埋まらない勘違い。

mimisemi2009-06-08

長いぜー。今回のエントリー。まぁ愚痴に見えるようなところもあるかもしれないけどね、トラブル系っつーかさ、傷つき系っつーかは書ける量が半端じゃないね。俺は間違っちゃいないんだが、間違った認識をしている人から一方的に「あなたは間違えている」って言われたという話なんだけどね、普通のエッセイのイントロダクションみたいになるけど、第一章と第二章に分かれてる感じになってるからね、で、最近さ、ここ数日ぐらいのエントリーを読んでて思ったんだけど、長いエントリーを分けている割にその分けたエントリーが長いんだよね。だからもうちょっと分け方も短めにするわ。ちょっと読み直そうかな?とか思って読もうと思っても自分でも長くて読む気がしないのね。これじゃあダメだってことでディーセントな感じで小出しにしていくわ。


あ、あと今日のマッシュアップデビルサマナーのサウンドトラックからDoctor ThrillとKid606のShout at the DonerからGood Timesのマッシュね。


http://mushroom.cage.to/mix/dr606.mp3


はいでは長ったらしいエントリーの始まりです。一週間ぐらい続くかもしれないから覚悟してくれたまへ。


残念なことがあったんだけどさ、例のキャリアウーマンの人なんだけどね、あるメールのやり取りから人生の話とかになってさ、んで色々と省くとね、今の俺のあり方ってのがキャリアウーマンの人から見ると甘ったれ根性にしか見えないっていうんだよね。辛辣な言葉だと思うんだけど、俺が哲学への思いを語っても、哲学なんてのは甘えた人間がやる逃避だ!みたいなことを言い切っていてさ、「あーダメかな」って思ったんだけど、そしたらその後に俺の精神病に関してもただの言い逃れだ!みたいな言い方をされちゃってさ、「ななななに?いきなり?」って感じでしょ?まぁメールの詳細は省くとしても、恐らくね、俺はこれは前から感じていたことだけど、俺のさ、ある意味でナイーヴと言えるまでの正義への信念とかさ、哲学っつーか知識への愛とかさ、そういうのが所謂なんつーのかな?認められてこなかった感じがしたのね。「何言ってんだコイツ?」っていう感じがあったんだけど、でもそれを全面には出していないみたいな感じだったのかもしれないんだけど、俺の勘ってのは当たるじゃない?「もしや?」っつーのが当たるから被害妄想と現実の区別がつかなくなるって前に書いたけどさ、たぶん前からそういう風に思っていた感じだったんだよね。


それはあっちからすると教育者というかパターナリズムとして「大人になれ!」って言ってくれている愛情の叱咤なんだけど、これが日本的な態度の悪いところでさ、まぁありがたいことではあるんだけどね、バカバカしいぐらいに思える野望を持った人間の希望とか信念みたいなのを「お前にゃ無理だよ」って砕く姿勢っつーのかな?無理でもさ、その信念とか野望が凄いっつーんで「頑張れ!」って応援するんじゃなくて「バカじゃない?もっと大人になりなよ」って言う足を引っ張る感じっつーのかな?野望ってのはさ、ある意味での装置みたいなもんでさ、そいつの野望が仮にそいつが思っている形で叶わないとしてもさ、その野望が生きるモチベーションになったりさ、その野望がきっかけで何か他の事に結実したりするかもしれないわけじゃない?ようはポジティブのエンジンみたいなもんなんだよね。それを冷たい一言で砕くっつー風潮がなぜあるんだろうね?


