攻殻機動隊の話がちょいブレイク。

mimisemi2009-04-29

なんか前に書いた攻殻機動隊の話がちょいブレイクみたいな感じになってるみたいね。昔はこういうのって大事件で一喜一憂してたけど凄いもんで結構慣れるね。ハルヒの時とかアマゾンの時とかはしゃぎまくっててさ、これだけでもうご飯何杯も食えるって感じだったけど、今はそうでもないな。まぁ嬉しいけどね。そこまでの人気ブログってわけじゃなくて、むしろ定期購読の人達以外から発見されてちょっとポピュラーになってるっつーのが相変わらず嬉しい。だからあれなんだよね、有名人ブログとかのアクセス数って全然意味無いんだよね。有名だからアクセスが多いってだけで別に記事が良いってわけじゃないからね。まぁそれはともかくいくつかのコメントがあるんでお答えしたいと思うんだけどやっぱあれだよね、しつこいようだけどデフォルトため口ってやめてほしいね。俺って古典主義者だからやっぱネチケットって重要だって思ってるのね。いや、別に悪口言われたりしているわけじゃないんだけど、やっぱなんつーかネットでもっつーかネットだからこそデフォルトやっぱ敬語じゃないとダメだよね。ネチケットは完全に崩壊してるけど、でも俺はこれ言い続けるよ。マジで。


リア充とかさ、便利な2ちゃんねる用語をまぁたまにギャグ程度に使う事もあるけど、なんつーか俺が危惧してるのってネット言葉の2ちゃんねる化ね。デフォルトのネット言葉が2ちゃんねる風って由々しき事態だよ。まぁもっともパンピーのレベルがこの程度って言っちゃえばまぁ世俗化が進めばそれは必然的そうなるって言えるんだけど、でもさ、メディアとかもふつーに2ちゃんねる用語とか使うじゃない?テレビとかもね。ああいうのって元々オタク用語っつーか気持ち悪がられるようなさ、誇れるものじゃなかったと思うんだよね。使えばインテリジェンスとか品格を疑われるみたいなね、そういうのがあったと思うんだけどど、今はすっかり標準化されちゃった感じね。標準化って言うと言い過ぎだけども。ネットの俗流化が利用者の質の低下を招くのは大学とかと同じロジックで世俗化ってつまりはそういうことなんだけど、でもだからといって世俗化を許していいか?っていうとそうじゃなくてさ、やっぱあり方提起みたいなのはあってもいいと思うんだよねっつーか古株は言い続けないとダメだと思うね。


そうじゃないとモラルって風化して無くなっちゃう。まぁこれって社会全般にも言えることだけどね。その点、アメリカって元が適当なんだけど、最低限のところって常に保たれてるんだよね。完全に地盤が崩壊している日本とは大違いだね。で、これって人間の質の問題でさ、古株とか新規参入者とかっていう差じゃないんだよね。古株でもダメなやつは2ちゃんドップリだろうし、新規参入者っつーか2ちゃんみたいなのが割と有名になってからネット始めたような人間でも絶対2ちゃん用語みたいなのは使わないっつーかそんなの気にしないし眼中に無いみたいなね、まぁ俺はある程度2ちゃんの存在を認めてるっつーかまとめサイトとかは無駄が無くて面白いなって思うんだけど、ネット全体の2ちゃんねる化っつーのはヤバいよねって思うよね。2ちゃんに見られるような不毛な議論のやり合いがブログ同士で続くとかさ、SNS内で続くとかさ、これってようはネットの2ちゃんねる化だよね。


