ギフテッドについての続きと哲人政治と浜ちゃん政治。

mimisemi2009-06-19

あ、んで追加でウィキからの引用ね。

OE(過度激動)に起因する問題
ドンブロフスキは、強いOE(前述)を持つ人間は最高にハイな気分とどん底に沈み込む気分両方を味わう可能性があり、決して楽な人生ではないことを表して、OEを「悲劇的なギフト(天からの贈り物)」と呼んだ。


OEが強いと、特定の刺激に関して過剰に反応してしまい、集団から浮いてしまうことがある。たとえば感情の起伏が激しいことから気分屋、知覚が鋭く些細なことで不快になってしまうことから神経質といったレッテルを貼られる。感情や五感への刺激を避けるために集団から離れていると、今度は人付き合いが悪いと非難される。その状況下で感じる気分的うつ(慢性のうつ病とは異なる)や自己嫌悪といった否定的な感情も、OEゆえに必要以上に強く感じてしまう。


つまりは俺が言いたいのはこれね。「悲劇的なギフト」ってこと。俺はこのギフテッドという概念を誇示するものでもなければ、精神病自慢をしたいわけでもない。自分の他者との違いを自慢したいわけでもなければ、自惚れたりしているわけでもない。ちょっと凄いところはあるにしても、普段は大変なんだよってことが言いたいだけね。社会から認証されないとこれは文字通り「悲劇的なギフト」に終わってしまうわけで、この「悲劇的な」というところを無くすためにも、俺はまぁなんとかしなきゃいけないわけね。そこで社会や他者の存在が不可欠になるわけ。「悲劇的な」という形容詞を取り除く事が出来るのは、他者と社会という存在だけなのね。・・・・というようなことまで他人が理解してくれることは滅多に無い。だからそれも含めて辛いわけだ。特に今回みたいに「それは傲慢だ」とか言われるのは本当に辛い。あ、キャリさんの話ね。

OE(過度激動)に起因する問題


ドンブロフスキは、強いOE(前述)を持つ人間は最高にハイな気分とどん底に沈み込む気分両方を味わう可能性があり、決して楽な人生ではないことを表して、OEを「悲劇的なギフト(天からの贈り物)」と呼んだ。


OEが強いと、特定の刺激に関して過剰に反応してしまい、集団から浮いてしまうことがある。たとえば感情の起伏が激しいことから気分屋、知覚が鋭く些細なことで不快になってしまうことから神経質といったレッテルを貼られる。感情や五感への刺激を避けるために集団から離れていると、今度は人付き合いが悪いと非難される。その状況下で感じる気分的うつ(慢性のうつ病とは異なる)や自己嫌悪といった否定的な感情も、OEゆえに必要以上に強く感じてしまう。


気分的うつ


ギフテッドと慢性うつ病や自殺との関連性は証明されていない。レイスとレンズリの研究では次のように述べられている。「著述や視覚芸術に優れた独創的なギフテッドである青少年を除いては、ギフテッドの人間も一般人もうつ病に関する違いはない。ギフテッドは知覚能力が発達しており、他人よりも敏感で発達社会的に孤立し、発達状態にもむらがあるため社会的、精神的な問題にぶつかる。しかしながら、彼らのもつ高い問題解決能力、ソーシャル・スキル、倫理判断、学校外の事物への関心、達成感といったものが助けとなっていると思われる。」[8] また自殺率についてもギフテッドの青少年との関連性は証明されていない[9]。


しかし、ギフテッドの人間が気分的にうつ状態に陥ることが多いのは広く認知されている。死の終局、根本的な個人個人の取るに足らない存在、人生の意味や意味の欠如といった抽象的な心配ごとが引き金となっており、他人より不安を感じやすい性質もうつ状態に拍車をかけている[10]。


ようは俺の鬱ってのはこういうことなんだと思うよね。薬で治る鬱ではなく、ギフテッドと関わりのある鬱っつーの?

