偽善について。

mimisemi2009-09-08

偽善についてなんだけどね、いきなりウィキからの引用で始まるけども。

心理表象にみる偽善 [編集]
まず、自分の事を「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っている。したがって「偽善」とは、自己の悪の自覚を含む主観であり、自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出す事もある。逆から言えば、自己の善性に対する懐疑のない「善」は、時には「偽善」となってしまうことも、仕方が無いと言える。


一方、自己ではなく他者を「偽善者」と非難する人もいる。外面的には善と見せかけているが、その他者の内面の悪を見抜いてしまっていると言う場合と、善行に対する思慮の浅さを指摘する場合がある。前者の場合、他者の内面というのは外から簡単に分かるものではないから、その他者の中に悪を推定するだけで、善行に対して猜疑心を向けているに過ぎない事も多い。後者の場合、善行自体があまりよい結果を生み出さなかったことを指摘していることがあり、そうした場合は謙虚に受け止め、思慮の浅さを反省すべきである。


別の可能性として、内面的な事柄を度外視しても「偽善」が指摘されうる事もある。つまり、目立つところでは善い事を言ったり行ったりしていても、目立たないところでは悪事を行い、表面上の善を無にして余りあるような害悪をばらまいているような場合である。こうした時には表面上の善はいわゆる「きれいごと」であり、むしろ社会的に善行として評価されることなどによる自己利益が企図されていることもある。このとき「偽善者」という批判は、隠蔽された悪事を暴露して問題の本質を明らかにする。


ところが、こうした「きれいごと」を非難する声の中には、実質的な悪への関心が見られない事も稀ではない。人に先駆けて行う事を臆するあまり、結局は何も出来ないでいる者たちが、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑する(似非ニヒリズム)。ボランティア活動などは常にこうした困難に直面するが、「偽善」への深い思索に裏打ちされ、常に自分の行為の及ぼす影響に留意してなされる継続的な行為は、たんなる主観的な善悪の次元を超越したものになりうる。


やはり急所は主体が自分が内面的に悪であるということを知っているからだよねっつーかこのウィキの定義なかなかだと思ったのね。なんつーかかなり哲学的なアプローチじゃん!とか関心しちゃったっつーか。でもまぁあれだ、「自己の悪の自覚を含む主観」と「自己の善性に対する懐疑」は全然違うものだよね。前者は自分は悪であるという自覚というよりかは、善を持たない悪なるものが善を求めると必然的に出てきてしまう善性の矛盾なのに対して、後者はより内面的な葛藤だよね。「ボランティアとかやってるけど、これって本当に役に立ってるのかな?これってもしかして自己満足?」みたいなね、そこには「尽くしたい」という善性がありながら、自分が行っている善の行為や感情に対して懐疑的であるという割とレベルの高い話ね。それに比べてまぁ前者は圧倒的に世の中に多いタイプの偽善で、元々が悪なので、そんなようなやつがやる善など根本的に悪の相を持っているものなんで善足り得ないというような、まぁ究極的な善性の不在から来る偽善ね。


例えば善の行為の表れとして、献身的に誰かを救っているというか、自分のコストを払ってまで利他的に誰かを助けるという行為自体の表れは行為であって、それだけを見たら偽善かどうかなんて分からないんだよね。政治活動としての炊き出しなのか、献身的で慈善的なボランティア活動なのか?っつーのは「炊き出し」という現象からは見て取れない。なぜならその本質は内在化されていて、他者は知りようがないからなんだよね。


ただまぁあれなんだ、まぁ俺の予想っつーか経験だとさ、偽善を見破る要素の一つとしてまぁ当たり前っつっちゃー当たり前なんだがね。善なる行動をしている人の内面を知る事によって少しぐらいはその動機が伺い知れるよね。まぁ簡単な話でさ、あんなに利他的なことを公的な活動としてやっているのに、実生活では全然嫌なやつじゃん!とかさ、ただのドリームキラーじゃん!とかさ、すんげーエゴイスティックなやつじゃん!とかさ、そのパブリックな領域で行われている活動とその人の人間性の矛盾ってのが偽善を暴きだすんだなっつーのは本当に思ったよね。つまりはやっていることとその人の性格が全く合わないってことね。別にこれは偽善に限らずね、例えばプライベートではすんげー良い人っつーかもう滅多にいない感じなぐらい良い人なのに職場ではすげー嫌なやつとかさ、職務での人間性は最低っていうのがあったとしたらさ、それはまぁ色々言えるけど、なんつーか職務としての人間性が作られたもので、実際は良い人なんだっつーことになるじゃん?まぁ逆もあるけどね。職務でそういう人間性が求められているので、必然的にそうなるしかないんだなっつー予想がついたりするじゃん?「普段はあんなに良い人なのになー・・・」っていう疑問からまぁなんつーか色々な理由があるに違いないなって予想できるじゃん?なんとなくだけどね。


