統覚って気に入ったなぁー。

mimisemi2009-08-22

統覚って気に入ったなぁー。オマンコ野郎カントの哲学用語だけどさ、まぁカントの特権ではないのかもしれないけど、つまりはまぁザックリ言えば知覚とか表象なんかも自分の意識として認識するってことなんだけど、所謂さ、まぁやりすぎると気が狂うのは言わずもがななんだけど、なんで俺が気が狂ってるのかがこれで分かった気がするね。いや、狂ってないんだけど、まぁ大変なのがさ、まぁoverexcitabilityもあるかもしれないけどやはりね、全てを意識として知覚してることに由来すると思ったのね。今みたいに外界との接触が無くてずーっと部屋に籠って本とか読んでるだけの生活をしててもさ、まぁ気分障害があったりするのはいつものことだけど、「はぁー」って感じでさ、ようは放下されてる感じにゲンナリすることがよくあるんだよね。いやね、これだけじゃなくてさ、学校にしても生活全般にしてもさ、自分が主観的にならないで、状況的なものや知覚的なものも意識的に知覚するというか観察するみたいなことをしてるとさ、すげー虚しくなる時があるっつーかデフォルトこれだからさ、特にこうやってこっちでの孤独な生活をしていると抽象度が上がるでしょ?


で、この抽象度のままでいるとずーっとこの統覚感ってのがあってさ、全てに無常を感じちゃうっつーかさ、生きるためだけになんでみんなこんな大変な思いしなきゃいけないんだろう?とかって思っちゃうのね。そんなのに振り回されつつ必然的に実際はやらなくていいようなことも状況的なことからやらざるを得ないということからやっている自分に無常を感じたりさ、この客観性っつーか俯瞰図っつーのかな?常に俺がRPGしてる感じっつーの?これはまぁだいぶ前に書いたことだけどさ、RPGなんだよね。ロールをプレイングしていないのはこうやって家にいるときぐらいでさ、誰かとの関係があったり外界との関係があるとそこでロールが生まれるよね。それが普段はそこまで意識していないジェンダーであったりさ、留学生であるっていうこととかさ、親と話す場合は俺は息子だし、凄まじく金がかかっている息子だしさ、実家がヤバい息子だし、それでもサポートしてくれる親がいる恵まれた息子になるじゃん?いや、変わってくれ!って人いっぱいいると思うしさ、別にロールっつって嫌々やってるわけではないんだけど、でも主観って概念もそもそもはかなり外部的なものから由来しているんだなっていうのを感じるよね。


デカルトは引き蘢ってさ、コギトのあれを思いついたけどさ、んでも外は外じゃん!ってのに気がついたのは外に出たからなんだよね。いやね、ただそこで独我論的なデカルトの解釈は間違えでっていうとえらそうだけど、あれなのね、フッサールデカルト的なコギトに戻ったっつーか立脚したように、そもそも主観性というかコギトがなけりゃ何も始まらないっつーさ、森羅万象は私の表象であるっつーカントのテーゼもさ、俺が中心ってことじゃなくてさ、知覚が無いと少なくとも自分の中の世界ってのは始まらないってことでようはリフレクションなんだよね。外は外であるけどもんでもそれが自我が無いと始まらないっつーんでまぁこれを超越論的独我論っつーのかもしれないけどさ、あ、俺って読んだやつのうろ覚えで書いてたりするから信じないでね。citationとかするべきなんだろうけど面倒だから。まぁそれはともかくさ、この統覚というか超越論的独我論も行き過ぎると疲れるんだよね。


