埋まらない勘違い。第二章。その4。

mimisemi2009-06-14

はい。ではまた続き。今日は長めに行くわ。あとマッシュアップはパイのやつね。


http://mushroom.cage.to/mix/pi.mp3


そうそう。ビザの問題で帰国することになったけどその元相方に会うのは楽しみだな。他の数少ない友人達もそうだけど、彼とまたジャーゴンだらけであっても慢心しない程度の哲学とか思想とか学問の話が出来たらなぁーって思うね。アメリカに来ても俺の中での知り合いっつー友人とかっていう意味ではなく知っている人っていうレベルで一番頭脳レベルが高いのって結局彼なんだよね。元相方。これは逆に残念な事でもあるね。はるばるアメリカまで来たのに彼に匹敵するか彼を越す頭脳のやつがいない。出会えないぐらいの3流が集まるような場所にしかいれない俺にも問題があるけど、それは前に大学の話と一緒で、そこそこの大学に行ったところで俺が思うような凄い人に出会えるか?って結構絶望的だっつーのは前に書いたよね。衒思力の人が東大に入った後感じた絶望というのを読んだ時に俺は衝撃を受けたんだよね。マジで。


あ、分からない人は適当に調べてみて。あんまここで俺の物理的に知っている身内以外の話とかをあんましたくないんでね。彼は東大に超人みたいな人がいっぱいいるっつーかまぁいっぱいではないけどいると思っていざ入ってみたら凡人の吹きだまりだったっつー話ね。これはなんつーか映画でショックを受けるぐらいのショックを受けたね。映画のワンシーンを見てショックを受けた感じ?そんな彼が俺の事を天才扱いしているから彼の事を持ち上げて結果的に自分の事をより上に持ち上げようとしているんだろ?とかって考えないでね。そんなつもりは一切無いから。だって彼だって俺と同じく辛いんだよ。だって超人が東大にいると思ってたんだから。


で、いざ入ってみたらさ、誰々がどうしてるだのあーしてるだの嫌われてるだのっつーさ、所謂、ふつーの中学とか高校で展開されてるようなふつーの学生レベルの学生がいっぱいいたってことなのね。でもまぁふつーの大学よりかは超人まではいかなくても、まぁ相応の人は見つけやすいと思うけどね。あと俺が思うに逆に凄過ぎる人は精神を病んで引き蘢ってるかってまぁ俺のことまたさ、自分のことを凄いって言っちゃうような言い方になるけど、自分とかはおいておいてね、まぁそうなっちゃったりあとはね、大学とかどうでもいいって分かってるんで勝手に自分でビジネスなり何かを書くなりして生活してるとかさ、そういうレベルだと思うんだよね。


つまりは大学なんつーレベルに凄い人は存在しないってことね。大学なんつーのも能力の無さを学歴という印籠の威力で補おうとするヘタレのたまり場か、もしくはモラトリアム機関かもしれないわけでさ、本当に凄い人は大学を辞めちゃったり最初から入らなかったりするんじゃないかな?って思うのね。で、人知れず死んでいく人もいれば、いきなり何かで評価されて「天才現れる!」みたいな評価をもらったりね、あとはさっきの死んでいくっていう意味とは違った意味で絶望して自殺したりとかね、両極端なんじゃないか?って思うよね。


だから前に書いたようにさ、哲学とかにマジでのめり込むやつって結局、逸脱者が多いってことなんだよね。それは哲学にコミットするというよりかはそれが生き方になるんで社会とのコンパチビリティが無くなるのね。で、結果的にっつーかまぁ俺の場合、本来的にアウトサイダー三ツ矢サイダーで引き蘢りでしょ?それは哲学をするということを決め込んで隠者なりアウトサイダーなり引き蘢りになるというよりかは、その人の本来性がそういう道に帰結するんだよね。やれないことだらけで消去法だらけで行くべき道が自ずと見えてきちゃう感じ?それを特にアメリカに来てからの俺は意識的に感じるようになったね。ニューヨークってエキサイティングだと思われている場所にいながら、ニューヨーカーからはバカにされるクイーンズの保守的なフォレストヒルズって場所のタウンハウスの地下に籠り続けているってさ、ポーズじゃないんだよね。ただの所産なの。哲学者ぶりたくてこういう生活をしているんじゃなくて、俺に合った生活を模索してたら今みたいな形になってるのね。哲学という道然り。


