Carchemishさんへの私信。

mimisemi2009-07-16

Carchemishさんと濃いやりとりがあったので記念としてエントリーにするです。やり取りを。

Carchemish


2009/07/15 06:47


うーむ、半月ほど前に耳蝉さんに猛烈に腹を立てて(いやまあ勝手に読みに来て勝手に怒ってるってそれどうよって話ですけど)、今だいぶん冷静になってこうやってコメントするわけですが。


理想主義者と現実主義者との間の、浅いんだか深いんだか分からない断絶感というか。そういうのを深々と感じる今日この頃です、はい。


耳蝉さんの才気溌剌とした熱情には、なんだか空恐ろしいものを見てしまうんです。既存秩序を設計しなおせるという思いあがりというか。耳蝉さんが実際に「世の中」にコミットしたら、トップダウン方式で秩序を縛り上げて破壊してしまいそうな気がする。印象論で申し訳ないですけど。


まあ、言っちまえば、ある程度客観的に見れているだけで、私の発言って「キャリさん」なる方と言ってることややってることがほぼ一緒ですね。


美的なものについての捉え方には、かなり近しい(ていうかそのものズバリすぎてコメントのしようがないこともしばしば)ものを感じさせて頂いてるんですが、にも拘らず現実に関わるに際してのスタンスがこんなに違うなんて、人間って不思議だなあと、あっけに取られてしまいます。


なんか気の利いたことのひとつでも言えればいいんですけど……すいません、思いつきませんでした。


あ、ちなみに医者ですが、「まったく問題なし! 健康そのもの。……なのに症状出てるね何でだろね」とか言われて検査代返せコンチクショウとか思いました。とほほ。

Carchemish


2009/07/15 07:08


あー、ただ。私ってコミットしてないんですよね。基本的に自閉症なので。耳蝉さんが感じてらっしゃるような「ストアの店員の非人間的なメカニックさ」は気にならないんです。気にならないっていうか、感じられないって言ったほうがいいのか。疎外されているからこそ開放されているってことなのかもしれない。……そんなに良いもんじゃないか。うーん。

mimisemi


2009/07/15 18:57


Carchemishさん


そんなに猛烈に腹を立てさせるようなものを書けて光栄です。いや、挑発とかではなく、マジで嬉しいと思っています。


ところで僕のその才気溌剌とした熱情ですが、何がそれを作ったか?というと深遠な絶望です。そのぐらい思い上がりにしか見えないぐらいのエロスやパッションを持っていないと生きていけないところまで落ちてしまった結果、こうなったというわけです。


ではこのリアルな状況に対する無力感をどう解消するか?というと、まぁ僕の経済状況はともかく、僕がずっーと経験してきていた深い絶望に抗うものは何か?というと究極的な生の肯定です。つまりはそれが生への熱情であったり、哲学へのエロスであったり、音楽への心酔だったりするわけです。


恐らく僕の政治思想というか、まぁ思想というと大げさですが、僕みたいな考えは今まで問題無い上流階級みたいな環境で育ってきたインテリみたいなのが言っていたらまぁそれは実際ただの思い上がりでしょう。ただ絶望を経験し、左翼的なボトムからの市民社会へのコミットメントというよりかは、コミットメントをする思想などにも傾倒した結果の今の現実主義的な思想はまさしくボトムからのカリスマ的な縦の力への移行を表すかの如く、僕の人生に対する生への肯定もまた絶望というボトムからの超越的な次元への移行なわけです。


僕が妙に自分の生や思想に自信があるのはこういったものを生み出してきたバックグラウンドです。たぶんお坊ちゃんエリートみたいなのが世の中にコミットしたらCarchemishさんがおっしゃるような秩序を縛り上げて社会を破壊してしまうような権力者になるでしょう。しかしながら僕は人生においても思想においてもボトムを経験したり、まぁ自分なりに通ってきたつもりでいるので、だからそういったものに堕落したり、思い上がったりするようなことにならないことに自信があるわけです。


しかしながら「思い上がり」というのは凄く分かりますね。文面だけ見たらまさしくただの勘違いでしょうね。引き蘢りの世界戦略みたいなレベルです。でも僕には決定的な客観性があるので、そうではないというのが言い切れるわけですね。つまりは客観的な事実やら何やらから演繹していけば、僕のような考え方は必然的に出てくるという、まぁただの所産としての思想というか出力という意味での客観性というか、即物的なあり方の存在性みたいな概念のあり方を自分で感じますし、それは恐らくそうなんだと思うんですね。