孤立


ギフテッドはOE(前述)に起因する少し変わった行動をとる、同世代の子供達と精神年齢や興味が異なり話が合わないといった理由で、気の合う友達がみつからなかったり、他の子供から疎外されることもある。外界からの刺激を嫌うためや、人生をより真摯に受け止めるがゆえに内向性を持ち頻繁に内省するために、ギフテッド自身が一人でいることを選ぶ場合もある。
特にギフテッド仲間の社会的ネットワークを持たない者にとって、孤立は一番の問題である。他人に好かれ、認められようと、ギフテッドの子供はしばしば自分の能力を隠そうとする。低達成児となったり、家族や信頼できる人といる時に使う高尚な言葉とは異なり、同級生といる時は簡単な言葉を使うようにするといった、本当の自分とは異なる姿を演じる[11]。これはギフテッドの女性により多く見られる傾向である。


孤立は、必ずしもギフテッドであることが原因ではなく、社会のギフテッドに対する考えにも起因する。社会において人は「ふつう」でなければならないという多大な心理的負担がある。ギフテッドやタレンテッドの人間は変わり者という烙印を押されたり[12]、 いじめの対象になったり、自己嫌悪や自己卑下する可能性もある。孤立問題を解決するために、ギフテッド教育の専門家は共通した興味や能力に基づいたギフテッド達でグループを作ることを薦めている。グループに参加する時期が早いほど、孤立を避けられる[13]。


欧米にはギフテッド教育を施す私立校がある。アメリカ合衆国の場合、公立や進学校を含めた他の私立からギフテッド専門の私立校へ転校する子供も多い。専門私立校は公立のギフテッド・プログラムとは異なる選考基準を設けるところもある。卒業生がアイビー・リーグなどの名門大学に進む学校も多いが、ギフテッド専門校は進学校ではなく、あくまでもギフテッドのニーズにきめ細かく応える学校である。ギフテッドの子供が本来の自分のままでいながらにその才能を最大限に咲かせられることを最優先にしている。ギフテッド専門校に通ってようやく話が通じる仲良しの友達ができた、「普通の人」を演じる必要がなくなった、というような広義の意味でのクオリティ・オブ・ライフ(人生の質)の向上に力を入れる。一般的にギフテッド専門私立校は授業料が高く、ごく一部の恵まれた子供しか通うことができない。


まさしく俺の孤独はこれ。選んでやっている孤独ね。気の合う友達が滅多にいない。で、俺は他人に好かれたりすることをやめたってのは結構前に書いたよね?これはようは俺の言うさ、他人とか社会に迎合しない生き方なのね。これをやっていると疲れるし恒常性が保たれないんで、常に素でいようと思うっていう考え方ね。だからまぁ変わり者という烙印を逆に俺の専売特許だとかって思うぐらいにするっていう究極的な自己肯定ね。つまりはあれだ、ウィキを見る限りではギフテッドってさっきのドンブロスキの定義にもあるようにうまくいかないと「悲劇的なギフト」になるんだよね。で、あと俺が自分自身に自覚的じゃなきゃいけないのは、具体的な違いを客観的に認識しておくということの重要性ね。「俺はなんか違う」という漠然とした違いを感じているのではなく、学術的にというとアレだけど、根拠のある定義を見つけて、そこから自分の違いを学ぶっつーのかな?普通は精神科医がやる仕事なんだけど、「ギフテッドかどうか見てほしいんですけど」なんつって行けないわけじゃない?ちゃんと診断できる精神科医がどれだけいるのか?っつーのも疑問だしね。逆にまぁそういう意味でさ、ADD診断は楽しみなんだよね。俺が結局なんなのか?っつーのが分かるっつーかさ、まぁある程度客観的に診断してもらえる機会があるわけじゃない?そこの分析医みたいなのがちゃんとしてればギフテッドに関しても質問できるじゃない?


