昨日の続き。

mimisemi2009-06-05

昨日の続きね。あと今日のマッシュアップソウルハッカーズのEL-115のサントラとシャカゾンビのI got styleね。昨日のが恐らくマッシュアップでは一番ノリ方が合ってるんで、ちょっと劣化して聞こえるかもしれない。あと元ネタが分からないと面白くないかも。ラップの音が低いんだけど音を上げるとラップのトラックのスネアが邪魔になるんで、こういうバランスになっております。


http://mushroom.cage.to/mix/zombie.mp3


はい。では本編ねっつーか体がケンタッキーフライドチキンの匂いがする。マックのチキンナゲットじゃなくてケンタッキーのフライドチキンね。


でさ、これって結局さ、この隠者的生活って気違いとの差って客観性が無いと分からないんだよね。俺が仮に電波を進めているかもしれないっつー可能性もあるわけでさ、そこにやっぱ普通の人っていう意味での他者が介在しないとバランスが分からなくなったりするんだよね。いや、俺にはまぁディーセントな客観的な感覚って音楽にしても何にしてもあるんだけどさ、でもやっぱ確かめたいじゃん?自分で採点するだけではなく他者の採点も見たいんだよね。で、この他者の採点っつーのが自分の生活基盤と繋がればバッチリだなって思うわけ。ようは世間に認められるために何かを頑張るんではなく、勝手に自分で進めてきたものがある程度はアクセプトされて金になるっつーと大げさだけど、仕事的なものと繋がりがあるみたいなさ、それが仕事という役割も果たすし他者の採点とか世間のアクセプタンスという機能も果たすっていう感じね。


で、仮にこれが無理でもっつーかこのご時世にずいぶんとデマンドの多い贅沢な物言いだっつーのは分かってるけどね、無理だとしたら実際あるかはどうか分からないけどワニトカケギスとかさ、ペルソナ4の夜間の病院のバイトみたいなさ、人間関係が一切無いようなね、人と関わらなくてもいいような仕事をしたいんだよね。単純作業ではなくいるだけとか掃除するだけみたいな仕事自体は楽なんだけど孤独さが半端じゃなくて滅多に人はやらないみたいなタイプの仕事を引き受けたいのね。一人でいれるっていうことが俺に特質の一つなんだとすれば、こういうバイトっつーか仕事も俺に向いてるってことだよね。逆に生活費とちょっとの小遣いさえ稼げれば、邪魔さえされなければどんな仕事でもオッケーなんだよねっつーかまぁようは孤独系の仕事ね。ただ理想を言えば自分のオナニーが仕事にも繋がるようなオナニーをし続けたいっつーのかな?それが一番いいけどね、でも実際は恐らく仕事ってさ、特に自分の好きなことっつーか得意なことを仕事にすると必要とされるものって結局妥協じゃない?


システム側とか他者にある程度は妥協しなきゃいけないよね。自分100パーセントではいられない。だから逆に自分100パーセントでいるためには孤独系の仕事をしたほうが下手な妥協をしなくて済むのかな?っていう気はするよね。とにかくバカなやつと関わりたくないっつーのがあるからさ、仮にアカデミックな場にしてもバカって多いわけじゃない?アカデミック=知的なんつーのは幻想もいいところだよね。実際はバカの吹きだまりなんだから。そんな場所で無理に自分の特性を売り込んだり曲げたりするよりかはさ、完全に自分のままで孤独系の仕事をしていたほうが純度は保たれるかもしれないなってことなんだよね。まぁ本当の意味での隠者になっちゃうけどね。