アメリカってアメリカンドリームっつードクトリンがあるから、こういうのにはウェルカムじゃない?無理そうなやつでも「頑張れ!」ってその野望を評価するっつーのがあるような気がするんだよね。で、無理だって思ってたらマジでやるやつがいたりね、こういうのが社会のダイナミズムを生んだりさ、ヴェンチャー的な態度を生んだりするんだろうけど、日本って「無理だよ」って妙にニヒルなところがあるんだよね。昔さ、俺がノイズバンドにいたときにさ、対バンの人と飲みに行ってさ、んでその人とその取り巻きってのがアングラ界では割と有名な人達なんだけど、その取り巻きの一人と話してるときにさ、俺がまぁ今でも変わらないようなナイーヴな表現に対する情熱みたいなのを語ったんだよね。そしたらさ「そんなの伝わらないよ」とかさ「作品とかっていうそういう概念はバカバカしい」とかさ、妙に冷たい反応が帰ってくるっつーのかな?精神的にポストモダンなのかもね。日本って。プレモダンなある種ナイーヴでプリミティヴな感情をあざ笑うっつーのかな?妙なニヒルさがあるよね。


それはともかくさ、このキャリアウーマンの人は俺の歯に衣を着せぬ言い方に怒ったのかな?っていうさ、俺がね、なかなか凄い人に出会えないっていうことが、ようは俺が凄いって言っているように聞こえちゃうっつーパラドックスが強く出過ぎたのか、そういう理解をされちゃったのかさ、「あなたはそんな人じゃない。普通の人だ」って頻りに言うんだよね。ようは慢心に見えちゃうらしいんだよ。俺にあるのは確信に近い信念なんだけど、それが慢心に見えちゃうのはやっぱり謙虚さを美徳とする日本的な感性から来るものなのかな?病気なんかじゃないって言ってくれるのはありがたいけど、でもさ、俺は医学的に病気だしさ、それはもう自分でも認めるしか無い精神疾患なんだよね。


で、恐らくキャリアウーマンの人にしてみたらね、恐らく俺が勘違いしている引き蘢りみたいに見えちゃったっつーかさ、でもいいやつだから勘違いから出してあげようって思ってくれたんだと思うんだけど、そこがすでに違うんだよね。ようは病気なんかじゃありません。現状と親に甘えているだけです。大人になりなさい。そして自分の足で大地を踏みしめて社会と戦いなさいって言ってるような感じっつーのかな?コンセプトは分かるんだけど、これってさ、俺の伯母さんと全く同じ物言いなんだよね。だいぶ昔だけど、俺はいとこの子守りのために伯母さんのウチに行ったときにこういうタイプの説教をされたんだよね。当時はマルクス主義バリバリだったからさ、色々なことを言うと「なんでそんなにアイデアプロレタリアートなの?」とかさ、ようはなんつーのかな?薄汚い社会を知っている分、ピュアな人間に現実はそうじゃないって言う事をどうしても教えたいっつー感情っつーのかな?


それは俺にはさ、怨念の手にしか見えないんだよね。ゲームをやる前からくだらないゲームの内容とかシステムとかを知っちゃって、俺はそんなくだらないゲームはやらない!っていうことを青二才の叫びだみたいな解釈をされちゃうっつーのかな?汚れて社会に揉まれることで一人前になるみたいな日本的なイデオロギーっつーの?こういうのが人間とか若い野望を挫いていくんだよね。俺は当時からさ、もうだいぶ前だけど自分の根底の信念に関しては揺るぎない自信があったからさ、今みたいな感じて客観的に分析してたんだよね。当時は元相方に相談したりしたんだけどさ、結局まぁ元相方も同じようなことを言っていたかな?