こういった即物的でドライな所産としての思想には恐らくそこまで実存的なものは介在していないはずなのですが、プロセスにおいては様々な実存的な出来事が介在していてそれらの思考を規定しているというのがあるので、なんというかここに自分が妙な自信を感じるわけですね。


なんというか真実は自分でも胸くそが悪いぐらい残酷なんですが、真実から目を逸らすのはもっと残酷というか、僕が感知出来ることにおける最悪の出来事の一つだと言い切れるので、なんというか仮に真実が残酷でマイナーなものであっても、ポリティカルコレクトネスやドクトリンとしての道徳や規範などに縛られず勝手に思考していこうと思いますし、こういった思考のあり方こそが最終的な最高善に至るテロスにたどり着く事が出来る道だと思っているんです。まぁシュトラウス風に言えば”The quest for true knowledge of the good”みたいな感じですね。


作法や思考の華麗さや美徳さなんて関係ないって立場です。汚らしくて傲慢に見えてもそれが最高善に達する道を歩ことにおいて必然的なものであれば、その汚い道やお世辞にも褒められないような思考や思想のあり方を取るって感じですね。なのであまり見え方とかは気にしてません。傲慢に見えような誇大妄想狂に見えようが、最終的なテロスに達成出来る道を自分が歩んでいるのであれば、見え方はどうでもいいんですね。昔はそれを地でやってると捕まったり禁書になったりしたわけですが、まぁ今は特にブログみたいな人畜無害な場で勝手な思想を展開する事に問題は無いので、歯に衣を着せぬ書き方で色々書いてるわけですね。


その結果、Carchemishさんを怒らせてしまったのなら、むしろ僕の目論みは成功しているというわけなんです。まぁ挑発することが僕の目的ではないのですが、そのぐらいの怒りを感じられるぐらいの強烈さが僕の思考に備わっているのであれば、それは僕としては最高なわけです。


なんかまた1エントリー分ぐらいになりそうなんでこの辺でやめますね。


で、最後に疎外なんですけどね、恐らく僕がそういったものに敏感なのはやはり社会的なものとか政治的なものを意識しているから余計にそうだと感じてしまうと思うんですね。僕はああいう人間がいることには正直何も思わないんですが、ああいうのが社会にのさばっていて、しかも少なくない数でレコード屋の店員とかを平気でやっているのにイライラするわけです。ああいうのが一定の割合で社会において大きなプレゼンスを保持しているというのが腹立たしいんですね。ああいう人間によってダメになるものとか、嫌な思いをする人々っていっぱいいますよね?まぁいっぱいじゃないかもしれませんが、まぁ少なからずいるわけです。それはまぁある意味で政治的で社会的なものですよね。そこにイライラするんですね。彼らが社会的な状態で非人間的なメカニックさを保持していることに腹が立つんですね。


あ、もうやめますね。キリが無いので。とにかく書き込みありがとうございました。

Carchemish


2009/07/16 04:17


ども、ご返事ありがとうございます。正直あんまり書くべきようなことじゃないなと思っていたんですが、変に取り繕うっていうのは気が楽ではあるけどそれって屈辱的なものですから。返事待ちをしていて胃が痛くて堪らなかったんですが、真摯に対応して頂けて感謝の至りです。いやまあ相変わらず「大丈夫だろうな」とは意識していましたけど(流石にそこまで耳蝉さんを過小評価しているつもりはないです)、耳蝉さんにカミュに対するサルトルみたいなサディズムを発揮されたら、とか考えると生きた心地がしませんでした。


耳蝉さんがお持ちのような強靭な信念(これについて疑りを傾ける気はありません。もっとも、“傾けてしまいたい”という誘惑はかなり持ち合わせていますけど。正直言って恐ろしいものですから)が私には無く、根っこが非論理的な確信なもので、論理性の切っ先でそのあたりを突き刺されると私って人間は簡単に崩れてしまいます。あえてチープな言い方をするなら、生は幸福だし、世界は綺麗です。こういうことを言うような人間を裁きに掛けるのは簡単なことだし、また誰しもがその権利がある。私を突き落とすのは簡単です、「このメクラめ!」、これだけでいい。事実を事実その通りに言うっていうのは、意外と難しいことではありますけど、おそらく耳蝉さんにはそれをこなせるだけのポテンシャルがある。