でさ、

ギフテッドの広く、深く、速く学習するという性質上、単純に学習量や難易度を増した習熟度別クラスやスピードを増しただけの飛び級では十分に対応しきれない。低達成児であるギフテッドの子供の能力や興味にもとづいたエンリッチメント・プログラムを受講させることが解決法となる。エンリッチメント・プログラムとは生徒の精神的健康を念頭に置いて、関心を持って学習できるよう工夫して作り上げられたものである。多方面にわたった幅のある発展的授業や個別指導カリキュラムを指す。


このエンリッチメント・プログラムってのが大学とかにあるとは思えないんだけど、こういうのがあれば最高だよね。マジで。個別指導カリキュラムねっつってももう俺は指導がいらないわけだけどね、ただ学歴だけは欲しいからね、それをまぁなんとかスムーズに取れるようになりたいっつーかさ、ちゃんとした相応の場所に行きたいんだよね。それは凄くあるよね。
あとこれね、


秀才は強い忍耐力を持ち、確固たる目標を持ってマニュアルに沿って勉学に励み、努力によって高い学力を獲得したのに対し、ギフテッドは知りたいという衝動に突き動かされて、興味あることを徹底的に調べ上げて吸収し、それを応用した結果といえよう。


まさしく後者が俺なんだ。俺は知りたいという衝動でしか何かを学べない。でしかっつーのは言い過ぎにしても、これが無いと特に学問とか読書には取り組めないね。面白くもない本は一切読めない。

知的好奇心という点でギフテッドと天才は非常に似通っているが、天才という言葉は神がかり、奇行や変人、あるいは説明不可能なケースを漠然と表現する時にも使われる。ギフテッドは客観的なデータに基づいた冷静な診断という印象をもたらす。これは天才という言葉が「はるかに上」という意味であらゆる事物に対して濫用され俗語化したのに比べ、ギフテッドが教育学や心理学で用いられる学術用語であることにも起因している。そのためすべてのギフテッドは天才である一方、定義に合った一部の天才だけがギフテッドとみなされることになる


つまりは俺はこの「客観的なデータに基づいた冷静な診断」が欲しいんだよね。それが出来る機関で診断を受けたいわけ。天才とかギフテッドというレッテルが欲しいのではなく、自分に対するちゃんとした診断が欲しい。で、それに見合った対応を学校から受けたいわけね。だからそれはADDだろうがギフテッドであろうがどっちでもいいわけね。学習障害が認められて適切な処置が受けれるようになればそれでいいわけ。


んでこうやって貼ってて自分でも分からんのだがテキストが哲人政治の話に繋がってるんで原文お母さんで貼りますっつーか「それはフッサールハイデガーなんかよりも結果的に偉大なんだよね。」からの続きね。


ただまぁ哲人政治のビジョンってのはまぁハイデガーシュトラウスはあり方が違うけど、でもまぁプラトンに影響を受けてそれを持っていたという意味だと一緒で、だからまぁ両者ともポリティカルコレクトネスで言うとアウトだし、ましてや左翼が言論のフィールドを独占してるとこういう政治のあり方ってほとんど黙殺されるかさ、勘違いされるよね。「あいつらは悪魔だ」っていう言い方になる。だからなんつーのかな?シュトラウスハイデガーと同じような扱いを受けるのはよく分かるんだよね。まぁ浅い理解だなと思うんだけど。本当に。俺の理解ではシュトラウス哲人政治でリベラルな国家を建設しようとしてたリアリストなわけでさ、まぁ外交的にはタカ派だったりする可能性もあるし、まぁ平和主義者じゃないけどね、まぁ平和のための戦争なら辞さないっていう立場だけど、でも国のあり方に関してはリベラルなんだよね。俺はシュトラウスはエリーティストであってもさ、それは弱肉強食って意味じゃなくてね、エリートだけが勝ち残れるってわけじゃなくて、エリートによる先導でみんなが平和にディーセントな暮らしを出来るっていう国家のあり方だったわけだよね。これもエリート主義者のレッテルを貼られてるんで勘違いされやすいところだと思う。


