King of Dickkin’ Vol.21と昨日の続きの続き。

mimisemi2009-06-06

はい。では昨日の続きの続きね。マッシュアップはね、tomadさんのネットレーベル(http://maltinerecords.cs8.biz/)から出してもらえるかもしれないんで、そのリリースを楽しみにしてて。で、ボツになったやつはボツになってからアップするんでまぁどの道、聞けまする。ってことで一気に飛んで今日はKing of Dickkin'のVol.21ね。ムンベでまぁVol.14系だね。まぁ分類としてはね。相変わらず最高ですよ。


http://mushroom.cage.to/mix/dick21.mp3


はい。では続きね。


でさ、ある意味でね、この徹底的に本音で生きるっつーかさ、既存の社会と徹底抗戦するって姿勢はある意味で究極的なニッチなんだよね。全てのピュアな芸術とかさ、魂のあり方ってこういうイノセントなセンスを持った破壊的な創造行為によってでしか為されないと思うのね。まぁよってでしかっつーのは言い過ぎか。でもさ、これってやるのにすんげー度胸を必要とするよね?だってそんなこと言ってたら社会でやってけないじゃん?親とか親戚とか友達は「どうやって食っていくの?」ってみんな聞くと思うんだよね。それをあえてさ「いや、俺はこうやって生きていくんだ!」って言い切る度胸っつーかさ、言い切った後にそれを人生を通して実行するっつー努力とか勇気って凄いもんだよね。凄いパワーだよね。で、そんだけ肝の座ったやつって少ないんだよ。出来るヤツが少ないって意味でだから結果的にニッチなのね。逆にその希少性なりピュアさ加減ってのを評価出来る地盤があるところでそれを実行しつつ生活できたらそれって最強なんだよね。つまりはその大胆な度胸とかさ、表れたものに対する純度とかさ、そういうのを評価してくれる人なり場所を見つけたらもうオッケーだしさ、それってのはある意味で競争が少ないことだよねっつーのはやってるやつが少ないからね。それを究極的な形で実行出来たらそれはもうオッケーなんじゃないか?って思うんだよね。で、評価なんて後からついてくるもんでさ、その超一流さ加減っつーのはおそらくまぁ時が経てば評価されるんじゃないかな?って思うよね。恐らく。そこまで人間って鈍感じゃないからね。


自殺サークルでさ、デザートの歌で「人生はジグゾーパズル」っつー歌詞があるじゃん?で、ハマる場所が無かったら死ぬしかないかもねっつーのはね、基本的に凄く自殺の動機を上手く表してると思うんだよね。ハマれないから死ぬしか無いっつー宙ぶらりんな状態で漂いながら絶望しているという状態での自殺っつーかさ、で、俺はさ、ようはね、明らかに日本でハマる場所が無いって分かってて絶望していてアメリカっつーか特にニューヨークに来たら「こいつ普段どうやって生活してんだろう?」っつーようなさ、アウトローがいっぱいいるわけだよねっつーかまぁいっぱいでもないけど変なやつは結構いるんだよ。こいつ絶対普段ダメだろうなってやつが普通に生活出来てるのね。まぁ普通に生活出来てるかは分からないけど、少なくとも見る限りまぁ人にもよるけど排除されてる感じではないのね。ハマれる場所はあったんだなっつー感じがする変なやつが多い。その中でも俺は頂点に君臨する変人さ加減で、俺の変人さ加減っつーのは世界レベルなんだなってのを悟ったのがまぁ2年前ぐらいだけどさ、俺みたいなタイプのやつでもハマれる場所があるかもしれない!っつー一握りの希望があるのがニューヨークだよね。それこそ民主的な多様性が存在している多元的社会っつーのかな?日本の場合、パズルのフォーマットが決まっていて、んで自分がそのピースじゃなかったら、そのピースになれるように自分をシェイプするしかないんだけど、こっちの場合、自分をシェイプすることなく、色々なフォーマットの色々な形のパズルを探してハマれるところを探せるっつーのかな?そういう余地がある社会なんだよね。恐らく。


