ネット精通。

mimisemi2009-06-04

やっとネット使えるようになったよ。使えない間は逆にネットが無いおかげですんげー読書がはかどったし、ミックスとかね、あとまぁ曲ってほどじゃないんだが、マッシュだけにマッシュアップ作ったりしたんだよね。で、これはデイリーザーメン的にデイリーで出していくね。ってことで今日はまず第一弾ね。InfektoのLeft Hand Jazz Take 2とペルソナ3の田中通販の歌ね。
あと3つぐらいあるんだけど一つがマッシュアップなんだけど結構な力作っつーか乗っけるだけじゃなくて割と作り込んだやつがあるんでまぁ最後のほうに出すわ。で、最後の最後にディッキンの21ね。椀飯振る舞いだね。マジで。1ダウンロードにつき100円ぐらいもらいたい気分だけど、そもそもミックスにしてもマッシュアップにしても違法だからさ、金取れないんだよね。で、自分でCDRとか作ってジャケ作って売るみたいなのが面倒でやる気がしないっつーんで結局、フリーダウンロードがベストって感じなんだよね。小銭稼ぎに多大なる時間を費やすのが勿体ないっつーか贅沢言ってるのは分かるけどさ、今ってむしろ修業期間だから時間を修行に費やさないと将来的にアウトになるんだよね。小銭稼ぎしてる暇無いっつーかなんつーか。まぁいいや。ってことで第一弾ね。


あ、んでさ、学生っつーかさ、社会に出るまでの時間ってさ、社会に出ちゃって自分を磨けなくなるぐらい忙しくなっちゃった人達ってのをさ、持ち前の膨大な時間で追い抜く事が出来るんだよね。まぁ競争的である必要は無いし、他人と自分のあり方を比べる必要は無いんだけど、ようはさ、膨大な時間って活用すればすんげー武器になるってことね。時間があるような人間じゃないと出来ないことを耕すっつーのかな?磨くっつーかなんつーかまぁスキルとかね、DJ Kentaroみたいなのってそうじゃん?彼が暇人という意味ではなくて、彼の時間をひたすらDJとかジャグリングに費やしたからあんな神業が出来るようになるんだよね。もちろん持ち前のセンスや才能も必要なんだが、彼のテクニックの所産はありえないぐらい膨大な練習時間だよね。そういうのに時間を費やせる暇があるっつーのがまぁニートとか学生とかの特権じゃない?だから何もしないわけにはいかないんだよね。それは何もしてこなかった俺へのまぁ自己批判でもあるわけだけど。


http://mushroom.cage.to/mix/tanaka.mp3


はい。では本編ね。


これだけ休みが続いてネットが出来ないとなると嫌でも自分の実存と向き合うことになっちゃうっつーかやっぱり魂が研ぎすまされる。もう引き蘢り始めて1週間以上経つけどボチボチ買い物に行かないといけないんだけどっつーかさ、メガネ買ったんだよね。ただレンズが高過ぎて買えないと思ってさ、色々と話したらまけてくれたんだけどでもまだ高いっつーか日本帰って作ればよかったとか思ってさ、あ、そうそう。帰らなきゃいけないんだけどね、買ったときはまだ知らなくてさ、なんでアメリカってレンズのデフォルトがこんなに高いんだろう?日本だと1万ちょいとかでも作れるよね。レンズ。俺の場合、まさしく色んな意味で度が過ぎるので、ケントデリカット防止のためにもレンズが分厚すぎなくなるようにするためにも薄いレンズで度が高いっつー超高級品を使うしかなくなるんだよねっつってもまぁあれだ、日本だと一万ちょいなんだけどね。しかもクーポン券とかがあって1万引きとかだったりするし。メガネは日本が一番いいかもね。アメリカは最悪だよ。高過ぎる。ただまぁあれなんだ、高かったレンズのやつってレンズが全く汚れないんだよね。コーティングだかなんだかのおかげなのかもしれないけど全く傷がつかない。こりゃ凄いね。でも俺の場合、一年ごとに視力が下がっていくんで毎年新調したほうがいいぐらいの勢いなんだよね。でもこっちで検眼って日本みたいにタダでやってくれないから面倒だから「処方箋だ」とか言いつつこっちで買ったメガネの度でコピーを作ってもらう感じなんで2年半ぐらい前の視力の設定で作られてるんだよね。メガネ。


