久々に閃いたので(洞窟のジレンマ)。

mimisemi2009-04-24

当たり前の事かもしれないけどちょっと地下鉄で思いついたことがあったのでっつーか勢い的にあれね、宇宙と脳の時ぐらいの勢いがあったね。ノート取り出してガーッ!と書きまくるっつーあれね、あれが久々に来たっつーのがさ、妙に石けんの匂いがするやつが俺の隣に座ってたんだけどね、あ、学校の帰りね。で、そいつがずーっとI-Phoneだかの説明みたいなのを隣の彼女だかにしてるんだけど、もう30分ぐらいずーっとそれで盛り上がってるのね。で、まぁ俺はいつものようにヘッドフォンをしてたんだけど、それにしてもまぁなんつーか喋り過ぎだろうってぐらい喋っててさ、んでまぁ彼女が降りたんだよね。どっかの駅で。んで石けんの匂いがするやつは俺の隣にまだ座ってたんだけど「なんなんだろう?こいつ?」って思ったんでチラ見したら中近東系っつーかあれね、インドとかパキスタンとかのあっち系のやつなんだけどね、移民かなんか知らないけどキラキラのI-phoneっつーかあのあれ、横にすると画面が横になったりするやつね、あれをティッシュでキラッキラに磨いてるんだよね。嬉しそうに。


で、俺はここでピキーン!と閃いたんだけど、ようはさ、これってマルクスが言ってた商品の物象化そのものじゃん!っていうね、つまりはフェティシズムだよね。物っつーか商品ってのがもう神みたいになっちゃってる。磨くほどのものだとは思えないんだけど、そいつにしたらピカピカのI-PODが神っつーかもう嬉しくてしょうがないものなんだろうね。で、俺は勝手にこいつがまぁどっかからの移民っつー前提で色々と考えたんだけどようはさ、商品が物象化するような社会のフォーマットってまぁ俺の定義があってるかはともかくとして、ウェーバー的なエートスだよね。行為性向ね。


んでさ、仮にこいつが全然面白くもない第三国からの移民でさ、肉体労働でやっと手に入れたピカピカのI-PODに喜びつつアメリカ社会を謳歌してたらこれってある意味でアメリカ的消費社会というエートスがつまりは万人に普遍的な幸福をもたらすってことだよね。中には原点回帰というか、消費社会みたいなのを否定する人もいるけど、やっぱなんやかんやでこれのおかげでハッピーな連中ってめっちゃ多いんだよね。こっちでもさ、SOHOとか歩いてるとみんな幸せそうな顔してショッピングしてるからね。これってのはさ、この俺が勝手に決めつけた移民が良い例でさ、様々なエートスがあっても結局、みんな好きなのってアメリカっつーか西洋的な消費主義社会なんだよね。だから結局ね、それは押し付けられたものっつーよりかは相対的に考えてもその国々にあった過去のエートスと比べても西洋的消費社会がなんやかんやで楽しいっつってみんなそれを進んで選んでるんだよね。だからエートスが根付くわけだし、つまりはエートスのインストールってのは神の見えざる手で行われるわけじゃなくて、人々のアクセプタンスによって行われるものなんだよね。それを西洋的な植民地化と言うまぁマルクス主義っつーかポスコロ系っつーのかな?そういう連中はまぁ批判的に言うんだろうけど、そうでもないんだよね。結果的に植民地的かもしれないけど、植民地化されてる人間達もその支配しているイデオロギーとかを喜んで受け入れてるんだよね。仮にそこに抵抗があればエートスって絶対根付かないはずだから、やっぱりアメリカ的というか西洋的消費社会というエートスが根付いている背景には人々によるアクセプタンスがあるんだよね。


