哲学にはまず人間への理解があるんだよね。人間ってなんだ?human beingとは?それを見抜いた上での哲学の延長上としての政治哲学があるわけ。それはシュトラウスも政治哲学をあくまで哲学のジャンルの一つだと見なしていたようにね。左翼がダメな理由もここにあるわけね。「事実」と「理想」を勘違いしているわけ。


性善説をナイーヴに信じて民主主義という理念に一生懸命なのが左翼なんだよね。ムーア先生しかりチョムスキーしかり。そこに彼らの実存や「思いたい」という欲求イデオロギーが事実を覆い隠しているというか、事実をごちゃまぜになっちゃっているんだよね。まぁ俺はチョムスキーの場合は前にも書いたように彼のような頭の良過ぎる人はそれをあえて分かった上で啓蒙しているんだと思うんだけど、大半の左翼はマジで民主主義とかhuman beingの良さみたいなのを信じてるからね。でもまぁあれでしょ、ムーア先生にしたって家に帰ったら鍵をかけるわけじゃない?ホッブズが言っていたようにさ、性善説に立つならセキュリティなんて概念はいらないんだよ。


「誰かが入ってくるかもしれない」と思って家の鍵を閉めるってことはさ、他者を信用してないってことだよね。ラカニアン的な他者性というのがそこにあるよね。一切通じ合えない完全に自分とは違った存在というか。性善説というか左翼的なhuman beingの理念だと「我々は分かり合える」なんだよね。いや、でも違うんだなぁー。分かり合えないから戦争がいつまでも起こるわけだし差別が無くならないわけだし強盗や殺人も無くならないわけでさ、そういった人為的な暴走を抑えるのが統治者の役割なんだよね。人が飢え死にするのを見たくない、人が殺されるのを見たくない、人が職を失って路頭に迷う姿を見たくない、こういったジェネラルで普遍的に半ばアプリオリに存在するコモンセンスというかさ、アプリオリな合意ってあるじゃない?「そんなの言うまでもねぇーよ」っていうさ、これこそがまさしく統治者が自由民主主義的な社会を国民にエンジョイさせるために必要な共通善なんだよね。


まぁあれね、ホームレスっつってもあいつらはただレイジーなだけだろっつー議論は置いておいてね、俺が言っているのは明らかに理不尽な社会的な理由でいきなりホームレスになるというのが良いことなわけないっていうね、自殺率が以上に高い社会が良いわけないっつー当然の立場というのが共通善という立場なのね。まぁこれまた自殺するやつはアホだとかっていう人もいるけどさ、まぁそういうやつの意見は聞く必要がないんだよね。そういう無知から来るそれこそドクサレベルの意見までデモクラティックに汲み取らなきゃいけないのが民主主義の弱点なわけでさ、民衆の地に政治がかかっているなら、まぁそんな政治体制が良い社会を作るわけないよね。だって共通善について理解しつつヴァーチューとかさ、リアルポリティクスの細かいことまで考えれるやつってどれぐらいいると思う?めっちゃ少数だよ。だからその優れた少数が統治するのは当然のことなんだよ。もちろんそれはね、学校の成績が良いだけの能力的なエリートではなく、まぁそういった地頭の良さは当然としても、特にシュトラウス的エリートの定義の大半を占めるのがヴァーチューの重要性なんだよ。ヴァーチューが無ければエリートじゃないわけ。シュトラウス流のエリートだとね。