実際はエリート先導によるリベラルステイトだったんだけどね、エリート先導っつーイメージが一人歩きしすぎて、それがファシズムとかさ、全体主義だとかさ、反民主主義的だってことだけでやたら批判されるのね。これはフッサール的な高いレベルでのテロスを理解しない浅ましい大衆のあり方そのものを表しているかのようだよね。だからシュトラウスは彼らには無理だからエリートがやるしかないって言ってたわけ。リベラルエデュケーションもエリートだけが受けれるわけではなく、エリートだけが受け継げるって意味でのエリーティズムだったのね。ステイツマンシップっつーかさ、帝王学みたいなのを民衆に教えてもしょうがないじゃない?そういうことだよね。ようは。


なんつーのかな?シュトラウジアンっつーかマキャベリアンなのってダウンタウンの浜ちゃんね。飴と鞭の使い方を心得てるっつーかさ、松っちゃんのまるまるな話ってあるじゃん?あれでブラマヨ小杉のエピソードが披露されてたけどさ、あのあれね、リンカーンの説教先生だかでさ、ブラマヨが出る時に浜ちゃんにいきなりブラマヨが「お前等ちょっとこっちに来い!」って言われてさ、「お前等みたいなもんが中途半端に遠慮してもおもろなくなるだけやから思いっきりやれよ!」ってマジで脅されたっつーさ、んで逆にブラマヨはそれに恐れをなして遠慮することが逆に出来なくなってしまったっていうね、それが結果的にブラマヨの説教先生のあり方を面白くさせてさ、スタッフにも「良かったですよ」って言われて、んで収録語の浜ちゃんの楽屋にブラマヨが言ったら「お前等良かったやんけー」って笑顔で言われたっつーね、これぞマキャベリアニズムだよね。一見暴力的で横暴に見えるんだけど、そこには若手育成という高いテロスがある。そのためには浜ちゃんは暴力も辞さないっつーさ、これぞシュトラウジアン的なあり方でもあるんだよね。浜ちゃんは暴力を振るいたいから暴力を振るっているのではなく、必要なときは行使するっていうやり方でやってるんだよね。それは物理的な暴力というよりかは言葉の暴力でもね、それで若手が伸びるならそれは進んでやるんだよね。それを表面的に見て「あれはいじめだ」とかさ、みのもんたみたいに「乱暴者だ」とかって批判したりするのはさ、アホが内容も理解せずにシュトラウスを批判するようなもんなんだよね。浜ちゃんって田中角栄が好きだっつってたけど、あの人は政治の才能があるかもね。


俺がおっさんで政治学のクラス持っててさ、浜ちゃんみたいな若いやつがいたらたぶん惚れ込むと思うね。「お前には才能がある!」って言うと思う。そのぐらい浜ちゃんには前からその才能を見ていたよね。恐らくお笑い界のあり方みたいなのもさ、何気に浜ちゃんのパワーが働いていることによってそれがファシズム的な恐怖政治にも見えるんだけど、でも保全されている調和ってのがあったりね、まぁ分からないけど恐らくそういうのはあると思うんだよね。俺はまぁそう思うんだよなぁー。ダウンタウンってそういう権力の使い方を2人とも心得てるんだけど、特に浜ちゃんは自覚的だね。だからこそダウンタウンがあったり彼らの番組があったりするんだよね。


お笑いの才能で見れば松っちゃんがダントツ優れているように見えるけど、実は浜ちゃんがいないとダウンタウンって成り立たないんだよね。それは松っちゃんの芸人としてにあり方も浜ちゃんがいるからこそ松っちゃんはああしていられるんだよね。その昔、紳介が「松本、お前はええけど、浜田アカンわ。相方変えや」みたいなことを松っちゃんに言ったらしいけどさ、まぁこういうのがあったからこそ浜ちゃんもより意識的になったのかもしれないけど、どの道、浜ちゃんがいないとダウンタウンは成立しないねっつーかまぁ両方そうなんだけど、浜ちゃんの重要さってのはテレビを見ているだけではなかなか視聴者には伝わらないんだよね。浜ちゃんの「読め!」っていう本はある意味で教育的な本かもしれないね。あれを読んだのはもう10年以上も前になるけど、あれを読んでから浜ちゃんへの考え方が変わったよね。あれ以来、俺はどちらかと言うと浜ちゃんのほうが松っちゃんより凄いと思うようになったよね。色んな意味で。


