ニヒリズムの奈落へ。その4。

mimisemi2009-09-26

ってことで続きっつーか最後ね。比較的短めだが。


その話をすれば哲学はないにしても政治学は安全パイではあるんだよね。元々知ってることもあるから割と有利だし、興味外のことでも政治に関わることなら大抵まぁ興味が湧くんで取り組めるかなって気はするよね。ただまぁありえない量の文章を読まされたり書かされたりするっていう意味で哲学も政治学も今の俺の英語力じゃ結構キツいかも?っていうのはあるよね。スラスラ英文書けてもつらいぐらいだろうから。英語力に関してはまぁ学部に入る前に磨いておこうっていうのはあったけど、正直、まだまだだよねっていうかあとはもう一つね、論文的な体裁で書くのが元々無理なのかな?とも思ったよね。


ウォール伝みたいな形式でフリーライティングで政治的なことを書けとか言われたらまぁ英語でもそれなりに書けるけど、日本語で書くにしても論文調でしかも主題が決まってる中で何かを書けって言われるのは拷問に近いものがあるっていうか、フリーライティング以外のライティングってアヴェレージの生徒並に俺は好きではないっつーかまぁ書き始めるとそうでもないんだけど学部レベルで通用するぐらいのものがちゃんとした文体で書けるのか?って言われると微妙なところはあるよね。いちいちインデックスっつーかなんつーの?引用とかさ、アウトラインとか書かなきゃいけないじゃん?ああいうのってフリーライターってフリーのライターって意味じゃなくて、勝手に自由気ままに書く人にしてみたらまぁ拷問に近いものがあるよね。で、そういう論文みたいな体裁で俺が学術的なものを書いたところで結果は目に見えてるんだよね。だって恐らくそういうのって既存のものの調査かさ、あとは日本の本とかにありがちの何かの引用とか概念の引っ張り合いで終わるようなものしか書けないと思うんだよね。


日本の本とかって最後のほうにちょっとだけ著者の意見とかが書いてあったりするけどさ、ああいう調査風のそれこそリサーチ的なものを政治学なり哲学でやれとか言われたらこれまた拷問に近いものがあるよね。俺がどう考えるか?ってベースで誰かの概念とかを使ったり引用するのはいいんだけど、誰かの調査なんて死んでも嫌だよね。で、まぁ学術的なもんって大体まぁ調査でしょ?誰も俺の哲学を聞きたいなんて思わないじゃん?だってI thinkとかて言っちゃいけないみたいな規定とかあったりするからね。確かリサーチペーパーだったと思うんだけど。で、リサーチってもう一回サーチするってことじゃん?Re-Searchじゃん?もう誰かがやってたり書かれてたりすることをいちいち書き起こすっつーかさ、持ってくるっていうか調べるっていうかさ、そうなるともう宿題だよね。純粋に学生の宿題っていうか夏休みの自由研究みたいなもんだよね。あ、自由研究ならまだいいのか。でも哲学にしろ政治哲学にしろ大抵はまぁ元々あるもののリサーチなわけでさ、大抵はもっと頭が良い文章が上手い人によってなされてたりするんでさ、俺が書くようなことなんて無いっつーのはあるし、多分日本の学者の大半がまぁそんな感じなんだろうなとは思うよね。


だから日本の政治学者とかの著書って海外とかで出版されたりしないじゃん?大抵が無知な日本人に最新の政治思想を紹介するとかさ、既存の概念の組み合わせとかさ、それこそ欧米の出版物が読める環境ならあえてチョイスする必要がないようなもんばっかり書くじゃない?availabilityっていう意味で日本語で読めるって意味でのみ価値があるものが多くてさ、それは前に書いたように欧米系の出版物が読めるなら必要ないのが多いし、逆を言えばそれでしか読めなくて価値があるようなものだったら英語とかに翻訳されて海外で出版されてるはずなんだよね。イマイチ日本の学者がダメなのってそこだよね。最新の研究にせよ思想にせよさ、世界で出版されて翻訳されまくるような本とかを書かないっつーか書けないじゃん?で、なんとなくまぁ俺もそんな感じになりそうっていうかなれて御の字ぐらいっていうのが結構見えたっつーのはあるよね。結局、俺の政治思想にしても哲学にしても説明しやすくすれば既存の哲学の組み合わせで説明するのが一番だし、既存の哲学で説明しきれない俺の独自の哲学があるかというとそうではないしさ、それこそそういう哲学って昔の京都学派ぐらいのものじゃないと無いじゃん?ああいうのはまぁ海外でも読まれるよね。