で、これはもう普遍的なんだなってこのI-POD磨き屋を見て思ったよね。特に第三国っつーと失礼だけど後進国から来てる移民ってみんなアメリカ大好きなんだよね。みんなハッピーっつーかさ、それが幻想であったとしてもハッピーなんだよね。桃源郷的というか、それこそ自分たちの祖国と比べたら自由で楽しいわけ。で、この楽しさのアーキタイプというのがつまりは西洋的消費社会というエートスでさ、これはもう国や人種を問わずみんなこれが大好きなんだよね。


でね、俺はこれはもうある種の宗教だって思ったわけ。様々なものが物象化されることで生まれる社会のダイナミズムや人々の価値観を生み出す社会のアーキタイプそのものがさ、つまりは宗教なんだよね。それを資本主義と呼ぶかはともかくとして、まぁ資本主義的社会における消費主義ね。物とかお金が神様でさ、知識とか哲学とかさ、それこそ内面的なものってのの価値がどんどん無くなっちゃうっつーか、みんな見向きもしなくなっちゃうのね。で、みーんな人を上辺だけで判断するようになるわけ。そこでヴェブレン的なさ、衒示的消費ってのが消費の大きなウェイトを占めるようになるんだよね。ラッパーとかがさ、ストリートから這い上がったっつーのを見せびらかすためにジュエリー系をすんげー身につけるっつーヒップホップカルチャーあるじゃない?あれはもう一種のスタイルになってるけど、これってのがもうさ、みんなそうなのね。みんなB-Boyなんだよね。みーんな見せびらかすための消費をしてるっつーかさ、ファッションが最たるもので、なんでブランドモノ買うか?ってロゴが入ってたりするからだよね。ロゴ入りのやつを着てるやつってマジで多いんだけどあれはマジでダサいよね。まぁシャネルのバックとかが良い例だけどね。あれにシャネルのロゴが無かったらただの鞄じゃんっていうね。


こういう表面的なものばかりが重要視されるというか、みんながそういうのを求めるようになるとそれと比例するかの如く内面的なものって消えて行くんだよね。最近だから俺がヴァーチューだのなんだのって言い出すってマジで時代遅れもいいところなんだよね。まぁ良い意味でね。これこそがまぁポストモダン社会でのプレモダンなんだと思うんだけど、それはともかくさ、ピカピカのI-Podっつーかマック電話ってこれから呼ぶようにするわ。マック電話ね。マック電話を買うことで幸せを得られるっつーさ、この幸せの体系の総体が消費主義なんだよね。内面的な喜びを求めるなんていつの時代もほんの一部の変わり者だけでさ、そういうやつらって大抵変人扱いされてるしされてきたと思うんだよね。俺もそのコロラリーに入ってると思うんだけど、それってパンピー的スタンダードという意味でのデフォルトが悪質というか俗悪だからさ、崇高なものっていうとあれだけど、内面的なものに価値観をおくっていうやり方がマイノリティになっちゃって変わってるってことになっちゃうんだよね。まぁ俺はそれ以外でも変わってるところが多いからまぁしょうがないんだけど、でもさ、なんかなんつーのかな?気難しい変人っつーかさ、それで終わっちゃうってどうなんだろうな?って気がするよね。別に啓蒙するつもりはないんだけど、大衆ってのがこういうのでハッピーになるならもうしょうがないよね。これはまぁ政治的な話でさ、こういう資本主義っつーか消費社会のドクトリンなりエートスっつーのをさ、それを人々がハッピーになるものとして人々が受け入れてるならそれってもう抵抗の余地ないよね。短所はいっぱいあるんだけど基本的にこれに勝る物は無いってことでさ、例えばロバートとかムーア先生みたいなウェイクアップ組っておせっかいなんだよね。