でも世の中のエリートの定義ってなんかさ、金持ちの家に生まれた地頭の良い何かの二世みたいなイメージあるじゃない?親が弁護士とか医者とか国会議員とかさ、こういうやつらが東大出て官僚になったとしてもさ、東大出るだけじゃヴァーチューなんて身に付かないんだよね。東大出るぐらいの学力とか頭の良さは当然のこととして、それ以上に必要なのがヴァーチューなんだよってことなんだよね。最低動作条件無き推奨動作条件のみのソフトウェアってのがまぁシュトラウス流のエリートなんだよね。最低動作条件としては東大を出るぐらいの学力や地頭ってのがあるんだけど、そんなのは当然で、推奨条件というか必須条件としてはヴァーチューがあるわけでさ、最低条件を満たしただけじゃエントリーすら出来ないんだよってことなんだよね。あくまで必須条件を満たしたやつじゃないと統治者たる資格はないってことね。ところでこないだムーア先生やお転婆娘に指摘されたんだけど、色んな条件によってさ、ようはみんながエリートになれるわけじゃないじゃんっていうさ、それはみんながイコールな教育を受けられるわけでもないし、能力にも差があるじゃんみたいなね、んじゃあエリート以外はどうすればいいんだ?っつーツッコミがあったけど、これは民主主義に洗脳された人達の言うことでさ、ようはロジック自体はちょー簡単でさ、「みんなが政治に参加しなきゃいけないんだ!」って理念を叫びながら衆愚政治に陥ってコラプトする共通善なき社会とさ、理想的なデモクラシーの理念をあえてデモクラティックな社会のために無視するという立場から生まれる共通善が保全されたデモクラティックな社会だったらどっちがいい?って話なんだよね。


無理にでも民主主義の理念を押し通してダメな社会になるのか、民主主義的生活のために民主主義を捨てることにより善い社会を育むのかさ、まぁ民主主義を捨てる事=善い社会という単純な図式にはならないんで、まぁ民主主義を捨てることが良いことなのだとは言いきれないけど、でもまぁ俺はあれだよね、特にシュトラウスを通して民主的社会のための反民主主義ってのの考えがより深まったよね。小室直樹も言っているように民主主義が良いものだと思われているのはアメリカ建国の父達によるものでさ、長い歴史はずーっと民主主義を良いものだとは思っていなかったわけだよ。それを啓蒙主義の哲学者だのなんだのっつーのが人間の本質を無視した理念のみに立脚した民主主義論みたいなのを唱えだしてさ。で、ジェファーソンなりなんなりがまぁロックを参照してっつーかほぼパクって独立宣言書いたわけじゃない?


だからまぁシュトラウスの一番弟子のアラン・ブルームに言わせればアメリカってのは基本的にロッキアンってことなんだよね。あ、シュトラウスも同じことを言っていたのかな?ただロックってのは共通善ってのは元々人間には備わっていないが、それは啓蒙されることにより個人的利益が共通善に繋がるようなことになるのだみたいなことを言っていてさ、ようは啓蒙された人達が共通善に向かって彼らと彼らの社会に必要なもの、例えば強くて頑丈な経済だとか技術だとかを磨くことっつーのがようは自動的に共通善に向かう事と啓蒙された人達にとってはそれがイコールになるのだみたいなことなんだけど、ブルームに言わせればこれはヨーロッパのブルジョワ的概念で、この結果が美しい魂が不在の即物的なマテリアリズムだのエゴイズムだのを生み出すって言ってるんだけどさ、まぁアメリカってそういうところあるよね。


「金儲けは良い事だ。なぜならそれは経済を強くするからだ」みたいな根本的な金儲けに対する正当性への強固な信仰があるよね。これをアメリカの根底的な概念を生み出す事になったロックの影響とするかはともかく、金儲け=共通善という単純な図式がコラプトしてそれが共通善と乖離したただのエゴイズムに成り果てるっつーのはさ、アメリカみたいな国にこそ言えている気がするよね。まぁそこでウォール街だのサブプライムの話だとかは出さないでおこうっと。あんま経済については分からないからね。ウォール街の連中っつーかアメリカのビジネスが好きな連中が金儲けに一切の自責の念っつーかさ、何か後ろめたいものを感じないのって、なんかやっぱまぁ共通善というよりかはそれが良いことなんだっていうような激しい思い込みがあるよね。ユダヤの教えみたいなビジネス書みたいなのを読んだ事があるんだけど、まぁそれでユダヤを理解するかはともかくとして、ユダヤ人のガメツさというか金儲けの上手さってのが分かった気がしたね。ようは金儲けってのが徹底的に良いことなんだって思われてるのね。まぁうろ覚えのビジネス書の話なんて信憑性はともかくとしてもね。まぁロックとの繋がりはともかくとして、それが勘違いの共通善であっても金儲けと共通善が少なくとも理念のレベルでは繋がっていればまだいいよね。