ユーザーの平均レベルがネットに反映されるとなると、つまりはネットのあり方が社会のあり方とまでは言わないながらも、利用者の質というかあり方みたいなのを反映するようになるよね。想像的鏡像としてのネットという社会みたいなね、これがあり方そのものなのだとしたらまぁそれは文句の言いようがないっつーか俺は無駄なことを言い続けているってことになるね。つまりは退廃した社会に徳を求めても無理みたいなさ、終わっちゃったらもうダメみたいなね、啓蒙なんて傲慢な事はするつもりはないしやる気力も動機も一切無いんだけど、世俗化っつーかさ、「俗」ってつまりはこういうことなのかな?って思っちゃうよね。ネットのあり方とか見てるとね。だから俗物ってネガティブなタームじゃない?元々パンピー的なあり方を卑下した言葉っつーかね、俺はインテリではないんだけど、世俗がバカすぎると相対的に頭が良いやつに見えたり思えてきちゃうみたいなさ、過去だったら俺みたいなのは絶対インテリとかって言われなかったのに世俗の没落のおかげでインテリに見えちゃうみたいなね、正論を言ってるだけなのに「硬派」みたいに思われちゃってたり、真面目なやつとか堅いやつとかって思われたりしたらそれって世俗の没落だよね。俺は高貴じゃないんだけど俗人のレベルが低過ぎて比較的高貴なほうに入っちゃうみたいなね、アヴェレージのテストの結果が悪かったんで、67点ぐらいでも割とクラスの上位に入っちゃうみたいなさ、そんなことだよね。頭の良さとかはおいておいてまぁ少なくともネチケットに関してはまさにそうだろうね。


ネットの2ちゃん化がこれだけ進むと俺みたいな古株のネチケット派がモラル古典派みたいになっちゃうんだよね。当たり前の事しか言ってないんだけど、修行僧みたいなことを言っているみたいなマイノリティーになっちゃうっつーかなんつーか。進歩ってのは古い物の良い部分という基盤を残したまま新しいエッセンスを取り入れたりしてもたらされるもので、古いルールを無用に壊す事で新しいものが生まれるってわけではないんだよね。文化ってのはそういう風に形成されるものなわけでそれは文化である以上、ネットだってつまりはそういうことでしょ?若いときは言葉遣いが酷くてネットでの言葉遣いも2ちゃんねる風だったんだけど、歳を取ったら変わるとかさ、そういうもんじゃないんだよね。言葉遣いに限らず人間のあり方って結局さ、主体の傾向性じゃない?いつまで経っても子供みたいなやつもいればさ、子供なのに大人びてるっつーか「偉いねぇーキミ!」って言いたくなるような子っているじゃない?これがつまりは人間の行為だよね。なんつーか英語で言うところのbehaviorってのが一番ピッタリね。だからつまりはbehaviorがなってなければ50過ぎでネット始めて2ちゃんねるに入り浸って2ちゃんねる用語を使いまくってるダメなやつとかもいるわけでさ、つまりはこういう個体のbehavioralなあり方そのものがネットに反映されて、それがあたかもネットの世俗化というか俗流化みたいな現象として映っちゃってるんじゃないか?って思うのね。behaviorって意味だとさ、例えば2ちゃんとかで自分の学歴自慢とかを2ちゃんねる用語とかを多用しつつ書いてるやつとかいるじゃない?あと「俺、ハーバード出身だけど」みたいなのとかさ、まぁ別に良い大学出てるからっつって人間の質が高いってわけではないんだけど、でもどうも疑わしいよね。


最高学府みたいなところで研究してたり研究しているやつがその研究対象に関するスレッドかなんかで2ちゃんねる用語を多用しながら何か書いたりするんだろうか?ってね、差別的な言い方になるけど、ゲットーに白人の特権階級が近づかないようにさ、2ちゃんねるにそんな最高学府出身のやつとかが出入りしたりするのかね?ってマジで懐疑的なんだよね。見るだけならまだしも書き込んだり入り浸ったりするものなのかね?と。で、俺の仮説としてはさっつーか仮説って言うと大げさっつーかかっこよすぎるけど、俺が思ってるような社会の上層部ってのは実は存在しなくてさ、ほとんど全てが俗人によって構成されていて、高貴な人間なんて一握りっていうね、それは知的に見える最高学府とかさ、知的にエリートな連中も人間的にはほとんどたいした事ないっつーね、まぁ逆を言えば人間的にたいしたことあるような連中にはパンピーは近づくこともできないみたいなさ、そういうのはあるかもしれないけど、でもその見えないハイソサエティーみたいなのにも俺は懐疑的なんだよね。それってただの超リッチ層ってだけでさ、一般的に連想されるようなハイソサエティーに属する人間達の高貴なあり方なんてのは実際は存在しなくてさ、差と言えば富だけで、人間の差なんてたいしてないんじゃないか?って最近マジで思うのよね。これを考えれば逆に東大出身っつーとあれだけど、最高学府出身とかのやつが2ちゃんに入り浸っててもおかしくないよね。あるのは学歴とか富の差だけであって、人間的な差ってそんなにないから富があったり学歴とかが高い奴でも俗っぽいことにコミットしまくるっつーね、そこで現れるのがつまりは大衆によって構成された俗悪な意味での社会だよね。支配する側も俗人で支配される側も俗人。


