変身。

mimisemi2009-10-16

よーこへの返信を書いてたら長くなりすぎたんで1エントリーにします。返信からどんどん独白になっていってるって感じだよね。本当に。そう。返信からどんどん独白になっていって、最終的にウォール伝になっちゃってるっつーその変貌をご覧いただきたいって感じだね。


いや、久しぶり。


なんか結局やっぱ予習とか復習が必要なのかーって思うとゲンナリしたよね。まぁコンセプトを理解すること自体に全然時間は費やしてないから、まぁ概念を自家薬籠中のものにするための練習問題とか予習とかって感じでまぁやればいいのかな?とかは思ったけどね、そもそも練習問題みたいなのに全然価値が見いだせない俺としては結構致命的だよね。大体分かったからはい次みたいなやり方を学校が許さないんで、まぁしょうがないんだけどね。


どこまで行っても俺は結局インディーズだよね。メジャーレーベルでやれる感じが全然しない。哲学と政治学はインディーズでやっていくことに決めたのに数学すらもインディーズになりそうで怖いね。んじゃあ俺のプロフェッションは?って考えた時に、俺自体が社会不適応過ぎるんで、社会に適応した形でのプロフェッションを持つこと自体が不可能みたいなね、そんなのが見えてきたり見えてこなかったり。


まぁいいや。いや、答案用紙だけどさ、いや、分かるよ。そのダダとかフルクサスな感じ。さすがはまぁよーこだなって気がするけど、なんつーかこれをアート作品的に見ちゃうっつーのがすでに凄いよね。俺が言いたいのはそれなんだよ。よーこは芸術全般とかビジュアル全般でそういうのがあるけど、俺はまぁ音楽と哲学とか思想系でそれがあると信じているけどっつーかそれってのはまぁ言い表し辛い感覚っつーかさ、まぁある種の才能なんだけどさ、今はあれなんだよね、数学は果たしてそういう才能が必要な学問なのか?それとも血の滲むような努力の積み重ねによるものなのか?っていうね、そういうのをすげーディグってる感じね。


だから具体的な数学理論がどうのってよりかは概念から入ってるっつーかあれだね、ウォール伝にも書いたけど「数学とは?」みたいな本ばっかり読んでるね。最近は。日本のもアメリカのも両方ね。で、天才肌みたいな人達は大体が数学は抽象芸術であるとかね、詩であるとかね、そういうことを言うんだけど、普通の研究者タイプはそういう言い方は天才だけに許される物言いなんであって、実際の数学とは細かいことの積み重ねであるみたいな、まぁシュトレーバー的な感じのことを言ってるんだよね。


そもそも美学とか美的感覚っつーのは主観的であるから、数学の芸術性の客観性など規定できないって意味でまぁよーこがこの答案用紙を芸術作品として見たことに表れているようにさ、客観ではただの答案用紙なんだけど、感覚が違う人が見れば構造とかさ、形自体に美を見出して綺麗だなとかって思うわけじゃん?


それなんだよねー。結局は。思想とか哲学では音楽と同じぐらいのまぁ感性があると俺は自負しているけどね、果たして数学でそれがあるのか?っていうさ、それがすげー心配なんだよね。


あ、話が逸れてきた。まぁいいや。可愛いねーって言ってくれると嬉しいけど、まぁ人によってはその無邪気さがすげームカつくらしくて嫌われる人にはすげー嫌われるんだよね。Leave me aloneなんだが、なんか文句を言いたい人が多いらしくて困ったもんだ。どこに行っても敵だらけって感じ。ニューヨークなら変人が多くて変人にも寛大だろう!とかって思ってたのがいかに幻想だったかってのが分かったね。こっちでも孤立してるし、この先もどこにもフィットしないだろうなっつー孤立が目に見えるようで、まぁしょうがないなーって感じだけどね。


前にも書いたけどニューヨークの風変わりなものに関する寛大さってあくまでアメリカ式の尺度なのね。パンクスとかヒッピーとかオカマとか、所謂、アメリカ的な変人属性に属しているものはもう存在するものとしてようは在りものとして存在を認知するっつーかまぁ受け入れるっつーかまぁ当たり前のものとして珍しがらない感じがあるんだけど、それ以外のものには全然寛大じゃないのね。そういうところは全然日本と変わらんね。


日本でも外に出ると目立つっつーかさ、よく人からジロジロ見られるけど、こっちでも基本的に一緒だよね。何がそんなに珍しいのかさ、まぁ俺がタイプ別に分けられる感じの属性じゃないのは分かるけどさ、あーもういいや。なんか。基本的にまぁ他に期待しちゃいけないってことだね。ニューヨークだから大丈夫だろうなんてことは全然無いんだってことね。


