埋まらない勘違い。完結編。

mimisemi2009-06-15

ジョーダンのさ、通気性が良さそうなやつがあるんでね、夏用に一足買おうと思ってFoot Lockerに行ったんだけど無いんだよね。Foot Actionにも無い。で、洋服屋とかもそうだけど、契機が悪いんだかやたら値下げが目立つ。アメリカで色々買い込んで日本で売ればそこそこの差額が儲かりそうとかって思ったけど、まぁそういうレベルかはともかくとして、「無いから諦めるか」とか思ってたら「ムムっ!!」と思うのを発見したのねっつーのがこれ。



http://www.sneakerfreaker.com/articles/Reebok-Omni-Hex-Ride-orchard-St/5/


こっちは履いた感じ。



http://sneakernews.com/2009/04/15/orchard-street-for-reebok-re-up-collection/


オーチャードストリートっつーニューヨークのブランドとリーボックのコラボらしいんだが、マジでヤヴァ過ぎるだろ!これ。かっこ良過ぎ!!!もちろん即、買ったけど俺が買ったのはこのカラーじゃないんだけどね、でもこのカラーは基本的に一番いいとは思うけど個人的にロゴが目立ってるのって嫌いなのね。それはどんなブランドでもそうだけど、あまりにそのブランドとかのマークが目立ちすぎてるやつってあんま良いとは思わないんだけど、俺が買ったカラーはさ、そのロゴが刻印されてるだけで色がついてないのね。だからあんま派手じゃなくてさ、すげーかっこいいの。しかもたったの90ドル。ダンクぐらいの値段でちょーお手頃。


日本では未発売らしくて倍ぐらいで売られてるみたいだけど、まぁとにかくカッコいいね。これ。リーボックを買ったのなんて小学校の時以来だよ。普段はナイキかジョーダン一筋でしょ?俺。だから意外な買い物だったんだが、こりゃヤヴァイな。マジでカッコ過ぎる。デザイン的にはエアフォースとインデストラクトを混ぜたような感じで目新しさはゼロなんだけど、インデストラクトみたいなゴツさが無いっつーのかな?エアフォース並に何気にカジュアルなレベルでちょっと奇抜なデザインっつーのかな?それが最高にクール。夏はバッシュって蒸れるから嫌なんだけど、これはetc.っつーanti-friction liningっつー靴底が使われててさ、ようは摩擦防止ね、で、なおかつこのRE UP PROが一環してどれも通気性が良く作られてるのね。デザインと機能美が融合してるのって何にしても大好きなんだよね。靴に限らず。いやーこりゃ凄い。完全なアートって感じだわ。


ってことで今日はまぁ昨日の続きっつーか埋まらない勘違いシリーズの完結編ね。で、結びっつーのがこれと別にあるんでそれは明日アップするわ。いやー長かったね。マジで。はいってことで以下は続きです。


俺は明らかに正しい道を進んでいると思う。シュトラウスのThoughts on Machiavelliっつー本の後ろのページのコメントみたいなのにさ、凄くお気に入りの文章があってね、引用すると"When studying Machiavelli, every time that I have been thrown upon an uninhabited island I thought might be unexplored, I have come across a small sign saying 'please deposit coin.' After I comply, a large sign flashed in neon lights that would have been visible from afar, with this message 'Leo Strauss was here' - Harvey C. Mansfield, Jr."なんだけどね、この「マキャベリ」ってところを例えば大まかに「この道」だとかさ、「哲学」だとかって言う風に言い換えれば誰にでも当てはまるとは言わないけど、少なくとも今の俺にとってはこの引用文の感じをシュトラウスに感じているのね。それが人生単位だったかはともかくとして、学問としてこれと同じような感覚を持ったシュトラウスの生徒なりシンパは多いんだろう。で、俺はそれを学問に限らず人生に感じるのね。この苦難の道は誰も歩んできていなかったように思えるけど、 シュトラウスの足跡が道に残っていたっていうね、ちょっとポエティックで大げさな表現だけど、つまりは俺が感じている「そういうレベルじゃない」っていう共感はこういうことね。俺がシュトラウスほどの金銭的な苦労とか肉体面での苦労とか時代的な苦労をしているとかっていう質の話は別として実感としてそれがあるってことね。


だから俺はシュトラウスを読むたびに、そしてシュトラウスに共感するたびに「俺は間違っていない」って確信するのね。まぁシュトラウスに限らず哲学全般にそう感じるけど、特にシュトラウスニーチェに関してはただならない共感というかヴァイヴを感じるのね。伯母さんやキャリアウーマンの人や俺を批判したりからかってきたりするやつの言うことを信じるのか、シュトラウスニーチェのような哲学者の言葉を信じるのか、答えは明らかなんだけど、日々の単位であまりに前者との出会いが多過ぎて心が揺らぐのね。「やはり俺はただの狂人では?」という疑いが生まれたりする。そういう葛藤があるたびにより本質的な読書というか知識の探求が進むっつーか魂も同時に研ぎすまされるっつーのかな?