まぁ俺はこのあり方を信じたいし、これが無かったらもう俺はまさしく死ぬしかないわけでさ、まぁ最後の希望なんだけどね。器用な人ってのはオポチュニストでさ、ある意味でね、様々な機会とか状況によって自分のシェイプを変えて色々なところにハマることが出来る人間なんだよね。なので逆を言ってしまえば固有性が無いとも言える。形を変えることが出来るっつー狡猾なスキルだけが卓越していて、他はさっぱりっつータイプが意外と社会で幅を利かせてるじゃない?特に日本ってそういうやつが多かったり待遇されていたりそういうやつたれ!みたいな感じがあると思うんだけど、俺にしてみればそういうのって糞食らえだよね。まぁ英語で言うところのbullshitが一番適切な表現だと思う。なんでみんな同じゲームをやらなきゃいけないの?一人一人のあり方は違うのになんで固有のジグゾーパズルのフォーマットに自分を適応させたり変えていかなきゃいけないの?っつー話だよね。それをやるぐらいだったら潔く死ぬっつーのがまぁ俺のモットーだけど、自殺したら成仏できないかもしれない?っつー疑問があったりして、まぁそれは前に書いたけど、まぁそういう意味でね、死がある意味で逃げ道っつーか最後の道であるっつー考え方はちょっと変わったんだよね。死んでもその先があるって考えると恐ろしいんだよね。


で、自殺したらずーーーーーっとその場所に同じ苦しみのまま留まらなきゃいけないってもう地獄以上の苦しみでしょ?首を吊ったなら首を吊っている苦しさのままずーっとその場に思念っつーか怨念として残らなきゃいけないっつーさ、恐らくだからね、怨念って残留思念だよね。思念がどうやって残留するのか?っつー話だけど、恐らくこれは科学で証明されるときがくるんじゃないかな?思念が一種のエネルギーのようなものだとすればさ、それが物理的な肉体っつーフレーム無しにも存在することってありえるよね?そうなるとテレパシーとかさ、動物の勘的なものとかさ、偶然に見える必然とか色々と説明出来ることが多いんだよね。


つまりは思念なりなんなりっつーのがエネルギーとして他者に伝わったりエネルギーとしての存在のあり方を許すってことになるとさ、例えば生霊とかの存在も分かりやすくなるよね。その人の思念のみがその場所に残るだとかさ、場所を越えて存在するとかさ、物に宿る人の念とかも凄く分かりやすいと思わない?本とかもそうでしょ?生前の持ち主がさ、凄く感嘆しながらそれを読んでいたっつーとさ、その本自体にその読んでいた人の思念が宿るっつーね、人間の意志というものが介在するものに関して人間の意志がエネルギーのレベルで存在するって分かりやすいよね?割と。だからどうでもいいものとかさ、思念が介在しないものに念は移らないのね。クーロンズゲートの妄人っつー概念もさ、あれでしょ?物の怪っつー概念から来てるんだよね。物の怪って文字通りさ、物に何かが憑依しているっつー状態を表す言葉でさ、それは鍋とか洋服とかしても生前使ってた人の念が残ってたりするんだよね。その残留思念がそのものに取り付いてそれ自体が妖怪と化すみたいなね、まぁ鍋とかってどうでもいいものに見えるかもしれないけど、毎日使うものってことでさ、知らないうちに念が宿ってる可能性ってあるよね。そう思うと主観的にどうでもいいって思うものが何も残留思念を残さないっつーか宿さないもんだっつー言い方は出来なくなるね。


例えば俺が自殺してさ、で、俺の蔵書だけが残ってさ、だけってことは無いけど例えばさ、特定の本に俺がやりたかったこととか実現したかったことみたいなのが書かれていたとしてさ、んでその本の特にそれが書かれているパートには俺の残留思念が宿っててさ、読んだ人の感性っつーか感情っつーか内面に直接働きかけるみたいなね、攻殻機動隊の久世の肉体の死後における電脳における存在ってこれのデータベースバージョンって感じがするよね。俺はそういうのがあるもんだって信じたいんだよね。それは動物でもね、感情っつーか意志ってのがある限りそういうのは存在するんだよね。でもそう考えるとさ、なんで牛とか豚が人間に取り憑いて殺さないんだろう?とかって思えてきちゃうよね。なんで猫とか蛇みたいな特定の動物の念だけが強いと言われてきているんだろう?とかさ、それって恐らく意志の強さのレベルだと思うんだよね。念の強さっつーかさ、牛とかってのは厭世的っつーかあんま現世のことについて考えてないっつーのがあったとして、蛇とか猫は現世に対する執着心が強いとかさ、恨みが強いとかね、念の強さのレベルね。