なんかブログみたいな勢いになってきたんでこの辺でやめるね。多分この変人類型モデルはどこでも通用すると思うんだよ。パリでもパリ変人属性ってのがあって、それ以外は珍しいんで基本的に人々の反応って同じなんだよね。「なにこいつ?」っていう属性で振り分けられないことに対する情報処理エラーから来る不快感を露にする感じね。


犯すと言えば相変わらずブロンド白人女に対するコンプレックスは増長する一方だよ。あいつらはアジア人なんて人間とも思ってないだろうって勝手に妄想することからくるエロスの成立ね。あ、もういいや。やめるわ。いや、トランスジェンダーに関してはどんどん言っちゃっていいと思うんだよね。


俺の精神病がそうだけど、結局アメリカでもそういうのは言いたくないことみたいなさ、後ろめたさみたいなのがあるんだけどさ、そういうのがあるから偏見があり続けるわけでさ、そういうのはもう当たり前のものとしてありますよーっていう認識が必要なんだよね。で、それの場合、アメリカっつーか特にニューヨークとかサンフランシスコみたいな場所だとまぁ同性愛に対する認知が割とあるっつーかあとはまぁオカマだからとかって理由で差別しちゃいけないみたいなsocial normみたいなのがあるわけだけど、それってまぁ同性愛の人達が勝ち取ってきたものだからね。


日本ではまだまだな気がするけど、まぁメンヘラー系も同じことが言えると思うんだよね。私、メンヘラーです!ってカミングアウトできるような世の中のほうが健全だよ。何かを隠して生きるってことはゲイにしてもメンヘラーにしてもまぁ辛いことだしさ、隠す背景には言っても理解してもらえないっていうことがあるじゃん?だったらみんなが理解すりゃいいんだよね。それはそういうのでありますよっていう認知が必要。で、そういうのを排除しないっていうことが必要なわけでさ、隠し続けるとまぁそれはダメだと思うんだよね。


だからまぁ俺は色んなところで試験的にメンヘラーカミングアウトみたいなのをしたりしてリアクションを伺ってるんだけどさ、まだまだだなぁーって感じだよね。特に今、まぁ前にも書いたようにすげー頭に来るのがさ、Abnormal Psychologyっつークラスでさ、ホント、なんつーか先生がメンヘラーを完全に異常者って捉えてるっつーか治すことが必要な人達っていう感じなんだよね。患者さんって感じ?いや、患者さんっつーよりかはその人の特性もあるでしょーが!っていうさ、ポスト・サイコロジーみたいな観点って絶対必要じゃん?メンタルディスオーダーってのはまぁ環境的なものからくるものもあるけど、元々のその人の特性であったりもするわけだからさ、無理矢理電流流して治すとかさ、頑張ってそれを矯正させるとかってどうかな?って思うんだよね。それよりかはそういう人達も矯正無しに社会に適応できるようなさ、社会的なアクセプタンスが必要だと思うんだよね。


サイコロジー系ってまぁモノにもよるけど、なんつーか古典的なのってマジで最悪だよね。完全にビョーキとして見ているのが本当に腹立たしいっつーかもうあんなに頭にくるとは思わなかったね。精神科医とかがあんなんだからまぁ基本的にダメなんだろうな。メンヘル系ビジネスは儲かる一方だしさ、まぁ複合的ビジネスモデルだね。


で、まぁフロイディアンもあれは一種のフロイトビジネスだなっていうかさ、フロイトをネタにして金儲けしたり商売したりアカデミアの場所作りをしてるって感じでってもうさすがにやめるわ。書き出すとマジで止まらないんだよね。あ、最後に一個だけ。政府とかもそうだけど、俺にとって壊さなきゃいけないっつーか改革が必要なものとしてサイコロジー全般があるね。あのビジネスモデルは本当にいただけないな。精神病患者を異常者として隔離してなんつーか後ろめたいような存在として扱うって一昔前のハンセン病患者隔離とかと同じようなもんだからね。


先生は良い先生なのに言ってることが許せないことだらけで本当にムカつくって俺も困ったやつだよね。だから社会に適応できないんだろうな。ただまぁ俺が言ってることは正論だから、俺が社会不適応だとは思わないんだけどね。社会が間違ってることだらけなんで、それを受け入れられないっつって怒ってると社会不適応者のレッテルを貼られるみたいなさ、あとなんか学校の先生で多いんだけど、ヒッピー崩れみたいな人達を見てても本当に痛々しいよね。反抗とか抵抗とかフラワーパワーみたいなイデオロギーを捨てきれられずにいるんだけど、でも社会と折り合いをつけなきゃいけないっつーんでまぁ妥協して先生になったり仕事してたりする人達ね。可哀想なのはまぁそういうヒッピー崩れの子供たちだね。