「それはああいう世代のイデオロギーだ」って。まさしくそうなんだよね。説得される時ってのはさ、「ほぉー!」って思ってさ、それを受け入れちゃうんだよね。それこそ啓蒙っつーの?でもただの説教っつーのはさ、さっぱり心に響かないんだよね。ただの自分への否定とか批判にしか聞こえない。心にそうしか響かないということはそれは教えではないんだよね。ただのドクサから来る説教なんだよね。残念ながらキャリアウーマンの人もそういうイデオロギーの持ち主だったっつーかさ、あそこまでの人もそうなのかって思うと余計に絶望的になったね。この人は俺が隠者みたいな考えを持っているのも気に食わない感じなんだけど、なんで俺が隠者的になるのか?っつーとさ、他者となかなか分かり合えないからなんだよね。友達は少ないでしょ。滅多に深いところまで行ける人がいない。で、このキャリアウーマンの人は勝手に俺が深い人だって思ってたんだけど違った感じなんだよね。それを俺は知ってるから隠者みたいになっちゃうんだよね。何かを得られる確立が低い人間関係に何かを求めないっつーさ、だから本とか映画とかに行っちゃうっつーのもさ、まぁ普通の人っつーか恐らくキャリアウーマンの人もそれは逃げだとか甘えだって思うんだろうけど違うんだよなぁー。これがなっかなか理解されない。


で、理解してもらおうとも思わないんだよね。だって仮にさ、俺が説明する側が普通の人だったら理解出来ないじゃん?その人はあたかも自分のことを批判されてるかのように思っちゃうよね。つまりは隠者側ってさ、社会をある意味で敵に回してるからさ、社会側の人とはなかなか理解し合えないんだよね。で、これってまぁある意味で哲学者的な態度じゃない?っつーかあり方じゃない?まぁアウトサイダーって意味で俺は元々哲学者なんだよね。


でもさ、哲学者っつってスピノザだとかニーチェだとかっていうレベルである必要は無いんだよね。そのぐらいのレベルになれればなぁーとは思うけどさ、いつも書くように天才とかにしてもレベルがあってさ、アインシュタインレベルの天才もいれば、そこそこってレベルの天才もいるんだよね。哲学者然り。哲学者だからといって特別だとかでデフォルトスタンダードがニーチェとかスピノザなんじゃない。天才にしても哲学者にしてもある意味でその人の頭の構造っつーかさ、ただの違いなんだよね。凄いとか特別ってわけじゃないんだけどさ、でも哲学者って言葉だけが一人歩きしてるから、自分の事を哲学者だって言おうものならさ、反感を受けるんだよね。それこそ「甘えるな!」とかさ「お前バカか?」っつー反応が返ってくる。だからシュトラウスが言うようにさ、哲学と社会って常に敵対し合う関係なんだよね。常に社会から理解されないっつーのかな?


だからといって理解されないで哲学者であるということがニーチェクオリティーを保証するもんではないんだよね。ニーチェレベルじゃない哲学者だっているしいたっていいんだよ。それはシュトラウスも言ってるようなさ、変わり者の哲学者みたいなタイプも問題なく生きていけるような社会が望ましいってことなんだよね。シュトラウスはマジでフレンド・オブ・リベラルデモクラシーでさ、コノリーとかムフみたいな多様性のあり方の重要さなんかを示唆してたりするのね。ファシストとは一番遠い感じね。つまりは多様性っつーのもさ、プラトンも言っているようなことだからね。ただプラトンファシストみたいな構図があるじゃない?これがつまりはドクサなんだよな。一般に出回っているドクサね。だから哲学と社会はいつまで経っても分かり合えない。


俺とキャリアウーマンの人の間にもこの哲学と社会とか既存の概念というさ、ある意味で永遠的な敵対関係っつーのを感じたんだよね。それは俺がソクラテスレベルの哲学者ということではなく、哲学の徒としてのあり方と社会との相反を感じるっつーのかな?哲学ってことばを使うと大げさだけどさ、ようはアウトサイダーってことね。徳の騎士なんだが社会的に認められてないので奇人とかキャリアウーマンの人が言うような甘えん坊とか青二才っつーレッテルを貼られちゃうっつーのかな?でもさ、ニーチェも言ってたように、こういう不正な評価ってのも超人は進んで受け入れなきゃいけないんだよね。そういうのにも屈服しない精神っつーのかな?その強さだよね。で、俺は昔からこれがあるんだよ。最近はまぁ意識的になってきたけど、昔から自分のこの信念には妙な自信があって、それは今でも変わってない。それが今は割とポジティヴなフォームで形になっている感じなんだけど、でもやっぱ日々のレベルだとこういうコンフリクトがあったりもするんだよね。