でさ、分割払いにしたのね。値段は高過ぎるんで秘密だけどっつーかブルジョワだとかって思われたら嫌だからね。そんな高いメガネしてるのか!って思われるのが嫌だっつーか。でも実際はこれ買ったおかげで生活が成り立たなくなってるんだけどね。で、来月に半分払うと。ただ来月っつーか今月日本に帰る事になるってことで予定が狂ったんだけどっつーかちょっとまってよ。まぁフレームもそこそこ高いけどレンズが高過ぎるから合計額が高いんであってメガネ自体はそうでもないんだよ。あ、セリマね。ウォーホールのやつ。これはもう買うしかないなっつー俺にとってのマストだったんでいくらしようが買いたいって思うわけだけど、あれだな、話を変えてさ、まぁ実存の話だけどもね、メガネとかの話はどうでもいいんだ。いやね、魂が研ぎすまされる感じっつーのは感じるけどやっぱ辛いよね。楽しいことではない。何しろリアリティを徹底的に見せつけられるっつーかさ、思うに学校に行ってるときとかクラスメートと話してるときとかさ、いい感じでリアリティから遠ざかってるんだよね。いや、変な話だけどね、凄まじくパラドキシカルな話なんだがあれなんだ、こうやって地下室に引き蘢って本を読んだり何かを作ったり考えたりしているときが自分にとってのリアルで、それは社会を省いた世界系なリアルって意味じゃなくて、自分と向き合っているという意味でのリアルね。そこに当然社会はある。むしろ社会があるからこその悩みが多いわけで。


で、外に出ているときはawarenessっつーの?注意力っつーのかな?気のawarenessが何かに向かうでしょ?まぁ俺は外に出てもずーっと何か考えてるっつーか普通でいることを破棄したからずーっと部屋みたいに独り言を言ってたりするんだけどね、ようは思った事を囁いちゃダメだ!なんつールールは無いわけじゃない?変人に思われないように普通に振る舞うというのは究極的に自分の自由を放棄しているわけでさ、つまりは自然であるっつーか俺自身であるってことが俺の自由なわけだな。だから俺は人に合わせないっつーか自分勝手って意味じゃなくて自分を曲げないわけね。で、それは行動レベルでもそうするようになったっつーかまぁこっちに来てからだけどね。でさ、あ、話を戻すと高いものを買うということは贅沢じゃないんだよね。これはキューティーが言っていたことだけど、自分の好きなデザインのものにはお金を出せるってことなんだよね。あとそのデザインが他に無いとかね、そういう固有性と自分の感性にお金を払うようなもんだよね。で、メガネってさ、メガネ自体がもはや芸術品だけど一般的な芸術品と違ってさ、それ自体が良くても顔に合わないとダメじゃない?ようはさ、合う人がつけて始めて総合的な芸術性が完成されるっつーのかな?人とモノが合わさることで成立する芸術性ね。それが俺は大好きなんでメガネが大好きなのねっつーか洋服全般そうだけどね。スニーカーとかはまぁ物欲っつーか「ジョーダンだ!」っつー崇拝みたいなのが無くもないけど、メガネに関しては完全に芸術的な感性だよね。まぁ変な形のばっかだけどね。俺のやつ。


あ、んでなんだったっけ?あ、実存ね。そうなんだよ。まぁそれだけなんだけどね。あ、んでね、外に出てるときはawarenessが他に向かっていることで覆い隠されることってのがあるじゃない?変な話、自分の命があと1年しかないという事実があってもジェットコースターに乗っているときとかさ、遊園地にいるときってその事実を忘れるよね?まぁ学校とかクラスメートと話す事が遊園地ほど楽しいものかはともかくとして、awarenessが他に向けられるという意味だと度合いの差はあれ基本的に同じなんだよね。で、それをずーっと続けていると問題なく日々は過ぎ去って行くわけだけど、恐らく忙しさがさ、頭をエンプティにするのってこういうことだよね。思考とかの介在を許さないビジーな生活っつーの?だからさ、例えば大学出てそのまま忙しくなっちゃった人ってメンタリティが大学生のままだったりするかもしれないんだよね。で、そんな状態のまま何年もいるんでいい歳こいても深みのある人間になれないっつーかさ、恐らく人間の深さってその人の思索時間と現実と向き合っている時間の合計から算出されると思うんだよね。まぁ時間が問題なんじゃないけど、どれだけその人が自分自身や人生に向かっているか?っていう本質的なものに対するawarenessね。それによって得られた認識とか向かっているということで大変だけど魂が研ぎすまされて恐らく人間って深くなっていくと思うんだけど、まぁやらない人多いよね。何をバカな!っていう声が聞こえてきそうだもんね。呑気だねーとかね。


