一般法則論者さんへの返信。

mimisemi2009-09-04

一般法則論者さんからの神の証明への突っ込みがあったので、返信を1エントリーにしてみる。昨日の神の証明の話のツッコミで

一般法則論者 2009/09/03 18:37
この世界の成り立ちの順序から言えば、ヒトがいわゆる神の存在の有無やその属性を勝手に決められるという話は最初から無しです。創造主である神の存在証明をしている一般法則論のブログを読んでください。一般法則論者


というのがあったので返事を書いてみる。


書き込みありがとうございました。一般法則論者さんのブログを全てではないですが、少しだけ読ませていただきました。で、僕の一般法則論者さんが提唱されている一般法則というものの理解の一つは、創造主である神というものは必然的にアプリオリに存在しているので、後天的に人間などという有限的な存在がその属性を勝手に決められるわけがないということですよね?今回の突っ込みに関しては僕はそういう風に捉えました。


で、このツッコミへの反論というとあれですが、答えは物凄く簡単で、僕が手前味噌で書いたゲーデルの神の存在証明の理解で言えば以下の数式、というほどでもないただのトートロージーが答えです。


φ' = U
U' = φ


無という存在構成を規定するものが無いもの、例えば僕のゲーデルの勝手な理解によるゲーデルのタームで言いますと、ポジティブな要素が無いというものはつまりは「有」の要素として看做されないもので、全ての実在はポジティブな特性を持っていると言う事ができます。そして上のトートロジーの数式ですが、φによって表される「無」のプライムはユニバースということで、無の中に存在しないものは全てがユニバースだと言う事が出来ます。逆もまた然りで、ユニバースに属しないものに関しては全てが「無」だということが出来ます。この証明が上の数式によって表されていますが、僕のゲーデルの神の証明の理解では、つまりはゲーデルの神の証明のエッセンスはこの数式で表すことが出来るということだと勝手に思っています。


というのは一般法則論者さんがおっしゃるようなアプリオリな創造主も、スピノザ的な汎神論的な神の実在も、それが実在である限りはポジティブな要素を満たしているということで、それはユニバースに属するわけです。神が存在しなければユニバースは存在しないので、全ては無に帰ってしまいます。つまりは全ての実在が無になってしまうということで、実在自体の説明がつかなくなります。


しかしながらスピノザ的な汎神論的な神の概念やゲーデルの神の証明が表しているものは、「概念」といった人間が後付けで思い浮かぶようなハンディーなものではなく、ある意味での一種の不可知論です。それはユニバースを包括するどころか、ユニバースそのものが神という言い方をすると、その存在のあり方など有限的な人間に理解できるものではないからです。しかしながら恐らく神というものはそんなものであろうというのがスピノザや恐らくゲーデル的な神の考え方、ないしはアインシュタインも「私は神は信じないがスピノザ的な神なら信じる」と言っていたようなもはや「存在」として規定できないような存在が神というわけです。


ポール・エルディシュがSF(super fascist)と呼んだ神の存在も恐らく似たようなものでしょう。神は全てを知っているし、全ての数学的問題のもっとも良い答えを持っているというわけです。しかしながら有限的な我々のような存在に、無限とも言えないもはや実在とも言えないようなものの実在について理解できるわけがないのです。なので「神」という存在は括弧付きの概念に留まるわけで、「信じるか信じないかはあなた次第です」みたいな都市伝説みたいなことになるわけです。あると言えばあるし、無いと言えば無いといったような、その実存性を規定するエッセンスはつまりは感知者に委ねられるわけです。


それがどうアプリオリに存在するか?という証明は恐らく無理でしょうし、一般論者さんの言う「そんなものは最初から決まっている」ということに関してももはやそれは一般法則論者さんが思う「神」の存在なわけで、その神自体は既に一般論者さんの頭の中で規定されている神です。なので実質的にそれはスピノザ的な神と存在的には変わらないと思いますし、カバラで言うEin Sofもまた同じようなものです。それ自体に考えが及んだ時点ですでにそれはもう人間の概念の介在を許しているわけで、換言すれば最初から神の存在を人間が感知することなど不可能なのです。


なので神の存在を信じるものは、宗教的なドクトリンであれ、スピノザ的な汎神論であれ、一旦括弧付きにした「神」としての概念として理解しつつその存在を信じるしかなくなるわけです。そういった意味でゲーデルの神の存在証明はスピノザ的な神の概念で言えばバッチリだと僕は思ったわけで、そのゲーデルの神の存在証明を勝手に僕が簡略化したのが例の


φ' = U
U' = φ


です。これも人間が考えた数式だとかロジックだとかで規定する「神の存在」ですが、これをゲーデルは「神」と言い切らずに「Something God-like」と呼んでいます。つまり「神みたいなものがいたとすれば存在証明はこうなるであろう」という証明がゲーデルの神の存在証明だと思うんです。これは全く僕の勝手な理解ですので、一般的にどう言われているのか分かりませんが、僕はこういう風に思いますというか理解しました。


ちなみに一般法則論者さんがおっしゃる神の存在も一般法則論者さんという実在を介在した神の存在ということなので、そこには「一般法則論者さんが考える神」という属性がすでに規定されています。それは一般法則論者さんが考えることによって神の概念を考える以上、避けては通れない属性のラベリングです。なぜなら人間は有限的な概念でしか実在を理解できないからです。なので人間のそれ以前に存在すると言えるものが実存に先立ってその存在証明を有限的な実在によって証明されることは無いわけです。つまりは論証不可能というわけで、アプリオリな神の存在も論証は不可能であるが、概念のレベルでは可能であるということになるわけです。その概念がまさしく「神」そのものです。