哲学者なんて全然凄くないってのをよく表しているページがあるんで貼っておくね。俺に言わせればアーティストの類も同じ穴の狢ね。作家とかもそう。特にビート系。有名になってなかったらただの引き蘢りかニートってやつらが圧倒的に多い。


http://www.geocities.jp/trushbasket/data/dame.html


言いたい事分かるでしょ?ぶるのとあるのは違うんだっつー差。でも他者っつーか伯母さんとかキャリアウーマンの人みたいな人達はそれを現実逃避とみたり哲学者ぶっているとみたり甘えだとみたりするわけね。それは全部が無知な表面的な一次元的な判断と理解にしか基づいていないというのを彼らは理解しないのねっつーか分からないのね。だから放っておいてくれ!って話になる。人と話してもそんなことばっかだから結局、隠者みたいになっちゃう。なりたくてなっているわけじゃなくて、これは結果なんだよ。だって分かるでしょ?パーティーとかにも行ったりしてるじゃん?試しに。人と話したりさ、ふさぎ込まずにオープンになったりしてるでしょ?でも結局こうなんだよ。


でもまぁ出れば喋るしたまには出たくなるっつー精神があるんでだからまぁいいと思うんだけどね。これが恐らく隠者と引き蘢りの違いなんだと思うね。まぁ隠者っつーか賢者か。自分の事賢者っつーのもなんだけどなぁー。だからさ、あれなんだよね、今ってさ、一応まぁ昔ほどの言論弾圧とかないじゃない?だからまぁ食える道さえ見つければ基本的にまぁ言論の自由という理念があれば言いたい事言えるんだよね。だったら俺はそれを利用して言いたい事を言いまくりたいのね。思った事や考えた事や言いたい事を口を濁すことなしに綺麗に語りたい。それはビューティフルにってことではなくて、クリアに単純にズバッ!とってことね。そういう生き方に俺は自分を見いだした気がするね。まぁ職業ではないんだがポリシーね。それは全部ADDと超人の話とかに繋がってるんだけどね。思いつきで書いてるんじゃなくて、ああいう思考の結果ね。


別の言い方をすればいかにそれを妨害無く俗事に惑わされることなく煩わされることなく続けるか?ってことなんだよね。それは続けていくということとつまりは同意義なわけだ。それが今の俺の重要なプライオリティの一つだよね。まぁそれが達成されちゃえばあとはオッケーって感じだけどね。それは安泰って意味じゃなくてずーっと今みたいな生活を続ける事が出来るってことでとりあえずオッケーってことね。俺が考えていることとか言っていることが社会で評価されるか?とか金になるか?みたいなのはまぁどうでもいいことなのね。それと自分の生き方は離して考えなきゃいけない。


だから金に関してはワニトカケギス的な夜間警備員みたいなのでなんとかなればそれはそれでオッケーってことなのね。モルグの前にずーっと座ってる警備員とかね。別にモルグである必要性は無いんだが、ああいうのってあんま人がやりたがらなさそうじゃない?だからまぁ他の仕事に比べて競争率が低いかな?って思うんだけど、逆に奇人とか変人による競争率という名の奪い合いは多いかもね。もしくは不況だからやりたくないと思っている人もやらざるを得ないみたいな状況になってるのもあると思うしね。不況と言えばニューヨークも酷いように思えるな。どこもかしこも年がら年中セールっつーかさ、まぁ洋服屋とかね、どこもかしこもっつーと言い過ぎだけどさ、あとまぁテナントね。家賃が高そうな場所の業務用のスペースが空いているところが多い。インカムと土地代が釣り合ってない良い証拠だよね。ニューヨークってそういう意味だとただの地獄だよ。ヘルズキッチンって場所があるけどさ、俺に言わせればマンハッタン周辺全土がヘルだね。みんな生活が苦しくてヒィーヒイー言ってる。