哲学者ぶるって意味ではなくマジで哲学的であるっつーのにはさ、ようは俺が前に書いたようなダイナマイトとしての自分ってのが必要なんだよね。で、それをやるためには相当の実力が無いといけないわけでさ、だから1流じゃないとやってけないっつー話なんだよね。2流だと2流の評価師みたいなのに評価されることに力を注がなきゃいけなかったりするわけでさ、下手な1流だとこういう羽目になりかねないから超一流じゃないといけないってことなんだよね。で、超一流の哲学者っつーのはさ、超一流の逸脱者でもあるわけだよね。まぁ俺にピッタリだとは思うけど食える保証が一切無いっつーのが相当キツいよね。それがまぁ今の俺の葛藤だよね。俺自身のあり方はもうある意味で完璧でさ、自分自身の取り組みをしていればもうオッケーっつーのはさっきのSOHOでの読書の話でも書いたことだけど、いかにそれを経済的に独立して進めるか?っつーのが俺の今の目標なんだよね。で、結局、学歴社会のアメリカではさ、バカでも学歴が高ければ割と仕事は無くも無いってことでさ、だったらまぁそういうフィールドでの高い学歴を取るしかないなって感じなんだよね。ようはすんげー高い世の中行きのチケットを買う感じ?それがあれば通れる場所も多くなるっつーね、打算的なやり方ね。それ自体に価値はないんだけど、なぜか印籠的な効果があったりするんで、だからまぁそれを買おうじゃないかっつーそういうやり方なんだよね。バカも騙せるでしょ?っつーか騙すつもりはないんだけど、印籠があると「ハハー」ってなるバカが多いじゃない?だからとりあえず印籠を見せてれば楽ってことでさ、そういう手だてを取りたいんだよね。そこまで楽じゃないけどね。


実際、その印籠ぐらいの威力があるのってハーバードとかのレベルでさ、他の有名とか言われてる学校もどこも変わらないんだよね。基本的に。あるのは平均的な相対的な意味での学力の差とあとはまぁ学費の差ね。才能とか人格とか地頭の差では無い。むしろ後者の差なんてのは学校では差は出ないんだよね。高いレベルの学校に行けば凄いやつがいっぱいいるっつーのが幻想だっつーのはもう本当に理解したことだからね。それでもまぁ凄いやつ率が高いのは上のレベルっつーのは恐らく間違いないから、だから行ければそりゃ一番いいよね。


でも俺って学校の成績はさっぱりダメだから、まぁここがまぁなんとかしなきゃいけないところなんだけどね。下手に頑張ってちょっと有名な大学に入るんじゃ全然意味ないのね。ちょっと頑張れば印籠が手に入るぐらいだったら俺はやるけど、頑張ってようやくそこそこの有名大学の印籠が手に入るぐらいじゃ全然やる気が起こらないんだよね。それだったら普通の大学の印籠と全然変わらないじゃんって話なわけでさ、だったらその無駄な苦労を俺は自分のことに注いで、んで自分を磨くことで自分自身を印籠にしちゃおうっつーような企てが今の俺の人生プランだよね。凄い野望でしょ?でも実力ってつまりはそういうことだよね。で、今の俺は中途半端でバカに嫉妬されたり批判されたりするレベルなんで中途半端な1流なんだよね。超一流になるとさ、もう認めるしかなくなっちゃうっつーさ、もう驚きという名のアクセプタンスしか無いわけじゃない?


そのぐらいにならないと特に俺みたいなのってダメなんだよね。力が2流だったり中途半端な1流だったりするとさ、社会的な振る舞いとか、実力の見せ方とかにも工夫が必要になるじゃない?で、俺はそういう無駄なことにawarenessを払うのが凄く嫌だし、そういうのが自分の恒常性を壊す原因になるっつーのは経験から分かってることだからさ、だから自分を勝手に出して、んでそれが認められるぐらいじゃないとダメなんだよね。そのぐらいの実力が無いと身の振り方とかに配慮して実力が無い分を補ったりあるように見せたりっていうようなことに対する配慮が必要になるでしょ?それは労力にしてもそうだし時間とかお金っつーリソース全般を払うことになるよね?それだとダメなんだよな。それだと本当にダメ。ちょっと目立つぐらいで叩かれるぐらいになる今の俺ぐらいっつーのが一番ダメ。だからもっと上を目指さないとダメなんだよね。それはもう賢者というよりかは聖者のレベルね。そのぐらいにならないと俺みたいなやつは社会でやってけないと思うんだよね。