だから逆に恐らくリア充だとこの研ぎすまされた感じってのは得られないかもね。物理的にも精神的にも孤立することで研ぎすまされる認識の状態とかさ、魂の状態っつーのかな?これは引き蘢りと聖者や賢者としての隠者の違いを表す大きな要素の一つだよね。まぁ問題は見た目は両者とも変わらないってことなんだけど。で、その見た目だけを判断して批判してくる人が多いってことなのね。俺はそういう人間とはなるべく付き合いたくないって思うのね。自然なことだと思わない?全然哲学者ぶってないでしょ?ただの所産としての隠者みたいな生活ってことでさ、隠者に憧れているわけじゃないんだよ。自分が隠者なのね。それは年齢とかと一緒ね。20になれば自分がどう思おうが20じゃない?20になろうとして20になるのではなく、20年間生きれば20になるんだよね。それと所産としてのあり方は一緒ね。20歳になることを憧れることも出来るけど、達成は自然にやってくるよね。そんなことを夢見るよりかはもっと大きな夢や目標を持っていたほうがいいのは言うまでもない。20歳になることが夢だなんて馬鹿げてるよね。病気の人とかは別としてね。


あ、ここにさ「分からないよー。病気で20歳まで生きられないから20歳まで生きたいって思ってる人もいるかもよー」とかっていう言い方はさ、本当に馬鹿げているのはさ、俺の言っていることを理解してないからそういう詭弁的なあら探しをするんだよね。理解してたら俺がそういう病気の人の夢を踏みにじっているわけではないというのは分かることじゃない?でも分からないんだよね。分からない人もいる。で、なぜかそういう連中が多い。俺もいちいち「病気の人とかは別としてね」とかって書かなくてもいいんだけどさ、これはアメリカ的な癖なのかさ、全部を無駄なく説明するような感じになってるんだよね。まぁ今の俺にとってはそれはいいことで必要がなくなれば超一流のジャズプレイヤーがフリージャズに走るように、リダクションできるんだけどさ、ようはまずはマスターしないといけないんだよね。英語の書き方みたいなのを。


で、マスターしてから自分の書き方を磨くんだよねっつーかまぁ英語のマスターと同時に書き方も磨けるんだが「そんなことあえて言わなくても分かるだろうがこのドアホ!」って言えるようになるには分かる人が説明無しにそういう意図ではないことっつーのは例えばさっきの例で言うと20歳まで生きることを夢見るなんて馬鹿げてるみたいな言い方が病気の人の夢の否定をしているんじゃないということとかね、内容をそれ自体が語っているという風に言えるようになるまでリダクションは出来ないんだよね。で、左翼系というとあれだけど、さっき書いたような機械的なインテリ用語で書かれた本ってこの完璧さの徹底っぷりばかりが鼻につくっつーのかな?ちゃんと書けているのは分かるんだけどエッセンスとはスピリッツを感じないっつーの?情報処理している演算機械がはじき出した文章みたいなニュアンスなのね。こういうのに俺は吐き気を感じるってことなのね。


人間って分かるよね。さっき書いた「わからないよー」みたいな詭弁的なあら探しとか、天然でそう思っちゃったり捉えちゃったりするような人間ってさ、そういうレスポンスでその人のインテリジェンスって分かるじゃない?だからいつも失望するんだよね。だからそれが「世の中にロクな人間がいない」って本来はヒューマニストである俺に言わせちゃうんだよね。傲慢とか慢心ではなくね。付き合ってみないと分からないっつーのもあるけどさ、付き合わなくても大体分かることってあるじゃん?で、それって大体合ってるんだよね。あとは直感とか「ん?おかしいな?」って思う感覚とかね。ただ俺は滅多に喋れる人に出会えないんでちょっと喋れる人がいるとその人の事を「素晴らしい人だ!」って思いたくなっちゃうのね。信じたくなっちゃうの。でもさ、キャリアウーマンの人もそうだったけどっつーか俺の今までの書き方を見れば分かるように信じてたんだよね。まぁ勝手に虚構を作り出していたと言えばそれまでなんだがっつーかさ、余命何ヶ月だかの花嫁で俺が批判した構図そのものなんだけどね、ようは勝手に作り出したイノセントな虚構を現実が壊して、んでその対象に「失望させやがって!」って怒りや反感を感じているということね。