それがロック的なものであったとしても無かったとしてもね。ただまぁ今なんつーのはあれだろう、みんなエゴだろうね。「良い」という感覚もあくまで自分たちにとって良いだけであって、共通善なんて考えてないっつーね、そういうやつが大半だろう。ところでお転婆娘が書いているエッセイのポイントについては興味深いところがあったよねっつーのはさ、アメリカ的っつーか西洋的な個人主義が社会をダメにしているんじゃないか?っつー論点だけどさっつってもこのお転婆娘は典型的な個人主義的アメリカ娘だけどねっつーかもうこれほど「アメリカ」ってのを体現したような娘はいないだろうっつーさ、日本で言うと古いけどコギャルみたいなのが一時期の日本のキャラクターを象徴していたように、まぁこのお転婆娘ってアンクルサムみたいなもんなんだよね。


まぁそういう意味で別にお転婆娘がこういう論点でエッセイを書いているといっても別にお転婆娘が反個人主義的ではないってことね。まぁお転婆娘は集産的社会で育った事がないから、むしろアジア的っていうか東洋的な集産的な社会はどうなんだろう?って思うんだろうけど、ある意味で共通善という概念はまぁ日本的というかさ、全体のことを考えて自分の利益だけ貪るようなことはしないようにしようっつーようなさ、聖徳太子的概念ではあるよね。でもそれが社会のレイヤーで起こってしまうと言うまでもないのがまぁ人材が育たないっつーか、悪しき類の平等主義になるんで目立ったやつとか才能のあるやつの足を引っ張ったり出る杭を打ったりするっつーのはまぁ前に散々書いたからいいけど、個人的社会のレイヤーだと個人主義はオッケーなんだよね。それは自己主張をするということがある意味で強固なサイコロジカルなエージェンシーとしてのエゴを必要とするようにさ、そこに「自己」という名のエゴが存在しないと「主張」は存在しなくなっちゃうんだよね。日本みたいな社会だとその肝心な自己が無かったり自己を控えることが美徳というか必要なことだみたいな風潮があるんで自己が生まれないまま個が全体性に埋没して終わっちゃうっつー悲劇的な社会観になっているんだよね。


だから一部の人を除いてみんながロボットのように振る舞うしか無くなるし、個を主張するものは村八分になるっつーことで誰も個を持とうとしなくなるし、むしろ全体性という観点が個性に先立っているのなら個性なんていらないじゃないかっつー個人にとっては最悪のことが起きるわけだよね。それは別にアイデンティティの重要性を主張するとかっていうようなナイーヴなことではなく、個を持つことでしか生まれないクリエイティビティなり能力ってのがあるわけじゃない?アメリカみたいに「お前は賢い子なんだぞ!」って育てられることで子供が良い方向に育つ可能性だってあるわけだよね?


これはソーシャルサイコロジーの先生が対比で言っていたことだけども、日本の場合「うちの馬鹿息子が」みたいな言い方をして、アメリカは「うちの姫が」とかさ「うちの王子様は」とかってまぁ謙遜をするしないっつーよりかはまぁ個ならぬ子に対する扱いというか他者とのコミュニケーションにみる社会性の違いっつーかさ、そういうのがあるよね。で、まぁアメリカ人ってのは特に女の子は一人一人がね、まぁこれは例のキャリアウーマンの人が言っていたことだけども、一人一人がお姫様みたいに育てられる結果、みんなわがままになるっつージレンマを抱えているんだよね。みんな自己主張が強くて自分勝手で我が強いっていうさ、まぁフェミニズム的視点から見ればむしろそれは理想的なのかもしれないし、それを良く無いと考えるのは男根的考えじゃないかっつーのは言えるけどね、でもなんつーかやっぱさ、まぁ俺もすげー日本人だなって思うんだけど、家帰ってきたらさ「あーおかりなさーい。ご飯できてるわよー」とかいいつつキスは忘れないみたいな、日本とアメリカの良いところをブレンドしたような奥さんがベストって思うよね。