レッツ性。普通の人は普通のことを普通に知覚しているって仮定してみよう。見たものが見たものでそれ以上でもそれ以下でもない。いきなり過去の記憶がフラッシュバックすることもなければ、それに関するものを見た事で無限のシニフィアンの連鎖が起きて頭がそれに占領されるみたいなことも無いって仮定するとさ、ちょー楽だよね。朝起きてさ、メシ食って学校なり会社行って帰って来て寝るだけじゃん?まぁそれを「だけ」ってほどシンプルではやれないんだろうけど、そこで常に統覚があったらすげー辛いよ。もうやってけないじゃん?この統覚もそうだし、超越論的独我論ってのが生まれつき内在されてるやつらってのがいるんだよね。それはいると思うよ。哲学を勉強したからそうなったんじゃなくて、元々そうだったってことね。だから逆を言えばさ、俺もいつもそうだけど哲学書とかを読んでると俺が考えていたこととか言いたかったことがもっと洗練されたシステマティックな文章と言葉で体系化されて書いてあるみたいなことが起きるわけ。


んでもさ、それがそういう概念というか考え方なんですって終わらない人がいるじゃん?それは内在系の人達ね。考え方を変えるっつっても無理だよね。元々そうなんだから。これがデフォルトになっちゃうとさ、バカバカしい事っつーかさ、少なくとも自分にとって意味が無いように思える事をやることってのが必要以上に苦痛になるんだよね。いや、みんなそうだよって言われるかもしれないけどさ、日々の辛さってやっぱこの統覚にあるんだなって思ったよね。もっと単純にパンピーみたいに「彼女欲しい」とかさ、「来月どっか行こうかなー」とかさ、「来週学校始まるなぁー」とかさ、そんぐらいの低い抽象度と主観で生きてれば楽だよね。人間はそこで知覚マシーンと化してさ、何かが外で起こったってものを常に主観で知覚するだけになるじゃん?でもそこで統覚があるとさ、この知覚も意識として統合されて統一されるでしょ?ってことになるとさ、その統合をしている俺を統合している俺がまた統合をしている俺に統合されていながらまた統合する俺が統合していきつつまたその統合を統合する・・・・って例のデカルトのアレみたいになるじゃん?


そうやってさ、思考実験としてデカルト的思考とか超越論的独我論とかをエミュレートするのはいいよ。でもさ、それがデフォルト設定になっちゃってる人達って大変だよ。一つの情報から受ける情報量が半端じゃないじゃん?もしかしたらOEを持ってる人ってこういうところがあるのかもしれないね。色々なアイデアとかインスピレーションが様々なところから生まれてくるポテンシャルがあるみたいに言えなくもないけど、でもまぁ大抵は辛いっつーか大変だよね。こういう人間がおとなしくデイリータスクをこなすとは到底思えないし、ルーティン化された生活を生きられるとは思わないんだよね。その度に激しく落ち込んだりストレスを抱えたりしてさ、んでもその落ち込みとかストレスの原因すらもまた分析したりさ、意識として知覚して何が原因か?とかさ、なぜそうなっているのか?とか考え抜くじゃん?で、いつもまぁ最終的に俺の脳がこうだからしょうがないってことに帰結するんだけど、大変だよね。情報処理が。大変だと感じた事はないけど、最近、ギフテッド系の本を買ったんだけどね、Living with IntensityっていうDabrowskiのセオリーなんかを分かりやすく紹介してる本でさ、学術的に価値があると同時に読みやすくて、なんつーか結構一般向けでもあると思うんだけど、これ読んでるといかにギフテッド系の敏感さとか過剰さを持っている人達が大変なのかってのが分かるよね。俺がギフテッドかどうかは検査しなきゃ分からないからなんとも言えないけど、少なくともOEという意味では俺は完全にこれだしさ、OEということに自覚的になるにつれ他との違いが分かるようになるんだよね。つまりは俺が特別というかある種異常で他はもっと楽なんじゃん!思ってた通り。って思っちゃうのね。


普通の人にはこんなのが無いんだと思うと俺がなんでこんなに生きてるだけで大変なのか?っつーのの説明がつくっていうかさ、それは別に派遣切りのホームレスとかワーキングプアとかっていう社会問題としての生きづらさとかはおいておいて、デフォルトでの生きづらさね。大変さっていうかさ、それがやっぱ過剰なんだよね。だから精神的におかしくなったりするし、そもそも知覚が普通じゃないからやっぱ大変なのは当然でさ、だって世の中って普通基準で動いてるじゃん?OE基準にはなってないじゃん?だから大変なんだよね。道を間違えるとそれこそ地獄になりうるのがOEの人達だよね。本とかは天才とかの例を挙げて肯定的に捉えようとするし、それはそれでいいんだけど、俺には恐ろしさがやっぱ大きいね。