つまりはさ、宗教とか思想って自由であるべきだし自由じゃない?で、「そんなものは間違いだ!キミは騙されている!」って宗教を信じてる人に言うのって大きなお世話だし失礼なことだよね?その人はそれが良いと思ってやってるわけだから他人が口出しする余地はない。消費社会も一緒でさ、物が物象化する社会という名の一種の宗教を大衆が信じていてそれを基盤に社会が回っていてさ、んで一部のウェイクアップ組が「君たちは騙されている!」って言ったところでそれって大きなお世話だよね。彼らはそれで確かにスポイルされてたりもするんだけど、なんやかんやでそこからの恩恵も受けてるっつーか逆に「自分って何?」なんて実存的問いに悩むこともなくさ、ただひたすら消費とか社会的地位とかさ、そういうのを追い求めるっつーので彼らの人生が回っていたり社会が回っているならそれって文句を言えないよね?だって彼らはそれを良いと思ってやってるんだからさ、他人が口出しする話じゃないよね。いや、マジでハッピーなんだよ。マック電話をあれだけピカピカに磨いているのを見て本当にそう思ったわけね。


英語の先生もさ、もうおばさんっつーかおばあちゃんに近いんだけど、マック電話を見せびらかすっつーとあれだけど、私も手に入れたのよと言わんばかりに授業中に露骨に取り出したりしてたからね。バイブをオフにするとかっていうのでも別に出さなくてもいいわけだし時間を確認するっつっても別に時計は教室にあるわけだからさ、で、マック電話がピッカピカだったから恐らく見せびらかしたかったんだろうなって俺は思ったんだけど、この先生って当然バカじゃないんだよ。でもこういう割とまぁまともなおばさんですら衒示的感覚ってのがあるんだよね。まぁ俺のメガネもそうだよね。俺は好きでかけているけど、でもやっぱなんつーか見せびらかしたいみたいな欲求ってあるもんね。だってさ、メガネってかけてる側は見えないじゃない?靴とか洋服だったら見れるから分かるけど、完全にメガネって衒示的なものだよね。極端な話、見えるだけならコンタクトとかさ、レーシックとかでも良いわけだけど、でもメガネに凝るっつーか色んなデザインのものをかけたりするって完全に見せびらかしだよね。俺にはフレームしか見えてないんだけど、でも俺は色んなメガネをかけたいんだよね。これは完全に衒示的行為だと思う。


で、こういうさ、宗教的とも言えるエートスが色んな国にインストールされているわけだけど、抵抗とかの必要って無いよね。恐らくみーんなこれになんやかんやで満足しちゃってるわけでさ、社会主義よりかはマシだとかって思ってるわけじゃない?で、あとウェイクアップ側の意見もつまりは消費社会という宗教的なエートスを批判することができないようにさ、彼らが信じているエートスの体系について批判するのって大きなお世話なんだよね、ってことでもうこれみたいなのが永遠と続いて行くんだろうなって俺は確信したのね。資本主義以外の社会形態って恐らく今のところ無いだろうし、難点はいっぱいあるんだけど、でも結局みんなこれが好きなんだよね。ロバートとかムーア先生みたいなのは権力者が統治のために利用しているのが消費主義だみたいなことを言うけどさ、これって結局聖書とかと一緒で、聖書とかもさ、そういう言い方できるけどね、つまりは宗教ヘゲモニーに踊らされてるみたいなさ、でも信じてる側って結局、好きで信じてるんだよね。で、結果的にそれってもうさ、民意なんだよね。どうであれなんであれ我々は聖書を信じますっつわれたらもうそれって話が終わっちゃうわけよね。消費社会も一緒ね。どれだけ騙されてるって言おうがさ、結局彼らが信じてるなら彼らの信仰に口出しはできないわけだよね。