でもアメリカの場合、キスはするんだけど、メシは冷凍ピザとかさ、奥さんがテレビ見てメシ作らないとかさ、「なんで私が!」とか言いだしたりするとかさ、だからまぁあんだけアメリカって結婚が上手く行ってないんだと思うけど、まぁ結婚が上手くいっている家庭の大半がまぁ奥さんが日本的な「ご飯できてるわよー」タイプなんだと思うよね。ようはワイフに徹していて文句を言わない奥さんっつーかさ、まぁ逆でもいいんだけどね。旦那がワイフやってて奥さんが大黒柱でもいいんだけど。で、なんの話だっけ?あ、集産的社会と個人主義的社会ね。まぁ俺が思うに個人レベルのレイヤーでは個人主義に越した事はないんだよ。それこそホリエモンみたいなやつがガンガン出てきていくらでも金儲けすればいいわけ。


ああいうのに嫉妬して杭を打ちたがるのが日本なわけで、だから日本っていつまで経っても資本主義が根付かないんだよね。ホリエモン的なものを支持するかはともかくとして、ああいう卓越した世間体とか気にしないで勝手にガンガンやって伸びていくようなやつってのは絶対必要なのね。ホリエモンが仮にアメリカに生まれてきていたらあんなことにはならずにまぁビジネスも上手く行っていたかもしれないねっつってもまぁビジネスモデルが日本じゃなきゃ成立しなかっただろうっつーのはあるにしてもまぁパーソナリティ的にアメリカ的ってことね。そういう意味でまぁ経済的にも能力主義的にも個を重視するほうが明らかに良い。ただ政治のレベルではやはりその個人主義的社会を保持するような全体性が必要なんだよね。それが俺の言うまぁ自由民主主義を謳歌する寡頭政治ってことなんだけどね。政治は社会に存在する個の能力を最大限に生かすようなアーキテクチャを創造すると。


で、社会に存在する個はその個が伸びるような社会システムを十分に活かしてガンガン伸びていくっつーね、まぁそういう社会では能力差が激しくなるけど、それはまぁしょうがないんだ。それがまぁ人間ってもんだから。でもそれは下にも上にもそれなりの生活があるっていう話なんだよね。収入が低ければ低いなりの幸せな家庭なり人生が送れるっていう社会ね。別に上にならないということが必ずしも不幸になるということにイコールではないということね。そういった意味での能力差による格差は人間の本質から言って当然なわけで、それは前に書いたように遺伝的に地頭が良過ぎる人間達には一生敵わないってことなんだよね。まぁあくまで地頭ってことではね。


思考能力や内面や精神性ではいくらでも勝てる可能性があるし、良過ぎる地頭を持っているということが良い人間性を持っているということにイコールにならないのと一緒で、地頭以外で勝てるっつーかまぁ比べてもしょうがないんだけど、頭や魂の磨きようではいくらでも彼らの上になれるってことね。そういう意味で下に見える人間もそういった自由民主主義的社会では上になることもできるわけだし、なにも地頭が社会的地位を規定するというわけではないんだよね。下から上へというダイナミクスが常にワークしていて能力差による流動性が激しいっていう社会ね。これこそがまさしく理想的な自由民主主義的社会なわけだよ。全然ユートピアチックじゃなくて現実的でしょ?なんでこういう風にならないんだろう?って疑問なぐらいリアリスティックなビジョンだよね?現状では資本主義ぐらいしか経済システムっつーか社会システムが成り立たなくて、なおかつ政治はどこもかしこも民主主義を掲げた寡頭政治ばかりで、どこも社会主義的平等性を嫌って右的な機会平等主義に重点を置いているっていうさ、現状ではほぼ俺のビジョンと似ているわけだよね。


