またギフテッド系の話。

mimisemi2009-06-20

溜めを見ていたら恐らくまだ全部を放出するのに一週間以上かかりそうなので、帰国後もずーっと溜め放出が続くと思いまする。あとタイムパラドックスみたいなのが起こるねって大げさな言い方だけど、例えば「ブックオフに行ってきたんだけど」とかって書いたとしてもそれが実はもう一週間ぐらい前に書いたヤツだったりしてね、色々と話が前後してるかもしれないけど修正してたら大変なことになるので基本的にそのまま放出するね。


引き蘢りの擁護論についてちょっと。いきなりだけどね、俺の事をギフテッドだと思ってほしいのね。事実かどうかはともかくとしてそう措定しておいてほしいわけ。で、一気に話を進めるとね、ADHDやADDの人間という枠組みで統計を取ると精神疾患を持っている人間の率が高くなると同時に平均知能も高いみたいなことでね、つまりはさ、引き蘢りという大雑把な枠組みで考えてもね、ようは全てのADDやアスペルガー精神疾患持ちが天才だとか凄いってわけじゃないのと同じくね、引き蘢りというだけでポテンシャルがあるかもしれないと考えるのはADD=天才ぐらい安直な考えなんだけど、でも歴史的事実を見れば、所謂、ADDに凄かったやつも多いっつーか天才みたいなタイプは精神障害持ちだったという率が高いという意味でね、引き蘢りの中には精神疾患があるやつも所謂、世の中全般ってのを見たときの率と、引き蘢りだけで考えたときの率では精神病率が高いかもしれないのねっつーか俺はそう思うんだけど、仮に俺がさ、そういう引き蘢りの一人だったんだけど、実は卓越した知能とか才能の持ち主だったとするじゃない?


またキャリアウーマンの人みたいな人に「ちょっと上手く行っていることからくる勘違いだ」って言われそうだけど、そういう話はともかくとして、「この人を見よ!」的な俺凄いでしょ論ではなく、仮にそうだった時の悲劇というのを説明したいっつーか、丸をつけることなくずーっと文章が続いてるんだけど、まぁそういうことを説明したいんだけどね、つまりはあれだ、仮に俺がそうだったとすればっつーか仮に天才とまではいかなくてもギフテッドの類だと考えたとすればさ、自殺寸前っつーか自殺未遂とか何回もしてたとかさ、全くそういう「自分は頭がいいんだ」っていう意識が無くさ、むしろ色々な経験からくるさ、排除だとか悪口だとか社会からの評価ってのをベースに自分のことを考えているということからくる自信の無さっつーのに苛まされ続けていて実際はポテンシャルがあるのにも関わらず、それを活かす機会も伸ばす機会も見つける機会も無いっていう人間が1パーセントぐらいいたらそれは俺と同じ悲劇ってことなんだよ。


つまり俺が仮にそうだったとして、んでアメリカに来て開花してさ、んでアメリカに来てギフテッドだとかって診断されたとしてさ、んで適切な処置を受けられて自分の能力を活かせてなおかつギフテッドらしい生き方が出来たとすればね、それは1パーセントの確立だった引き蘢りがさ、偶然アメリカに行ったことで本当の姿に気がついたっていうことでさ、つまりはあのまま日本にいたらこんな認識が無く埋もれていたどころか「自分はダメだ」って思いながら、実際、ダメな生活を続けていたんだろうなっていうことを考えるとね、仮に俺がなんらかの卓越した能力を生まれつき持っている人間だとしたらね、俺みたいな引き蘢りがあと1000人ぐらいはいるかもしれないってことが言えるんだよ。それは自慢じゃなくて、むしろその1000人が引き蘢りのまま自殺するとか「ダメだ」って思ったままダメになっていくのが許せないんだよね。それが言いたいだけなの。


それはアメリカでも発見されずに「ダメだ」というレッテルを貼られて自信喪失のままずーっと生き続けるという例はADDに限らずアスペルガーやギフテッドにも言えるんだけどね、ようはさ、あまりに認知されていない実は凄い人間ってのは一見、ダメに見えたりね、ダメどころかダメの底みたいに見えたりするわけでさ、その勘違いっぷりからくる社会的な損失ってのが凄いんだよね。社会的な損失っていうと大げさだし、それはギフテッドなりADDなりが自己を開花させて社会にコントリビュートしないと「損失」という概念は成立しないんだが、見つからないことで本人が辛い思いをして、社会も凄いやつを失っているということになるとさ、これって大金をドブに捨てているようなことなんだよね。