で、この目標設定っつーのがようはさ、いい感じの社会性を帯びてるわけじゃない?自分の諸行動が自分の将来という人生プランにも繋がっててさ、それが独りよがりで終わらないである程度の社会性も持ちつつ一切妥協してないみたいなさ、最高のバランスが保ててるわけだよね。たぶん器用で色々なやり方とか身の振り方とかを知ってたら俺ぐらいの地頭とか知識があればそこそこ世の中でもやっていけると思うんだけど、でも俺は不器用だし身の振り方とかが出来ないからさ、あとは精神的にダメでしょ?だからそういうダメなところを実力で補わないといけないのね。そういう意味での聖者ね。いやさ、実際見てみるとさ、芸能人とかにしてもそうだけど取り入れるのが上手いだけとかさ、器用だったりスタッフに気に入られたりするのが上手いっつーんでやっていけてるっていうやつ多いじゃん?


で、俺が言いたいのはね、俺ぐらいの脳だったらそういうのが出来ればそういう芸能人ぐらいにはなれるだろうっつー話なのね。ただ俺はそんなこと出来ないわけ。逆にまぁそれも才能なんだけどね。面白くなかったり何の特色も無かったりするんだけど、芸能界でのサバイヴの仕方を心得てるっつーかさ、やり方とかを熟知してるとかさ、身の振り方が上手いっつーのはまぁ究極的に言っちゃえば処世術じゃない?で、俺がそのぐらいの処世術を身につけていればなんとかなるだろうなっていうことなんだけどね、でも俺はそれが出来ないから芸で自分を売るしか無いってことなんだよね。それこそ松っちゃんレベルぐらいになったら誰も文句言えないじゃん?そういうレベルってことね。中途半端なタレントレベルだと俺はその処世術の部分が全然ダメだし、そういうのに力を注ごうって思わないから無理なんだよね。なんつーかそういうあり方自体が無理なのね。だから松っちゃんぐらいにならないとやってけないって話なのね。


で、逆を言えばさ、ここまで不器用だとさ、それしか道が無いからその道は極まるんだよね。必然的に。他の道が無いっつーか窮まっている分、ある道が窮まることによって極まるのね。それはすんげー大変で葛藤だらけだけどさ、でも一流になれるチャンスってのがあるんだよね。それしかないからそれをやるしかないっつー必然性が極め方を規定するっつーのかな?抜け道が無いからストレートにやってくしかないっつーあり方だよね。で、あれね、一流っつってもあれね、世間から一流って言われるって意味じゃなくてあり方のレベルの話ね。で、結果的に世の中でも一流とかって言われればベストだけど、それはまぁ予想出来ないことだからね。ただあり方としての一流さっつーのはさ、自分が頑張れば到達可能なんだよね。だから俺はこの道を選びたいっつーかこの道しかないからこの道を行くしかないわけね。


なんつーのかな?凄いんだけど世間に知られてないとかさ、認められてないっつーのはもうすでに一流じゃない?でもたいしたことないやつってそういうポテンシャル無いよね?だからその無い分をね、さっきも書いたように色々なもので埋めなきゃいけないっていう必然性が出てくるわけ。それが学歴であったりさ、売り込みの上手さとかさ、身の振り方の上手さっつー実力というよりかは処世術の部分ね。これによってあたかも実力があるように見せているっていうやり方ね。恐らく知的欺瞞とかも大体がこういうところから来てるんじゃないかと思うんだよね。賢そうに見せる分とかさ、晦渋なレトリックを使いまくって見た目を良くしようとするっつーやり方って内容が無いから着飾ってますよーっつーのをまぁ半ば間接的に語っちゃってるようなもんじゃない?簡潔に語るとありがちで普通になるのでかっこよく難しい感じで見せようっつーさ、まぁポストモダンの常套手段っつーのかな?最近、Biosっつーバイオポリティークについて書いてある本を読んでるんだけど、イタリアのやつの翻訳なんだけどね、やっぱその筋ってだけあって文章がすげーポストモダンチックなのね。必要ない難しい言葉とか言い回しを使い過ぎでさ、それで本が分厚くなっちゃってるみたいなね、そういうバカバカしさね。