で、高貴な人間は社会に飲み込まれてダメになるか汚れるか、つまりはピュアな心ってのを維持するのが難しくてポテンシャルがある人も俗物化しちゃうっていうね、そういう意味で俺は高貴でありたいとは恐れ多くて言えないけど、スノッブでありたくないっつーのはマジであるよね。だから一切妥協したく無いわけ。まぁこういう生き方がまぁADDと超人で書いたようなダイナマイトとしての生き方なんだけどね、せっかく良い魂を持ってるのに、それを汚すなんて勿体ないでしょ?だから俺はそれを磨く事だけに集中しようと思うわけね。綺麗事抜かすな!とかって言われそうだけど、今の俺の魂のあり方は俺の生き方によって保全されてるわけだから、少なくとも俺の中では俺の生き方は間違いないはずなんだよね。あとはもう天職に就くだけみたいなね。社会が汚れてるとそれに影響を受けて汚染される人も多いわけでさ、そこの境界線の引き方が難しいんだよね。元々は良い魂を持ってたのに社会に入って汚れるしかなかったみたいなさ、だから社会がある程度綺麗なものであれば人々もまた綺麗でいられるかもしれないんだよねっつーか綺麗なままでいられる人ってのがある程度はいると思うんだよね。仮にその数が少なくても、そういう綺麗な魂を持った人達のためにもやっぱ善い社会作りって必須だね。


社会のあり方そのものが人々のあり方そのものを規定するわけでさ、だからまぁアリストテレスが言ってたようなね、人間ってのは政治的動物ってことなんだよね。政治抜きには人間は語れないっていうね、だからこそ哲学のコロラリーとしての政治哲学があるわけだし、それは社会科学というよりかは極めて哲学的な人間のあり方そのものに対する追求とか研究の一種なんだよね。政治哲学ってのはさ。で、俺はそこにしか興味無いんだよね。だからあんま社会科学には興味ないっつーね。興味があることもあるけどそこまで没頭は出来ないよね。あくまでやっぱ俺が興味あるのって人間のあり方なんだよね。その延長上としてサイコロジーがあったり認知科学があったり社会学があったりするわけでさ、あくまで全ての原因ってのは人間に帰するんだよね。だからあんま人間とか自分のあり方そのものに関係無いことに俺は全く興味が無いのかもしれないなぁー。利他的に見える政治みたいなさ、一見、自分と関係なさそうなものに凄まじく興味があるのは実はそれが凄まじく自分のあり方そのものに関わっていることだからなんだよね。だから啓蒙とかに全く興味が無いんだと思うね。ダイレクトに自分と繋がっているものとしての政治っつーのを変えたいっつーね、変えたいっつーとナイーヴだけど、まぁちょっとマジで嫌がらせやめてくれる?っていうぐらいのレベルでまぁ現状の政治にアパシックではいられないってことなんだよね。もうちょっとちゃんとしてくれるかな?困ってるんだけど。俺。っていうね、政治的なものを考える時にこういう感覚って重要だと思うね。


日本では言うまでもないけど、アメリカでもやっぱレベルの低いやつとか見てるとマジでそう思うね。そこで「俺って凄いんだ!」って思えなくてさ、それはなんか社会のレベルが低いだけとしか思えないんだよね。俺は普通の善い市民であるだけでさ、格別何かが優れているわけではないんだよね。恐らく。まぁマジで謙遜無しにね。ただまぁ時間があるからまぁ知識の詰め込みとか読書とかが出来るんで普通の人より色々詳しいっつーのがあるにしてもそれって別に俺の社会的状況がそれを許してるだけで俺が凄いってわけじゃないよね。まぁADD的な部分は凄いっつーか他人と絶対違うしまぁ明らかな変人ではあるけど、かといって変人だからといって他人より何かが優れてるとはならないよね。変人なのは認めるけど中身っつーか能力とかは別にそんな差はないですよっていうね、それがまぁ本音だよね。