それは花嫁が悪かったっつーよりかはさ、メディアの印象操作とかさ、あとは何よりも視聴者の勝手な思い込みじゃない?王子様だと思ってたら違ったとかさ、お姫様だと思ってたらうんこしてたとかさ、そんなの当たり前じゃん?白馬に乗った王子様はうんこをしないのか?ってするよね。でもしないっつー虚構を勝手に作り出すのがイメージじゃない?妄想だよね。その虚構としてのイメージと実際が違うじゃないか!って怒るのはお門違いなのね。オバマに対しての失望もこういうことね。実際は細かいところを見れば評価できるところもあるのかもしれないけど、チェンジという空虚なシニフィアンをナイーヴに信じすぎてしまっていた人達は裏切られたっていう感覚があるに違いないね。ちなみに俺は前と意見はさほど変わらないけどね。有色人種が大統領になったというのはシンボリックな意味で意義深い。仮にそれが票取りの作戦の一つだったとしてもその意義は変わらないね。仮にそれがポピュリズムだったとしても、有色人種の大統領というある種のセンセーショナリズムを使うことでしか人々を動員することが出来なかったっていうような状況を表すのに十分じゃない?政策とか彼のあり方は二の次だよね。歴史の一コマとして有意義だったわけ。


問題はさ、理想的な大統領としてのオバマが実際のオバマとは違っていてもさ、人々が理想的な人物を思い描けていたということにも意義があるよね。言い換えれば理想的な民衆が求めるステイツマンというのを民衆自身が思い描けていたんだよね。よくさ、映画ってのは予告編を見て「おもしろそー」って断片的な情報を繋ぎ合わせて期待しているときのその脳内映画ってのがその人にとっての理想的な映画っていうか面白い映画のあり方っていうじゃない?よく言うかは別としてね。でも普通の人って映画作れないじゃん?だから本編見てガッカリしたらそれまでなんだよね。でね、政治のレベルでさ、人々が思い描いていたその理想的な大統領なりステイツマンのあり方ってのをさ、失望した後もイメージとしては持っていてさ、んで誰かがそれを自身を持って具現化させればいいんだよねってまぁそんな簡単なことじゃないんだけどね。小説だってそうじゃん?誰の言葉か忘れたけど、なんで自分がこの小説を書いたか?って自分が読みたかったからだってさ、この発想だよね。これは恐らく色んな創造物というかさ、もののあり方の鍵を握ってるんじゃないかな?って思うよね。


夢が仮にさ、不毛な地に芽を出した植物のようなものであってもさ、それを「無理だ」っつって摘む必要はないじゃん?見守るか放っておけばもしかしたら不毛な地と呼ばれている場所にも植物が育つようになるかもしれないじゃん?でもね、どうもさ、伯母さんとかキャリアウーマンの人みたいな言い方ってリアリストの名の下にさ、実際はマトリックスにいる住人なんだけど、そういう芽をさ、「目を覚ましなさい!」って余計なおせっかいで摘もうとするんだよね。こういう人達が才能なりさ、人生っていう名の大木みたいなのの元になる芽を摘んでるんだよね。さしずめ国家というか社会ってのはさ、ビニールハウスみたいなもんでさ、突き出す事の無い植物を人工的に培養してるんだよねってマトリックスの言い方そのものだけど、現実ってさ、マトリックスみたいに自明的に誰かが明らかに意図的にエナジー元を培養しているっつーよりかはさ、誰かに立てられた温室を適当に引き受けた結果、アウトオブコントロールになってるっつーのかな?操作されていればまだいいほうなんだよね。