あーもうダメだ。永遠に続きそうだからもうやめるね。あー電波だなー病んでるねーってことじゃなくて、ずーっと異常なペースで正論言いまくるって見た目は変でも本質的に変じゃないよね?所謂、Truthを探す感じってまぁこういう態度でさ、だからまぁ哲学というと大げさだけど、ドクサをknowledgeで置き換えるって作業はまぁ反社会的なんだよね。いやーそれににしてもまぁサイコロジーは本当に酷いね。本当に酷い。


患者向けのさ、鬱と付き合っていくとかさ、ADDとかの本にしてもそうだけど、こういう感じのセルフヘルプ系の本はかなり俺が理想とするような立場にいる人達が多いんだよね。それは特徴で良いこともいっぱいありますっていうさ、異常者のレッテルを貼らないやり方ね。で、俺が思うに古典的なサイコロジーが精神病患者を異常者っつーレッテル貼りをしてきたようなアレもあるわけでさ、こういうのって無くならないとダメだよね。特に今のサイコロジーの先生みたいなのは絶対いなくならなきゃいけない存在だね。アカデミアでああいうのが幅を利かせてると思うともう本当に怖くなるね。老害ってのはいたるところに存在するね。


はい。もうやめます。投稿ボタンを押しちゃえばいいんだな。そうすれば終わるから。まぁとにかくあれだ、後ろめたいことなんて何も無いってことだよね。変態趣味とかはともかくとして、同性愛とかメンヘラーとかは隠す必要がないわけでさ、そういうのを隠さなきゃいけないっていう前提になってる社会がおかしいんであって。


はい。もうやめます。なんだか色々考えるとやはり不平不満だらけだね。全部正論だと思うんだけど、こういうのを言い過ぎると「あなたにとっては全てが敵なんでしょ?」みたいなさ、俺が中二病にかかり続けているみたいな言い方をされるっつーかさ、そういうやつだって判断されるのがまたキツいよねー。


こないだもサイコロジーのクラスで質問したらさ、俺のまぁ英語が悪かったんだろうけど、完全に先生が俺をアホ扱いしてるっつーかさ、いやね、質問の内容としてはね、フォビアってのがあるでしょ?恐怖症ね。で、高所恐怖症みたいなのとさ、社会恐怖みたいなのを恐怖症の一つとして定義してるっておかしくない?ってツッコんだんだよね。属性が違うのになんで両方フォビアって言い方をするんだ?って聞いたら俺の目の前に来て諭すかのようにさ、英語が分からない子に英語の意味を説明するかのようにさ、「これはジェネラルでこっちは具体的な恐怖症のことなのよ」なんて言われたんだけどさ、あれなんだよね、パニック発作によって引き起こされているような社会恐怖とかと社会恐怖症みたいなのをどう区別するんですか?みたいなさ、いや、意図的にやってるわけじゃないんだけど、なんつーか先生が答えられない質問ばっかするのね。俺。


で、先生によっては「これは凄くソフィスティケートされた質問だ」なんて評価してくれる先生もいれば、言葉を濁して適当な言葉で返して押し殺すみたいな先生もいるっつーかこういうやつが大半でもううんざりしてるよね。自分の無知を出すのが怖いんで何かで覆い隠そうとするとかさ、フロイトの理論持ってきて誤摩化すとかさ、こういうのって知的欺瞞じゃん?こんな態度で何年もアカデミアとかにいてさ、んで精神分析とかいって患者から金とってやってるとかって考えられないよね。あまりに人間ができてなさ過ぎるやつらが多過ぎるよね。本当に。別にアメリカだからって凄いとかってマジでないね。まぁ日本はアメリカ以下のレベルの低さを誇ってるからまぁどうしようもないんだけど、んでもアメリカのアベレージは人々の教師も酷いね。本当に。もうアホ過ぎて話にならん。もううんざりだ!!!!みたいな感じになってこの世からいなくなりたいことが本当によくあるね。