だからといってこの本の価値が下がるってわけでもないんで辛いんだよね。読んでて苦痛でつまらなく感じたりするんだけど、でも学べることとか考えさせられるところはあるっつーのかな?ポストモダン全般そうだよね。簡単に書けば一瞬で済むことを長ったらしくレトリカルに書くっつーのがまぁあの辺の人の常套手段じゃない?で、その労力を必要とする読書に対しての対価っつーのが圧倒的に少ないのがポストモダン系なんだよね。逆に簡単でさ、一瞬で読めてまぁ内容もそこそこだったらそれって読書とかさ、時間とか労力っつー対価と見合ってることになるよね?でもさ、無駄に難しい割に結局、言ってることがあんま分からないとかさ、昔の哲学とかで言い尽くされて来たことの繰り返しだとかってなっちゃうと明らかに損なんだよね。そこまで読み込んでないけどランシエールとか典型的にそうね。意味が無いとは言わないんだけど読みづらくて読むのに時間がかかる割に得るものが少ないのね。もっと簡単に書いてくれればポストモダンの生き残りの小粒感的なあり方で認めることが出来るんだけど、大物と並ぼうとしてるんで無駄に晦渋になっちゃってるっつーね、分からないけど講演とか見る限りアラン・バディウとかも同じね。全然たいしたこと言ってないのにやたら本が分厚かったり読みづらそうな感じだったりするのね。


だからもう俺ってフランスとかイタリア系の思想家に不信感があるんだよね。もう意図的にあの辺は読まないようにしてるのね。あとポストモダン系で言うとジュディス・バトラーとかさ、まぁ結局、ジジェクとかもそうだけど、読むのが大変な割にあんまり得るものが無かったり、別に誰でも考えつきそうなことを言ってるんで、だったらプラトンとかヘーゲルを読んでた方がいいっつーかさ、もっと正統派な哲学を頑張って読んだ方が得る物が多いっつーのかな?ようはその対価なんだよね。ハイデガーとかカントとかヘーゲルにしても難しくて時間がかかるじゃない?でも恐らく得るものって多いんだよね。で、同じぐらいの労力を必要とする割にあんまり得る物が多くないのがようはポストモダンの生き残り系なわけね。


知ってれば通な感じがしてかっこいいんだけど、そういうまた思想のあり方みたいなのが思想のファッション化を生むんだよね。日常会話の中にボードリヤールの消費論とかさ、シミュレーショニズムの話とかを付け加えて知的に見せるみたいなね、そういうアクセサリー的な感じね。でも哲学ってさ、日常会話の中では出すことがKYなぐらい本質的過ぎるもんでさ、ファッションとかアクセサリー足り得ないもんなんだよね。ようはそんぐらいヘヴィーなもんなんだよね。女の子にモテるのがポストモダン的思想のあり方で、女の子から嫌われるのが本来の哲学のあり方ね。ファンシー足り得ないのね。ヘヴィー過ぎて。むしろ共感出来る子がいたら心中でもしましょうってぐらいヘヴィーなもんなんだよね。で、俺はそういう女の子を求めているんだけどまぁ未だであったことが無いねっつーか男でもそこまで深く思想とかにコミットしてるやつに会ったことがない。ようはそいつの実存と哲学がダイレクトに繋がっているっつーぐらいの深いレベルで哲学とエンゲージしてるやつに会ったことが無いんだよね。大抵がまぁポストモダンチックであったり学科の一つとしての哲学とか思想であったりね、そういうあり方がいけないとは言わないけど、俺には生温いんだよね。全く魅力を感じないのね。そういうのには。