私が耳蝉さんに対して腹を立てたのは……ご想像の通り……耳蝉さんの熱量に当てられて、思わず恐慌を来たしたというわけです。それは嫉妬と呼んでもいいだろうし、本能的な意味での危険性からの逃避でもある。臆病な野生動物の振る舞いとそれほど違いはなかった。はっきり言ってこれは文学趣味で言うならともかく、思想的にはまったく無価値なものであって、それによって導かれる私の「空恐ろしさ」というのは単なるヒステリーでしかない。これによって耳蝉さんに掣肘を加えられるとは思っていませんでしたし、実際に薮睨みは薮睨みのまま終わりました。私はほっとしていますし、蛇が出なかったことを心から喜んでもいます。


ただ、反面私自身の危惧にはある程度の妥当性が含まれていると私は確信しています。耳蝉さんの思想を形而下に持ち込んだときに起こるはずの悪影響が、それをロジックの元に描き出すだけの技量が私にはありませんが、明白に感じられる。この視点ではやはり耳蝉さんは理想主義的(それもかなり危うい)であるように思われる。耳蝉さんが「社会的なものとか政治的なものを意識して」おられる以上、その危険性が現実のものになる可能性は排除されないのだから、それに対して警鐘を鳴らすのは正当化されうる。もちろんそんなことは枝葉に過ぎません。つまるところ私はその客観性を道具として利用し、耳蝉さんの信念に対する恐怖心、またそれによって発揮される攻撃性に対する“添え木”にしたってことです。

……なんで私は他人様のブログでストパフォまがいの公開マゾヒスト劇場をやっているんだろう(苦笑)


まあアレですよ。しばらく遠ざかっていましたが、というか逃げていましたが、またお邪魔させて頂きますのでどうかご寛容ください、てことです。そういうことにしておいてください。「黙って出てったんだから出戻るなら黙って帰って来い」って話ではありますが、それだと半月ぶんの自分自身をすぽんと放り棄ててしまってるみたいな気がして、やまあ「テメエが納得するために他人様をダシにすんじゃねえ」だとか「(耳蝉さんの)寛容さに付け込んで“お許し”を頂こうだなんて中世期の人間か」だとか「美辞麗句で自分の言説を飾り立てることばかりに腐心してインフラ構築は相手丸投げって良いご身分だなオイ」だとかああああもうループ入ったんで勝手極まりますが内臓を大事にしたいと思います。今後ともよろしくお願いします。またコメントしたいです。


あー、胃壁が溶けてゆく……orz


で、俺の新たな返信ね。

あれですね、以前も似たような会話がありましたが、Carchemishさんは恐ろしいぐらいの信念や情熱にコミットする感覚というのを持ち合わせているのにも関わらず、あまりにその実体がカオティックでアンバランスで恐ろしいものなのでコミットしないというようなある種の防衛本能みたいなものがありますよね。それはそれでいいと思うんですよね。世界が綺麗に見えているのなら、汚く見ようとする努力までする必要は無いんですよね。誤摩化しているという意識が無く、純粋に世の中が綺麗だと思えるなら、それはそれでいいと思います。


ところでそこまでの僕の「空恐ろしさ」は恐らくまぁ繰り返しになりますけどやっぱ絶望なんですよねぇー。そのぐらい開き直らないとやってけないみたいなべらんめぇーな感じもありつつ、そういった極限状態に追いつめられてある種の超越的な世界観を体験出来たというか、得られたという感じですね。だからまぁワトルズのような成功哲学みたいなのを地で理解できるようになったわけです。苫米地然りです。実家にいて生温いお湯に浸かりつつ茹で蛙状態になっていた自分では絶対得られなかったような認識の領域が得られたわけですね。茹で蛙状態でもその状態が平和で何不自由無いものであったらまぁそれはそれでいいんですが、安定した状態でも常に実存的な問いというか不安はありましたから、ある意味で家族も巻き込んだ極限状態に自分を置く事が出来たのは結果的に実存的な幸福を得られる良いきっかけとなったと思っているので、まぁこれがベストっていうか今がベストなんですよね。