俺みたいな変わったやつが徳の重要性とかさ、内面の重要性とかを言い出したところでそれってもう変人の意見なんだよね。それがまぁなんつーか俺とかロバートみたいなのが変人なりに社会的に認められると崇高な人が言う崇高な意見みたいになるんだけど、今みたいなどうしようもない立場だとそれって変人の遠吠えなんだよね。で、そういうのに共感出来る人は少数だし、まぁ俺は資本主義とヴァーチューってのは両立可能だとは思ってるけど、でもまぁ消費とかに忙しい人に「ヴァーチューなのだよ」なんて言ったところで意味無いっつーか余計なお世話だって話になっちゃうよね。哲学にのめり込むやつ自体がすでにマニアックで変人的なわけでさ、そんなマニアックな連中が言う崇高なことなんて誰も信じないし、崇高かもしれないけど社会はそんなんじゃ成り立ちませんって言われたら話が終わっちゃうもんね。


だから常に哲学っつーかさ、洞窟を出た人達の意見っつーのはマイノリティなんだよね。ステイツマンとかってさ、マキャベリも言ってたように君主って庶民感覚が分かってないとダメだからさ、ある意味で洞窟の中にいた元囚人である必要があるんだよね。自分で気がついて洞窟を出たやつが囚人であったという感覚を理解しつつも囚人達のために洞窟を出る事をサジェストするためにあえて洞窟に戻るっていうさ、そこでなんだったっけ?「うるせー!黙れ!」とか言われて洞窟に戻ったやつって殺されるんだっけ?まぁそういうことだよね。囚人達が「うるせー!俺は影絵が大好きなんだ!」って言ってたらさ、「そんなのは幻想だ!」なんて言ったところで効果無いっつーか余計なお世話だって言われるのは目に見えてるよね。まぁ囚人が影絵って言葉を使うのはおかしいんだけどね。囚人達はそれを影絵だとは思ってないわけで。まぁそれはともかくさ、洞窟を出た人達って一部だし、洞窟を出てもまだ勘違いしてるロバートとかムーア先生みたいなのも大勢いるわけでさ、もう収拾つかないんだよね。マジで。洞窟を出る事の重要性を説くってさ、下手すると傲慢なことにもなりかねないし、他の人の信仰とか幸せを破壊する可能性もあるわけだよね?


だからまぁ俺は相変わらず一貫して意見は変わらなくてさ、んだったらまぁ洞窟は洞窟でもパペットマスター達が囚人達を最高に楽しませるように努力するとかさ、囚人達が洞窟の中でのたれ死んだり殺し合ったりしないような洞窟作りをするとかさ、それをまぁパペットマスター達と洞窟を出たステイツマン達が結託して囚人達が楽しいと感じる洞窟作りをしていくしかないんだよね。まぁつまりはまぁ賢人政治なんだけど、ちょっとこの比喩ベストかも。俺の賢人政治のアイデアを表すにはベストね。良い洞窟作りね。囚人達が影絵を見て楽しんでるならそれでいいじゃないかっつー立場ね。全ての人を啓蒙して洞窟から出すって不可能なことだし、一定の数っつーかかなりの数で洞窟内での生活をエンジョイしてる人達ってのがいるわけでさ、これはもう普遍なんだよね。マジで。今後も永遠とこの比率は変わらないと思うんだよな。ほんっとの一部の人たちがまぁ地頭の良さもあって洞窟を出るようなきっかけがあったっていうさ、まぁローティー的なアイロニストだよね。自分が洞窟を出たのは偶然の所産であるっつー立場ね。例えるならさ、洞窟内に相変わらずいたんだけど、洞窟内の連中に嫌がらせをされて、んで嫌気が指したんでそいつらと離れて生活しつつ暗い道を歩いてたら外に出られたみたいなさ、こういう偶然性ね。俺も囚人であったし、出られたのは登校拒否とか精神病のおかげだったっつー偶発性だよね。つまりは家に引き蘢るってことが洞窟を出る一歩だったってわけ。いや、意味も無く引き蘢りを肯定するつもりはないんだけど、俺の場合、登校拒否とかあとはまぁ今の状態はアメリカ亡命っつーまぁ他にも色々な偶然が重なって洞窟を出られたってだけでね、俺が凄いやつだからとかってことじゃないんだよね。まぁある程度の地頭の良さが必要とはさっきも書いたけど、それ以上にやっぱ偶然による所産が多いわけ。