まぁいいや。以下は返信になりまする。

z0rac アニメ S.A.C.には押井守は噛んでないよ。2ndはちょい噛み?/つうか原作嫁。原作のディティールはもっと細かいけど倫理感は逆にシンプル。 2009/04/28


今回、ちょいブームになったエントリーは2ndを見ていた途中に覚え書き程度に書いていたものなんですが、まぁ言うまでもなく結局見終わったんですが、攻殻機動隊に関しては大ファンを自称している割に原作は読んだ事ありません。ということで今回はよいきっかけになりそうなのでって言うのも変なんですけど原作を読んでみようかと思います。あと押井守が絡んでないんですね。大抵の難解な言い回しとか分かりづらいメタファーとかレトリックとかは押井の衒学趣味だろうとかって勝手に思ってたんですが違うんですねというか攻殻機動隊自体がまぁそういうフレーヴァーがあるんでしょうね。まぁとにかく原作読んでみます。

umeten 社会, 海外, 日本的なるもの, 政治, 歴史, アウトサイダー問題, 格差問題, 身体と精神, 批評 「エリート独裁」って、「全知全能の神様」とどう違うの?ねえ? 2009/04/28


では一応、いつものエントリー風の文体で僕なりに答えてみます。


質問があった「エリート独裁と全知全能の神様の違い」だけど、まぁあれだ、簡単に書けばエリート独裁は有限なるもので全知全能の神様は無限なるものってところかしらね?神様は全てを知っているアーキテクトみたいな存在なわけで、それこそ人知が及ばないような無限なるものだよね。で、エリートってのはただのその国における秀でた人間なんであって、違いは月とスッポン以上にあるっつーか、それこそ似た者同士として比較に出すのがおかしいぐらいそもそも根底的な存在のあり方や力のあり方が違いすぎるわけね。ようはあれだよね、エリートとか独裁って言葉の暴走だよね。どこの国だって大抵が寡頭制なわけでさ、結局はどこの国も民主主義とか社会主義の名を借りた独裁だよね。


で、投票とかの民主的なプロセスを経ているので、俗流エリートどもが金をばらまいたり組織票なんかを得ちゃえばエリートじゃなくても俗人でも金とコネさえあれば政治家になれちゃうみたいなまぁ言わば芸能界みたいなのが日本の政治界だよね。芸能界はまだ生き残りに実力が必要なのに対して、政治界ってのは実力が無くてもコネとか派閥とかでなんとかなるんで、所謂、ただのパワーエリートが支配するようになっちゃって、本来的な意味での政治的エリートってのがいなくなるっつーかまぁ少なくなっちゃうんだよね。エリートってのはつまりは他者より秀でた人間達ってことなわけで、ようは外交だの政策だの色んな面において、その国で考えられる有限なるものの知性により最善の選択が出来る人間達ってことになるよね。それはジェファーソンの言う通り、出身階級限らず優れた者達が見いだされて優れた教育を受けてガバナーになるってことだよね。まぁ俺はこういうエリート教育の重要性ってのをまぁしつこいぐらい言ってるけど、まぁこれって国に必要な人材なんで、まぁ育成するのは当然だし、頭の良いやつが社会をコントロールするのは当たり前のことだよね。