で、この状態がまぁ死を恐れないような感じがありますから、まぁ「なんだこいつ?」みたいな感じがあると思うんですよね。まぁあとそれはニューヨークって場所にいるというのも大きいですね。あっちは来月の家賃が得られるか分からないみたいな極限状態で生活しているような人達が結構いますから、そういった生温くないマジな極限状態にある人達を垣間みて悟ったことなんかもありますし、彼らに比べたらというか比べてもしょうがないんですが、相対的に見れば僕は全然極限状態じゃありませんね。まぁ従来に比べれば極限状態というわけで、下を見ればキリがありません。ただ比較は意味が無いことなのでやらないようにしているんですけどね。


でもなんていうんでしょうねぇー?死ぬかもしれないけど充実した生活が送れるかもしれない道を選ぶのと、死なないけど生きながら死んだような生活をしなきゃいけない道を選ぶんだったら僕は前者を選ぶっていうそれだけなんですよねぇー。僕は肉体的な死よりも精神的な死のほうが怖いんですよ。だったら肉体は死んでも精神が死なないままのほうが僕は幸せなんですね。こういう人間が政治を考えたりするんでまぁちょっとヤヴァイことになるというのはよく分かりますね。まぁ良くも悪くもディーセントな感覚が無いですからね。僕自身は分かっているつもりですが、生温さとかを自分の人生でも思考でも排除するので、どうしてもアウトプットが極端な形になりやすいというのはありますね。


で、ちなみに僕の思想ですが、Carchemishさんのような存在は僕にとってのチェックアンドバランスの機能を果たしてくれる重要な人なわけです。僕のような人間が暴走しないという保証はありませんし、形而上的な状態に持ち込んだ時に起こる悪影響というのが長期化することで思想自体が悪質なものに染まっていく可能性が無いわけでもありません。これこそがまさしくチェックアンドバランスですね。誤解を恐れずに言えば、僕が仮に哲学王で国を統治していたら、Carchemishさんは善い市民であるわけです。市民セクターを担う知識人というか、良識のある市民ということになりますね。哲学王の存在があったとしても、良き市民の存在は市民社会において不可欠な存在です。なのでその警鐘の音は常に鳴らされておく必要があるわけです。で、僕が狂ったらCarchemishさんのような人が僕を殺して政府をぶっ壊す必要があるわけですね。そういう意味で哲学王というのがパーフェクトである可能性というのはほぼゼロに等しいです。チェックアンドバランスというのを考えれば、哲学者は常にキチガイだみたいな認識が必要かもしれませんね。気違い統治なのでチェックアンドバランスは必須であるという感じですね。哲学王がいたからと言って安心できないわけです。


ルイージ・ルッソという人が、プラトン的な政治的理想主義は哲学者の虚しい労作ではなくて、諸国民が今後、何千年に渡って苦悩するであろう国家の倫理的実体の預言的アレゴリーであるみたいなことを言ってるんですが、実際そうかは別として、こういったアレゴリカルな存在としての政治的理想主義というのは常に存在するべきであるし、存在した方がいいわけです。それはようはクリシェみたいな言い方になりますが、理想なき国家は崩壊するからです。プラトン的な理想主義的国家の建設をするかはともかくとして、それを理想的モデルとして現実に照らし合わせながら政治的なものを考えるというのは、つまりは倫理的なドクトリンとしての宗教のようなドグマとしてのプラトンの政治的イデオロギーがどこの社会でも通底するということです。


簡単に言うと隣人愛を全ての人が実行出来るかはともかくとして、善いあり方としての隣人愛のような考え方は育んでいこうぜみたいな態度ですね。なので隣人愛が可能か不可能か?といった議論はあまり重要ではありません。実践の哲学や宗教としてのキリスト教や政治的な意味でのプラトン主義は概念のレベルで通念していることが重要なのであって、必要なのは洗脳ではなく能動的な倫理的態度へのコミットメントです。


俗っぽい例えで言いますと、例えば苫米地で言えば「世界から差別と貧困が無くなることを願う」という人が増えれば世界が良くなるといったような楽観主義に対してペシミスティックにならずに、そう思える人間として能動的ニヒリストとしてそういった考えや行動にコミットしていくという実践そのものです。そういう意味で恐らく苫米地は能動的ニヒリストなのでしょう。じゃないとあんなナイーヴな信条を持てるわけがありません。だから彼は凄いんですね。


まぁとにかくお互いメンタル的に健康ではないので、内臓と精神に気遣わなければいけませんが、胃を傷つけない程度に今後もやり取りができたら良いと思います。ということでこの辺でやめておきます。


って感じで今日はこの辺で。

哲学のすすめ (講談社現代新書)

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