でもあのぐらいにならないとっていうかあのぐらいに独自の哲学を形成しないと価値のあるものを書けないんだとしたらまぁ俺は今は無理だし、一生無理だとは言わないけどまぁ当分無理だろうなとは思うよね。なんつーか日本の出版業界で哲学紹介とか哲学輸入なんてするつもりは全く無いし、そんなの絶対やりたくないじゃん?でも哲学とか政治哲学とかの思想系でやるならもうそんぐらいしかないとかになったらまぁ惨めじゃんね?そのぐらいしか出版物なり論文を出せるきっかけが無いとかになるともう最悪だよね。輸入しかできないって日本の学者とかと同じになっちゃう。そういう意味でまぁさ、ニッチなところでマイナーな数学理論とかを研究しつつ、面倒で誰もやらなかった問題とか証明とかに取り組みつつ哲学とか政治学もやるっていうスタンスのほうが現実的なんじゃないか?って気はしたよね。数学理論とかを研究しつつって簡単に書くけどさ、まぁそんなに簡単じゃないのは分かるけど、逆にさ、自由に見える政治哲学とか哲学ってもうやらされ尽くしててある意味で俺が何か新しいことを書いたつもりになってももう誰かが言ってたりするじゃん?あとは似てたりね。そういう意味でもう監獄なんだよね。思考は自由だけどやらされ尽くしてるって意味で自由度は相当低いし、政治学なんてPCが要求されるものならesoteric writingでもしない限りダメじゃん?あとはもうやっぱ考えただけで恐ろしいよね。「誰々の哲学について」みたいな「ついて系」しか書けないやつみたいになるのは本当に恐ろしいよね。


一番俺が恐れてる哲学学者になっちゃうじゃん?だったらアマチュアで書きたいこと書きまくってるインディーズ哲学者のままであったほうが自由度も高いし思考の自由も多い。まぁそういう意味で思想系も音楽と似てるのかな?食いたければ何かを脱構築して日本向けのアレンジにして出すとか、流行の出版物の形態に合わせたようなものを出すか、あとはスタイルの輸入をして日本というコンテキスト上でそれをシミュレートしつつ走らせるかっていうさ、まぁ今までっつーかまぁ今の日本の学者とかがやってるようなことと同じようなことしかできなさそうだもんね。自分で勝手にやりたかったらやればいいけど誰も読まないってまぁ俺の音楽と一緒だよね。かといって俺の音楽も俺の音楽というほど独特のものでもなくて、ノイズなりアンビエントなり音響なりっていう言葉を使えば説明がつきそうなもんばっかって意味でそこまで固有性は無いし独自のものでもないんだよね。俺は独自のつもりでやってるんだけど、後の発見で誰かとかぶってたことに気がつくとかさ、自分で見つけた手法だとかって思ってたらもうやらされつくされてたとかさ、そんなのばっかじゃん?それはまぁこういう話になるといつも出てくる椹木野衣のシミュレーショニズムじゃないけどさ、壁にぶつかってポップアートとかシミュレーション系サンプリング系アートに走ったやつらっつーのはさ、まぁある意味でなんつーかサイケアウツの大橋アキラと同じようなもんだよね。


大橋アキラは最初からそういうのに自覚的でその上で自分のシミュレーション音楽を構築しているという意味で椹木野衣の本に出てくる高次元のポップアーティストとかサンプリングアーティストとかと同じ高いレベルで世界レベルなんだけど、俺ってまぁそうでもないよねっていう。だからといって別に作るのをやめるつもりはないけどさ、俺の場合、悲劇なのが自分でやったと思ってたら時代上で言えばただのシミュレーションになっちゃうってことなんだよね。まぁ音の斬新さとか構成の革新性とかを求めたりはしてないんだけど、たまたま作ってる中で発見した事とかがもうやらされつくしてたりするとやっぱ萎えるよね。作ってると萎えることだらけで、だから作ってるともう発想がリダクショニズムになっちゃう。むしろ減らしていくことが音作りを考えていこうみたいになっちゃうんだよね。


その挙げ句の果てがまぁ俺の中の俺の後期の作品にあたるんだけど、別に真似されてもいいから書くけどさ、まぁ文字で書けるぐらいシンプルなもんなんだけど、小津の映画のフィルムのノイズとノイズに乗ってる台詞の断片と雨の音がただ鳴ってるだけってやつなんだけど、まぁ俺的には最高だし、これはある全体のものを作っている中でそれだけで独立して聞けるぐらい完成された部分だったんで、まぁこれだけ抽出して聞ける感じなんだけど、まぁこんな感じになるよね。そこは前に書いたオヴァルの話に繋がるんだけどさ、もうベタベタの表現主義とか作家主義にこだわるのがバカバカしくなったっていうね、それもまぁある意味で色々と作ったり考えてきたから行き着いた結論なんであってさ、まぁある意味で進歩なんだけど、哲学とか思想でもまぁ同じようなことを感じてしまったってことだね。