猫って世界的にそういう風潮あるじゃない?呪術とかでもさ、分からないけど猫のなんたらを使うとかって猫の念の強さを利用してると思うんだよね。猫の恨みの強さを呪いに利用するっつーのかな?そういうのってイメージとして文化に定着しやすいじゃない?魔女と黒猫みたいなのが西洋文化としてのカルチャーとしてあるとさ、そこに客観性って必要なくなるんだよね。そう言われて来たからっていう慣習の部分で信じられるようになるじゃない?でも場所とか文化とか時代を超えて色々な場所で言われ続けているのって恐らくなんかの根拠があると思うんだよね。そういう文化とかを超越したもののあり方ってのは恐らく普遍的な共通性ってのが存在すると思うんだよね。で、霊の存在ってのはほぼ例外無く色んな場所で色んなあり方で信じられて来ているわけでさ、そこには恐らくその存在に対する普遍性みたいなのが存在すると思うんだよね。


そう思うとね、念の強さが何かを引き寄せるとかさ、例えば同情っつー感情が霊を呼び寄せるとかさ、そういうのって一種のエネルギーのダイナミズムとして考えると理解しやすいよね。これ書いててすんげー怖くなってきてさ、今はディックのミックス聞きながら書いてるんだけどさ、まぁもうオカルト系の話はやめてっつーかマジで怖くなってきたからやめるとしてまぁ念の話を続けるとね、その思い続けるっつー念の強さがさ、事柄とか出来事とかを引き寄せるってありえなくもない話だよね?それって霊を呼び寄せるダイナミズムとどう差があるのって基本的に無いよね?万物にそういった不可知で不可視なエネルギーが存在してるとすればさ、意志のエネルギーがそれらをおびき寄せるって十分ありえることだよね。マトリックスでさ、マトリックスに入る時ってようは洋服とか髪型とかって精神の投影だって言われるじゃん?モーフィアスがそう言うじゃん?これって示唆的でさ、つまりは精神的なものが外的なもののシェイプを作り出すんだよね。マトリックスではそれが自動的に行われるけど、あのメンタルプロジェクションの自己イメージの具現化ってのは日常で行われてるわけでさ、それを考えるとつまりは精神のあり方が物理的なもののあり方を変えるんだよね。んなわけねぇだろって思うかもしれないけど、そのんなわけないっつー態度もすでにメンタルプロジェクションなんだよね。そういうものとかそういう考え方は信じないっつー精神があり方をもシェイプしちゃってるわけ。


絶望が人間をダメにするのってつまりはこういうことだよね。精神におけるエネルギーのダイナミズムを操るとかさ、活性化させるってことをやめちゃうっつーのかな?ドラクエ3の地底世界っつーかさ、1の世界のあの城壁に囲まれた街あるじゃん?具体的過ぎて逆にさっぱり分からないかもしれないけどさ、そこの住人が3では「どうせ死ぬんだから何やっても無駄だ!」っつって寝てたりギャンブルに明け暮れてたりするじゃない?絶望ってのはつまりはこういうことだよね。日本にあるような絶望ってこういうタイプの絶望だよね。アメリカって絶望があってもナイーヴとも言えるぐらい希望ってのを幻想であっても追い求めるみたいなイデオロギーとしてに理念があるように思えるけど、日本ってそういうのが逆に痛いとかさ、「何言ってるの?」みたいなニヒリスティックな風潮があるじゃない?で、こういう態度ってのが慢性化しててさ、これがつまりは社会の閉塞感とか行き詰まりの形をシェイプしていたりもするのね。希望の無い社会っつーあり方のアイデアが希望の無い社会を生み出すのね。