逆バージョンが今俺が書いている偽善ね。とてもあんな行為っつーか人助けとかするような人じゃないのにそれをやってるってことはなんか他の理由があるんだろうっつーさ、人間性と行為の矛盾だよね。で、次元が高い葛藤ってさっき書いたやつに関しては、少なくとも人間性と行動の乖離は無いんだけど、その人が本質的な善性を求めるが故に葛藤してしまう善性への懐疑だよね。「これってただの偽善なのではないだろうか?」っていう懐疑は善の心から来るもので、その不在からは絶対来ないものだよね。だからこれは次元が高い内面的な葛藤だっつーわけ。


で、その善行自体が良くない結果を生み出してしまったっつーのはただの結果論で、結果自体はその善性を規定しないのね。いきなり気を失った人がいて、んで原因が分かんないんで下手に体を動かしちゃいけないんだけど、凄く必死になって「大丈夫ですか!」とかって頬を叩いたりさ、揺さぶった結果、脳内出血やら何やらが悪化しちゃって、その揺さぶりが原因でその人が死んじゃったとしても、その揺さぶった人の倒れた人への配慮というのは偽善ではないよね。浅はかではあったけど、善性は担保されている。っつーのはさ、その人が本当に心配して、すんげー必死になってたっつーことから偽善ではないなっつーのが分かるじゃん?っつーかそれを偽善だっていうのはおかしいよね。結果、揺さぶったことにより死んじゃったとしても、それは殺人罪にはならないだろうしってまぁ厳密な定義は分からないけどさ、自分の行動が間違っていたっつってすんげーその揺さぶった人が葛藤とかしててさ、自己嫌悪からすんげー酷い鬱とかになったりしたらさ、それって善なる心だからこそ感じる罪悪感じゃん?自分としてもよかれと思ってやったのにさ、それが良くない結果を生み出しちゃったっつーのであったとしても、その行動自体は偽善ではないよね。


自己利益としての善行はまぁ偽善の極みだよね。でもこれは結果から言うとさ、例えばね、悪い事して金を稼いでるんだけど、見た目をよく見せるためにさ、チャリティーとかさ、寄付だのなんだのっつーのをやっててさ、んで実際、その寄付によって救われた人が多かったらそれって微妙だよね。さっきの揺さぶりと反対ね。行為は明らかに自己利益としての善行なんで褒められるものじゃないんだけど、良い結果を生み出しているので、現象だけ見れば凄く善的というかさ、実際、救われている人達がいっぱいいたらさ、それってまぁ微妙だよね。やくざの炊き出しとかへの批判はこれだよね。ヤクザ自体はもしかしたら昔のヤクザみたいに任侠っつーとあれだけど、昔のヤクザっぽい感じで人々を助けているかもしれないんだけど、社会的にはそうは見られないってことね。ヤクザが阪神大震災だのなんだのっつー大きい災害を利用して名前を上げようとしてるとかさ、良く見せようとしているっつーのはなんつーかナイキとかと一緒だよね。


チャイルドレイバーはしてません!とかって言うのはさ、やってたからじゃん?ドリンクマシーンは一日3回洗ってます!とかってわざわざ書くのって汚かったからじゃん?誰かがドリンクマシーンで飲んだドリンクを原因に腹を壊したからそういう規定を作ったかもしれないじゃん?清潔を保つだのさ、子供を労働させないだのなんて当たり前のことじゃん?そんなことを大体と「うちはやってません!」っていうのは過去にやってたかさ、もしくは誰かがやったから「うちは違います!」って言ってるってことでさ、つまりは「そうじゃない」っていう否定自体がポジティブの要素を見せちゃってるってことだよね。そこに否定があるということは肯定があるか、あったわけでさ、マイナスあってのプラスと一緒ね。はい、いいえという選択肢があるのは何かを決める事柄があるからじゃん?何も無いところには何も生まれないからね。規定も何もそこには存在しない。