難しいよねぇー。社会から評価されないとさ、アーティストだろうが詩人だろうがさ、小説家だろうが「甘えん坊」とか「青二才」とか「腰抜け」とかって言われるんだもんね。こういう批判にも負けずに自分の道を突き進むっつーのがアーティストであったり哲学者だったりはたまた聖者であったりするんだろうね。大変過ぎて滅多に達成されることがないのね。ただ達成した人達は大抵凄いのね。それは彼らの凄さが達成を許してる感じだよね。自分の信念とか感性を色んなことがあっても疑わないって半端じゃないタフさだよね。この俺の好きだったキャリアウーマンの人にすら「精神病のことをこれ以上悪く言うなら、今からあなたと僕は敵です」って言わなきゃいけないんだよね。言葉を濁さないのね。思った事をバッシリ言う。一切妥協しない。理解出来るところは理解出来るけど、明らかに間違っている場合はそれらに屈しないっつーか受け入れないっつー姿勢だよね。だからこういう姿勢ってさ、上からのものしか何かを学べないんだよね。それこそ哲学者とかからしかオープンな姿勢で何かを学べない。


で、自分もどんどん上になっていくっていうまぁニーチェで言うところの認識の聖者だよね。で、認識の聖者だからといってニーチェである必要はないわけ。ただまぁこういう道を進むんだったら超一流じゃないとダメっつーのはまぁ前にも書いたことだけどね。超一流でも食えないかもしれないわけで。でもやるんだよね。俺の音楽とかよりかは少なくとも食える可能性はあるわけでさ。ゼロに等しくても俺の音楽よりかはマシだよね。前は俺は音楽を一生やっていこうって思ってたからね。今もそれは変わってないけど生活とかは考えてなかったよね。だから今はさ、音楽とか哲学をやるためにさ、逆に夜間警備員とかさ、分からんけどね、凄まじい孤独と静寂に耐えなきゃいけない仕事っつーさ、それが大変過ぎて誰もやらないっつーような特異な仕事をやって生計を立てるとかさ、そういう手もありなんだよね。我が道を進めればそれでよしっていう。まぁ自分の特性と仕事が結びつけば最高だけど、そうじゃなくても学問とか音楽を一生やれるオルタナティヴを探すんだよね。


なんでこういう姿勢が理解されないんだろうか?極めてリアリスティックなドリーマーって感じがするんだけどなぁー。俺にとってはね。これがなんで逃げなんだろうか?これがなんで甘えなんだろうか?むしろ自分とか人生と真摯に向き合っているからこそ進める真面目な道なんじゃないだろうか?それを俺は信じているし揺るぎないとは思うんだけどね、でもやっぱ伯母さんとかキャリアウーマンの人に色々な言い方をされると傷つくよね。なんか自分が否定された感じっつーの?まぁこれは誰にでもある感情だよね。自分の信念とかを否定されたらそりゃー誰でも嫌になるよね。でも俺はその人を恨まないんだよね。恨んじゃいけないんだ。伯母さんにしてもキャリアウーマンの人にしても。資本主義を信じている人ってのはさ、資本主義の悪性に気がつかなくてもそのイデオロギーによって思想とか行動とか言動がシェイプされちゃうじゃない?でもそれってのはイデオロギーの問題でその人が悪いわけじゃないんだよっていう理解だよね。その人が嫌味で言っているなら別だけど、俺の理解では伯母さんもキャリアウーマンの人も恐らくまぁ俺を思ってくれているからこそ言っているある種のパターナリズムだと思うんだよね。それは大きな間違いであるんだけど、俺はそれをパターナリズムとして受け入れなきゃいけないのね。大変だけどねぇー。マジで。