だからさ、結局、そんぐらいの深いエンゲージメントを出来るやつっつーのはさ、ある意味で俺みたいにおかしいやつじゃないと無理なんじゃないか?っつーのがあるんだよね。頭がおかしくないと出来ないっつーのが哲学っつーのかな?普通だとさ、そりゃーまぁ学科の一つだろうなって気はするよね。色んな人間関係とかさ、趣味とかさ、恋愛とかさ、消費とかさ、そういうのがあってその中に哲学もあるっていうあり方がある意味で普通なのかな?っていう気がしなくもないんだよね。俺みたいに四六時中誰とも話さずに哲学とか読書ってやつはむしろ稀でさ、それって変人とか奇人っつーレベルなんだよね。だから俺が求めてるのってこういう逸脱した変人レベルの人間でさ、だからそういうやつがいないのはむしろ当たり前じゃんっていうさ、完全に頭がおかしいやつと出会うことって稀じゃない?まぁホームレスとかね、メンヘラーとかは置いておいて、頭がおかしすぎて数学に熱中してるやつとかさ、バリバリ安定剤を貪りながら物理学に熱中してるやつとかさ、そういうのってまぁある意味で人間的に崩壊してるじゃない?俺はある程度の外面のバランスってのはあるしね、いや、あるとは思ってるけど、でも本質的にその頭がおかしい部類なのは間違いないよね。だからこれだけずーっと一人でいれるっつーか一人でいたほうが楽しいわけ。これはある意味での逸脱だよね。


でもさ、シュトラウスも言ってるようにさ、まぁシュトラウスが気違いだったかは別としてね、まぁ彼は本当に紳士っつーか頭が良い人だったわけで変人ではなかったと思うんだけど、哲学と社会とかって常に敵対してるんだよねっつーのはさ、哲学っつーのが常識とか社会を構成しているオピニオンっつーのに真っ向から反対するどころかさ、そのオピニオンを知識によって変えてしまおうっつーのが哲学の役割だったりするわけでさ、だから哲学って破壊的なんだよね。俺がダイナマイトとして生きるっつーのはつまりは哲学者として生きるってことのマニフェステイションなわけでさ、食える保証は一切無いが、破壊者として超一流であるということを俺の実存が求めるっつーのかな?そういう生き方ね。だからあんま職業とかってのとは関係してないね。まぁ共感出来る気違いに色々なことを教えられるぐらいの知識量になってたらいいなって思うんだけど、中途半端な教師を見てて分かるんだけど中途半端な教師ほど害悪なものって無いよね。あれは無知の連鎖の良い例でさ、バカな両親がバカな子供を育ててしまうように、バカな教師もまたバカな生徒を育てちゃうんだよね。こうやって無知の連鎖は永遠とウィルスのように爆発的に社会を覆い尽くすわけ。だからね、ある意味で無知ってさ、無知の知っていう意味ではなく、純粋な無知っつーのはね、つまりはウィルスみたいなもんだよね。社会のダイナミクスによって自動的に連鎖的に広がっちゃうんだよね。で、俺はそういうのに徹底的に抗う抗体でいたいって思うわけ。


そういうウィルスと闘いつつ取り込まれないみたいなね、あとはワクチンとしての囲い込みも許さないっつーね、徹底抗戦の姿勢ね。これこそが恐らく哲学者の姿勢なんだと思うよね。まぁ俺の定義だけどねっつーかシュトラウスに立脚した定義だけどもね。つまりは政治哲学者であるってことはそういうことってことね。哲学者だったらまぁ隠者っつーかさ、夢想家としての生き方ってのもあると思うけど、やっぱ俺って根本的なものが政治なんだよね。大体が政治に繋がってるっつーかさ、大体の疑問なり怒りが政治に繋がるんだよね。でさ、結局、妥協しないとかさ、疑問を持ち続けるってことが常に反逆児的であると同時に常に何かに疑問を呈していたり「おかしいよなぁー?これー」って思い続けるってことはすでに政治的だよね。そこで文句を言うだけなら誰でもできるし、それは所謂反社会的な人間ってことになるだろうし、まぁある意味でのまぁパンクス的なあり方だよね。たださ、哲学者っつーか俺が根本的にパンクスと違うのはね、つまりはさ、「おかしいね?これ」「ばっかじゃねぇーの?これ」って文句を言いつつそれに対してのあり方のオルタナティヴとかさ、こうすればちゃんとワークするのにみたいなことをちゃんと真っ当に述べられるだけの知的キャパシティとかさ、知的能力っつーのを兼ね備えてるっつーかまぁ兼ね備えたいなって思うのね。文句を言うだけなら誰にも出来るし、文句を言いつつそれを気に入らないとかおかしいって理由で壊すことなら誰でも出来るじゃん?でも俺が言う破壊者っつーのは創造者としての破壊者なわけでさ、つまりは破壊後に何か新しい物を作るとかね、創造者っていうあり方が破壊者のあり方を規定しているっつーかまぁ先立ってるわけね。簡単に言っちゃえばパンクスってのはただの破壊者で、哲学者っつーか俺が言うダイナマイトとしての生き方っつーか人間のあり方ってのは創造者としての破壊者なのね。