で、金持ちは相変わらず金持ちで良い場所に住んで良いレストランに行って良い洋服屋に行ってるわけ。すんげー階級社会。もうニューヨーク自体が政治の様相を見せてるっつーのかな?階級社会、多元社会、多文化社会、ポストモダン社会、政治的なあり方というのが全部現れているような場所だよね。山奥に住んでてもそういうのって見えないじゃん?間接的には知る事が出来るけど、ニューヨークってある目を持っていれば凄まじく政治的な場所なんだよね。政治的なダイナミズムを観測するために社会学者なり政治学者が模型を作って高度なAIを走らせてるシミュレーション都市モデルみたいな感じ?それはだいぶ前に書いたけど相変わらず本当にそうだなって思うよね。だから俺にとってもベストな場所なんだよね。理由はこれだけではなく、前に書いた自殺サークルの比喩のジグゾーパズル的な意味も含めてさ、あらゆる意味でベストなんだよね。引き蘢りであろうが隠者であろうがベスト。俺にとっての最高の出てゆくべきマーケットがそこにある感じ?


あーまた哲学者ぶってるって言われそうだー。いや、ただ思った事書いているだけで哲学者の模倣をしているわけではないんだけどねぇー。哲学者っぽくなく振る舞うとか書くっつーやり方をわざわざ習得する必要性も感じないしね。「こう思われたら嫌だな」っつーことを想定してなんて書く必要がないんだよね。だから分かる人だけが読めばいいし理解すればいい。あーまた哲学者ぶってるって言われそう。シュトラウス流のesoteric teachingなりwritingの真似事?とかって言われそう。でもまぁ気にしない気にしない。音楽と一緒でさ、自分で思いついたこととか書いてたことが偉大なる過去の哲学者とかとかぶってたらむしろそれは光栄なこととして理解しなきゃね。そうじゃないと「またカブった」とかさ「全然新しくなかった」とかさ「真似事の繰り返しみたい」とかさ、そういう悲観的でニヒルな解釈しか生まれなくなるからね。こういったニヒリズムを超越したアートのあり方が椹木野衣のシミュレーショニズムって本に詳しいから気になる人は読んでみてってたまにさ、こういう話になるといつも椹木野衣のシミュレーショニズムの話が出てくるよね。で、「読んでみて」って書くの。デジャヴっつーかマジでね。デジャヴと言えばマトリックスでのデジャヴって面白いよね。


シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)


あれ攻殻機動隊のイノセントにそっくりっつーかまぁあれの場合、イノセントのほうが後だけど、デジャヴってのは誰かが不法にマトリックスのデータにアクセスした時に起こることっつーことでデジャヴがマトリックスで起こればハッキングされている可能性があるってさ、あのイノセントのキムの館のゴーレムの件と一緒だよね。ただイノセントのゴーレムの場合さ、バトーに「なるほど。そうだったのか」って言われてもコナンとか金田一少年の事件簿の「そうだったのか」レベルでさ、そんなこと言われても誰も思いつかねぇーし「そうだったのか」って誰も思わねぇーよっつー話なんだよね。推理小説にしてもなんにしても「そうだったのか」って思わせるのってさ、緻密な考えをしないと見えてこないものではなくて、見えているんだけど見えすぎていて見えないものとかさ、当たり前過ぎて疑いを持たないものっていうのに答えがあって「なるほど!」って思うときのクオリアのスパークだよね。それが推理小説なりなんなりを成り立たせるっつーとあれだけど、読者にスパークをあたえる要素だよね。それが無いとただの傍観者になっちゃうんだよね。読者なり鑑賞者が。


金田一少年の事件簿とかさ、見てていつもそう思ってたね。そんなこと普通の人分からねぇーよっつーさ、IQとかの問題じゃねぇーよっつー話ね。かまいたちの夜とかが時代的に分からないけど、今思った感じだとああいう推理コミックに流行に便乗してわけの分からないトリックとかに埋没してた気がするな。まぁかまいたちはそれでも面白いからいいんだけどね。金田一少年もね。別にダメだとは言っていない。ただ「金田一君頭いいねー」っていう感じしかうけないよねっつーのは率直な感想だよね。


それは哲学とか政治理論にも言えてさ、まぁ言い切れる話じゃないけど、例えばさ、ラカン精神分析理論を応用しつつ、さらにマルクス主義階級闘争パラダイムなども使いつつ、ヘーゲル弁証法的手法で存在論的にオントロジカルな憲法のあり方と人権概念をラディカライズしながら、ポストモダン構造主義的な枠組みで考える社会と人とのあり方を考えるみたいなことじゃなくてさ、もっと当たり前のことなんだよね。分かってても分からないことっつーかさ、さっきの推理小説と一緒よ。まぁ事件にもよるけどホームズが後者に近いね。金田一少年は前者でホームズが後者っぽい。