そう。休みが始まってからの俺の生活って学校行ってるときなんかよりすんげー強度なんだよ。可愛い子にあったりコクられた子と向き合ってドキドキするみたいなエキサイトメントは無いけどね、なかなか憂鬱になるけどずーっと自分と向き合って何もかも誤摩化さずに考え尽くすとかさ、映画とか見るにしてもエンターテイメントとして見るっつーよりかはもう感じるんだよね。映画を。忙しいときとかってさ、エンターテイメント的な憂さ晴らし的な感じで映画が見たくなるじゃない?でも深い映画とかさ、暗い映画とかって実存が剥き出しになってたりするのが多いからビジーなときは見れないけど時間があって自分と向き合える時間が多い時には最適なんだよね。本とか映画とかも量じゃないんだけどさ、なんつーのかな、全く俺しかいない場でずーっとそういうことに向き合い続ける生活っつーの?たまにまぁやっぱ可愛い子に会いたくなるけどでもやっぱ基本的に俺ってこれが続けられればいいんだよね。恐らく社会的な認証とかもこの生活を続けることに比べたらたいした事ないかもしれない。この生活が続けられるけど社会認証は得られないっつーんでも全然かまわないっつーかまさしく隠者みたいになっちゃうけどまぁそれはそれでいいよね。まぁ俺には一応夢があるからそれでは終わらないんだけど、でもなんつーかまぁ本質的だね。この引き蘢り生活。ずーっと読書と思索だけだからね。そりゃ魂も磨かれるよ。


むしろさ、これってアカデミックに評価されるもんなのかな?みたいなことを考えて読書をするとかって相当アホだよね。目的が社会認証とかさ、アカデミアに受け入れられるということを前提にやってる読書なんて全然意味ないね。俺から言わせてみれば。自分が何を求めているのか?っていうのに徹底的に忠実な読書をするっつーのかな?それが将来の役に立とうが立つまいが関係ないのね。魂がそれを求めているならそれを受け入れるべきなのね。それがなんつーか哲学的態度の基本っつーのかな?だから哲学者であるってことは徹底的にアウトサイダーってことなんだよね。究極的な変わり者っつーかさ、当たり前のことだけど、哲学者って世の中から認められて哲学者になるんじゃなくて、半ば隠者的な生活を送りながらずーっと知識の探求をするっていう生活様式が哲学者のあり方を規定するわけだよね。


でさ、さっきの話に戻るけど、awarenessの話って本質的だよね。外に出て色々なことに追われているという生活が何気に現実との乖離を生むんだよね。それは現実という名のイリュージョンでしょ?大抵が必要の無いものばかりだからね。生活費のためにやらなきゃいけないこととかさ、そんなことばっかでしょ?くだらない人間と付き合わなきゃいけないとかね、そういうのも含めて現実との乖離が生まれるわけだよ。これが現実なんだって言えるかもしれないけど、でもこういうタイプの現実の中で生活してるとあれでしょ?さっき書いた頭エンプティー症候群になるよね。思索や自分と向き合う時間というのが無くなるんで人間的にエンプティーになっちゃうっつーね、朝早く起きて会社に行って帰ってきてビール飲んで寝るだけの生活を続けてたら、それはそれで現実を生きているのかもしれないけど、awarenessは常に会社だとか同僚との人間関係とかさ、そんなのに割かれるわけじゃない?果たしてこれは現実かね?現実って俺の定義では自分と社会なんであってさ、会社も社会だけど、会社の中の仕事をこなすとか同僚との人間関係とかってさ、俺にとっては現実でもなんでもないんだよね。哲学者が実存とかさ、人生とか自分と他者との関わり合いっていうのを熟考していたりすることのほうがね、実際に社会に関わるとか人間と付き合うってことよりよっぽどリアリティがあることだと思うんだよね。同僚とかとの関わり合いがなんで現実じゃないか?っていうとさ、まぁ同僚にもよるけど、そこにあるのってビジネスライクな人間関係じゃない?