浜ちゃんがコラプトしないという保証はないけど、政治家になってほしいと思うね。で、人々のために尽くしてほしいと思う。本当の意味でのステイツマンになってほしいと思うな。持ち前の強さを利用して、他の政治家とかも操って政治を良い意味で転覆させてほしいと思うね。まぁマキャベリアンとしての浜ちゃんとステイツマンとしての浜ちゃんって別だからさ、マキャベリアンとしては超一流だけど、政治に関しては無知っつーのはありえることだからね、だからまぁマキャベリアンってだけじゃダメなんだけどね。でも第二の田中角栄の可能性を秘めた人だと思うね。浜ちゃん。俺が日本で一番「この人が政治家になるべき!」って思うのが浜ちゃんね。ギャグでもなんでもなく。それは実際的な話っつーかリアルな話でって意味ね。彼らなポピュリズムを利用して票取りなんていくらでも出来るし、お金だっていくらでもある。出馬すれば当選するのは目に見えているから、そういうのを利用しつつ、俺が期待したいのは浜ちゃんのステイツマンとしての資質ね。


彼がどれだけ政治を理解して人々のための政治を行えるか?っていうさ、それは逆に汚いように見えるようなことでも結果的に社会のためになるならやるっつー度胸ね。極端な話、ヤクザと繋がってでも共通善を保全するみたいなさ、その強硬なやり方ってのを出来る人だと思うんだよね。でもそのプロセスで「疲れた」ってやめるとかさ、「なんで俺がこんな苦労せなアカンねん」とかって思う事はあるだろうね。そこまでして彼が人々のために動けるのか?っていうことに対する疑問はあるね。でもその辺のくだらない政治家よりかは期待出来るところはあると思うね。何しろ俺は彼の芸能界での上手い権力と暴力の使い方を凄く評価しているんだよね。彼は本当に政治家向きだと思うのね。結果的に「若手のためのことを考えてる」とかさ「相方がアカンようにならんようにあえてやっている」とかさ、自己犠牲っつーと大げさかもしれないけど、見え方とかが悪くても結果を重視してやるっていうことを意識的にやれてる人だと思うのね。彼は。彼みたいなやり方はようはね、上にいる人間のあり方のロールモデルみたいなもんなのね。


怖いし死んでも逆らえないんだけど、でも下の奴らのことを誰よりも考えてくれていて、自分の利益だけではなく、若手の利益も考えて動ける人っつーのかな?だからみんな反感を持たずに彼に従うっつーの?その飴と鞭の使い方が上手いんだよね。彼は。所謂、学者とかが理論レベルとかで「政治とはこうあるべきで・・・・云々」というようなことを言ってるだけでは何にもならないっつーようなね、そういう役に立たない机上の空論とかさ、出来もしないことをただ言ってるだけっつーレベルではなく、彼の場合、政治的な知識とかヴァーチューがあれば実際、マジで政治家になれるしある程度の権力を持つ事が出来るっていう現実性から俺は浜ちゃんのことを凄く買っているのね。まぁ逆に足りないのは政治的な知識かもね。俺の個人的な話で言えばさ、仮に浜ちゃんがネカフェ住民とかに対して「ただの負け犬や。あんなの」って思ってたらまぁ一気に「彼を政治家に!」とは思わなくなるけどね。資質があってもやっぱステイツマンシップも持ってないとダメなのね。政治に鈍感なマキャベリアンじゃアメリカのダメなネオコンみたいになっちゃうからね。政治的には保守だけど、でも社会主義的な政策に対してアレルギーが無いっつー感じだったら最高だなって思うんだよね。所謂、理想的なリパブリカンね。