いや、天才とか言われてちやほやされたりさ、言われるぐらいの業績を残せた人ならいいけど、そんなのも分からずに変人扱いされて精神的に病みまくってる人達ってどうなのよ?ってことを考えると本当に恐ろしくなるんだよね。まさしく明日は我が身でさ、だからこそまぁこの特性を活かして生活をなんとかしなきゃいけないんだけど、まぁ生活をなんとかするっつーのもまぁ定期収入だからね。これがあれば極端な話、今のままでもいいっつーのはいつも書いてることだよね。大きい夢はあるけど、でも現実的なパースペクティブでは今みたいなスローライフが一生送れればそれが一番幸せだって思う俺がいるわけよね。だから結局悩みの種は収入じゃん?で、学歴とかグリーンカードとかに話がいってさ、んで学費やらさ、サイコロジカルスクリーニングのテストの費用とかさ、ビザだのなんだのっていう色々なことが浮上してくるんだよね。つまりはほとんどが社会と俺との関係性で生まれてきた何かであってさ、そこでさっきも書いたように俺のステータスっつーのが顕在化するのも社会上のことであるしさ、つまりは個としてはほの無だし無とか空みたいなあり方を求めてるんだけど、社会と関わっていくのを考えるとやはりそれは無理なんだよね。


結局引き蘢りにも色々あるんだよね。俺みたいにもう要素が内在されてる引き蘢りとさ、ストレスフルな社会とかさ、社会が世知辛くて、んでも無職で実家暮らしが出来るみたいなことで生まれてくる引き蘢りとかさ、ストレスでおかしくなって引き蘢りになってる病的なタイプとかさ、色々あるんだよね。一緒くたにはマジで出来ない。で、俺はさっき挙げた「ストレスフルな社会プラス実家暮らしオッケー」っつーのと「ストレスでおかしくなった」っつーのの複合体だと思ってたら違うんだよね。まぁ何を今更だけど、アメリカでも引き蘢りなんだよね。基本的にあんま外に出るのが好きじゃないし、面倒だし、家にいるのが一番いいっていうさ、でもまぁ必要があれば出て行くしかないし、必要があれば出て行けるんだよね。病的なタイプは必要があっても出て行けなかったりするじゃん?俺もかつてはそうだったけど、ようはさ、さっき挙げた三つ全部持ってるんだよね。俺は。潜在的に。だから筋金入りの引き蘢りってことなんだよね。でも引き蘢りでも収入とか得られてればいいわけじゃん?だからさ、いかに引き蘢りを続けながら収入を得るか?ってのが今後の課題になるよね。別にあれなのよ。職場で半ば引き蘢りみたいな状況になるとかでもいいのよ。システム的な人付き合いを求められなければオッケーなのね。所謂、恒常性ってのを求められるじゃん?職場とかの付き合いだとさ。情緒不安定とか日によって全然テンションが違うとかってもうアウトじゃん?でもそういうのが元々ある人もいるわけだからさ、それをアウトにしてほしくないんだよね。あーダメだ。脳内キャリさんが出てきて「それは甘えだ。大人になりなさい!」とかって言ってるわ。