政教分離って本質的に不可能だよね。資本主義には資本主義なり消費主義っつードグマという名のバイブルがあるわけだし、それを人々が信じることで社会が回ってるわけだから、なんらかのドクトリンと政治とか社会のあり方ってのを引き離すのって無理だよね。だったらやっぱさ、統治者ってのはそういうドグマを利用しつつ、なるべくみんながハッピーになれるように努力しないとダメだよね。それは洞窟を出ろ!っていうアジテーションをするのではなくて、洞窟内の生活を保障するという立場ね。いつの時代の政治家もそうなんだろうけど、本来的な意味での君主もステイツマンもいないっつーのはさ、政治家とか君主も同じ囚人だったりするんだよね。つまりは洞窟内からパペットとかに指令を出したり洞窟作りをしてるっつーさ、だから政治家も囚人と同じような幻想的な行動をするしさ、「洞窟内」の価値観に縛られて政治をやってたりするんだよね。だからもうお金が好きでたまらなかったりさ、芸者遊びが好きでたまらなかったりね、消費が大好きで豪邸を建てたり別荘を建てるのが大好きだったりね、これだからダメなんだよな。ステイツマンっつーのはマキャベリ君主論の概念に依拠してまぁプラトンの比喩と絡めつつ説明すると、元囚人が囚人達がいる様々な洞窟を見渡せるような洞窟の外の高い丘に立って囚人感覚で洞窟作りをするっていうね、まぁ洞窟の統治っつーか整備をするっていうさ、そういうことだよね。だからあれなんだよね、日本の世襲政治とかに見られるようなさ、パンピー感覚が無い政治家ってのは逆に問題なんだよね。「こんぐらいどうってことないだろ」ってボンボンにとって思う事がパンピーにとっては大事だったりするわけでさ、そういう意味でのまぁ世俗感覚ってのは持ってる必要があるんだよね。だから二世とかってダメなんだよね。エリートっつっても良いとこ出のボンボンとかお嬢様じゃダメなの。あくまで元囚人じゃないとダメなのね。囚人の家に生まれて洞窟で育ったっつー元囚人が統治をしないとダメなのね。


ってことなのよねぇー。だからもうなんかさ、アメリカ的消費社会のエートスってもう普遍なんじゃないか?って思っちゃったんだよねー。繰り返しになるけど、特にマンハッタンみたいな場所のコミカレだとさ、移民してきて幸せになりましたっつーやつら多いんだよね。生き生きとしながら消費社会にどっぷりっていうさ、貧しくて地味な母国の生活とは雲泥の差です!っていうようなね、まぁ彼らは彼らでリッチなわけじゃないし、バリバリ働いて消費を楽しんでいるわけだけど、でもやっぱ母国の地味で貧乏な生活より全然楽しいんだよね。バリバリ搾取されててしかも色んなものに騙されてるっつーかまぁ彼らの幸せっつーのは本当にただの現代社会における幻想なんだけど、でも幸せな彼らを見てると文句言えなくなるんだよね。ようはもうあれね、創価学会とかに入って熱心に勧誘とかしてる連中っつーレベルね。まぁ創価学会はリアルに害があるからあれか、まぁ人畜無害な宗教にどっぷりでハッピーになってるっつーのかな、それを健常者が見て「騙されてるよ」って言うのはおかしいっつーか余計なお世話っつーね、彼らがそれでいいならいいじゃないかって話がまぁ消費社会なんだよね。「いや、やっぱヴァーチューだろ!」って思ったところでさ、例えば仏教国から来たような移民達がバリバリのアメリカンの生活を謳歌してたらさ、これってもうエートスを彼らが主体的に選んでるってことだよね。ヴァーチュー云々言いながら生活してるよりアメリカンでいるほうが楽しいっつってみんなでSOHOで買い物してさ、新品の洋服とか靴を履いて満足するわけだよね。みんなこれが楽しいんだよ。いや、上から目線なのは分かるよ。薔薇の名前のコネリーみたいにさ、隠し図書館を見つけて「本だらけだー!どうしよう!」なんて興奮するやつらってのは少数なわけでさ、こういう人達をインテリとか賢者とか哲学者って言い方もできるけど、でもそんなの社会的なサンクションが無ければただの変人でしょ?俺もそうよ。