俺の思い描く理想的な政治家としての浜ちゃんみたいなのが権力を握る事で生まれる政治のダイナミズムってあるじゃない?彼を慕う部下みたいなのとかさ、彼の派閥みたいなのが出来ることがようは権力側に新しいセクターを生む事になるんだよね。それこそヌーヴェルヴァーグね。それが彼の引退後とかもさ、精神性が受け継がれてそのセクターが常に派閥として存在し続けることになるっつーのがようは一種の疲弊して行き詰まった政界へのブレイクスルーを生むと思うんだよね。ようは政界における稀人である可能性がある人ってことね。何かをぶっ壊して新しいダイナミズムを作ってんで結果を出したら若手とかに残りを託して辞めてまたお笑いに戻るみたいなさ、そういうのもアリだと思うんだよね。でもやっぱロングランでやってほしいっつーのはあるかな?彼の若手への配慮とか育成の意識とかを見るとさ、彼が権力を持ち続けるってことが吉本とかさ、お笑い界に何らかの貢献をしているようにさ、政治はお笑い界ほど簡単じゃないにしても、彼のようなあり方ってさっきも書いたけど、どんな組織にも強面の強硬的なマキャベリアンとして存在するべき人なのね。あの彼のヤクザ的なさ、みんなに頭を下げさせる感じとかね、上にはちゃんと対応するとかさ、横暴に見える態度にも節度があるっていうのとかさ、まぁ褒め過ぎかもしれないけど、ホントに凄いなって思うのね。


いや、思いつきで書いてるんじゃないのね。なんで今、浜ちゃんの話になったのか分からなくなったけど、あ、マキャベリアンってことか。ようはシュトラウスが言うステイツマンってああいう感じなのよ。目的のためだったら手段は問わないということを出来る高貴な人間なのね。まぁただ繰り返し書くように浜ちゃんが本当に高貴で徳のある人間なのかは分からないけどね。ただそうは見えないっていうさ、乱暴者っぽく見えるところに俺は可能性を感じるのね。視聴者にも他の芸能人にも一目置かれている感じというのは彼のあり方にあるわけでさ、つまりはそれがすでに彼のヴァーチューなりThe Art of Comedianみたいなね、芸人としてのあり方っつーのかな?そういうのに現れてるんじゃないかな?って思うのね。つまりは彼が実際はただえらそうにしていたい乱暴者なんであったらあれだけの支持を芸能界から受けないだろうってことね。彼が一定のプレゼンスを保てるのは彼の暴力性と人間性バランスがあるっつーのかな?で、そのあり方がようはステイツマンにピッタリだってことが俺は言いたいのね。暴力性だけあっても北朝鮮とかロシアみたいなレジームが出来るし、人間性だけだと俺みたいな絶対、組織ではやってけないような柔な人間になっちゃう。ようはそのバランスの必要性なんだよね。


あとはまぁこれも買いかぶり過ぎかもしれないけどさ、浜ちゃんのヴァーチューを表すものとして彼の父としての成功があるよね。浜ちゃんの家庭のことは分からないけど、浮気もせずに子供をちゃんと育てて良い家庭を持っているっていう彼のあり方がさ、彼の人となりを表しているっつーのかな?それイコール政治家オッケーって話じゃないんだけどさ、でも佐山聡だかみたいにプライベートでは弟子とかを殴りまくっているとかああいうやつが右翼とかと繋がって政治をやろうとしてるっつーかしてたっつーかさ、そういうのっていかにもダメだなって分かるじゃない?そういうダメなレベルじゃないんだよっつーのは分かるってことね。佐山レベルで政界デビューはしないだろうっていうような妙な信頼感があるっつーのかな?猪木とか大仁田なんかよりよっぽど頭が良いしね、タレントから政治家になる人間としては一番成功する可能性がある人間なんじゃないかと思っているんだよね。それは普通の議員とかと比べてもようはステイツマンとしての才能があるかもしれないって思える人ってことで、ようは別に芸人とかタレント縛りでものを喋ってるってわけじゃないのね。