つまりは俺がADDとかギフテッドじゃなくてもいいのね。俺みたいな元筋金入りの引き蘢りで社会的にダメなやつが何かを開花させているという今の状況を見てね、それを「実は俺はギフテッドだったのだ!」って仮定する必要は無いんだけど、分かりやすい言い方をすればそういうことになるわけでね、ようはそれは措定のレベルで事実がどうかなんてどうでもいいのね。俺がそうじゃなくてもそうでもどの道、今の俺が考えられるのはさ、以前の俺では考えられなかったようなことが実現可能になっていたり実現させていたりするということを考えるとね、昔の俺が思っていた自分と今の自分ってのが全然違うっつーかさ、それはいつも書いていることだけど、ようは俺と同じような人間がもっといるわけでさ、それを考えるとマジで悲劇なんだよ。


それを俺は「あー俺は良かった。見つかって」ってすごろくで言うあがりな感じでいられないっつーのかな?むしろ俺がギフテッドだったらヤヴァイんだよ。それが俺が凄いというよりかは、ギフテッドがこれだけ長い時間の間、自信の無さってのにさ、悩まされながら、アメリカに来てこういう経験をしなかったら全くこれが分からなかったみたいなことだとね、むしろ俺が発見できたりさ、俺の才能が開花したっつーか俺が居場所を見つけられたっつーこの可能性は俺がギフテッドだったなんていう可能性よりもっと低いんだよね。あ、意味分からないか。ギフテッドが低級では10パーセントぐらいで、中級だと1パーセント、で、上級だとゼロコンマっつー確立だとさ、俺がどこに位置しようがつまり俺が言いたい事はね、それを発見してなおかつ伸ばせるという確立が俺はギフテッドだったというギフテッドの確立より低いってことなのね。


ようは今の日本みたいなギフテッドとかの認知がさっぱり無い社会で、それを早期発見してアメリカに移ってギフテッド教育を施せる家庭とかさ、そういうのが無くても自分で発見して自分で伸ばすっていうことはすんげー確立が低いんだよね。つまりはギフテッドの率がレベル関係なくんじゃあー1パーセントぐらいだったとするじゃん?で、その1パーセントですらも凄いのにさ、それを発見出来てなおかつ伸ばせるって率はその1パーセントの中の10パーセントぐらいだとしたらさ、ようはギフテッドが才能を開花させてハッピーな人生を送るみたいな確立が0.1パーセントぐらいになるって話なんだよね。


ハッピーかはともかくとして、それを発見して伸ばすことが出来る率ぐらいでもいいや。その率が0.1パーセントってのがちょー勿体ないのね。それを俺はひしひしと感じるの。で、それは俺がギフテッドということではなくて、俺が実際、どうであろうと「こういう事実はまぎれも無く存在するな」という事実に気がついたんだよね。もしかしたら俺は引き蘢りがまぐれでアメリカで上手くいってるのではなくて、何かしらの先天的な脳障害というか脳の違いの良い部分というか凄い部分がアメリカで発見されて開発されたということがあったとすれば、これはヤヴァイことなんだよ。「アメリカに来てよかったな」どころの話じゃない。ようはね、1億ぐらいする陶器をその価値も知らずにぞんざいに扱っていてさ、んで焼きそば食べる時とかに使ってたりしてさ、んでもう古くなったんで捨てようと思っていたところを鑑定士に「時価1億円の美術館レベルの代物ですぞ!これは!」って言われてその価値に気がついたようなもんなんだよね。繰り返しになるけど俺がそうかどうかはともかくとして、仮にそうだったら本人がショックなんだよ。


「1億の陶器を俺は焼きそばを食べるのに使っていて、しかも捨てようとしていたのか・・・・」ってね。嬉しいというよりかはショックなのね。100万ぐらいで「えー!」って思うんじゃなくて、仮に俺が医学的にギフテッドなり明らかに平均より知性が高いちょっと特別な部類に入る人間なんだったとしたらさ、つまりはこの1億円の比喩がピッタリになるのね。引き蘢りがアメリカに渡ったことで居場所を見つけたっつーのはようは時価100万円ぐらいの価値なのね。それでも凄いけど1億には及ばない。1億だとしたら「この皿が!」っつーショックとさ、「俺はこれを捨てようとしていたぞ!」っていうショックとさ、ようはありえないんだよね。ショックが。