俺は崇高だという言い方は出来ないけど、でもさ、本を読むっつーか知的刺激を受けることに最大の喜びを感じるやつなんてそう多くは無いよね。それは崇高というよりかは少しぐらい知能とかが高くて頭がちょっと変わってるこれまた人間類型の一種なんであってさ、パンピーとは違うかもしれないけど、本に囲まれてるからっつってそれが「偉い」ってわけじゃないんだよね。偉くなるにも社会的なサンクションが必要だし、それが無ければただの変人だからね。それがまぁよく天才と変人の違いでよく言われるさ、社会に認められればそれは天才で、認められなければただの変人っていうね、そういうことだよね。だから「俺は洞窟を出たぞ!」とかさ「哲学するってことは洞窟を出るってことだ」みたいなさ、シュトラウスみたいなことを言ったところで、それってただの変わり者の意見にしか過ぎないんだよね。まぁ俺は全然崇高ぶってないし地でそう思ってるんだけど、でもこれを「人にも伝えねば!」って思うのってどうかな?って思うよね。これってすでにもう上から目線っつーかさ、ドッグヴィルのグレース的傲慢だと思うんだよね。囚人達に向かって洞窟を出ることの説法をするってずいぶんと偉そうなことだと思わない?俺はあんまこれは信じられないな。だからやっぱあれなんだよね、さっき書いたように洞窟をたまたまでも出られたんだったら出れない人達のための洞窟作りってのをパペットマスターとかと結託してあくまで囚人感覚でやってくしかないと思うんだよね。みんな洞窟にいることが楽しくてそれを信じてるなら洞窟を出たって理由だけでそれを剥奪する権利なんて無いんだよね。それこそ何様のつもりだ!って話でしょ?ある意味、殺されて当然っつーかなんつーか。


で、これは仏陀も言ってたっつーか仏陀だったと思うんだけど、悟った人ってのはそれを言うと村八分になったり迫害を受けるんで言わないで生活するか、あとはもう隠居するかみたいな言い方をしてるよね。つまりはそういうことだよね。彼らに直接何かを言うっつーのは悟りを開いたものとしてはどうなの?っつー行動なんだよね。で、そこで政治的なものにコミットするっつーのはウェイクアップって叫ぶことじゃなくて、彼らにとっての良い統治をするっていうことに尽きるよね。ウェイクアップ組はそういう意味で本当に勘違いしてると思うね。啓蒙ってマジで無意味だよ。だってみんな消費が大好きなんだからね。だから俺はなんつーのかな?洞窟とそこそこの関わり合いを持ちつつやっぱ基本的に洞窟を出て隠居したいんだよね。たまに洞窟に戻るっつーのは楽しみぐらいにしてさ、基本はまぁ洞窟から離れた小屋みたいなところで、goodと言う名の太陽の光を浴びながら生活しつつ、たまにパペットマスター達とかステイツマン達とか洞窟を出て隠居してる人達と喋ったりするっていうね、こういう生活をしたいんだよな。今、なんかさ、学校に行ってたりして思うのはなんか俺って洞窟を出て生活出来るだけの地盤が無いし能力も無いし経済力も無いから経済が回ってる洞窟に戻ることでしか生活できないんだなぁーって痛感してるんだよね。