で、俺は当然ホームズの大ファンね。特にホームズが推理するときの犯人の頭になって考えるというやり方ね。それは身になってではなく頭になってなのね。彼の頭脳と彼の状況と性格と他者とのあり方とを色々と考えると彼ならこうしていただろうってのを導きだす推理法ね。これに当時、引き蘢りで自律神経失調症気味で下痢ばかりしていた俺は魅せられていたね。イギリスのテレビシリーズのホームズは全部見たし全部ダビングして何回も見たし、小説も全部読んだっけな。思えばやっぱり健気で知的な好青年だったんだよね。シンジ君みたいに「ダメだ。僕なんて」なんて思ってる必要は無かったのにな。可哀想に。一番多感な時期だったのかなぁー。あの時期は。学年で言うと中3とか高1ぐらいの時かな。今思えばこの感嘆の仕方とかがすでに知的に研ぎすまされたポテンシャルを持ってるのに周りとか本人とかもそれに気がつかないっつーのが悲劇だよね。こういう悲劇に陥っている引き蘢りは多くないけど、まぁ結構いるんじゃないかと思うね。そういうのを見いだして積極的に評価して伸ばしていくっていうシステムっつーかあり方が必要だよね。彼らはダメなのではなく頭が良過ぎるが故にダメになっているように見えるんだっていう理解ね。あ、また自分のことを頭良い人扱いしていることになっちゃってるな。でもしょうがないよね。


それは過去にあった事実で、今、俺が思う事がその過去の俺と重なっても何ら不思議はないんだよ。俺は過去の俺を肯定しようとこういうことを思ったり書いたりしているのではなくて、過去の経験から今を経てこう思ってるわけであってね、自己顕示とかじゃないのね。で、引き蘢り万歳!って手放しで言えるのはこういうタイプの引き蘢りだけね。引き蘢りっつって全部は肯定できない。引き蘢りから言わせれば。本当にダメなやつらも多いんだから。そういうのを全部ポテンシャルとして扱うっつーのはどうかと思うね。だからもっと引き蘢りってホームレスとかネット難民とかと同じで実態調査が必要なんだよね。「引き蘢り」とか「ネット難民」とかっていう大枠の括りにしないでっつーかさ、それって結局「日本人」とか「アメリカ人」ぐらいの大まかな人間の区切りなんであってさ、個々のあり方って多用だよね?でも一定のパターンはあるはずなんだよ。知的に優れているからこそ精神を病んでいる人達とかね、クリエイティブ過ぎるとかね、こういうタイプがまぁ引き蘢り肯定派が肯定する引き蘢りの理由だけど、これは全体にはワークしないよねっつーのはさっき書いた通りね。つまりは本当にダメなやつもいるってことなのね。中学の同級生にそういうやつがいたんでそれはよく分かる。


で、俺としても俺の登校拒否を彼の登校拒否と一緒にされるのが死ぬほど嫌だったな。そんぐらいレッテル貼りってのは物事を単純化するのねっつーかさっき書いたような理解の一次元化ね。でもなぜか教師とかさ、精神科医とかさ、そういう連中ですらそういう単純な理解しかしてなかったりするじゃない?だから絶望的なんだよね。基本的にバカが多いから問題が放ったらかしになる。


で、一部の気がついた人が彼らの身を削って行動に出ても単純な連中からの批判を食らう。で、彼らの運動家なりNPOなりNGOとしての役割というのもメディアとかで報道されないと注目されなかったり、注目が一時的でその後は置き去りになったりね、大衆の問題に対する無関心さってのが問題のあり方そのものを取り巻く諸現象によって見えてくるんだよね。全部大衆=バカ理論に帰結させるようだけど、そうじゃなくてそれだけ大衆の無知とか無関心ってのが社会問題そのものの原因を作り出していたり硬直化なり閉塞化を生み出しているんだよってことなんだよね。そのぐらい深刻なことなのね。愚者の船というのは。だから俺は大衆統治としての民主主義に凄まじい危機感を感じるのね。これを良いものだと信じていては何もかもが変わらない。縦の力っつーか権力によってでしか変わらないし変われないこととかダイナミズムってのもあるんだよね。