これってさ、ようは処世術として別に好きでもない人間と付き合っていくっていうのが必要とされているってだけであってさ、やってることは現実との対面ではなくて処世術の実行なんだよね。世を渡るということに時間を割きすぎている人はだからね、自分の実存とか自分と社会との関係性みたいなさ、もっと本質的な問題をスルーしちゃってる気がするんだよね。こういう問いが不在の処世術なんてただの快楽のためのセックスとあんまり変わらないよね。風俗嬢の仕事としての応対っつーのかな?そういうのをずーっとやっていくってさ、ずーっとソープ嬢として身売りをするようなもんでしょ?内省なり思考なりが介在しない行動っていうのはただの現象なんだよね。おっさんが涼しい場所を探して一息つくみたいなそういう即物的な行動とあんま変わらない。いや、このおっさんはもしかしたらすんげーディープな人かもしれないけどね、でも例えば木陰に座るとかってさ、ただの行動じゃない?暑さを避けるための行動っつーの?それってかなり本能的なもんだよね?そういったことをさ、生きていくっていうだけの目的で人生の大半の時間をそれに費やさなきゃいけないってもうこれって現実じゃないでしょ?まぁ残酷な現実ではあるけどただの監獄だよね。現実ってのは人と人が関わり合って社会が成り立っているみたいなことなわけでさ、つまりは現実って政治だよね。で、政治無き社会ってのは究極的に言っちゃえば即物的な物事が立ち上がって消えていくだけの世界でさ、それもまぁそれで現実かもしれないけど、まぁさ、ベーシックな質問になっちゃうけど、ロボット同士が機能し合うっていう社会って現実なの?っていうね、現実ってやっぱ人ありきだと思うんだよね。そこに人間の意志が介在しないとやっぱ現実って成り立たないと思うんだよね。そういった形の現実に真っ向から向かっているのがまぁ今の俺って感じだよね。


だからさ、引き蘢りにしてもさ、精神鍛錬っつーか修行的な引き蘢りってある意味で社会的で現実的なんだよね。つまりはさ、この世知辛い世の中でどうやっていくか?とかさ、自分の将来について考えるみたいなありがちな話も含めた様々なこととかね、そういうことに関して考察するっつーのかな?考察しつつ認識を高めるための読書や瞑想を行ったりするのってさ、これって引き蘢りに見えて何気に社会的な行為だよね。何も考えずに会社とか行ってる連中よりよっぽど現実に向き合ってると思うんだよね。だからなんつーのかな?社会に出るとかさ、どっかで働くってことが必ずしも現実と向かい合うっていうことではないんだよってことね。これはニーチェが言っていたことだけど、激務に追われるっつーかさ、勤勉さってのは逃避なんだってことなんだよね。何かにオキュパイドされたままエンプティなヘッドのままでいて、それでいて人としてあるべきことをやっているかのようにえらそうに振る舞うっつーの?馬鹿げてるよね。本当に。経済的に自立しているだとかさ、家庭を持っているだとかさ、そんなこと他人に自慢出来ることでもなければ、えらいことでも凄いことでも何でもないんだよね。そんなのただの色々な事柄の結果なんであってさ、それは生っつー惰性から生まれたもんでしょ?子供は性の惰性から生まれるものだね。だから基本的に人間ってのは本質的に堕落してるんだよね。堕落がデフォルトって感じ。堕落から逃れようとする人はなぜか嫌われる。それは万国どの時代も共通ね。