でもまぁ何かが足りないっつーか、まぁそれは実質的に機会平等が設けられていないだとかそこまで実際は能力主義じゃないとかさ、まぁ色々問題があるからなんだよね。政治家もダメだし、まぁ俺の理想とする賢人政治とはほど遠いよね。まずはあの悪しき世襲制と利権に偏った政治体制を変えていかなきゃいけないね。私的利益の追求を公的利益と混ぜたりしているのがもうダメなんだよ。その辺のポリティカルヴァーチューを分かってないやつらが多過ぎるんだよな。まぁもっとも私的利益の部分を精神性に求めて、常に公的利益しか追求しないというか公的利益を追求し、共通善を保全して民衆に支持されることが精神的な部分の富に繋がり、その政治的主体も民衆と同様の幸せを感じられるなんて話がそもそも理想論だって言い方も無くは無いよね。ショーペンハウエル的な富の価値観を持った政治家ってのがいるんだろうか?って話でさ、いないからこそ哲学的政治家が必要なんじゃないか?ってことでさ、もしくは政治家が哲学的になるとかね、基本的にまぁ俗人じゃダメってことなんだよね。


政治ってのがさ、ポピュリズムではなく人格や具体的な政策やビジョンで計られるのならいくらでも政治家ってのは生まれると思うのね。でも実際は世襲っつーか親の七光りとか支援とか普通じゃ集められないようなコネとかお金を使う事で政治家になれるわけだから、そもそも選挙制のシステムがおかしいんだよね。それが能力ではなく財力やコネ勝負になっているっていうさ、だからこそ元々コネや財力がある政治家の二世だとか三世が政治家になったりするわけだし、パンピーが政治家になれたりするわけじゃないんだよね。ああいった明らかに不当な選挙制に不満を持つものがいなければっつーと極端だけど、まぁあんな中でさ、広告の量とかバラ撒きにダマされて票をいれるっつーアホな国民がいるわけでさ、このアホな国民とカネで票なり支持を得る政治家っつー関係性が無くならない限り政治は良くならないよね。その関係性を保全しているのが「民主主義」なのは言うまでもないでしょ?カネで買えないものはなんだ?それは才能であり魂であり能力でありヴァーチューであるわけで、優れたパンピーが現状の政治家に勝とうとするならば、こういったあいつらに無くてあいつらに買えないモノで勝負するしかないよね。そこで古代ギリシャ的、もしくはシュトラウス的哲学が大いに役に立つのは言うまでもない。だからシュトラウスの哲学というのは本来的な意味での政治エリートを育成する哲学なわけで、世間で言われているような支配者のイデオロギーではないんだよ。