もうスティグマだよ。会ってきた嫌な人達のことは一生忘れられないだろうなって思うね。で、最悪の気分の時とかにそういうのが頭の中に出てきて俺を責めたりするのね。気分が良い時とかはさ、姫とか今まで会った可愛い子とかが出て来ていい感じになるんだけど、悪いときは最悪だね。だから嫌な人には会いたくないっつーかさ、忘れられないって本当に大変だよね。この忘れられない感じってのも精神障害というか脳の特徴としてあるみたいね。ADHDの人だったかアスペルガーだったか忘れたけど、ある種サバン的なさ、記憶が全然消えないっつー人達ね。でもかといって全部覚えてるってわけじゃないからさ、テストを全部暗記でパスとかっていう風な便利な使い方は出来ないんだけど、でも幼稚園で嫌な思いをしたときの状況とか相手の言葉とか声のトーンとか張りとか全部覚えてるんだよね。いつでも脳内再生可能なんでそれが凄くストレス因子になることが多い。ここに度々出てくる画家のよーこも同じようなことをこないだ会った時に言ってたね。ありゃマジで辛いんだよ。分かる人にしか分からないんだよなー。で、またさ「そんなことを特性だと思って自分は凄いとかって言いたいんでしょ?」とかって言うようなやつがいるんだよね。すんげー曲解をするやつがこの世の中にはわんさかいるんだよ。「私だってそのくらいのことはあるよ。でもそういうのと付き合っていくのも人生じゃん。辛くて大変なのは何もキミだけに限ったことじゃないんだよ」とか言われるともうこいつのことを真剣にぶっ殺したくなるよね。この世からいなくなれ!って思っちゃう。てめーのそれとは度合いとかレベルが違うんだよ!っていうね。


まぁ怒ってもしょうがないんだけどさ、でもやっぱそこはちょっとはリスペクトしてほしいよね。リスペクトっつーか配慮ね。違うんだってことを認識するだけでいいんだよね。「キミだけじゃない」とか言ってほしくないよね。んじゃあなんでお前はその厚顔無恥な顔引っさげてバカみたいなパンピー生活遅れてるんだ?って話じゃん?まぁ羨ましくないけどね、彼らのような低いレベルの生活が。まぁ見下してるわけじゃないっつってもまぁ逆に俺も彼らみたいなタイプの人間にリスペクトは払えないからお互い様なんだけどさ、でもやっぱここがまぁフーコー的な議論になるんだけどさ、マジョリティはどうすんの?って話なんだよね。デフォルトがふつーのパンピーのマジョリティでさ、んじゃあ違うマイノリティーは生きる権利が無いのか?って話じゃん?まぁいいや。この話は前に書いたから繰り返さないけどさ、まぁそういうことだよね。だからまぁ本当にこういうので悩んでる人はまぁ自分から言わないだろうけど「大変なんですよ」とかって言わないほうがいいね。絶対。絶対アホなやつらから「キミだけじゃないんだよ」とかさ、「大人になりなさい!」とかって言われたりするからね。


「みんな大変だよ」っててめぇーとは情動レベルが違うんだ!って言ったところで普通の人には通じないし彼らは理解しようとしないからね。だからやっぱカウンセラーとか必要になるんだよなぁー。絶対普通の人に悩みを打ち明けたりできないじゃん?見積もり違いをしてた典型的な普通の人に関係が深まってきたからっつーんで色んな悩みを打ち明けちゃって大失敗したのが俺のキャリさんの例じゃん?かといって同族同士だと傷の舐め合いみたいになっちゃうからね。いや、まぁなれ合いってわけじゃないんだけど、俺とよーこで言えば「大変だよねー」で終わっちゃうんだよね。ゲイ同士の会話でもそうなんだろうな。「あたしたちって大変よねー」っていうさ、種類とかは違えどマイノリティってそういうことだよね。まぁそこで誰かがオルタナティヴを提唱出来ればいいけど、そんな人いないじゃん?それこそ社会運動とか起こさないといけないレベルなわけで。俺はまぁやろうとは思うけどさ、でもまぁ日常のレベルではなかなか打ち明けられる人っていないよねってことね。「この人なら」って思っても見積もりが違うと酷いことになるからリスキーなんだよね。だからカウンセラーが一番安全ってことになるよね。仮にそういうことですら打ち解けることが出来て話せる友人がいたらその友人は何があっても死守するべきだね。もう凄まじくかけがえの無いものだから絶対に大切にしなきゃダメだね。滅多にいないから。ホント。


まぁいいや。今日はこんなところで。


Living With Intensity: Understanding the Sensitivity, Excitability, and the Emotional Development of Gifted Children, Adolescents, and Adults

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