そうじゃなかったらその大衆で問題を解決してほしいもんだって思うけど見てる限り絶対無理な感じじゃない?絶望的じゃん?だからといってさっき書いたようなね、俺が批判する大衆には入っていない他の人達って意味での活動家とかさ、NPOとかNGO法人の人達とかねっつってもこれも一概に言えないんだけどね。大衆的な資質の人がそういうことをやっている可能性もあるんで、活動家とかNPOとかNGO=善とかにはならないんだけどね、ただ少なくともなんつーのかな?名前忘れたけど労働問題とか派遣問題に取り組んでる若い男の人いるんだけどね、ああいう人がいると安心するよね。社会にはああいう人もいるんだってまだやっぱ安心出来るっつーか見切りをつけられないところはあるよね。


俺のこういう物言いって典型的なStand Alone Complexなの?しかも笑い男ほどの頭脳を持たない人?とかって思うことも多いんだけど、あり方は体裁として身のあり方として自然に結果として現れるものとして、インテリジェンスとか頭脳ってある程度磨ける要素だからね。だから「もしバカだったらどうしよう?」っつー考え方はナンセンスなんだよね。そう思う瞬間にでも高みを目指す道を一歩一歩踏みしめていくべき。後ろを振り返っちゃいけないのね。後ろは崖だから。だから結局、今の俺の状況って常にそうなんだよね。精神的にも物理的にも常に状況が崖っぷちで背水の陣で物事に挑まなきゃいけないのね。だから伯母さんとかキャリアウーマンの人ぐらいの言い方に動じている暇は無いんだよね。学べるところがあれば学ぶけど、全てがドクサによって形成されたものならそれは聞く価値がない。その見切りは自己防衛という意味でも、機会費用という名の経費削減という意味でもバシッ!とつけなきゃいけないのね。そうじゃないと人生を無駄に費やすことになるからね。


あーまた哲学者っぽい言い方になってる?もう気にしないで。マジで。そういうつもりじゃないから。ホントに。いやさ、俺も言われてるじゃん?クリティカルの先生に哲学のあり方みたいなのをちょっと小馬鹿にされたりさ、キャリアウーマンの人に色々と言われたりするとやっぱ迷いが生じるんだよね。それは俺の意志に対する迷いではなく、どう見えているのか?ということに対する不安ね。また他者はこんなことを言っている俺を哲学者気取りだとかいってバカにするんじゃないか?っていうような被害妄想と言うと大げさだけど、まぁそういうのはあるよね。きっかけがあるとこういうのが酷くなる。まぁ精神病然りだねっつーかまぁこれもパラノイアの一種なのかもしれないけどね。パラノイアと言えば自分と比べるわけじゃないけどシュトラウスもね、一時期パラノイアに悩まされていた時期があるんだよね。


それはアメリカに来て確かニュースクールにいた時期だったのかな?生活が大変で仕事も大変で健康状態が悪いってときに誰かからつけられてるんじゃないか?っていう妄想に捕われていたらしいんだけど、シュトラウスの物言いが凄くてさ、っつーか「シュトラウスー!!!!!」ってSOHOのスタバで叫びたくなったのがさ、シュトラウスが言うのはね「つけられているんじゃないか?って思っても別にそれは彼らがそうではないということを意味するのではない」みたいなことでさ、だから結局、そうじゃないと言い切れない限りは、自分がつけられていると思うべきではないと言うことを告げることではないみたいなね、それは当時のシュトラウスの苦悩とかね、思想的に孤立してる感じとかさ、ニュースクールの思想の波と全然違う感じとかさ、ユダヤ人がナチスの迫害を恐れて色んなところを転々としていたということが彼の精神状態を蝕んでいた可能性もあるわけでさ、彼が精神病だったというよりかは彼の過酷な状況がそういったパラノイア的精神状態を許してしまったということはあるにせよさ、思っていることは同じだよね。