でさ、例のキャリアウーマンの人にさ、俺はまぁ恋愛に奥手過ぎるみたいなことを言われたのね。言われたっていうとあれだけど、カウンセラーみたいな感じっつーかさ、俺が他人から何かを学べるっていう数少ない人なんだけどね、だからまぁアドバイスなんだけど、まぁやっぱりこの人にとって俺は自信なさげに見えているんだと思うんだけど実際は自信だらけなんだよね。それはまぁ過剰な自信っつーか誇る感じの自信じゃなくて揺るぎない自我があるっていう自信ね。だから他人に依存したりしないし、しようとも思わないわけ。これって強さじゃん?両親はこっちに来てからの俺について知っているわけだけどさ、両親が言うに俺は強いらしいんだよね。いや、そう思うね。迎合しないやり方とかさ、教師をあからさまに批判したりさ、バカバカしいっつって宿題とか真面目にやらないっつーのも自信が無いと出来ないことだよね。自信が無ければさ、逆になんつーのかな?学校の成績とか学歴とかで中身の無さっつーか何かを埋めようとするじゃない?で、そういうのに対して「ナンセンスだ」って言える姿勢って自信が無いとダメなんだよ。分かるでしょ?言ってること。恋愛に関してもだからそうなのね。奥手なんじゃなくて自惚れみたいになっちゃうけど、俺と対等に付き合えるわけ?っつーのがすげーあるのね。うわー。ヤヴァいこと言っちゃったかな?


いや、そんな傲慢な態度でいるつもりはないんだけど、俺がさ、自分の機会費用を払ってまで人間関係なり恋愛にコミットするってもうそれは支出だからさ何かを得なきゃいけないんだよねっつーか得なきゃいけないっつーか自分の時間とか労力を捧げてまで付き合う価値がある人間なのか?っつーある意味で打算的な計算ってのは常に働いてるよね。で、「可愛いなぁー」って思うことはさ、本能的なことじゃない?内面を見てないよね。でも内面から来る魅力って外見とはあんまり関係ないと思うんだよねっつーかまぁ俺は面食いだから大いに関係あるんだがね、付き合おうと必死になってる人っつーのもまぁある意味で自信が無いんじゃないかと。自分の何かっつーか欠如を埋めたいとかさ、一人でずーっといるって強くないと出来ないことじゃない?昔の俺は病的な引き蘢りだったけど、今はマジで隠者みたいな感じだからね。それは修行僧的な引き蘢りだよね。これってのは自信とか強さが無いと出来ないと思うのね。分からんけど。だから俺は孤独が大好きなのね。それは詩的な意味ではなくマジでそうなのね。で、最近はネットも使えないし外に出るきっかけがさっぱり無いんで例のSOHOのスタバの例の死角でさ、たまに読書をするんだけどあの感じだよね。家にいるときもそうだけど外にいてもある意味で家にいるときより孤独っていうね、だってさ、人がいっぱいいるしモノが溢れ帰ってるのに俺はあえて人目のつかない場所に居座ってずーっと本読んでるんだからね、いや、そんな自分に酔ってるんだろって思われたら最悪なんだけど、これが俺にとっての幸福なんだよね。煩わしさが一切無い、俗事に惑わされない時間の過ごし方っつーのかな?で、人によっては人間関係によってこの孤独な時間かそれ以上の素晴らしい時間を過ごせる人もいるんだけど、まぁ少数だよね。本当に少ない。結局あれだ、"情欲に燃えた女の夢のなかにおちるより、殺人者の手のなかにおちるほうが、まだましではないか?"ってことだね。またニーチェだけどね。


だからさ、SOHOのスタバで読書してるときとかさ、これをずーっと続けられれば俺の人生オッケーだなってマジで思うんだよね。哲学とか政治学の本とか読んでいようがさ、勉強のためっつーか例えば雑誌みたいなのに自分の論文を発表するために頑張るとかさ、そういう社会的なコネクティヴィティみたいなのを一切求めてないピュアな読書なんだよね。ただ単純に自分が知りたいとか読んでて楽しいなっつーか知的刺激を受けるものに対してさ、それこそまぁ例えが俗悪だけどオナニーと一緒よ。オナニーって気持ちいいでしょ?で、バッチリなエロ画像とか動画があればもっと気持ちいいじゃん?それと一緒ね。だから俺の中でどんだけ高尚な本を読もうがさ、すんげー難解な本を読もうがさ、オナニーとの差って全然無いんだよね。それはあたかもね、俺の創造力っつーと大げさだけどさ、クリエイティビティみたいなのと妄想の差が全然無いんだよね。同じ次元でスキゾに存在してるっつーの?で、その差ってのはさ、所謂客観的な価値観なんだよね。オナニーは人に褒められるものではないけど、高尚な本とか難解な本ってまぁ人にもよるだろうけど「すごいねぇー」みたいな自動的な価値観ってあるじゃない?電車の中でちんちんいじってるのと難しそうな本を読んでるのとでは雰囲気っつーかさ、見た目が違うじゃない?そりゃー当たり前なんだけどね、でも俺の中では差がないんだよね。両方とも脳を刺激しているという意味で全く同じ。