ゲーデルの有名な"There is no proof of P"という概念は物凄くオントロジカルで仏教的なのですが、概念は物凄くシンプルで簡単で、Pによって表される"There is no proof of P"というステイトメントが本当である場合、これの証明は不可能になり、その一方で、もしステイトメントPがFalseだった場合、ステイトメントPはTrueになり矛盾が生じます。つまりは神の証明は無いとということは無いと言うと神の証明は無いことになるので、それは無いことになり、結局は無いというよりかはただのトートロジカルな矛盾に陥ります。なのでこういったロジックのシステムの中ではステイトメントPが本当なのかどうなのか?というのは定義できなくなります。


神の定義も同じです。神がいたとすればそれは「実在」であって、実在の在り方や構成要素の定義により「有」というポジティブなオントロジーという風に規定されるので、オントロジーという実在を規定しているユニバースに必然的に包括されることになり、そのユニバースを「神のようなもの」と考えた時に、個々の実在から神の存在が浮かび上がってくるわけです。実在が無ければ神は無いので、つまりは実在があれば、ユニバースを表す神のようなものは概念上存在することになるわけです。つまりは自分の実存と神の実存は同じようなフレームワークで成り立っているというわけです。どういうことか?というと、つまりは自分という実存を証明できるものは無いが、それはあるのだということでしか証明は出来ないわけです。それは何を持って「在る」と規定するのかによるので、少なくとも人間に存在する「実存」の概念は文字通りただの「概念」なので、概念が「在る」からと言って実存が「在る」とは限らないわけです。結局はまぁデカルトと一緒ですね。思う事で我はあるわけで、神も然りです、


そのぐらいあやふやな実存が実存そのものだと言う事が出来ますし、これはまぁかなり仏教的な概念です。ハイデガー実存主義然りです。つまりは我々が人間である限り、実在というものは概念のレベルでしか理解できないということで、つまりは神の実在など理解できるわけがないのです。これはまさしくスピノザが言っていたことです。人間の意志が介在した時点で人間の意志が完全に介在しないアプリオリな概念というものの存在性はゼロになります。ビッグバンで言えば、それは「ある」と思うからあるわけで、そのあり方は科学だの宇宙論だので証明するしか無いわけです。これがつまりは「概念」ということです。これで言うと「数」もまたただの概念です。1という概念が自然数であるのはアプリオリですが、それは人間の意志の介在による「自然数」という規定から発生した数という概念のシステムの中の1なのであって、それ自体の存在は究極的に言えば無いわけです。しかしながら概念のレベルでは存在します。例えば「あ」は一文字ですが、この数を表す1がつまりは1ですね。しかしながら1の実在というものは存在しません。あくまで概念です。


まとめるとウィトケンシュタインではないですが、「世界は私の世界である」という世界は私にしか知り得ないことなのです。これは「私」という意志の介在を許している以上、アプリオリなものも「アプリオリにそれは存在する」という属性のラベリングをするしか無くなります。神が人間によって規定できない存在である以上、結局は「それはそうなのだ」という言語的独我論に陥るしかなくなります。これは究極的に語り得ないことで、これに関する議論をしてもしょうがないと思います。なぜなら「これ」自体が我々の限界を規定している要素であるからです。有限であるということはつまりはそういうことです。しつこいようですが、「ヒトが神の有無やその属性を勝手に決められない」としていながらも創造主の存在を「有」としている一般法則論者さんの議論は、つまりは「ヒトの意志」を介在しているということにおいて、それは結局は「決めている」ということになります。決められない存在なのであれば、最初から決められないのです。つまりは有無すらも属性すらも分からないという存在が神ということになり、僕のイメージでは、繰り返しになりますが、スピノザ的な汎神論がそれに一番近いというような気がします。カバラにおいてのEin Sof然りです。


そういった概念においての「神」の存在証明を上手くやったというのがゲーデルだと勝手に思ったので、昨日のようなエントリーを書きました。


・・・・ってことでまぁこれが一般法則論者さんへの返事でした。


PS


「神の定義も同じです。神がいたとすればそれは「実在」であって、実在の在り方や構成要素の定義により「有」というポジティブなオントロジーという風に規定されるので、オントロジーという実在を規定しているユニバースに必然的に包括されることになり、そのユニバースを「神のようなもの」と考えた時に、個々の実在から神の存在が浮かび上がってくるわけです。実在が無ければ神は無いので、つまりは実在があれば、ユニバースを表す神のようなものは概念上存在することになるわけです。つまりは自分の実存と神の実存は同じようなフレームワークで成り立っているというわけです」


ってまぐれだけど、これってアートマンブラフマンの関係と同じ事言ってるのね。こういうとき「俺ってすげー」ってちょっと思ったりする。アートマンの場合、「無」だけど、「有」か「無」ってどの道、今日俺が書いた返信だと実在の根拠って無いってことから言えば前に書いた実存ってのは|{Ø}| じゃん?構成要素は無だけどセットとしては1みたいな。だからなんつーか|{Ø}| =Uでもいいわけね。これだと無に依拠した仏教的なオントロジーになるってことね。