コントロールというのはエリートの意志通りという意味だけど、つまりこのエリート達がエリートに見える俗人だった場合、社会を利用して私腹を肥やすようなことがあったり自分たちの都合の良いように社会をコントロールするようになっちゃうわけで、だからこそプラトニックな意味でのステイツマンってのが社会をコントロールする必要があるってことね。なんか当たり前の事しか書いてないような気がするんだけど。俺。客観的に見るとラディカルでもなんでもないし、洗練されてるわけでもなく、政治哲学的に深いわけでもない。なんつーか自明の理しか書いてないって気がするね。ただまぁ言ってることがアンポピュラーなことなんで、まぁちょっと変わったように見えるだけで、実際は正論っつーね、背後に陰謀論も無ければ、凄まじく難解な政治思想があるわけでもないっつーね、残念ながら当たり前のことなんだよね。なんで広まらないか?っつーとみんなが民主主義を信じてたり、まぁ民主主義を良いことだっていう風に思ってるからだよね。知識人とかですら民主主義を前提に物事を語ってたりするわけだから、民主主義の威力ってのは凄まじいよ。


前にも書いたかもしれないけど、ようは過去におけるキリスト教みたいなもんでさ、自然に広まってんで誰もが信じてるっつーね、今考えると異様なんだけど、今の世の中もまぁ異様だよね。これだけみんな民主主義信じてるんだから。歴史的に見ても民主主義が良いなんて叫ばれだしたのはアメリカ独立以来なわけでさ、それまでは民主主義ってそんなに良いものとは思われてこなかったんだよね。でも色んな国で革命が成功したことで、なんつーか民主主義的理念みたいなのが広まったっつーか民主主義は可能だ!みたいな話になって、んでまぁだんだんとポピュラリティーを得るようになったんだけど、まぁ実際は衆愚政治だよね。ナチスの台頭も民主主義的であったり、ブッシュ政権も民主主義的であったわけで。小泉政権然り。「あれは独裁だ!」とか「ファシストだ!って言うやつがいるけど、結局、民主主義的なプロセスで彼らが政治家になっちゃったんだったら、それってもう文句は言えないんだよ。我々の代表者ってことになっちゃう。むしろファシズムってのはカリスマ的な独裁者が縦軸の力を利用して民衆を煽動することで生まれるダイナミズムなわけでさ、それはプラトンが言ってたようなデマゴーグに操られる愚か者どもってことなんだよね。独裁はみんなが独裁者に怯えて生まれるのではなくて、民主的な支持によって生まれるものなんだよ。


簡単に時代の不安とかになびいてしまう民衆に政治がまかされていたらファシズムの台頭はある意味でまぁ必然的だよね。ファシズムってのは民衆がいなければ生まれないんだよ。だから逆を言えば民衆が政治に参加しなければファシズムってのは生まれないのね。そりゃおかしいぞ?って言われそうだけど、実際、ファシズム的なものの台頭ってみーんな民主主義によるものじゃない?独裁を防ぐための民主主義のはずが、デマゴーグに操られる連中がいつの時代も多いってことで、結局、ファシズムを生んだり衆愚政治を生んじゃうっていうね、例えばアメリカのオバマ熱なんかもある意味で一党独裁的でしょ?政治とか分からないやつもとりあえずアメリカンドリームが欲しいんでああいうカリスマティックな夢を提供してくれる指導者を選ぶんだけど、穿った見方をすればね、ヒトラーだって同じような熱狂的な支持によって選ばれたカリスマだったわけ。ようは不安な時代に出てくるカリスマってのはね、大抵が熱狂的な支持を得るんだよね。それは国民の不安を癒してくれる理想的な人物として選ばれるわけ。でもね、政治なんて見た目じゃ分からないのよ。さっぱりカリスマティックじゃなくて人間的に魅力も無いようなやつが実は優れた政治的能力を持っていたりね、凄まじいブサイクが外交の天才だったりね、でもこういうやつらって選ばれないんだよね。人は見た目で政治家を選ぶって要素があるし、人間的魅力などと言う幻想に操られて政治家を選ぶわけじゃない?実際、背後で何してるか分からないわけでさ、その背後がパンピーには見えない限り、結局、政治なんて見た目とか財力とかカリスマ性で選ばれるわけ。これがつまりは民主制における衆愚政治の実体なわけよ。だから選ぶのも仕事するのもエキスパートに任せないとダメなわけ。