うちはこんなに良いことをやっています!とかさ、自分の論文が掲載された雑誌は全米でとても権威のある雑誌です!とかってやたら喧伝しまくるのって逆にそれ自体のあり方を疑問視させることになるものだよね。むしろそんなことどうでもよくてさ、中身で勝負しろって話じゃん?あえて喧伝しなくたってさ、そいつの論文が凄いものだったら別に掲載された雑誌が権威がある雑誌だろうがなんだろうが関係ないじゃん?そのもの自体のクオリティはそのもの自体が保全してるわけでさ、良いこと然りだよね。それ自体の良いことはその行動とか表れに内在されているのであってさ、だから誇示するものではないし、あえて言うことでもないんだよね。「ボランティアで疲れちゃったー!」ってことをやたらと自慢するやつがいたらさ、そいつのボランティア活動の動機って相当怪しいよね。学校の単位のためでやってるとかさ、そいつの自己充足のためにやってる可能性があるよね。いちいち「ボランティアで」なんて言わなくていいのにってことになるじゃん?なんでそこばっか強調するの?っつーさ、こういうことによってそれ自体のあり方を疑問視させるものになるわけね。


善い事ってのは隠れてやるもんだみたいな言い方あるじゃん?それはまぁ色々解釈できると思うけど、やっぱ一つにこれがあると思うよね。ようは本当に利他的にやっていることだったらさ、それに付随する自分へのベネフィットなんてのを求めないわけよね。多額の寄付をしたことで表彰されるっつーのもようは名誉欲みたいなのを満たすものになるじゃん?寄付に対して自分へのリターンがあるから、それは利他的じゃ無くなるってことなんだよね。まぁそうとは言い切れないところもあるかもしれないけどさ、でも恐らくボランティア精神っつーか慈善精神ってそういうもんだと思うんだよね。別に自分が代替可能なさ、ただ人を助けるギアであってもいいっていう発想だよね。


ギアであってもいいというよりかは進んでギアになることを望むというかね、まぁその行動の結果、感謝されたりさ、表彰されたりするのって別に悪い事じゃないけど、ようはボランティア精神のボランティア性っつーのを規定してるのは、そのギアになってもいいっていう精神性だよね。単純にその助けたいと思うコミュニティに人が足りなかったので、労働力として馳せ参じたみたいなね、これがまぁボランティアだよね。だからまぁ基本的に見返りゼロだよね。労働者は労働の対価としてのお金をもらうということでその人は労働者として規定されるわけだけど、ボランティアっつーのはこのある意味での資本家と労働者の関係ぐらいドライな構造の中にあえてそれをやりたいからという意志で飛び込むようなものだよね。それは対価の無い労働力としての自分ね。で、資本家と労働者の関係で言うと、例えばそれがコミュニティと労働者ということになるわけ。ただそのボランティア性というものを規定するのはただでやるということね。


こういうことから見るとまぁボランティアって相当狂ってる活動なんだよね。普通の精神性じゃ出来ないことだよ。誰がただで働こうと思う?って話じゃん?だから結局、ボランティア活動を規定するのは単純にその人がその特定のコミュニティなりなんなりに貢献したいっていうことだけじゃん?それすらも自己充足だと言われればまぁ話は終わっちゃうけどさ、でもまぁこれを目的論的に考えるとさ、例えば魂への配慮を一生続けるってのが哲学者的なあり方なんだとしたらさ、ボランティア的な生き方ってまぁコミュニティへの配慮を一生続けるってことだよね。まぁどちらも別に一生っていう条件付きじゃなくてもいいんだけど、例えば魂の配慮で言えばそれは無償だよね。対価として何かを受け取るというのが目的ではなく、魂への配慮そのものが目的じゃん?で、それに付随するものが認識であったり悟りであったり知識であったりするわけだけどさ、その付随するものでなにかしようって話ではないんだよね。その知識をひけらかして人からリスペクトしてもらおうとかって考えて頭良さそうに見える文章を書くとかさ、知識をひけらかすように喋るとか書くっつーのがまぁソフィスト的態度だよね。残念ながらこういう人間は世界的に凄まじく多い。自分の事を学者とか哲学者とかって勘違いしているやつらの大半がただのソフィストなんだよね。知者ではあるがまぁ別にそこまで尊敬できるものじゃないっつーかなんつーかさ、ソクラテスが言うにはまぁ知識を与えることでお金をもらうっつーのがソフィストっつー定義になってるけど、ようはまぁ別にこれに限ったことではなく、知識とかを利用して金儲けとかさ、何かをしようとするっつーのがまぁソフィスト的態度だよね。