「天才論とカルヴィニズム」みたいなエントリーを書いていた時期は100万円ぐらいの前提で書いていたんだよね。それを一億だと勘違いしていても本人がそう思うならいいじゃないっていうさ、磨く事で価値が上がるかもよ?っていうようなレベルだったんだけど、本当になんつーのかな?鑑定士が一億の値段をつけるぐらいの皿だったとしたらさ、話が一気に変わるんだよね。「それどころの話じゃ無かったじゃん!」って。いや、でも実際は100万だったという話でもいいよ。別に。それは価値じゃなくてさ、俺がどうこっちで生活していくか?だから価値は関係ないんだけど、でも思考のパラダイムっつーか思考実験としてこういう風なことを思いついたってことなのね。俺がそうかどうかは別として、仮にそうだったらこういうことになって・・・っていうのを考えていくと、もしかしたら一億円の皿を捨てていた可能性もあるという驚愕の事実にただ驚くだけなんだよね。


で、これを引き蘢り擁護論に結びつけると、俺がそうかどうかは別として、そういうやつは普通の人以上の確立でいるだろうなって思えるのね。多くはないけど、普通の人も含めた総人口から算出されるこの一億円の皿の確立と、引き蘢りの総人口から算出される一億円の皿の確立では、ADDに比較的精神疾患持ちが多いのと同じロジックで、引き蘢りにもまた、所謂、「実は凄いやつだった」どころじゃない、もっと凄いレベルのやつが眠っているんじゃないか?って俺の経験から思えるのね。それは今の俺がそう思えるっていうのはこれはまぁ慢心かもしれないけど自分でも自分のことがここまで凄いやつだとは思ってなかったのね。これだけ英語が出来るようになるとは思ってなかったし、ここまで人から凄い!って言われるとは思ってなかった。


まぁ思ってたっつーか「そうありたいな」という夢はあったけど、それが実現するとは思ってなかったっつーかまぁ「実現させてやる」と思って頑張っているところもいっぱいあるけど、脳レベルで可と不可なことってあるじゃん?それを俺は知らなかったのかもなって思ったときのその一億円の皿のショックっぷりが半端じゃないってことね。言い方を変えればさ、引き蘢りが留学して俺みたいに頑張れば成功するとかじゃなくてさ、これは俺だったから成功したっつーか今みたいな感じがあるんだなってことなんだよね。あーまたややこしくなってる。この人を見よ!的になっちゃってるな。そういうことじゃなくてさ、IQなんてどうでもいいんだけどね、これはまぁ茂木さんのエントリーでも書いたことだけど、茂木さんだから言えて思えてなおかつ実現可能なことっていっぱいあるじゃん?茂木さんがそう言っても一般の人はそんなこと出来ませんよってことがいっぱいある。それに本人は気がついてないか、気がついていてもあえて啓蒙としてそういうことは言わないようにしているのかもしれない。


それってさ、ハードウェアのレベルで潜在的な力を持ったやつが本領を発揮するのとさ、普通のハードウェアを持ったやつが強い意志で凄くなるのとではやっぱレベルが違うじゃん?つまりはハードウェアのレベルで潜在的な力を持ったやつが、凄まじい意志で努力して逆境にもめげずに、むしろ逆境を糧とするぐらいの力で何か突き抜けたものを発揮させたとするならさ、それって凄まじいのは当たり前だよね。つまりはコントロール出来るようなサヴァンっつーのかな?俺はサヴァンじゃないけど、ようは例えとして言いたいのはね、一瞬で何かを記憶してしまうような力の持ち主がさ、サヴァン的にでも他がダメとかね、それを役に立たせることが出来ないっていうことではなくて、その並外れた能力に自覚的になりつつさ、それを社会的なあり方に結実させていこうと思うと同時にその能力をさらに磨いていったり発展させていくってさ、ようは常人がいくら頑張ってもこれって達成できないじゃん?どれだけ頑張っても電話帳丸暗記とかって無理じゃん?