実際は荒れ果てた管理されてないビニールハウスみたいなもんでさ、それこそ蠅が集る市場になっているわけよね。で、なぜか同調圧力っつーかピアプレッシャーみたいなさ、「お前は大木にはなれない。なれたとしてもウドの大木だ」みたいに言う風潮があるっつーか芽を摘むっていうような同調圧力があるんだよね。他のダメになった植物が生き生きと伸びようとしている植物の成長の邪魔をしてるっつーのかな?見守るか放っておけばいいのに邪魔するんだよね。だから芽は育ちにくくなっちゃうんだよな。高いレベルのアーティストや哲学者なんかが滅多に達成されないのは、才能やら知性の希少さもさることながら、そういった同調圧力とか様々な障害や障害物も乗り越えて育つ必要があるわけでさ、凄く強い植物じゃないといけないんだよね。そういう植物のみが大樹になれるっつーのかな?ありがちなレトリックになってるのは分かるけど、でもまぁそういうことだよね。除草剤蒔かれても気にしないみたいなある意味での大胆さとかね、そういうのも生命力維持に必要なことかもしれないね。つまりは強い高貴な魂を持っていないとダメってことだ。


で、ステイツマンに関してもさ、まぁね、期待している映画っていうその期待している映画ってのが期待している人達にとってのベストな映画だけど、それは政治にも言えるってのはさっきも書いたことだけど、変な話、まだ政治のほうが映画を作るより楽だと思うんだよね。楽っつーか自分でも出来るじゃん?勉強すればなれるってほど単純なもんではないんだけど、自分次第では目指せばなれなくもないじゃん?映画って途方も無い感じだけどさ、まぁ映画にしても別に作ればいいと思うけどね、ただ政治とか政治家になるって意味じゃなくて政治的なものにコミットするって意味で少なくとも映画作りよりかは現実的なんじゃないかな?って思うんだよね。その自分が期待していたステイツマン像を常にベストなステイツマンとして思い描きつつ政治的なものにコミットしていくっつーの?もちろんその理想像ってのは個々によって相違はあるよ。


でもそれはさ、恐らくオバマがあれだけ支持されてたってことはさ、オバマがフィギュアティブでアイコン的な存在だったわけじゃない?アメリカンヒーロー的な感じ?その大衆のある意味で統一されたイメージをオバマはイメージとして持っていたわけだよね?だからといって理想像に普遍的な合意はいらないんだけど、でも割とみんな近い期待とか理想を持ってるんじゃんっつーのは証明されたと思うんだよね。まぁ完全にじゃないけどおぼろげにね。だとしたらさ、オバマがそうじゃなかったなんてどうでもいい話なんだよ。自分がなればいい話なんだから。もしくは自分がチェンジをもたらすような人物なりさ、事柄にコミットしていけばいいわけでしょ?映画作りよりかは楽だね。楽っつーか現実味があるよね。権力志向でマキャベリアンな俺が言うんだからただの理想主義じゃないっつーのは分かるでしょ?これはユートピア建設の話ではなく、具体的な政治的ダイナミズムの話なのね。それが可能かどうかはともかくとして、民主主義に可能性があるなら俺はその可能性を見たいし希望は捨てたくないよね。ただ託してはいないよね。見限っているけど希望は捨てない。


俺の日本に対する感情と一緒かな。見限っているけど見捨てているわけではないし、どうにでもなれと思っているわけではない。凄く気にしているわけね。民主主義のダイナミズム然り。だからさ、権力志向者としての政治信念に基づいた何らかの行動なりなんなりっつーのと同時に民主主義的なあり方ってのも実行出来るんだよね。恐らく可能性の蓋然性が高いのは権力だけど、かといって民衆を見限ってはいない。両方の可能性を感じつつも力点は現実的なところに置くっていうのが恐らくシュトラウジアンというかシュトラウス的な考え方であろうし、シュトラウス云々はおいておいて、俺自身がそう思うからね。それはシュトラウスのリベラルエディケーションのあり方に関するエッセイなんかを読めば分かるね。まぁ俺がそう思っているからそういう風に俺流の解釈をしすぎているって可能性はあるけどね。


リベラルエディケーションは全員に開かれているけど、真の意味で教育されるのは常に少数なんだよね。これは一般的に言われるエリーティズムではなく結果としてのエリーティズムね。エリートにしか無理なんだっていう結果からくる考えね。それが必然的にそうなのであったらそれはそれ自身であるしかないって考え方ね。ただそれ以外の可能性にも常にオープンであり続けるっつーね、まぁある意味でヒューム的なのかな?起こっていないことは経験的に信じられないけど、だからといって起こっていないからといって、その可能性なりを否定することにはならないしオープンであり続けるみたいな立場ね。経験主義全般そうなのかな?ラッセルの例えであるじゃん?餌付けをされてる鳥だかがさ、生きていた中でずーっとある男が自分に餌をくれるんで、この人は餌をくれる人だって思ってたらある日、いきなり自分の首をはねたっていうね、以前の経験から蓋然性が算出されるという考え方が必ずしも正しいわけじゃないっつー良い例だよね。少なくともこの鳥にとっての経験から導きだされる可能性はそれまではずーっと餌付けをしてくれる人だったわけでさ、まさか首をはねられるとは思わないじゃない?