民衆は騙されやすいっていうような命題が排除されない限り民主主義は無理ね。で、俺の個人的な経験でも世の中にはバカが多過ぎるって思うわけで、これはこの先何百年と変わらない普遍的なものだと思ってるのね。教育とかでなんとかなるもんじゃないんだよ。頭脳ってのは。民衆が政治に参加する事が必ずしも民衆の自由を保障するものではないっつーのはいつも書いていることだよね。自由を満喫するってのはね、俳優みたいなもんなのね。俳優が映画の中で自然な振る舞いという演技をしているという状態が民衆レベルの自由なのね。つまりはカメラで撮られているだとかね、それは映画やドラマであるといったようなね、つまりは社会なり国家っていう人工的なものの上に成り立っている自由なんだって認識することが重要なわけ。だから俳優の自然な演技ってのも映画とかドラマっつーフォーマット無しには成立しないし、その自然な演技を最大限に活かしてくれる監督とか演出家とかさ、映画製作側の手腕ってのが必要になるわけだよね?それってのがようはステイツマンなのね。映画における監督がステイツマンで、俳優は素ではない人工的なフォーマットの中で自然な演技するようは民衆なわけ。ヴァイスヴァーサね。監督は俳優がいないと映画は撮れないし、俳優も監督とかの映画製作側がいないと自然な演技が出来ないわけ。


でさ、権力者を嫌う自由主義的振る舞いっつーのがつまりはね、カメラなんていらない!俺は自然でいたいんだ!俳優なんてのはもうやめたいんだ!っつってホームレスになるようなことなのね。ある程度の俳優っつーさ、責任っつーか責務を負わないと自由ってのは謳歌できないわけね。その俳優が何の知識も無い映画製作に口出しするっつーのが民主主義だよね。中には俳優にも映画製作のセンスがある人もいるかもしれないんだけど、そういう人は兼業でやればいいんだよね。そういう人だけが兼業でやったり監督業に転向したりすればいいわけで、全ての俳優が映画製作に口出しするっつーのは変な話でしょ?バジェットをどうするか?とかさ、製作期間を決めるとかさ、そういうのって全部裏方の仕事じゃない?そういうのはその方面のスペシャリストが担わないとダメだよね。「いや、俺はひと月ぐらいで終わらせたい」って俳優がごねたところでさ、それが映画製作に影響されるべきじゃないでしょ?むしろ映画はスペシャリストの手によってベストに作られるべきなんであってさ、俳優が口出しする話じゃないんだよね。まぁこれじゃー俳優が劣っているような言い方だけど、そんなことはなくて俳優にも俳優の仕事があるわけでさ、ヒエラルキーってわけじゃないのよ。


でも歴史って人々によって作られてきたんじゃん!っつーツッコミがありそうだけど、公民権運動なんかもさ、もちろんカリスマ的リーダーがいたにせよ結局はね、枠組みを作った連中が言ってることを守れよ!って民衆が文句を言ったってことなのよ。ルールブックにこう書いてあるのに社会っつーか政府はそれ守ってないじゃん!っつーね、つまりはそこにルールブックという名のアメリカ憲法っつーイデオロギーがあるんだよね。で、このイデオロギーによれば人々は平等であるって説かれているのに全然平等じゃないし差別あるじゃん!っつーね、これは怒って当たり前なのね。怒らなきゃダメ。だって政府なりなんなりがルールを守ってないわけだから。こういうことがあったら民衆は何をしてでも政府にルールを守らせなきゃダメ。このチェックアンドバランスっていうのは揺るぎないんだけど、つまりはね、政府というか国家のコアにアメリカ憲法なりさ、理念レベルでも守るべきというか国のあるべき姿というのが書かれたものがあったらね、みんなそれに沿ってやっていけばいい話なのね。それに沿って政治家達は社会作りをしていかなきゃいけないし、民衆達もそれに沿って行動なり生活をしなきゃいけないっつーか政府が最低限の生活を国民に保証しなきゃいけないってルールブックに書いてあるならさ、政府がそれをやってないときは国民は文句を言わなきゃいけないよね。ただね、そこにね、ポイントはだね、アメリカ憲法という「エリート」によって書かれたさ、英語ではframerとかって言うけど、枠組みを作ったエリートがいるんだよね。俺はジェファーソンとかはマジで理想的なエリートだと思うし大好きなんだけど、ああいうエリートがつまりは憲法を作ったりね、統治をしたりするわけよ。