俺はシュトラウスほど過酷で辛い次元ではないけど、でも俺は立派な精神病があるんで物理的にはそう見えなくても内面的な葛藤は凄まじいって言えるかなって立派な精神病って言い方もあれだけどさ、つまりはね、俺のことを変だって笑ったりそれを話題にしてるやつも実際いるわけでさ、それもあってか彼らが笑ってないって保証は無いんだよね。そもそも気にしなくていいんだけど、もうこれにはずーーっっと昔からつきまとわれてるね。これがパラノイアの一種なんだって気がついたのは恥ずかしいことにマジで最近だけどね。で、分裂病の本を読んだら俺に当てはまるところが多くてさ、まぁそれはADDとかアスペルガーとかとの合併症である可能性もあるっつーかさ、ADDで分裂病っつーのもあるっつーか確かヴァイアスバーサね。ADDで精神も病んでいるって可能性は結構な割合なんだよ。その一方でお転婆娘みたいな健全なADDもいるからADD=精神病ってわけじゃないんだけど、精神病率は結構高いってことね。


で、このパラノイアだけどさ、なんつーか俺のシュトラウスへの共感って明らかに実存的なものも多いんだよね。俺はユダヤ人じゃないけどちょっと違うっつーかまぁあまりに違いすぎるのか普通に馴染めなくて居場所を求めてる感じで、んでニューヨークにハマれる場所が見つかりそうってことで頑張ってるっつーあり方がシュトラウスの過去に似てるんだよね。いや、比べるっつーか似てるなんて言うのは恐れ多いことだけど、ましてやニューヨークでっつーのがなんかね、シンボリックだよね。シュトラウスも半世紀前に苦労していた時期があってパラノイアに取り憑かれていた時期があったんだなって思ったりするとさ、ただですらっつーかデフォルトでは思想面での共感とリスペクトがあってさ、他方で実存的類似ってのがあって余計にのめり込んじゃうっつーの?前はそれが姜さんだったけどね、


特に在日っつー彼の自伝みたいなのには本当に共感を覚えていてさ、特にドイツ留学のところね。大学院にもレベルの低さを感じていて薄暗い町中を彷徨ったり図書館に籠ってウェーバーを読む事にだけ集中したりとかさ、あのふさぎ込みっぷりっつーのかな?それに凄く共感を得ていたけど、共感と言う意味でのシュトラウスははっきりいってその比じゃない。思想面でのジャストでダイレクトな共感とさ、実存面での葛藤という意味での類似とか葛藤のあり方の類似とかね、彼の哲学者としてのあり方とかっつーのにさ、全部共感とリスペクトを覚えるんだよね。だからもう半端じゃないわけ。これは俺じゃないと分からない感覚だろうけど、でもそういう人がいるとは思うんだよね。過去の誰かに照らし合わせると自分とそっくりで似たようなことを言っていて同じような葛藤を抱えていた人とかってさ、太宰とかに俺はそういう共感を感じてたけど、シュトラウスの場合、もうそういうレベルじゃないんだよね。ほぼ全部がそうっつーかさ、願わくば知的レベルもそうでありたいもんだって思うのね。凄く。物凄くそう思う。


だから文体とかさ、シュトラウスの独自の語彙とかね、言い回しとか真似したりしてんのね。もう完全なるミメーシスだね。彼がいたとすれば、彼の映像があるとすれば彼の身振りとか素振りとか喋り方とかまで全部真似したくなるだろうなって思うぐらいのバイブレーションを感じているのね。で、面白いもんでシュトラウスの本を読んでるとさ、シュトラウジアンが書いた本とかって結構分かるのね。あーシュトラウスみたいな言い回ししてんなーとかさ、語彙がシュトラウスっぽいなーっつー人が多いのね。多いっつってもそんな数のパブリケーションがあるわけじゃないけど。限られた中でシュトラウスの生徒だった人が書いた本を読むと似たような感じを受けるっつーのね。そうじゃなくてダイレクトにディスクリプションに取り組んでいる人もいるけど、大抵、シュトラウスに関しての良い本はシュトラウス的な雰囲気とか文体の感じがあるシュトラウスの生徒が書いたものばかりだね。