結局、なんつーか俺の音楽と変わらないじゃん!っていうことだよね、勝手にやろうと思うならまぁ職業としては成り立たないよっていうね、職業としてやるならそれこそ純粋な優秀なリサーチャーとしてリサーチするしかないみたいなね、つまりは哲学学者になるしかないってことなんだけど、まぁそれは俺は絶対死んでも嫌なことだからやりたくないんでね、だから政治学にしても哲学にしても音楽並に好き過ぎるからこそやめたほうがいいかなって感じがするよね。元々まぁ頑張ったところで食えるかどうか分からない微妙な学問なわけでさ、だったらまぁ潰しが効く理系のほうがまだプラクティカルじゃないかと。数学理論の研究がやれなくても数学スキルは残るからまぁ少なくとも政治思想とか哲学とかよりかはリアル社会で役に立つことは多少あるだろうな?っていうまぁ潰しだよね。まさしく。そういう打算的な面も大いにあるんだよね。数学は。単純に面白さを発見したんでやりたい!っていうスポンテニアスな感じよりかは現実的な観点が多いよね。それでも哲学は諦めないっつーかやり続けるぞ!っつー態度がまぁゲーデルとかさ、チャイティンみたいな、数学哲学みたいなやつをやりたいってことね。


あとはprobabilityによるautonomyとかさ、まぁラプラスが数と政治学みたいな概念で何かやってたみたいだけど、まぁ数と政治が繋がらないこともないしさ、数と哲学は繋がりまくりっつーか数学やるなら哲学が無いとダメなわけで、まぁそういう意味でまぁ下準備は整ってる感じではあるよね。ただまぁ心配なのが基礎の段階で興味なさ過ぎるものばっかりやらなきゃいけないとかさ、やりたいことにたどり着くまでに嫌になっちゃうとかさ、やりたいと思ってたことがあまりに高度過ぎて俺の脳じゃどうにもならないみたいなこととかね、まぁ心配というか不安は尽きないよね。ただやりたいじゃなくて目標があるからこそ達成できないのが不安になっちゃうっつーのはあるね。そういう意味だとまぁ地頭への不安ってのはやっぱあるのかな?とは思ったね。あとはまぁ結局、色々とやった先でまぁ哲学とか政治学でブチ当たったみたいな、結局はまぁ残されてる道は輸入か紹介か純粋なリサーチしかないってことになったらまぁある意味で悲劇ではあるけどこうなったらもう思索的なことで自分が求めてるようなものはもうできないってことがまぁある意味数学をやることで数学だけに証明されるってことになるのかな?


学問の限界と自分の脳の限界みたいなさ、そんなのを感じる時はさぞかしまぁ不幸な時に違いないだろうね。まぁどの道、どっかの研究所とかで研究員になりたいなら博士号が最低でも必要だからさ、そういう意味だとこっちの大学って大学での専攻とか関係無しにいきなり大学院で違う学科とかやれたりするから、まぁundergraduateで専攻した学科が完全に将来を決めるとか、そこまで大げさに考えなくてもいいかもね。まぁ専攻は変えれるし、副科なんていう制度もあるし、そういう意味だとまぁフレキシブルだからとりあえずやりたいことだけやってればいいのかな??って気はするよね。で、その結果でまたその先を考えるみたいな。ただやっぱ本格的に学問をやるにあたっては心配になるのは自分の地頭だよね。undergraduateぐらいのレベルなら大丈夫だろうけど、大学院とかになるとさ、それこそその分野の秀才みたいなのが集まってくるわけじゃん?それこそそれが得意なやつばっかが集まってくるわけでさ、そんな中で俺がやってけるの?っつーのはあるよね。恐らく大学院レベルになるとさすがになんつーか「普通の人は馬鹿が多い」みたいなステイトメントはワークしないとは思うんだよね。そういう人は来ない場所なんだから。・・・・ぐらいに思ってたほうがいいね。で、実際行ってみたらそうでもなかったっていうコミカレに感じてたような感じがundergraduateでもその上でも永遠と続けばまぁ俺の天下だね。だからこそまぁ戦略的に得意な分野で特化したもので勝負しないといけないんだよね。


なんつーかまぁまとめるとあれだわ、冒険だわな。政治学とか哲学は割と知ってることが多くてあとは自分でできるから知らない分野を開拓したいってことだよね。既存の知識が多い分野のコースを取れば有利なのかもしれないけど、なんつーかそういう道はどの道、学歴云々関係無しに通りたくないって感じね。あまりにつまらなすぎるので。


ってことでした。