ちょっと頭の良いパンク崩れが政治的になると左翼になるんだよね。つまりはデモとかさ、投石とかとにかく反対運動をしまくるっつータイプの左翼ね。で、こういう左翼に欠けているのは創造者としての能力だよね。んじゃあ壊した先になにがあるのか?とかさ、オルタナティヴって何なの?っつー問いに答えられないんだよね。とにかく間違ってるから反対運動!っつーのもまぁありっつーっちゃーありだけど、でももう俺はこの手のことには一切の興味とか関心を無くしたんだよね。結局、それが創造なり新しい何かのあり方なりオルタナティヴを提唱出来ていなければそれはただの破壊行為なんであって政治的行為ではないんだよね。俺が権力志向になったのもこういうところにあるのね。むしろ権力を利用してあり方を変えるしかないなっつーさ、まぁ半ば自明的なことなんだけど、でもまぁ気がつくのに時間がかかったわけよ。で、その結果、すでにそういう認識に至った状態でシュトラウスに出会ってまぁもう完全なものになったって感じだよね。認識が。以前の認識の状態だったら恐らくシュトラウスを理解出来なかっただろうし受け入れることが出来なかっただろうけど、まさしくジャストなタイムで出会ったということでもう完全に全てが入ってくるんだよね。これをまさしく感化されたっていうんだろうな。感化の前提にはその対象に向かっている実存のあり方ってのが必要なんだよね。つまりは実存の志向性みたいなもんね。それがあって始めてそれが感化に変わるっつーかさ、つまりはイニシエーションだよね。


宗教にしてもさ、その宗教団体の扉を叩かないとイニシエーションって生まれないじゃない?っつーかありえないじゃん?イニシエーションの儀式に必要な最低限のものってその主体にとってのその対象に対する志向性なんだよね。その人が進んでイニシエーションを受けたならそれは能動的だよね。で、受動的っつーのは一方的に洗脳されることね。シュトラウスっつーかイデオロギー全般も同じね。何かの集会で感化されたっつーのと説得されて洗脳されたっつーんじゃーイデオロギーのあり方が違うでしょ?で、俺は思想全般がこういうイニシエーションの連続だと思っているわけ。読んで洗脳されたりするんじゃなくて、そこにawarenessが存在しているのね。実存レベルでの志向性というのが存在している。で、その志向性がイデオロギーなり思想の門を開くことで、感化が始まるわけね。このプロセスを経ていると恐らく地頭とか関係無しに何もかもが頭に入ってくるのね。まぁ逆を言えばこのプロセスを経るためには地頭なり感受性が必要ってことになるわけで、だからこそ哲学って色んな意味で狭き門っつーかさ、学問としては理解できるけど、所謂、感嘆するっつーレベルで理解出来る人ってのは少ないんだよね。それは前にも書いたようにさ、インフォメーションとしてはオープンでさ、本屋に行けばいくらでも手に入るんだけど、イニシエーションを受けられるか?っつーとそれは狭き門なんだよね。それは主体の志向性と感受性にかかってるってことでさ、だから常に感受できる人ってのは少数なのね。