色んな事を考えて、俺が考えられる人の中で彼がベストであるって言い切れるっつーのかな?勝手にそうであってほしいと思うだけど、かといって今やられても困るね。ガキの使いが終わるとかさ、ダウンタウンがテレビで見られなくなるとかマジでありえねぇーからね。どっちを取るか?って言われたら変な言い方になるけど俺はやっぱ浜ちゃんにはダウンタウンの浜ちゃんであってほしいなって思うのね。「んじゃあ今までの話何?」って話だけど、今までの話は客観的な事実っつーと大げさだけど、まぁ俺が客観的に見ればそう思えるっていうだけの話であって、主観で見ればね、俺の実存は「ダウンタウンを見ていたい」っつーのが強いから、彼が芸能活動を一旦中止して政治にコミットするっていうのは受容できないと思うね。ただ政治家になったら談志とか田嶋陽子みたいな感じで終わったりはしないだろうなっつー期待はあるかな。


ってことで終わりなんだけど引用が多いんで量が膨大になってるね。あと「引用」のうち間違えで「遺尿」って出たんだけど、そういう言葉があるんだね。知らなかったぁー。あとさ、ギフテッドとかADDなんだけど俺が「そうかも!」って言ったところで何の説得力も無いっつーのがあれだよね。検査も結局、客観的なデータと症状を照らし合わせることでしか出来ないわけだしさ、例えば精子を検査して分かるとかさ、そういう科学的根拠が無いんだよね。だから俺がゲスるのと医者がゲスるのってあんま違いが無いんだよね。両者とも何らかの研究とか検査基準に基づいている限りそれは客観的判断でしかない。精神病って本当にそうだよね。


で、その診断を下せるのが博士号を持った医者とかさ、ようは権威なんだよね。オーサライズできるかできないかの差。かなりくだらないよね。でもさ、ギフテッドが「神からのギフトなんだからいいぢゃん」みたいな偏見で彼らのクオリティオブライフを追求出来なくなるってフェアじゃないよね。障害っつって知的障害みたいなのだけが障害じゃないわけでさ、仮に優れた知性を持った人達であっても障害は障害なんだから障害者として同等に扱うべきだよね。これがあれなんだよな、下の人には「可哀想に」って同情的に施すっつーかさ、与えてやるっつー感じで社会保障をやるのに対して仮に知性がちょっと高いってだけでさ「そんなの必要ない」って言うのって相当アレだよね、ダメだよね。ギフテッドって名前が良くないと思うね。それがギフトなのかは本人と本人の生活圏と周りの定義次第なんであってさ、症状としては過度激動として診断されるべきだと思うね。別に喜ばしいことじゃないですよっていうね、ギフテッドって名前が何かさ、天才っぽいラベルっつーか称号みたいな雰囲気があるじゃん?これによる偏見ってのは良くないよね。


あとは言葉に対する重みっつーのかな?「俺はギフテッドだ」ってさ、「俺は天才だ」って言ってるように聞こえるじゃない?そうじゃなくて「自分には過度激動がある」って言えればさ、なんつーのかな?もっと偏見も無くなると思うんだよね。まぁ呼び名なんてどうでもいいんだけど、なんつーかギフテッドって言葉に問題があると思うね。実際はただの障害なんだから。活かすも殺すも本人次第じゃない?それをやたらめったら全部ギフテッドって呼ぶのもどうかと思うし、定義がこんなに曖昧でこんな呼び名じゃ恐らく認知は広まらないよね。あっても妬みとかそんなのばっかだろう。色々なことに対するエクスキューズだろうみたいな物言いが成立しちゃうんだよね。「天才だから片付けが出来ません」とかさ、バカじゃねーの?って話じゃん?そういう雰囲気があるね。ギフテッドって。ADDですらそうなのにギフテッドとかになったら最悪だろうな。明らかに頭が良い人ならいいけど、中の下ぐらいのギフテッド達はどうなるんだ?って話じゃん?