ボランティアに話をスライドさせるとすげー分かりやすいのがさ、ボランティア活動をして人々から尊敬されるのが目的になってるっつーのがまぁつまりは偽善的態度じゃない?ソフィストと一緒なんだよね。だから。目的論的にそれ自体が目的と見せかけて実は付随する何かに乗っかろうだとか、それで利益を得ようとするっつーのがつまりは偽善でありソフィストなんだよね。プラトンの言うステイツマンはこの目的論が政治とか社会とか国家とかになるわけだ。あとはまぁ共通善だとね。政治をやることで自分が利益を得ようだとかさ、支配欲とか自己顕示欲を満たそうとするものではなくて、徹底的に共通善なりさ、政治的なものに利他的にコミットしまくるのがステイツマンなんだよね。つまりはステイツマンの目的は「善き社会を作る」ことであって、そいつが利益を得るということではないんだよね。だからステイツマン的なあり方を邪魔するものが何気にまぁベネフィットだったりするわけ。それをやることで自分に有利に働くということを一旦選んでしまうともうダメなんだよね。個人的な利害関係で判断するようになると組織全般ってのは退廃する。ボランティア然り。


そこで表彰されたり人からリスペクトを得たり無償でやっているのにも関わらず何かをもらってしまったりするとさ、それに満足する自分みたいなのが表れて、結局、ボランティアをやることによるカタルシスを得ることがボランティアそのものの目的になってしまうということになるんだよね。だからこそ表彰されたり人々からリスペクトされまくるというのは危険なわけ。利他的なことを目的論的に措定しているのにも関わらず、ダイナミズム自体が個人的な利害関係にすり替わってしまうというね、それを選択するか、それを選択したことによって得られる快楽を覚えてしまうというのはまぁ猿のオナニーと一緒だね。覚えちゃったらやめられない。まぁドラッグが危ないのもそこだよね。タバコとかもさ、一回吸っちゃうとニコチンレセプターみたいなのが出来ちゃってさ、脳がもうその快楽を覚えちゃうんだよね。で、ずーっと禁煙しててもさ、ニコチンレセプターって一生残るらしいから、例えば30年とか禁煙してたとにある拍子で吸い出したら止まらなくなっちゃってスモーカーに逆戻りみたいなね、これ自体はまぁレセプターということからいうとまぁある意味で自然なことなんだよね。そういう変なレセプターなり危ない習慣をつけないためにもまぁドラッグは禁止しようっつー意見はまぁある程度は説得力あるけど、まぁそこは俺はかなりリバタリアン的だからまぁ自己責任でやりたいやつはやればいいんじゃない?って思うんだけどね。


ソフィスト的態度もまぁこのニコチンレセプターと同じような感じで生まれる場合もあるね。ちょっと専門知識を出したら「すごーい!」とか言われて、んで専門知識をひけらかして「すごーい!」って言われる事の快楽を覚えちゃうとかさ、「俺って物知りなんだぜ!」っていう自己顕示欲を出す癖がついちゃうとかね、こういうのにハマったらもう終わりだよね。まぁ下手するとそういうペダンティックなやつに憧れて自分もソフィストになりたいとか思って学者を目指すっつーかソフィストとしての知識人を目指すみたいなやつも多いだろうね。「ああいう風に喋れるようになりたい」っつーのはつまりは目的論がそこじゃない?魂の配慮とか知識を増やすことってことじゃなくてさ、知識を増やして「凄い」って言われるようになるためってのが目的になるじゃん?まぁ俺に言わせればもうこういうのは問題外でアウトだね。こういうところからまぁ衒学的な態度とかさ、インテリの悪い癖みたいなのが生まれるわけでさ、「インテリ」って言葉にちょっと皮肉臭いニュアンスを感じるのもまぁ多くのインテリがそうだから、そういう負の部分も「インテリ」という言葉が背負っているということだね。