それはアーティストとかだってそうでしょ?名ばかりの人達は大勢いるけど、本質的なアーティストって凄く少ないよね?なんでか?っつーとまぁようはこの感受性なりさ、魂のあり方なりなんなりっつーことだよね。なんかだからさ、俺が音楽に夢中になるのとさ、俺が哲学とか思想とかに夢中になるのって前は繋がってなかったけど、今は完全に繋がってるなって思えるようになったんだよねっつーか気がついたんだよね。同じようなセンシティヴな感受性でそれらに挑んでいるんで、凄まじい強度でそれらを感じることが出来るということそれ自体が没頭を許すっつーのかな?これが無いとようは没頭出来ないからね。当たり前だけど。で、音楽も映画も絵とかアート全般にしても哲学にしても同じなんだなって思ったのね。同じ感受性で俺はそれらを感じてるんだなって凄く思ったわけ。で、その感受性っつーのは常に当たってるのね。常にライトなの。俺は自分の直感とかセンスとかに忠実なんで、だから音楽にしても何にしても趣味が良いんだよね。それは趣味の良さを演出しているわけではなく、良いものを引き寄せる力っつーか感じ取る力があるからそういうのが寄ってくるっつーか俺がハントしてくるっつーのは必然的なことなんだよね。趣味が良いというとあれだけどさ、まぁ言ってること分かるでしょ?


だからクズには金を払わないし、自分の時間も労力もお金も払わないのね。その結果、自分の音楽コレクションは良いものばかりが残ることになるし、それは本とかも一緒なのね。クソだと思うものは買ってこないんだよね。だからさ、今でも俺が本屋に行くことが凄く重要だって思ってるのはこの自分のハンターとしての直感を活かす場だからってことなんだよね。どれが良くてどれがクソか?っつーのを見分ける力があるっつーかまぁ音楽にしても本にしてもそれは養ってものっつーかまぁハントっていう経験を経て研ぎすまされていったものだけど、これに俺が忠実な限り俺は少なくとも間違えることが無いんだよね。間違ったような本とか音楽とかのファンになることは絶対ないって断言出来る。だから結局、自分に忠実であるってことが俺の人生を切り開いていくわけだよね。俺はそうやって今まで生きてきたし、それがワークするもんなんだっつーのはこっちで凄く感じていることだよね。まぁ昔やっていたような妥協とかなんだとかっつーのを一切しないことにしたっつーのまぁ本当に最近のことだけどね。つまりはこれが何を意味するのか?っつーと感性なり自分の実存なりのあり方の純度が増すんだよね。さっきも書いたように俗事に捕われず自分の感性を信じるっつーさ、感性のみって言い切りたくないのは他人から何かを学べることもあるからね、そこはクローズドである必要は無いってことなんだけどさ、邪魔なものに自分が惑わされないとか支配されないってことは本当に重要なんだよね。これこそが人間の本質的な自由なんだと思うよね。精神面での解放ね。これこそがまさしく自由なのね。


で、今の俺はそれをどう物理的な世界に反影させるか?っつーかさ、コネクトさせるか?ってことに葛藤しているんだよねっつーかまぁ葛藤っつーと大げさだけど模索しているわけね。ただビジョンは明らかだからかあとはもうrealizationしか無いって感じでさ、ビジョンがあるから具現化はあとは俺次第なんだよね。運もあるかもしれないけど、そういうのは引き寄せることが出来るんだっつーのは引き寄せの法則っつーよりかはむしろカバラに学んだことが多いかなっつーかまぁおぼろげながら思っていたことがカバラで見事にシステマタイズされてたって感じね。やっぱ本当だったんだ!っつー実感ね。


でもさ、問題は精神面ではある意味で解放の作法さえ覚えればいくらでも解放できるんだけど、物理世界っつーのはそれこそ文字通りの物理的な制限があるじゃない?それってのはさ、ようは踏まえないといけないんだよね。それを知ることでいかに自分を物理世界に実現させるか?っつーさ、自己投影のプロセスが恐らく人生におけるrealizationだよね。自分がどう社会に適応していくか?ではなく、解放された精神をどう既存の社会に投影させるか?っつーことが社会適応たるべきものだと思うのね。社会適応って迎合って感じがするじゃん?それこそ妥協の産物ね。いや、でもそうじゃないんだよっていうね、実際は精神の投影なんだよっつーね、それが適応であるべきだって思うのはね、英語で言うとshouldレベルなのね。それが適応だではなく適応であるべきだっつー考え方ね。それは「べき論」とはまた違うものなんだけどね。


はい。ってことでまだまだ続きます。