感情的にならずに書く事だけを書いてキャリアウーマンの人にメールを送った後さ、「はぁーまたか・・・」とか言いつつさ、疲れたんで水飲んだらさ、なぜかさ皮肉な笑顔がこぼれて来たんだよね。「いつものことじゃん」って。傷つくのになれるのもどうかと思うんだけど、これも強さだよね。恐らく。胸が「ズキーン!!!」と痛む感じに俺は慣れてるんだよね。そういう経験をいっぱいしてきているから慣れちゃってる。その後に来る憂鬱も絶望にも慣れちゃってる。それはそれで現象として辛いことなんだけど、でもさ、これに負けないのが俺だよなって思えるんだよね。これも試練だなっていうかさ、他人と違う生き方をするってのは大変なわけでさ、そのいばらの道を俺は進んで選んでるっつーかこれしかないからこの道を進むしかないっつーのはいつも書いていることだけどさ、この痛みはもうつきものなんだよね。こんな意外な人からも攻撃があるんだよね。それは相手が攻撃だとは思わない攻撃ね。そこまで言わなくてもいいのになぁー・・・っつーのがでも多かったかなぁー。かなり疲れたね。ニューヨークで俺とそっくりみたいなやつがダメになって没落していったとかさ、そういう話ばっかりするんだよね。ネガティヴなヴァイヴを凄く感じたよね。こんな負のオーラを持っている人だったのか!ってちょっと唖然としたけどね。凄いでしょ?この絶望?


ウォール伝読者なら俺がどれだけこの人のことを好きだったか分かるでしょ?色んなところに行ったしね、関係も割と長かったんだけど、こんな形で終わるとはねっつーかまぁ相手からフォローのメールは来たりするとは思うんだけど、精神病をただの言い訳だっていう人は俺は信じないようにしてるんだよね。だから伯母さんに関してもさ、だいぶ昔だけどあれ以来もう信じてないのね。常に距離があるっつーか中身を知っちゃったから関係はあるにしても常にアウェーなのね。残念だけどこれは俺が悪いんじゃなくてさ、相手との相性だよねっつーか俺に言わせれば精神病を言い訳だっていうその神経が理解できないんだけど。


俺はメンヘラーとしてもこういうことを言う人と徹底的に戦っていかなきゃいけないんだよね。それこそ将来的にさ、メンヘラーの会じゃないけどさ、それこそフーコー的な狂気の歴史の枠組みをそのまんま使ったようなアンガージュマンっつーの?偏見を無くそう運動みたいなのにコミットしたいっつーかコミットしてるけどね。そうじゃないんだ!ってのを言い続けたりさ、簡単にカミングアウトして相手の反応を見るとかさ、こういうのも全部、実地でのリサーチだよね。所謂、普通の人がそういったものに対してどう感じているのか?っていうことね。で、単純過ぎるかもしれないけど、ニューヨークのゲイパレードみたいなもんでさ、メンヘラーパレードみたいなのがあってもいいと思うんだよね。隠す事じゃなくてむしろ特色だ!みたいにさ、彼らのあり方そのものを一つのあり方として提示するっつーのかな?まぁラディカル民主主義で言われる人権のラディカライズだよね。ただアンガージュマンするには俺がある一定の社会的なプレゼンスを持たないとダメなんだよね。影響を与える存在にならないと俺の運動は結実しないんだよね。だから俺は社会にコミットしないといけないのね。やるべきことが多過ぎるんだよな。政治にしても精神病にしてもさ、俺がその基礎を作るって意味じゃなくて、すでにコミットしている人達はいるんだろうけど、俺もその特異なマイノリティとしてその基盤の礎にならないといけないんだよね。