それが元々出来ちゃうからだから彼らは凄いんだよねってことで、つまりは天才とかギフテッドというのもそういうことなのでは?と思ったのね。頑張って達成するものもあるけど、常人がいくら頑張っても持てないものを元々持っているからこそ発揮出来る凄さってのが天才性みたいなのを規定していてさ、程度の差はあれ俺が仮に天才とかギフテッドと言われる類のコロラリーに入っているとすれば、それは常人がどんぐらい頑張っても得られないような何かを持っているということだよね。


それがようは一億円なんだって話なんだよね。100万円で良かったねで済まないだろうっていうさ、「アメリカに来て良かった」なんつー生温いレベルじゃなくてもう驚愕のレベルになっちゃうのね。それが俺にはショックだということなんだよ。つまりは俺みたいなのが他にも多くなくてもいたとすれば、世の中には俺が今まで考えもつかなかったような類の、ありえないぐらい残酷な悲劇が存在しているんだなっていうことなわけよね。皿の例えを使わなければ宝くじみたいなもんだね。一億円の当選券に気がついてなかったみたいなレベルね。で、仮にそうだったとしてもその人は凄くないんだよ。一億円の当選率がどのくらいかはともかくとして、仮に1パーセントぐらいだったとしても、当たる人は当たるじゃない?で、俺が言いたいのは当たっていなくても気がついてない人ってのがいて、なおかつ引き蘢りみたいな類の連中にそういう連中が隠れているかもしれないんだなっていうショックだよね。


で、まぁ何かと障害のほうが目立つような気がする悲劇的なギフトだけどね、仮にそれを俺が持ってたとしたらさ、それは逆に凄いって思わないんだよね。それは頑張って得たものじゃなくて、元々備わっていたもので、なおかつ今はそれが開花しつつあつっつーか気がつけて活かせる可能性が出てきたんで神様に感謝って話だよね。そういうレベルね。努力して得たものなら人に自慢出来るっつーか「エッヘン!」って感じでいられるけど、ギフトだったとしたらそれはギフトだからギフトを持っているという実存的な実感しかないよね。むしろそれに気がついてなかった今までの自分にショックどころか死のうとすら思っていたというさ、今みたいな状態が無ければ気がつく事が無かったんだっていう事実にただ驚くばかりなんだよね。しつこいようだけど、引き蘢りがたまたまアメリカに行って良い巡り合わせでうまくいってるぐらいなら100万円の皿か当選券ぐらいの話なのね。それでも十分素晴らしいんだけど。


ただそれが一億円とかになっちゃえばさ、六本木ヒルズの開発の影響でいきなり60億という大金を手にした八百屋の老夫婦みたいな感じだよね。そのぐらい「ポカーン」としてしまう。で、仮に事実であったとしたらそれは事実として受け止めて生きていきたいのね。「いやーでもたいしたことないよー」みたいなくだらない謙遜はしたくない。程度はどうあれギフテッドだったらギフテッドの性質をよく理解しないと人生ダメになる可能性があるからね。ようは俺がやりたいのってこれなんだよね。定義は色々あるけど「これです」みたいなのがあれば、それを自慢するのではなく、実際、そうだった人がどう社会でやっていっているのか?とかどう成功していったのか?というのとかも参考にしつつ生きていきたいんだよね。ギフテッドなのだとしたら、ギフテッドのサクセスストーリーみたいな類のものが他人事ではなくなるわけじゃない?むしろ見習わなきゃいけないお手本になるわけだよね。そういう対策をしていきたいんだよね。扱いづらいからこそ本質を知ってそれを最大限に活かしていきたいというのがあるし、ギフテッドにせよADDにせよ、こういう人間にありがちな失敗とか、成功よりもそうだけど、そういう他人の失敗にも教訓として色々と学びたいってのがあるんだよね。今はそれが分からなくて過程のレベルだからね。


それが分かることで何が良いか?というのがようは学習障害に対する支援なんだよね。自分がそうであるかそうではないか?ということの違いで変化する実存的変化はない。それは20歳が21歳になったことで観念的な違いしかそこには存在しないように、俺のレッテルがADDであれギフテッドであれ俺自身がその診断を受けたことで変わるってことはないんだよね。それはむしろ自覚でさ、そうなんだからこう生きていこうっていうような具体的な指標が立てられると同時に、他のそういう人達に色々学べるってことなんだよね。ようは先人達にもより自覚的に学べるっつーのかな?彼らが持っている問題を俺が持っているという可能性は高くなるよね?すでにそれは定義されようがされまいが色々な本を読んでそれは感じていることだけど、精神科医みたいなのにある意味ちゃんとしたテストで「そうです」って言われればその自覚度ってあがるじゃない?