俺にとっての革命とか民主主義とかっていうのはそういうものだし、そういうものであり続けるよね。歴史的な事実はともかく、俺の周りにいるような人達が革命を起こしたためしが無いんで、それが起こるとは信じられない。でも絶対諦めない。でもそれに具体的なコミットはしないのね。それが全てなのだという考え方はしない。宇宙人の存在は信じつつも宇宙人の研究はしないみたいなもんだね。最後にショーペンハウエルを読んでいて面白いのを見つけたんでそれの引用でこの恐るべき長いエントリーを終わりにするね。この長ったらしいエントリーを終わらせるにふさわしい一節。ユートピアニズムと現実主義は表裏一体であるというか同一であるというかなんというか、これは俺の民主主義に対する批判にも、俺のあり方を批判するキャリアウーマンの人のような人達にも適用出来る理論ね。


"If you want Utopian plans, I would say: the only solution to the problem is the despotism of the wise and noble members of a genuine aristocracy, a genuine nobility, archived by mating the most magnanimous men with the cleverest and most gifted women."


・・・ってことでとりあえず完結。で、俺の言っていることがようは自己啓発の一種みたいなのっつーのは分かるんだけどね、ただなんつーか「んじゃあ自己啓発って何なの?」って思いつつさ、キャリさんとのやり取りで感じた相違とかも踏まえつつ、ブックオフで15冊ぐらい自己啓発の本を買ってきたのね。知的生き方文庫が多い。ようはさ、「相手の説得の仕方」とかさ、「上手く説明する方法」みたいなような俗っぽいようなやつばっかなんだけど、こういうのもようはさ、中には哲学とかで培われてきた方法論とか考え方をリアル社会に適用させてるのとかが多いわけでさ、ようは哲学の実社会での応用みたいな感じで読めたりもするんだよね。単純に「ふーんそうなのか」って読むのではなくて、深く読むのね。つまりは書かれていることが結果的にありがちなパンピーの傾向性を表してるとかさ、烏合の衆のダイナミズムを表してるとかさ、あとはそれらを統制術とか操心術みたいな感じで読めたりするやつも多かったりするのと、あと大抵が読みやすくて一瞬で読めるようになってるんで、機械費用が安いんだよね。本も安いし一瞬で読めるっつープラクティカルな機能美があるんだよね。ようは忙しい社会人向けっつーのかな?そういう人達が電車の中で読めたり、仕事の合間とかに読めるようになってるんだよね。時間がある俺としてはまぁ良さそうなのは一瞬で読めちゃうだろうけど。


まぁ結構、マキャベリアン的な本が多いような気がするんだけどね。でもこれって重要だよね。哲学とか高尚な本も読みつつ、俗っぽい本も読むんだよね。それこそ心理学とかを利用したコミュニケーション術とかさ、身の振り方とかね、生活の仕方とかさ、それこそ哲学学者とかが「俗っぽい」って読まなそうなやつにも結構エッセンスはあったりするんだよね。哲学とか政治哲学っつって机上の空論で終わるのが嫌な俺としてはプラクティカルなあり方って重要なんだよね。それはプラグマティズムという意味ではなく、実用性が高いということね。