恐らく社会のダイナミズムを取り戻すのってさ、幻想であっても例えばオバマみたいなああいうカリスマティックなキャラクターとかさ、人を立ち上がらせるような物語が必要なんだよね。イデオロギーとかさ、動機づける何かね。人々ってのはなぜか自分でそういうのを作り出したり探したりしないじゃない?パッシヴでしょ?だからパッシヴ社会にはパッシヴ社会にピッタリな物語なりカリスマが必要なんだよね。大衆がパッシヴだからだから全体主義とかって結局生まれるんだよね。人々に生きるっていうことに対するバイタリティそのものが無いとね、結局政治ってダメになるのね。で、どこの国も慢性的にそうだからだからまぁちゃんとした権力と権力を握る人間が必要ってことなんだよね。人は利用されるか利用するかなわけだからさ、この明らかな事実が暴きだすことっつーのはつまりは政治のあり方だよね。操作としての政治ね。動員という言葉にも表れているように、人々を動かすんだよね。何らかの装置によってね。その装置っつーのが権力であったり権力が利用するメディアだったりするわけじゃない?で、そこでさ「メディアリテラシーを!」とかさ「権力の横暴を許すな!」とかって言うことも出来るんだけど、結局無理じゃない?みんなテレビ好きでしょ?メディア好きじゃない?結局。まぁ時代は変わっていくのかもしれないけど、騙されやすさっつーのは変わらなくてさ、その騙されやすさを利用する連中ってのはいつでもいるわけだよね。その騙されやすい大衆っつーもの自体がさ、ようは権力の横暴を許しちゃうんだよね。


逆を言えばね、権力側が大衆をコントロールできなくしちゃえばいいのねっつーのは意外と簡単なことで民衆の政治権を放棄することなんだよね。票集めとか支持率とかを気にして権力側はメディアを操って大衆を操作するわけでさ、だったらその必要性を無くしちゃえばいいんだよね。大衆をコントロールしても何の特にもならないっつー状況を生み出しちゃえば逆にいいんじゃないか?って気がするよね。ここまで色々なことが明らかになってもまだ騙されている人達が多いっつーのを見るとさ、民衆全員がウェイクアップって状況はありえないわけでさ、それはマトリックスっつー映画が世界でヒットしたのに内容がさっぱり理解されてないっつーことにもよく表れてるよね。俺もその理解しない一人だったからその無知っぷりがよく分かる。無知蒙昧とはまさしくこの事ね。これは無知文盲とは大きく異なるっつーのはね、無知蒙昧は無知であることを許しているその態度にあるのね。それに比べて無知文盲は単純な教育レベルの問題なのね。それはみんな最初はそうでしょ?みんなが文字を読めて書けたりするレベルじゃないよね?でも無知蒙昧ってのはさ、さっきも書いたようにウィルスみたいなもんでさ、普遍的に存在するものなんだよね。風邪の対する特効薬が無いように無知やバカに対する特効薬って無いのね。バカは死ななきゃ治らないとはよく言ったもんでさ、あれは一生治らない病気なんだよね。筋金入りの社会保障クラスのメンヘラーの俺が言うのもなんだけどね。


あ、んでさ、「日本人は馬鹿だから」っつーのが昔の俺の風潮だけど、それが「大衆が馬鹿だから」に変わったのは俺のこっちでの経験ね。基本的に大衆の無知っぷりの普遍性は揺るぎないんだなっつー確信に変わったわけね。程度は違えど基本的にみんなダメだね。みんなそれを認めようとしないから何も始まらないんだよね。それを認めて無知であることをやめるのか、それとも政治権なり何なりを破棄するのかさ、何にせよ何もしないじゃん?で、受動な状態を享受し続けるっつーのかな?まぁさ、だからここに俺は政治の普遍性を見たわけだよね。この受動体での彼らの状態ね。それを享受できるぐらいのレベルだったらそれが結局は大衆にとっての幸福だよね。他の国で何が起ころうがさ、知ったこっちゃねぇーっつーね、自分たちの物語とひかれた筋道だけを盲信して歩いていくっつー感じはさ、特にアメリカの場合、驀進だよね。だから図々しくてバカで無知厚顔ってやつでさ、アメリカはね、日本のバカっぷりは脱政治的でダウナーで主体性が無いとすれば、アメリカっつーのはエゴイスティックで中途半端なリテラシーから自分のリテラシーレベルの低さを認めないとかさ、USAUSA!みたいなね、ああいうレッドネックみたいなかけ声あるじゃない?ああいうのを普遍的に持ってるんだよね。みんな。