で、そのエリートによる建国の精神を建前ではなく現実のレベルで維持しつつ高めていくというのが後世のエリートの役割だよね。農民がよってたかって書いたルールブックっつーのは一国の憲法なりイデオロギー足り得ないわけ。そこにはいつでも哲学者なり思想家なり政治家っつー知的エリートという名の賢人達による介在があって枠組みというのは作られてきているわけでさ、そもそもデモクラシーなんつーのもアメリカンマインド的なドクトリンの一種だし、それは人々が決めたものではなく、人々が「認めた」ものなんだよね。これは我々にとっても妥当だって認めたイデオロギーっつーかドクトリンね。イデオロギー無き国家っつーのがありえないようにさ、知的エリート無き国家っつーのはただ崩れさっていくだけなのよ。だからね、例えばアメリカ人が大統領とか政治家を選ぶにしても、どれだけこういう連中がアメリカの理念を反映してるか?っつーのをね、アメリカ憲法に照らし合わせて考えながら検討しなきゃいけないわけ。他国を爆撃してもよいなんてアメリカ憲法には書かれてないと思うんだけど、民衆ってのは爆撃する大統領っつーのもまぁ勢いとかノリで選んじゃうわけだよね。今の学校のクラスメートで明らかなアホってのか数人いるんで(白人のバカが一番たち悪いと普段から書いているけど、やつらは典型的な最悪の白人どもね)ホントデモクラシーってヤバいよなって思うんだけどさ、ああいうやつらが例えば俺がアメリカ市民だったとして、同じ一票を持ってるなんて明らかにおかしいことだよ。ああいうバカ達によってアメリカの建国理念なんかが捩じ曲げられたりさ、壊されたりするんだったら彼らは破壊的な権力を持った主権者の一人ってことになるよね?だからいつでも民衆ってのは国の担い手であると同時に破壊者でもあるわけ。だからこの辺のバランスを見極めないとね、マジで国がダメになっていきますよって話なんだよね。何しろあいつらはアメリカの建国理念なんて知らないだろうし、ジェファーソンなんて読んでないだろうしね。


なんかすんげー結局、長くなってるけどほとんどはまぁプラトンの愚者の船の脚注だよね。西洋哲学の歴史と同じく、今回俺が長々と書いていることもほとんどがプラトンの脚注ね。考え尽くされたことの焼き増しっつーか当たり前のことの繰り返しっつーかなんつーか。まぁファシズム防止のためのエリート独裁っつーかさ、むしろエリート独裁っつーかまぁステイツマン独裁っつーのは腐敗を防ぐためのものなんだよね。そのステイツマン達が腐敗したらどうすんだ?って話だけど、民衆はいつでも反逆できるのよ。ステイツマン達にね。ただそれは民主的プロセスでは行われないってことね。そもそも選挙とかって出来レースみたいなもんなわけでさ、同じ企業複合体が共和党民主党に出資してたりするわけで、お金を操作すればレジームなんて操作できるのね。まぁこれはもっと細かい議論が必要だけど、大雑把に言っちゃえば、そういう既存の世俗に塗れた政治システムってのを打破するっつーかさ、そういうのを無くしたクリーンな政治っつーかさ、完全にクリーンな政治はありえないけど、まぁ最低限のクリーンな人達とクリーンなシステムで行われるガバナンスね。これがようは哲人政治なわけ。民主主義が権力の腐敗やファシズムを防ぐものでない以上、究極的に言っちゃえば独裁と民主主義の差ってあんま無いのよ。両方まぁ民主的なプロセスで生まれるものなわけだからさ、人々の政治的自由ってのが必ずしも人々の生活レベルにおける自由を保証するものではないのね。独裁って言い方が悪いんだろうなぁー。で、あと独裁だからといって言論弾圧が行われるとかそういうことでもないのね。つまりはあれだ、独裁っていう言葉がダイレクトに過去の全体主義ファシズムを参照してしまうようなものになっちゃってるんで、だからまぁ語弊があるんだろうね。


まぁ今日は長くなったからもういいや。また今度これについては書くわ。