洞窟は出てるんだけど、洞窟に戻って何かをやらないと生活できないっつーね、洞窟内での活動に依存しないと生きていけないっつーさ、そういう中途半端な状態だよね。お金さえあればホント、問題ないなって思うんだけど。洞窟内に戻りつつ洞窟で通用しているくだらないルールとかを守りつつ洞窟内で仕事とかしなきゃいけないと思うとさ、やっぱちょっと鬱になるよね。だからこそ洞窟の外の小屋で生活出来るっつー基盤を自分で作らないといけないんだよね。もうとっくに出てるわけだから、洞窟の外で自給自足の生活が出来ればいいっていうね、それは別に田舎に泊まろう的な発想っつーか畑とかを作るって意味じゃなくて、なるべく洞窟内の活動とは関わらずに生きていける方法を模索するってことなんだよね。俺って偉そうなこと言ってるかな?いや、でも昔からこの感覚って変わらないんだよね。ウォール伝っつータイトルもソローのウォールデンのモジリアーニだしっつーかまぁそれは自明としてもようは隠居マインドっつーのは昔から変わらないってことね。で、今はこうやってプラトンアレゴリーとか政治の話とかも絡めつつ割と具体的に説明できるようになったってだけで基本的なコンセプトはあんまり変わらないんだよね。だからなんつーかさ、このウォール伝にしても昔からまぁさ、あれだよね、コンセプトとしてはさ、精神病院の真っ白な隔離病棟に入院している入院患者が勝手に脳内の山小屋で隠居をしながら何かを書いているっつーことなんだけど、これはようはあれなのね、俺がまだようは現世に依存してやっていくしかないって意味で精神病院なんだよね。本当の山小屋で独立して生活出来るぐらいの何かが無いんで入院してるしかないっつーね、この宙ぶらりんな状態がウォール伝なんだよね。夢は本当の山小屋から何かを発信していくことなんだけど、まぁ今のところまだ無理っつーね、まぁそういうことね。


っていうのが今日の話でしたよ。いやーどこ行ってもこれは変わらないだろうね。ただ俺はなんつーか洞窟ながらも洞窟のあり方とか洞窟の模様とか雰囲気とか洞窟にいる人達が好きって意味でまぁこっちが好きなんだけど、まぁ究極的に言えばやっぱ山小屋生活が夢なんだけどね。で、それは別に実際の山小屋に住んでいなくてもね、例えば今の地下室みたいなところで社会との関わり合いとか依存は最小限に食い止めつつ自分の生活が出来たらそれはもう今の地下室が山小屋ってことなのよ。つまりは自立と自律だよね。ただこれをやるには逆に厭世的じゃいけなくてさ、世俗的な向上心ってのが必要だったりするわけね。そこから逃げるのと越えるのって似ているようで意味が違うからね。


んじゃあ今日はこの辺で。


PS


重要な事を書き忘れてたっつーかまぁはっきりとは書いてなかったんで要約みたいな感じで書くとようはアメリカナイズとかね、アメリカナイズ的な意味でのグローバリゼーションってのも社会学的な例えばdeindustrializationみたいな問題に関してはともかくとして、文化的なことに関してはコロナイズされる側が嫌々アメリカ的文化を受け入れているのではなく、むしろウェルカムってことで、その入ってきたアメリカンカルチャーなりウェスタンカルチャーなりが文化そのものを形成するようになるわけね。つまりはコーランをスタバで読むとかね、ナイキの靴を履いているネパールの女学生とかね、トラディショナルな格好も出来るしトラディショナルなスタイルで生活するという選択が残されているのにも関わらず、コロナイズドされた側がアメリカ的カルチャーをアクセプトするというのはそこになんらかの魅力や合理性のようなものがあるからだと思うんだよね。基本的にみんなコンバースとかナイキの靴をかっこいいって思うとかね、ジーンズにTシャツは便利とかね、そういう機能的なことでもようは魅力があると思うんだよね。