短過ぎる?とりあえずここで切るわ。


The Essential John Nash

The Essential John Nash


PS


あ、んでさ、先走って書いちゃうけどさ、母親にこの話をしたらさ、まぁ帰国の件でスカイプで話したんだけど、どうしても話を聞いてもらいたくてっつーか客観的な意見が聞きたくてさ、ノンストップで一時間ぐらい喋ったんだけど、結局さ、母も父も同じようなことを感じてるんだよ。俺と。もう二人は50過ぎでさ、俺を養えるなんていう年齢じゃないんだけど、まぁそれはともかく両親も「めったに凄い人には出会えない」っつーんだよね。半世紀以上生きてきていて、それこそ社会に俺より早いうちから出ていて、色々と揉まれながら転職もしながら結局さ、結論は俺と一緒なんだよね。俺の言っていることを机上の空論だってなぜ論破できるんだろう?キャリアウーマンの人は。だったら「社会にはこんな凄い人達がいた」とかさ「凄い人とこういうきっかけで出会ったことがあって、それで人生が変わった」とかさ、具体的なさ、社会に出た後に成長したっつーかさ、良かったっつーかやっぱり重要だなって思えるようなことのエピソードとかを具体例にして出してほしいよね。そういうのが無いんだもんね。


親もひたすら社会でやっていくのに疲弊しているし、ましてやこんな息子を持っちゃったことで予想以上の養育費がかかっちゃってるし、ウォール伝読者の中には俺と同じようなことを感じている人がいるし、実際、それで悩んでいる人もいるし、そういうのもあって俺の考えっつーのがさ、ただの誇大妄想だとは思えないんだよね。事実を見ていたり自分でも断片的に経験しているから言えることなんであってさ、それでも社会に出ないと分からないってんじゃあその社会って何?って話じゃん?まぁこれはこの後のエントリーにも続く話だけどさ、地元の高校・大学出て地元の中小企業に勤めてて、んでそこに定年までいたって人は社会に出てるよね?でもこの人って地元とその会社のことしか知らないじゃん?俺はこの人より無知かな?ニューヨークに来て色んな人と出会ったり喋ったりさ、日本でもまぁ断片的ながらもバイトを経験したりさ、一応まぁ完全な引き蘢りではないんだよね。なのに俺は世間知らずなのかな?俺は逆なんだよね。世間を知っているからこそ無駄なゲームはやらないっつー考えを持っているんだよね。だからといって怠けて良いというわけではなく、両親に借金も返して、出来れば楽をさせてあげられるような親孝行が出来つつ、自分の道も進めるっていうゲームではなくて自分の道を進もうと思ってるんだよね。で、これの何が悪い?って話なんだよね。否定される筋合いは無いっていうさ、そういうことだよね。


俺等の世代っつーかさ、所謂、ロスジェネ世代っつーのかな?まぁ俺はオリジナルなロスジェネ世代とは年齢差はあるけど、まぁようはさ、こういう世代って年長世代とかさ、親の世代の失敗とか苦労とかってのをある意味で知ってたりするじゃん?だからリアリスティックなんだよね。俺みたいな野望を抱かなくても、全ては幻想だったとかさ、親は過労死したとかさ、自殺しただとかさ、そういうの死ぬほど見てきているわけじゃない?だから人によってはそれに早く気がつきすぎて中学ぐらいで自殺する子もいるし、下手すりゃ小学生でもいるよね。彼らは相当頭が良いに違いないよ。考える力と感性があるからこそ絶望できるんだよね。


いや、彼らっつっても彼らが具体的にそういった絶望から自殺したかはともかくとしてね、なんつーのかな?俺って高尚な哲学者みたいな言い方をしてるけど、ようはさ、雨宮処凛をロスジェネ代表として考えるとさ、ようは彼女が感じているような社会への嫌悪感っつーよりかは疑問だよね。それに対して立ち向かうというのが彼女であれば、俺も立ち向かっているけど、俺はどちらかというと隠者なんだよね。彼女みたいな物理的なパワーはない。だからといって俺が社会運動とかにコミットしないということではないんだけど、雨宮処凛が感じているような素朴な疑問だよね。全てを知るものが達観しているというような雰囲気が俺にはあるっつーか言い方がそういう風に見えるけど、所謂、ロスジェネ世代の叫びの一つなんだよってことだよね。まぁ自分をロスジェネ世代に当てはめるとかさ、枠にはめる必要は無いんだけど、俺の言い方を分かりやすくいうとそういうことだよね。あと赤木なんたらがさ、そこそこ食えればコンビニ店員でもかまわないといったようなさ、赤木論文あったじゃん?あのある種の現実を見据えたニヒリズムが俺で言うところの夜間警備員の話なんだよね。