あと追加だけどさ、キャリさんとかって俺がこういうのを一切知らずに哲学に没頭してるとかって勘違いしてるんだよね。そのぐらいナイーヴだと思ってるわけね。今回の自己啓発系とかさ、あとはダーティートリック系の本とかっつーのは自分のナイーヴ度を確認するという目的でも買ったのね。あまりに青二才だと言われすぎたので、「いや、実際違うよな」っていうのを確認するっつーかさ、ダーティートリック系とかの本とか読んでもようは知ってることとか実践してることがあったりするんだよね。そういう面が見えてないっつーのはある意味で凄いかな?って思ったっつーかさ、そこまでナイーヴに見えるんだなって思ったけど、ようはキャリさんが言う「汚れなきゃ分からない」ってこういうことでしょ?っつーのが知的生きかた文庫とかで出てる本には多いよね。リアル社会での対人関係とかさ、意表の突きかたとかディベートで負けない方法とかさ、俺は完全にこういうのから隔絶したところでモノを考えてるって思われてるんだよね。実際はそんなにナイーヴじゃないのに。あとナイーヴであるということは無知であるということでもあるけど、操心術とかさ、ディベート術とかさ、対人関係での色々な方法論とかって別にそれを使ったところで汚れるわけじゃないんだよね。使い方次第っつーのかな?「そういうのも知らないで何を言ってるんだ!」って彼女が勘違いしている感じが痛いほど分かるんだよね。あとはキャリさんの言う「汚れ」を確認しておきたかったと同時におさらいもしておきたかったっつーのがあるよね。「ようはこういうことでしょ?」っつーのの再確認ね。


ウォール伝だってそうじゃない?ナイーヴで無知なやつが書きたい事だけを書いているように見せて真面目なブログだと思われないようにして書きたい事を書きまくったり書いた事に学術的価値みたいなのを付加させなかったりさ、「社会派ブログ」とかって名乗らないで電波系でやり続けるメリットっつーかな?まぁあえて言うことでもないんだけど、ようは一次元的にウォール伝って書きたい事を書いてるだけじゃないんだよね。色々な便利なことがあったり無駄なことが無いんでだからこういう電波系が一番っつーのかな?誰も信用しないし真面目に受け取らないけど、でも一定の読者はいるんだよね。それは自惚れっつーよりかはエッセンスを理解するのに長けた人だけがこれを読むっつーのかな?だからそういう人ってさ、ただの実存的な独白になってる部分とか、割と真面目に評論とか分析してる部分とかさ、見えてると思うんだよね。見た目はグチャグチャだけど分かってる人は分かってるんだよね。書いてる方も分かりやすく書く必要がないから機械費用が少ないっつーかようは推敲とかさ、議論の吟味とかやる必要がないじゃん?一方的に喋ってそれで終わりっつーの?分かる人だけ分かればいいやっつー態度ね。


だからある意味で「良いことを書いているのに読みづらくて分かりづらくて勿体ない」っていうようなコメントはありがたいんだけど、俺にとっては結構どうでもいいことなんだよね。それでも読む人がいるっつーのが分かってるんで続けられるのと、アクセス数とかブックマーク数とかを稼ごうと思ってやってるわけじゃないから、ようは最初からゲームに乗る事を放棄しているわけじゃない?だからこそ出来る治外法権っつーのかな?気違い法権ね。それをブログでやってるって感じね。だからはてなとかさ、ブログの派閥とかも全然関係ないのね。


そういうのを俺が勝手に思っててもウォール伝見る限りはバカが書きたい事書いてるだけにしか見えなかったりする場合もあるじゃない?で、ウォール伝の場合、どう思われようが関係ないんだけど、今回のキャリさんの場合、「何も分かってないくせに色々言うな」っつーさ、ナイーヴな姿勢に対する自称大人からの批判があるんだよね。ウォール伝で言えばさ、「ちゃんとした議論をしなさい!」って言われてるような感じ?いや、最初からそんなことをやるつもりはないんですよっつーのが理解されてない。実際は俺は色々な振る舞いとか生きかたとかウォール伝にしてもある意味でのイロニーの結晶みたいな感じなんだけど、それが理解出来ない人には気違いかナイーヴな青年にしか見えないんだよね。でも別に俺が複雑系な人間だってことを知らせる必要はないじゃない?「バカが色々と書いている」とか「バカが民主主義批判してる」とかって思われてもいいんだよね。伝わる人には伝わってるからいいのね。


表れかたってのはもうある意味で死んでるわけじゃない?エクリチュールがもう死んでるのと同じね。でも本質ってさ、エクリチュールとか表現物に宿るんじゃなくて、受け手によって生み出されるものじゃない?だからエクリチュールっつー文字の死骸には何の価値も無いんだよね。でもそれを読むことでしか伝わらない本質ってのがあってさ、ようはそれってもうメタフィジカルなレベルじゃん?シュトラウス読みとかが典型だけどさ、だから別にテキスト自体のあり方なんてどうでもいいんだよね。論文レベルだろうが体裁がとれていて読みやすいアクセス数を稼ぎそうなエントリーだろうがさ、肝心なのは中身だからね。