「やっぱそうなんだ。間違いない」っていう確信はまた心の変化をもたらすと思うんだよね。それだけではさっき書いた20歳と21歳の違いなんだけど、そういうのがあるかはともかくとして、「成人になったんだ」っていう自覚が大事って言われるのと一緒でさ、そういう自覚って必要なんだよね。あとはそれが明らかになることで、「ADDがあったからこそ成功できた」とかさ「ギフテッドで良かった」みたいなロールモデルになれるっつーの?それは逆を言えば俺の言うやり方というのは茂木さんと同じでさ、一般人に言ってもワークしないということを意味するようになるんだよね。ようは俺が普遍的に「こうすればアイデアは浮かぶ」とかって言ったところでそれは俺みたいなタイプにしかワークしないことっていうことになっちゃってさ、俺がそれをあたかも普遍的な方法論として語る事は無知をさらけ出すことになるっつーかさ、自分を知らないから言えるようなことになっちゃうんだよね。そういう相違も嫌だね。それは普通の人との差別化をはかりたいというよりかは、その差異を明確に自覚しておきたいんだよね。ADDとかギフテッドなら普通の人にこういう風に感じるけど、それはあなたがADDなりギフテッドだからですっていうようなね、慢心という意味ではなくて、葛藤からの解放だよね。「それは相手が悪いんじゃない。俺が違うから俺はある意味典型的にこういうタイプとしてこう思うんだ」みたいなことね。


性同一性障害とかと同じなのかな?そうかな?って思ってたけどそうだったらそれはそうなんだから仕方ないというようなことね。違いを感じる自分も他人も批判する必要は無いっつーかさ、差異に葛藤する必要はないんだよね。そういう意味での適切な診断というのは自分を知るっていう意味で凄く重要なんだよね。だから俺がギフテッドであろうがADDだろうが関係ないのね。何かがあるならそれを自覚して客観的に理解して生きていくってことしか出来ないんだよね。性同一性障害ならさ、別に隠さなくてもいいっていうことっつーかさ、あとは障害として何らかの社会的処置が受けられるならそれは受ける資格が発生するとかね、そういうプラクティカルなレベルでの話ね。


逆を言えばそれで困ってなかったら診断なんてされなくてもいいのね。俺の場合、「何なの一体?」っていう疑問と、その疑問に対する一種の自分なりの答えというか想定というのが存在していて、仮にそうなら学校から適切なそれ用の処置が受けられるし、そうならそれを受けないと学校でやっていくのは難しいっつーかさ、ようは今の俺の学校での葛藤とかも全部とは言わないけど、診断によって明らかになって解決できることが増えるんだよね。それが必要なのね。だから「自分はやはり凄かったんだ」っていうことが知りたいがためにやるんじゃないのね。そういうのは自称ギフテッドとか自称ADDだよね。で、俺は自称じゃないっつーのはもう分かるんだよね。何しろ葛藤のレベルの深さと、障害としてのギフテッド特有のOEとかADDの諸症状に悩まされているってことなわけでさ、あそこまで当てはまるならもうそれしかないだろうっていうような消去法なんだよね。脳を分析してそれが科学的に明らかになるってもんじゃないわけでさ、常にそれって精神科医の分析っつーかテストで分かるものじゃない?だから信用性はともかくとして「そうかも?」って思うなら高くてもテストは受ける価値があるんだよね。何でもなかったらまぁ何でもなかったでそれはそれでいいわけでね。その時は俺はまぁ元自称ギフテッドとか元自称ADDとか元自称ADHDになっちゃうけどね。


ダメだ。長い。ここで一旦切るね。


PS


http://www.dailymotion.com/video/x3vjw6_alain-badiou-sub_politics


ただのポストモダンの生き残りの老害だと思っていたアラン・バディウなんだが、結構過激な人なんだね。さすが元マオイストって感じ。過激さでは俺には負けるけどちょっと見直したかな。著書を読んでみようかと思ったりした。


The Truth of Suffering and the Path of Liberation

The Truth of Suffering and the Path of Liberation




この爺さん、俺と同じ事言ってやがる。またショックだわ。先を越されたって感じで。っつーかまぁ哲学とかやってりゃー普通にこういう結論に至るんだけどね。この爺さんの場合、数学とかポストモダン思想とかほぼ全部の哲学を網羅してこういうことを言ってるんで説得力があるんだよね。逆を言えば、本質を見抜く力があれば知識なんていらないってことだ。ようはこの爺さんと同じ結論に1年ぐらいの思索やら読書で至れるってことなんだよね。俺のイメージだとこの爺さんは哲学者というよりかはロジシャンって感じなんだよね。膨大なデータや歴史的背景を元に何かを語ってるって感じで、データがあるんだよね。エビデンスありきの思想っつーかなんつーか。で、哲学者っつーのはそういうの関係なく思った事を言っちゃうんだよね。そういう意味でより乱雑で衝動的で芸術的なのが哲学者だと言える。バディウは完全にロジシャンだね。そういう意味だと。まぁロジシャンっつーか少なくとも哲学者ではない。