まぁこれもドラッグと一緒でまぁやりたいやつは勝手にやればいいんだよね。人から尊敬されるためのボランティア活動にしてもさ、単位のためのボランティア活動にしてもさ、カタルシスのためのボランティア活動にしてもさ、ソフィスト的な態度にしてもさ、別にやりたければやればいいのよ。まぁこういうのって全部快楽だからね。ドラッグの場合、社会的な実害があるから禁止されるけど、俺に言わせれば偽善的な態度とかソフィスト的な態度もドラッグと同等かもしくは場合によってはそれ以上に有害だったりするんだけどまぁ禁止されないよね。禁止されるものって分かりやすい実害とか物理的な有害さってのが目立つものばっかでさ、本質的に有害なものって目立つものではなかったりするんだよね。それが内在されていたり、常識の一遍を担ってたりもするわけでさ、まぁ俺のデモクラシー論で言うとまぁデモクラシーっつーのは有害だってもう結構長く言ってるっつーかまぁちょっと名物みたいになってるじゃん?まぁそういうことね。本当に有害なものって意外と社会では「良い」とされてたりすることであったりする場合もあるってことね。


だからまぁ善悪って主観でしか決められないんだけど、それをまぁ時代なりに規定していこうじゃないかっつーのがまぁ政治哲学であったり倫理学だったりするわけだよね。科学でははじき出せないものが価値判断なわけだから。まぁそれはともかくさ、自分で書いてて納得しちゃったんだけど、偽善と知的欺瞞とかってすげー似てるんだよね。構造が。知的欺瞞はすぐ分かるけど、俺の経験で言ってもやっぱり偽善は分かりづらいね。最初のほうにも書いたように行動だけ見てたら分からないからね。知的欺瞞は喋り方なり書いたものなりっつーアウトプットに分かりやすく出るからさ、判断がすぐにつくけど、偽善は分からないよね。それだけ見れば単に人助けだったり良いことだったりするわけでさ、それを偽善かそうではないか?というのを見分けるにはやっぱりその行為者そのものを知る事だよね。企業にしても行為者とまぁ一緒だからつまりはその企業のポリシーとかさ、どういう経営をやってるのか?とかやってきたのか?とかさ、その企業を知ることだよね。それによってその企業が称している「良い事」ってのがまぁ偽善かそうじゃないか?っつーのが分かってくるんじゃないかな。まぁ当たり前のことなんだけどね。


まぁでも最終的な判断はやっぱり判断する人に委ねられるよね。政府がやっているバラまきを再配分と定義するのかただのポピュリズムと定義するのかもさ、その判断する人の政治的見解とか知識とかに依存するじゃん?で、「あれはただのポピュリズムだ」って言ったところでまぁそれはその人の判断でしかないよね。スペシャリストは「富の再配分である」と言うかもしれないけど、んでもそのスペシャリストとやらを調べてみたら政府のお膝元っつーか御用学者みたいなのだったってなるとまぁその意見も怪しくなるじゃん?まぁクリティカルシンキングの基本みたいなもんだけどさ、でもまぁ特に善に関してはそれ自体が例えば日本で言う「仕事だから」みたいな魔法のワードになってるっつーかまぁ何にでも通用するものになっちゃうじゃん?とりあえず「仕事だから」って言えば許されるんでフリーターとかも周りとか親を真似して使うようになるじゃん?実際はただの賃労働というかパートタイムなのにえらそうに「仕事」とかって言うじゃない?善行も同じね。良い事だって見えることはそれ自体で凄まじい威力を持っているから、だからこそその威光みたいなのに目をくらまされちゃいけないんだよね。むしろその光の本質を見据えなきゃいけない。クリティカルシンキングが有用なのはこういったニッチというか、隠れたところだよね。一般的にクリティカルシンキングが必要だとされるようなところではない、むしろあまりその概念が適用されないようなものに実は一番必要だったりするわけ。


だからまぁあれだよね、メディアに対してクリティカルでいるとかってのはもうデフォルトでさ、あえて括弧付きの「クリティカルシンキング」ってのが必要になるのはその概念装置をわざわざ出してきてまで考える必要があることだよね。つまりはデフォルトでその装備がオンにされてないものにこそ、その本質的な必要性というか有用性があるということだね。


ってことで今日はこの辺で。


The Tao of Physics

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