ただ自分は馬鹿じゃないからアメリカ批判をするみたいな似非インテリのあり方みたいなのも存在するしね、マジでどーしょーもない国だよ。ホントに。レベルは低い。日本よりかはマシってレベルね。あと基本的にバカなりに人生を楽しんでるっつーか能天気なところがあるからさ、これがまぁ大衆の無知っぷりのあり方とピッタリなんだよね。知らないことでハッピーで受動的っつーね、それをハピネスだと信じるレベルの低さね。それと政治レベルが見事に連結してるんだよね。その無知のレベルと政治の支配のあり方のレベルが見事に一致してるのね。だからこそアメリカの権力を支配しちゃえばかなり便利っつーのはあるよね。民衆は動くし下手に動員されて熱狂的になったりするし利用しやすいんだよね。で、その利用のしやすさを世界レベルの共通善に持っていければ最高だと思わない?アメリカがもたらしている害悪を権力側から進んで破棄するっつーね、あくまで様々な利用を共通善のために使用するっつー権力のあり方ね。で、まぁいつものプラトンの高貴な噓の話になるけど、こういう目的における噓は許されるのね。


考えても見てほしいのがさ、法とかさ道徳の名のもとに合法だからっていう理由とかさ、道徳的な理由があるってことを見せかけて非道徳的な行いをしまくるってさ、世界中で行われてるじゃない?だとしたらさ、逆にだよ、非道徳的とか法に触れるようなことを真の道徳的な目的のためにやるっつーのはさ、ロングタームで考えれば必要な事だよね。ショートタームでの道徳的とか法的と思われる行いがロングタームでの道徳面を犯すのであれば、ショートタームでの道徳的行いとか法的行いなんてものの価値なんて無いんだよね。結果論とかっていう単純な意味ではなくて、それが何に帰結するのか?っていうロングタームでのパースペクティヴだよね。で、あとさ、大衆は無知っつー言い方もいいけど、ようはさ、それが大衆なんだとしたら別にそれはそれでいいっつー姿勢が俺の姿勢なんだよね。ダメだから啓蒙するとかさ、批判するとかっていうそういうことじゃないのね。彼らには彼らの人生があるんだから俺は文句を言える立場じゃないのね。文句を言うとすれば人権侵害でしょ?だからさ、俺は一貫してシステム批判をしてるわけね。大衆による政治なんてのもを許しつつそれを利用しつつやりたい放題やってる権力機構っつーのが許せない。だから優れたステイツマンを育成して権力側に送り込むことでしか権力を違った意味で転覆させることはできないんだよね。果たしてそれが可能か?っつーと微妙だけど、イデオロギーが政治を動かしてきたことは事実だし、まぁロクな解釈はされてこなかったけど、でもドクトリン足りうる様々なイデオロギーがある中でさ、適切なイデオロギーを権力者側に擦り込むっつーのかな?シュトラウスで言えばちゃんとシュトラウスを理解した人がステイツマンになるみたいなね、前にも書いたけど既存の権力者とか政治家にシュトラウジアンなんているわけないって思ってるし、これは絶対正解だと思うんだけど、シュトラウス理解も酷いもんだからね。マジで。


ちゃんとしたように見える人もロクな理解をしてなかったりするわけでさ、深い理解をしてガイドブックみたいなのを書いてるのってシュトラウスの生徒の大学教授とかばっかだからね。シュトラウス理解なり研究がアカデミアのみで行われているというのは本当に嘆かわしいことだよね。どう社会理論なり政治思想をアメリカ建国の時みたいにファウンデーションとして成立させるか?ってことなんだよね。学者達による研究もいいけどさ、やっぱ実行が必要だよね。どう実行するのかが問題だなぁー。本当に。それと同時に腐敗を起こさなくするようなシステム構築も必要だよね。ソーシャルエンジニアリングみたいなね、システム構築に重点を置くっつーのはヤバいんだよっつーのはさ、個々がヴァーチューなりステイツマンシップなんつーのを考えなくなるでしょ?ただの歯車になるっつーのは一番ヤバいっつーかそれはまさしく日本のサラリーマンが政治家になるようなもんだからね。ああいうエンプティな連中が政治家になってるっつーのは事実だけど、どうこのオーディナリーなサラリーマンシップをステイツマンシップに昇華させるのか?っつーのが重要な課題だよね。オーディナリーなサラリーマンみたいなのが政治家になっちゃうっつーことはもうとりあえずしょうがないことだとして、いかにそういう連中をステイツマンにするか?っていうさ、まぁーでも無理か。ふつーのサラリーマンがプラトンとか読んで感化されるとも思えないしな。そう思うとポテンシャルを持った連中がやっぱ政治家になるしかないんだよなー。でもそうなると今のシステムじゃほぼ不可能でしょ。ポピュリズム=政治になってるからね。


ってことでまだまだ続きます。半ばエンドレスに。