だからつまりはね、俺ってオナニーが一生出来てればとりあえずオッケーじゃんって思ってる人間なんだよね。たださ、それはソクラテスっつーかプラトンも言ってたようにさ、得たものとかを披露するっつーかさ、例えばね、俺が政治哲学を読んでたとすればさ、それがアクションになるのって結局、マーケットに出て他の人と喋ったり関わったりすることでのみ可能なんだよね。そうじゃないと机上の空論で終わっちゃう。机上の空論でいいならずーっとアナーキズムの本とかマルクス主義の本とかを読んでればいいけど、そこでさ、まぁ現実性っつーのかな?そういうこそ念頭において読書って進めなきゃいけないわけでさ、だからやっぱ前提としてはいかなる形であれ世の中に通用するというよりかは現実世界でワークするものじゃないといけないんだよね。思索にしてもそうね。それを政治哲学的なアクションとして成立させるためには引き蘢りではいけないってことなんだよね。


だからつまりはあれだ、論壇雑誌みたいなのに寄稿するのが政治哲学的なアクションってわけじゃないじゃん?アカデミックなエッセイを書くことが政治哲学的なアクションとは限らないよね?むしろこの両者は俺にとってはどうでもいいことでさ、だって一部の人しか読まないじゃない?ましてやポリティカルコレクトネスとかが必要とされてたらダメだよね。そういう場所でも別にいいんだけど、どういう場所でも本当のことが書けたり語れたりする脳内キャパっつーのかな?それを獲得する必要があるんだよね。だからそのためにはオナニーを続けなきゃいけないって感じかな?ただオナニーとの差はね、オナニーだと二次元とファックすることも可能だけど、思索においてはあくまでリアリスティックなのね。もちろんリアルということに縛られて思考が限定されるということではなくて、リアルという枠組みの中でどのくらい考えれるか?ってことなんだよね。それが思索とオナニーの差ね。でも違いは原則だけで俺の中ではそんなに境界線は無いんだよね。逆を言えばさ、オナニーするのと同じぐらいの行動力っつーか行動レベルで高尚な本とか難しい本を読めるわけでさ、全然努力を必要としないんだよね。頑張らなくても快楽を追求するだけでオッケーっつーこの姿勢が俺には合ってるんだろうね。だから思想系っつーか哲学とかは俺に一番向いていることだよね。オナニーでは皮を剥いてるし、哲学では性質が俺に向いてるってことだ。


たださ、哲学者っつーと大げさだけど、そういうのをやり続けるためにはさ、2流とか3流じゃダメなんだよね。ミュージシャンとかアーティストとかと一緒でさ、1流じゃないとやってけないっつーのかな?1流ですら食うのが大変なのに、2流や3流じゃ仕事なんてあるわけないっつーそういう大変な世界ね。だから基本的に俺って変わってないんだよね。相変わらず食えなさそうなことにコミットしまくってるっつーのかな?でもそれが独りよがりなものではなくさ、狭い場所ではあるけど、学校っていうさ、今の俺で言うところのマーケットでヘタクソな英語ながらも色々と持論を披露したりすると認められたりさ、リアルにエッセイで良い点をもらえたりしているんで、そこでなんつーのかな?現実世界とのコネクティヴィティっつーのはあるわけだよねっつーか感じられるっつーのかな?採点なんて気にしないけど、でも採点っつーのがある種の客観的基準みたいなのを見せてくれるものであったりする場合もあるわけじゃない?で、今の俺ってそういうのに恵まれてるんだよね。学校はクソだけど、でもマーケットの役割としてはバッチリっつーかさ、まぁそのぐらいしか価値がないっつーのもあるけどね、つまりは俺が完全な引き蘢り足りえないのは学校に行ってるからだよねっつーか学校でもある程度は認められるような現実的な尺度で物事を考えてるってことね。で、それはさっきも書いたように現実的ということで思考がシェイプされているわけではなくて、枠組みとしてそれを受け入れているっつーか念頭に入れてるってことね。


ってことでとりあえず区切るわ。前みたいなペースで毎日書ける自身が無いんでチビチビ出していくことにするね。一気読み派の人達、ゴメンなさいね。