で、俺は人間関係についてもそう思うからね、だからそういう意味でも今回はショックだったんだよね。俺はそこまでナイーヴな青年だって思われてたんだってその認識の相違に驚いたわけね。でも別にさ、それは母もスカイプで言ってたことだけど、それを別にあえて分からない相手に頑張って伝える必要ないんだよね。相手がそう理解してるならしょーがないっつー話ね。その伝える努力とか労力を他に回したほうがいいわけでさ、だから本質主義っつーとアレだけど、本質主義者ってのは見た目とかあり方とか気にしないと思うんだよね。問題はエッセンスだと思ってるわけだから。そのエッセンスを人間関係でも理解し合えないんだったらもうそれって無理なわけじゃん?だからそれを超越してまでさ、理解し合うとかってやる必要ないんだよねっつーか俺はやる必要がないと思ってるわけ。それは文章然りね。あと曲とかにしてもそうだけど。だから別に分かりやすくする必要とかって無いんだよね。これで食べてるわけじゃないし。


そういうあり方ってあってもいいよね。表現とかさ、創作物っつーのをさ、自分が書きたいからやってるだけだとかさ、作りたいからやってるだけだみたいなのを不純な動機とするような言い草ってあるじゃない?ああいうのって完全にアートとか表現物の本質を理解してないからああいうことが言えるんだよね。本当につまらない言い草だと思うね。むしろピュアなものって衝動的に出るもんだよね。で、それがそのまま形になっていて何が悪い?って話でしょ。俺の文章とか音楽っつーか音とかさ、全部そういう所産だからね。かといって出たものが出ましたっつーナイーヴなあり方ではなくて、色々なことを考慮してもこれがベストだって考えてやってるスタイルっつーのかな?だからこれが一番良い俺にとっての合理的なやり方であると同時に一番自然なあり方なんだよね。ようは洗練されていながら荒削りで衝動的っつーのかな?雑な表れかたとか衝動的に出たものの瞬間性ってのを失うことなく、かといってそこまでナイーヴな形で出力はしないで、それすらもコントロールして出すっていうやり方?


だから俺の表現物は最高に洗練されているのだ!なんてニーチェみたいな言い方はしないけどさ、まぁでもただナイーヴなのとあえてナイーヴなのって全然違うんだよね。「あえて」がつくものは基本的にすんげー長くて複雑なプロセスが介在してるわけね。それが他者に不可視であろうが不可知であろうがなんであろうが、それが理解出来なくても理解出来てもどっちでもいいんだよね。出たもので判断してくださいって話なんだけど、でも中にはこういうのを俺があえて言わなくてもそれだけ見たり聴いたりして理解出来る人がいるんだよね。そういう人達に理解されているだけで俺は十分って思うのね。


・・・・ってことで明日はまぁ結びを貼ってとりあえずこれについては完結ね。


PS


ただ単にナイーヴなのか、あえてナイーヴなのかっつー話をまとめるとようは丸山真男がいうところの「作為の契機」になるね。これがまさにピッタリ!俺が言いたい事はようはこれね。


PS2


分かる人には分かるの典型なのが今日買ってきた本ね。「クズの心理」とか「頭のいい口のきき方」とか「佐藤富雄の「ツキ」の法則!」みたいな本が大半の中で一冊だけ廣松渉の「世界の共同主観的存在構造」があるのね。俺だったらこういう買い物をしている人はなかなか頭が良いやつだなって自分で言うのもなんだけど思うねっつーのはさ、生きかた文庫系をただの対象物としてしか見ていなくて、恐らく一歩ひいた感じの客観的な感じで読むんだろうなっつーのが分かるわけね。で、マジで時間をかけて読み込むのは廣松のほうなんだろうなって思うわけよ。でも分からない人にはさ、エロ本の中に一冊だけいいわけっぽく真面目な本を紛れ込ませてるとかさ、あとは低俗な文庫本ばかり買っているアホなやつだとかって思われるんだよね。でも俺はそうは思わないんだけど、でもレジの店員がどう思おうが俺の知った事じゃないじゃない?そういう意味ね。だからそういう意味で「どうでもいいこと」なのね。ブログの見え方とか音楽の聞こえ方とかね、体裁なんてどうでもいいっつーのはそういう意味ね。あとあれ、前に書いたような共同主観性について書く事があるんでまぁ近々書くわっつーかまぁアップするのはだいぶ後になると思うけど。