むしろ障害を障害として認めることでさ、生活の質を向上させるような社会的配慮とかね、メディカルケアとかさ、そういうのが合わさって悲劇的なギフトがギフトに結実するわけだよね。ラッキーな人っつーか環境とか運に恵まれた人だけがその才能を発揮出来るってかなり不公平だと思うんだよね。だから選別っつーか明確な診断ってのが必要なんだよね。これについてはまた溜めから書いたやつがあるんで明日貼ります。例によってまた長いんだけど。ってことで今日はこの辺で。


追加。


ギフテッドなのだから何もかもがexemptされて生活出来るってことじゃなくてね、ギフテッドだったとしてもそれっつーのはようは内面の葛藤とかがつきまとうわけでさ、仮に天賦の才能があったとしてもそれを活かしたり伸ばしたりする意志の力が無いと何にもならないのね。ギフテッドだっつーことで例えば社会保障だけで生きていけるとかだとダメなのね。それはただの堕落だから。そうじゃなくてギフテッドが彼らの才能を伸ばして社会貢献出来るような支援を社会なり国家がするってことが必要ってことが言いたいわけね。仮に俺に天賦の才能があったとして、んで仮に今それを磨いてる段階だとしてもさ、そう仮定したとしたら俺は2つの凄く稀なものを持っているんだよね。一つは天賦の才でもっと大きいのが両親ね。つまりは俺の状況を理解して、こんな歳になっても呑気に留学を許してくれている両親なんだよね。


で、金があるわけじゃなくて両親も俺の天賦の才みたいなのに賭けてるっつーか俺が賭けさせてるっつーのもあるんだけど、まぁそういう意味だとベンチャー企業とかと一緒だよね。失敗したら破産するしかないみたいなそういうリスク?でもさ、トライすら出来ないギフテッドとかもいるわけでさ、そういう人達を見放しちゃいけないってことなのね。俺は色々な面で恵まれているから色々なものを伸ばせているわけで、それは天賦の才というよりかはどちらかというとかなり今の俺の状況とさ、あとは俺のドライヴだよね。知的刺激に対する渇望とかっていうまぁ普段書いてるようなことね。それに身を任せつつ生きていくということが普通ではありえないような状況で許されているのでだから今の俺があるって言えるわけ。だからある意味で全然凄くないのね。俺と同じぐらいのやつが同じような考えをしつつ今の俺みたいな生活をしてたら俺みたいになるんだよね。それは所産なんであって俺の凄さではないんだよね。だから凄さとか才能とか能力って作るものだよね。まぁもっとも良い土地と良い種が必要なのは言うまでもないけど。


だからなんつーかギフテッドっつーのはさ、ある種の脳の構造で、それが卓越した形で発展して社会的なものに結実した形が天才なんじゃないかと思うよね。ようは本人の忍耐力とか努力とか環境とか経済的支援とか才能とか知性とか色んなものの複合体の所産が天才ってわけね。だからどちらかというと「作る」って感じだよね。所産である限りかなり人工的なものなんだよね。でもそこにはOEに見られるような特徴が無いとなかなか伸びたいというか見いだされないというかさ、まぁある程度の天賦の条件ってのはあるよね。それが俺は天賦の才だと思ってるのね。そういう意味で俺はバッチリなのね。天才ではないけどOEとかADDみたいなのはあるんでだからそれに賭けられるという可能性があるわけ。まぁアメリカ的なフロンティアスピリッツに見られるような起業家精神だよね。三木清が「近代的な冒険心と、合理主義と、オプティミズムと、進歩の観念との複合から生まれた最高のものは企業家精神である。」って言ってるのはつまりはそういうことね。所謂、一般的に流布している企業家精神とは違った、アメリカのベンチャー的なメンタリティね。だから自分に賭けないと天才にはなれないし能力も伸びない。でもそれには凄まじいリスクを伴うんだよね。もし失敗したら終わりだからね。オルタナティヴが無いっつーかあっても無いぐらいの観念でやらないとダメね。だから万が一失敗したらっつーのを考えなくなるんだよね。それはもうイコール死みたいなもんだから考えなくなる。それが無限のオプティミズムと意志の力を生み出すのね。Power of Willってつまりはそういうことね。学術的には分からんし興味も無いけどんでもまぁあえて言わせてもらうと「権力の意志」っつーのは誤訳もいいところだと思うよ。あれ。


で、また追加。まぁようは人生におけるエロスね。これが全てを支えると言っても過言ではない。天才っつーのは超個性的で希有で並大抵ではないエロスの結晶であり所産なのね。


What Is Political Philosophy: And Other Studies

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