植民地化的な概念で言うとさ、まぁ分からんけどね、予想で勝手に書くけど、アメリカみたいな覇権国が第三国にアメリカ的カルチャーとか生活様式を「良いもの」とか「かっこいいもの」と宣伝して、第三国の人達にアメリカ的なものとか西洋的なものに対してのあこがれみたいなのを持たせるっていうね、まぁこれが植民地化の作戦なんじゃないか?みたいな話がありそうだけど、そういう要素が無くも無いにしても、結局さ、またウェーバーエートスの話に戻るけど、結局、エートスってのはさ、主体の選択が無いと根付かないんだよね。だから一方的にインポーズしてさ、嫌々受け入れてるっつーんじゃ、それってエートスにならないわけ。なんでスタバがあったりさ、みんなジーンズとTシャツになるのか?っつーとそれが良いからなんだよね。ようはどの国の人々もって言うのは言い過ぎにしても、アメリカ的生活とかさ生活様式みたいなのを進んで選んでるんだよね。だからあれだけアメリカナイズ化って進むんだけど、それってのはさ、人々はそれを選択している所産なわけよね。アメリカが一方的に植え付けて彼らの文化を抑圧してるとかってことじゃないんだよね。日本なんて典型的なさ、アメリカナイズが進んだことによって独自の発展を遂げた国じゃない?そういう意味で日本って世界一のポストモダンの国なんだけどね。色々混ざりすぎてフューチャリスティックってことでね、日本ほど未来型の社会って無いと思うんだけど、日本人もみんなアメリカ好きじゃない?アメリカの国家って意味じゃなくて、アメリカ的なものね。アメリカ映画とかジーンズとかナイキとかコンバースとかさ、ジャンクフード全般とかさ、まぁ独自の日本的な進化を遂げたジャンクフードなりお菓子ってのもあるけど、ポテトチップスなんてアメリカンカルチャーだからね。あれ。でもみーんな好きでしょ?クールポコみたいにさ「なにぃー!!やっちまったなぁー!男と言えば握り飯!」とかっていう日本男児ってあんまいないでしょ?みんなハンバーガーとかステーキとかって食べるじゃない?だからもう選んでるどころかそれが日本のカルチャーの一部になったんだよね。


こういうのと同じ事が色んな国であるわけでさ、基本的にみんなウェスタン化するわけよ。で、特にアメリカっていう様式はさ、しつこいようだけど、なんらかの普遍的な価値みたいなのがあると思うんだよね。それこそ日常レベルで「アメリカだなー!」って気がつかないようなレベルでアメリカ的なものが浸透しているっていうね、これこそがやっぱり文化的なものを規定するエートスだと思うのね。人々が進んでそれを受け入れて選んでいる以上、そこに批判の余地はないんだよね。いんやーそれは西洋的なものに対するあこがれでしょー!っつったところでさ、例えば日本人がみんな着物とか作務衣みたいなのにチェンジしつつ和食だけで暮らしていけるか?って絶対無理じゃない?それはもう西洋的なもののあこがれというよりかは西洋的なものの合理性とか便利さでみんなそれを選んじゃうんだよね。そういうほとんどの人達がそれに向かっちゃうみたいな普遍的な価値というとあれだけど、普遍的な何かっつーのがあるのがまぁアメリカ的様式っつーのかな?ジーンズとTシャツに代表されるようなね。仮にグローバリゼーションというのが文化の均一化をもたらすものだとしてもね、やっぱそこに根底にはさ、消費主義とかさ、資本主義っつーのがあるわけよね。これやるとみんなどの国も似たような国になっちゃうわけよ。で、それってのは結局みんな好きだからね、だから文化のグローバル化っつーかさ、世界の西洋化っつーかアメリカナイズ化って進んじゃうのよね。みんなそれを主体的に選んじゃうから。だからしょうがないんだよね。これに関しては。抗うっつっても無理。みんながそれを好むから。


有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫)

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