でもさ、ロスジェネ世代っつーかまぁ赤木さんがロスジェネ世代かは別としてね、イデオロギー云々は置いておいてさ、俺らぐらいの世代が感じている生きづらさってのは別に哲学とかさ、政治哲学とか知らなくたって感じることなんだよね。ある意味でのロスジェネ世代みたいなのってアメリカにもいるからね。お転婆娘はある意味で雨宮処凛的なのかもしれないな。あのぐらいになってほしいもんだって思うんだけど。でも年長世代とかさ、自称社会でやってきた組としては全部そういう意見を甘えだとか怠け者の遠吠えだとかさ、そういう風に言うじゃない?だから俺とキャリアウーマンの人との間の相違ってさ、哲学者と街みたいなニュアンスを俺はむしろ感じるけど、分かりやすく社会的な背景も考えた上で言えばさ、ロスジェネ世代とロスジェネ世代を自己責任論で批判する年長世代との相違なんだよね。社会的なタームで言えばこれがピッタリだと思うんだよな。


で、政治運動とかさ、社会的なものを考えるって別に高尚な学者じゃなくたって出来るんだよ。雨宮処凛はあえてロールモデルとしてああいうことを言ってるのか分からないけど「左翼の集会に言っても彼らが語っていることが難し過ぎて分からなかった」みたいなさ、俺は雨宮処凛はヘタレ左翼なんかよりよっぽどスマートだとは思うけど、別にアガンベンとかフーコーとかデリダ知らなくてもいいんだよね。そういうのを知らなきゃ政治運動が出来ないってわけじゃないのね。むしろその感じた憤りを政治的なものとして表象で終わらせるのではなく、表出として帰結させることの重要さっつーのかな?それなんだよね。ようは。イデオロギー云々は別として、ロスジェネ世代とかロスジェネ世代に共感出来る人はイデオロギー抜きでとりあえず共闘するべきだね。狂った社会がそこにあるということは事実なんだからさ、イデオロギーのせめぎ合いとかで争ってる場合じゃないのね。




ちょうど日本に帰るから未読の雨宮処凛の本を通読するとするかな。俺は彼女に共感しているというよりかはさ、彼女みたいな人が社会運動をしていて、なおかつ膨大な出版物を出していて世の中に影響力を持っているということが凄く嬉しいんだよね。彼女のイデオロギーや考え方が正しいかはともかくとしてさ、彼女みたいな人がいるということが凄く素敵なのね。今みたいな時代に必要とされているような人物って彼女みたいな人なんだよ。


あ、んで追記。「正しいかはともかくとして」って言い方がどうかな?って思ったんでね、ようは言いたい事はね、いや、俺は彼女が言っていることは正論だと思うんだよ。かといって彼女がやっていることが全て正しいとか考えていることが全て正しいと言い切れるってわけじゃないのね。盲従は出来ないけど、共感は出来るっつーのかな?んじゃあさっき言っていたことと違うじゃんね?「共感しているというよりかは」って言ってたわけで。なんつーのかな?例えばね、彼女をマルクスだと仮定したとするならさ、マルクスの言っていることは根本的に正しいけど、プロレタリア独裁というアイデアにまでドグマティックに同意する必要は無いってことね。言ってること分かったでしょ?ゴメンね。なかなかfucked upしてるね。俺。まぁいつものことだけど。