・・・・と思って色々と調べてみたらやっぱただの老害っぽかった。特に邦訳はいつものポストモダン調子で酷いみたい。


http://www.geocities.jp/tillich1965/bookreview.stpaul.html


フランス系ってみんなダメだな。唯一まともなのがフーコーアルチュセールぐらいで他はみんなクソ。評論家レベルっつーかなんつーか。晦渋に書く技術があればウォール伝だって立派な哲学書になるっつーのはいつも皮肉で書いてることじゃん?ポストモダンとか近代フランス系って前にも書いたけど読む事に対する対価が高いんだよね。やたら読みづらい割にあんま俺と考えてるレベルが変わらないとかさ、結局、一番民主主義的なのはくじ引きですとかさ、一行で済むようなことに本一冊分使ってるんだよね。あんま得る事が無い本を読むより思索をしてたほうが得るものは多いよね。


で、動画の5番のジジェクバディウの話だけどさ、彼らに無いものって民主主義の「民」の部分なんだよね。彼らの頭の中で概念だけが空回りしていて、そこにリアルな社会とか人々がいないんだよね。概念のレベルで民主主義なり哲学と民主主義のコンパチビリティなり言論の自由と哲学なりってのが定義されてても、そこにリアル社会との繋がりが無いと意味無いんだよね。リアル社会のあり方とか状態とそれを照らし合わせてどうなのか?っつーのが抜けてるんだよねっつーかまぁインテリの悪癖だけどね。こういうの。彼らの頭の中で完結しているのがもうシステマタイズされちゃっててさ、システマタイズされた思想と思想のやり取りになっちゃうんだよね。インテリ同士の対話って。哲学という名のセカイ系同士のやり取りっつーかなんつーか。


そもそも民主主義と哲学の繋がりなんて無いんだよ。システムとしての民主主義と哲学ならあるかもしれないけど、状態やあり方としての民主主義と哲学なんて関係性は無いっつーのもさ、そもそもその「民」が哲学を必要としないからね。ましてやバディウとかジジェクの本なんて読んだりしない。そういう「民」が「主」になる「主義」の社会とは衆愚政治のことなわけでさ、どうも彼らってプラトンの教えを理解出来てないような気がするんだよな。散々哲学とかやってるくせに本質が分かってないっつーかなんつーか。あとは「民」に過度な期待を寄せたり絶対批判しないのは左派の特徴だよね。それが左翼を規定しているというかなんというか。そもそも哲学者って民に期待するデータベースとしての存在じゃないからね。だから恐らく社会思想とか社会哲学とか公共哲学の部分ではやっぱりコミュニタリアンとかさ、アメリカ系の現代思想のほうがアクチュアリティがあって強いんだよね。彼らの強さは彼らの思想におけるリアルな社会と人々の存在だよね。ポストモダンとかバディウみたいなのはそういうのが無いんでただの空論に見えたり聞こえたりしちゃうんだよね。


あ、んでまた追加。哲学を民主主義やら国家と関係させるやり方ってのはファシズムなんだよね。所謂、高貴な噓やら神話っつーのを哲学の名に置き換えて支配するのがファシズムね。プラトン的国家は全く逆で哲学という本質的なあり方の名において社会を支配というよりかは統制させるので、そのための高貴な噓や神話がねつ造されたりもするのね。そこに人々への哲学の真理の提供やら配布やら布置ってのは存在しない。哲学はステイツマンによってのみ保全されるもので、それは人々によるものじゃないのね。そういうのを踏まえてない議論になると結局、全部ファシズムになるよね。そういう意味でジジェクは自分でも言ってるようにスターリニストかもしれないし、バディウはいまだにマオイストだったりレーニストだったりするんだよね。所謂、彼らが言っているのは党派制に傾いたイデオロギー支配ね。左翼ポピュリズムの発想なんかも基本的に一緒。統制やら自治をあくまで民に任せようとするから洗脳が必要になる。そうじゃなくて統制やら自治は国家が縦の力でやりますよってことで始めて民主的な社会ってのが生まれるんだよね。政治的であるもないも何もかもが自由な社会。これこそまさしく現実主義的なユートピアニズムだよね。まぁまさしくプラトン的国家っつーのはこういうことだ。