冷徹なマキャベリアンではなく、徹底的な燃えたぎる魂を持ったヒューマニストであるマキャベリアンというのがシュトラウシアンということなんだと思うね。一般ではこのマキャベリアンであるというところで、一気に燃えたぎるパッション(魂)を持ったヒューマニストっつーところが相殺されちゃうんだよね。でもむしろそれは高貴な嘘という言葉の意味を「高貴」な嘘と解釈するか高貴な「嘘」と解釈するかの差みたいなもんでさ、前者が正しいシュトラウスの理解なんだとすれば、まぁマキャベリアンに関しても「燃えたぎるパッション」というところを抜きにしちゃダメなんだよね。むしろ強調点はパッションとヴァーチューのある哲学者ってところでしょっていうさ、マキャベリアンってところに強調点が行くのはおかしいんだよね。まぁ燃えたぎるパッションっつーのまぁあくまで俺の勝手な解釈だけど、でもまぁソクラテス的に魂を磨く事に全神経を集中するなんて哲学的情熱が無かったら出来ない事だよね。冷徹なマキャベリアンになんて出来ることじゃないよ。シュトラウスはある意味でそれこそ中島義道が一番馬鹿にしたくなるような人物だったかもしれないってぐらい純粋に哲学の力を信じてたんだよね。悪く書けばナイーヴにってことなんだけど、さっきも書いたようにシュトラウスは哲学と政治の危機を感じていたわけ。なんというか哲学的精神みたいなのが全然継承されてないじゃないか!っていうね、だからこそあの時代では珍しいぐらいの古典回帰に見えるポストモダニズムを発揮していたわけよ。そういう意味だと近代の超越者っつーのはシュトラウスに一番似合う言葉かもしれない。あんだけ純粋に哲学にコミットする人間が悪魔なわけないよね。


シュトラウスの政治哲学を古代ギリシャ哲学とマキャベリズムに立脚した冷徹なエリーティズムと定義することもできるかもしれないけど、俺は少なくともシュトラウスを読んでいてそれを全く感じないな。それどころかもうシュトラウスの哲学へのパッションと政治への危機っつーのを凄く感じるんだよね。どの思想家よりも哲学者よりも政治と哲学の存在を気にしていたんじゃないか?ってぐらいの入れ込みようでさ、冷徹はとは正反対のところにいるわけだよね。だからこそ俺はシュトラウスに哲学的なものとか政治的なものへのパッションのようなものを感じるわけね。激しいパッションがあるのでマキャベリアンになるしアンチユートピアニズムになるわけね。だからこそあれなんだ、ケネディのさ、「真の理想主義者は現実主義者である」ってことなんだよね。左翼のような理想主義者は真の理想主義者ではないというのを体現しているのがシュトラウスだと思うね。


なんつーかまぁシュトラウスのことを褒め過ぎかもしれないけど、まぁこれはあくまで俺の理解なんで。でもさ、シュトラウスへの不理解というか不理解による誤解ってのがさ、これだけメジャーになっちゃってるんだったら、それこそシュトラウスイデオロギーから解き放たれるのってマルクスがそうだったように時間を要するかもしれないね。やっぱネオコンっつーイメージ強いもんね。シュトラウス。俺に言わせればただの糞真面目な哲学者なんだけどね。で、シュトラウシアンってアメリカのヒップホップみたいにウェッサイ・イーサイ・ミッドサイってアメリカでもスクールが分かれてて、んで意見の相違とか結構激しいぶつかり合いがあるんだよね。まぁまず世の中で言われているような、シュトラウスの原著を教典とするようなカルトチックなシュトラウシアンスクール一派みたいなのがあるっつーのは大間違いね。実際はマジでヒップホップみたいなもんだから。ディスったりディスされたりって70年代ぐらいからあるらしいからね。そういう意味だとヒップホップより歴史が長い抗争なわけだよ。しかもどのスクールにも属さない完全に独立したシュトラウシアンってのもいてね、まぁさすがシュトラウシアンだけあって、個々が勝手に色々考えて色々なシュトラウスの理解や読みや主張をしているわけ。カルト的イメージとは対極だよね。え?俺の所属?俺はシュトラウシアンっつーかショタコンサバティヴですよ。前にも書いたでしょ。プラトニックに美少年を愛する反民主主義者ね。


ってことで一段落。溜めはまだあるからまた明日大放出します。


PS


King of Dickkin'のVol.18が完成したっつーかとっくに作ってたんだけどアップするの忘れてたんで、まぁアップしたんでそんな感じで。なんつーか夜中聞く感じです。


http://mushroom.cage.to/mix/dick18.mp3


Lacan Today: Psychoanalysis, Science, Religon

Lacan Today: Psychoanalysis, Science, Religon

俺にとって一番良いラカン入門書でした。