あんま人に教えたくないけど、Steven B. SmithのReading Leo Straussと前にもここで紹介したCatherine & Michael ZuckertのThe Truth About Leo Straussはマジで名著ね。両者もタイトル通りシュトラウスについての本なんだけど、シュトラウス的なエッセンスが劣化する事なく見事に受け継がれているっていうのをダイレクトに感じる名著ね。魂があるっつーかなんつーか寒い不毛な機械的なディスクリプションに終止してないっつーのかな?それに比べて左翼系が書く本ってつまらないのが多いんだよねっつーか左翼系っつーとあれだけど左翼系の大学教授が書いた民主主義についての本とかね、ポストマルクス理論とかさ、そういう感じの本ね。文章に全く面白みを感じない。なんつーのかな?通販のオーダーした後に帰ってくる自動メールの文章の機械的な感じっつーの?そういう機械的なディスクリプションがアカデミアでは良しとされているのかもしれないけど、だとすればアカデミアは魂が無いってことだね。こういう左翼にはもううんざりなんだよね。ホント。読んでるだけで吐き気がするっつーのかな?それだけまぁ俺の英語力っつーか読解力も上がったとも言えるね。


つまりは文章のエッセンスとか雰囲気とかヴァイヴを感じられるレベルになってるっつーのかな?だからこそ好き嫌いが激しくなるのね。昔は読む事にだけ集中してたし、それしか出来なかったけど、今では日本語の本と同じように、文体とか言い回しとか語彙の好き嫌いっつーのがはっきりしててさ、作者の人となりみたいなのを文から感じ取れるようになってきているっつーのかな?それ故にさ、日本語の場合、ちょっと読んだだけで「うわ!嫌だ」って思うのがあるけどさ、まぁそういうのって前に散々批判したけどね、で、なぜか左翼系に多いんだけど、それを英語でも感じられるようになっててさ、しかもなぜか英語でも左翼系機械的なインテリ言葉で書いた文章に吐き気を感じるっつーのかな?良いことだよね。これは。物事っつーか文章の善し悪しが分かってきたってことだもんね。英語でね。これは凄まじい上達だよね。だからさ、教科書とか大概がクズに思えてくるのね。「こんな文章書いてて著者は書いているときに退屈しなかったんだろうか?」って感じたりすることが多くなったのね。だから余計に教科書を読まなくなっちゃうんだけど。


ってことであとちょっと続くね。

Reading Leo Strauss: Politics, Philosophy, Judaism

Reading Leo Strauss: Politics, Philosophy, Judaism


これはシュトラウスの思想面で大充実していて解説書みたいなやつでは少なくとも俺の経験ではベスト。


The Truth about Leo Strauss: Political Philosophy and American Democracy

The Truth about Leo Strauss: Political Philosophy and American Democracy


こっちは思想面もそうだけど、現実社会やリアルポリティクスとシュトラウスの関係性みたいなのが多い。


Leo Strauss And the Politics of Exile: The Making of a Political Philosopher (Tauber Institute for the Study of European Jewry)

Leo Strauss And the Politics of Exile: The Making of a Political Philosopher (Tauber Institute for the Study of European Jewry)


シュトラウスバイオグラフィー的な感じ。前者二つに比べると見劣りするけどまぁまぁ。今回のエントリーの中にあるパラノイアの話のソースってことで。


Carl Schmitt And Leo Strauss: The Hidden Dialogue

Carl Schmitt And Leo Strauss: The Hidden Dialogue


狭い主題の中でよくもまぁこれだけ書いたもんだと関心したね。


っつーか英米系のパブリッシングってやっぱレベル高いっつーかこっちに慣れると日本の本が本当に見劣りするね。まぁ結局日本のアカデミアがやっぱ世界レベルじゃないんだろうね。外国語=日本語で翻訳はいっぱいあるけど逆は滅多に無いもんね。あと印象としては日本は小さい本が多い。小冊子程度の簡単な本が多くて、深いやつはドマイナーな感じっつーの?英米系の場合、日本で言う新書の3倍から5倍ぐらいの量のコンテンツの本が持ち運びやすいペーパーブックで出版されてるんだよね。ようは仰々しい強そうな分厚い本じゃないってことね。取っ付きやすそうなカバーと体裁ですげー文章の量って話ね。日本の本と英米系の本を比べると量のデフォルトが違うって感じだね。日本はパンフレットレベルの本ばかりだよね。ようは英米系の出版物ってものにもよるけど一冊の情報量が半端じゃないのね。そういう半端じゃない情報量の本が大量出版されてるんだから、まぁーそりゃ日本が敵うわけないのは当然だけどね。日本は昔から輸入ばっかだよね。アニメとかサブカル以外何も作り出していない。