アベレージのレベルは低いから、だからこそそんな場にいたらフラストレーションが溜まるわけでさ、そういう場所から逃げなきゃいけないんだけど、どうやら上にもそういう人間は多いらしいって前の話のリピートになるけど、もうバカに会うのはうんざりなんだよね。人なら許せるけど教師はマジで許せない。マジでぶっ殺したくなるもん。良い先生なんだけどね、本当にね、あれなんだ、俺ってイデオロギーでもそうでしょ?良い人でもイデオロギーっつーか政治信条がおかしいとその人の人格とかに関わらずそいつをぶっ殺したくなるんだよね。「何を言ってるんだこいつは!」っつってすんげー苛立たしくなる。だからこそまぁアメリカでは政治と宗教の話がタブーとされているみたいな風説が出回るんだろうな。いや、それは言えてるよ。ある意味。人間関係をこういうので壊しかねないからね。学問の話をしなければ良い友達なんだけど、学問の話をしだすと意見の違いですげー喧嘩になるみたいなさ、でもそれが建設的な喧嘩ならいいんだよね。それこそ弁証法的な喧嘩ならいい。でも俺が感じてる怒りの大半は酷いドクサに対する怒りだよね。こんなドクサ塗れの人間が教師をやっていて、んでドクサをさらに広めようとしているってのがマジで許せないっつーかもうこれは犯罪だと思うのね。


で、たかが知れてるレベルの生徒なら先生の言うことを正しいことだと思って信じちゃうっつーか頑張って勉強しちゃうじゃん?これがそもそもの虚偽意識の始まりなんだけどさ、もうダメだね。ダメな人間が多いとドクサが多くなるっつーか広まるのはもう必然的だよね。だからといって学問とか大学ってもんが一部の知的エリートにだけ開かれているというのもまぁクローズド過ぎて良くないっつーかさ、ただでも低レベルでやるとドクサの広がりが生まれて余計バカが増えるから下手に大学って低いレベルで開いてなくて良いんじゃないか?って真剣に思ったよね。完全なエリート主義だけどさ、やっぱ学問ってある程度の人達が教えて学ばないと成立しないよ。そうしないともう劣化が起こるよね。ダメ教師のダメ解釈がダメ生徒に伝わってんでそういうドクサが永遠と広がり続けるのね。でも俺がダメって書いてる先生とか生徒は社会基準で言えば良い先生だったり生徒だったりするわけ。


でもそんなの関係無いんだよね。グレードポリシーとかがフェアじゃないっつってムカつくような先生でも逆にすげーラディカルなサイコロジーの授業やってたりさ、まともっつーか既成の概念とかにハマりきらない感じで授業をやる先生とかさ、これって逆に人間的に偏屈で全然リスペクトできない人でも教師としては一級だよね。ようは講義で言えば先生の人格なんてどうでもいいわけで重要なのは内容だよね。すげー誰からも好かれるような先生がドクサのプッシャーしてたんじゃそれはダメなんだよ。やっぱり。いくら良い人でもそんな人は先生やっちゃいけないわけだよ。


もうフロイトの話聞くの嫌だな。アレルギーになりそうだ。あの古典的サイコロジーの態度とさ、エディプスとかを真面目に語る感じっつーの?私はフロイディアンだからとか言いつつフロイトセオリーを敷衍したりしつつ理論を展開してるのを見るとその場で撃ち殺したくなるね。Enough is イナぁぁぁぁーフ!!っつって頭をぶち抜きたくなる。問題は真面目に聞いてる生徒が多いってことだよね。真剣に聞いててさ、ノートとかバリバリ取っててさ、んでばっかばかしーとか思いつつ眠気覚ましのエナジードリンクみたいなのを飲もうと思って缶を空けたらプシュー!って音がするでしょ?それで「授業中になんなの!」みたいな感じで見てくるやつがいてさ、いや、分かるよ。これは俺が悪い。俺がどんだけバカバカしい授業だと思ってても、真面目に授業を受けててノートを取ってるやつの邪魔を俺はできないよね。重要じゃないと思っているからこそ気が緩んでいて適当な気持ちで聞いてるからまぁ缶を開けるのとかも適当な映画を見てる時みたいな感じで開けちゃうんだろうっていうさ、仮に小室直樹とか丸山真男みたいな人が授業やってたらまぁ姿勢もしっかりとして、ソーダなんて授業中に開けないだろうね。


まぁ結局、これが俺の先生に対するディスリスペクトであり、他の生徒の授業の邪魔をしたってことになるじゃん?それはまぁそうだよね。でも授業はクソだよ?明らかにおかしいっつーかバカみたいなことを教えてる授業でさ、邪魔もクソも無いじゃん?茶番を見ながらせんべい食べてたりコーラ飲んでたっていいじゃんって話だよね。ここがまぁ他との違いなんだよね。これはよく親にも諭されるんだけど、俺はそう思ってても周りがそう思ってなければそれは俺が悪いっつーかさ、俺が違うってことでまぁ周りに最低でもその場では合わせないといけないでしょみたいなことを言われるんだけどさ、無理だよね。まぁ意図的な邪魔はしないけどさ、真面目にノート取って講義聞くなんて不可能だよね。


前に書いたのがね、こういうのが哲学とか政治学のクラスでは起こりうるだろうってことで懸念はかなり正しいんだよね。で、数学は一切そういうのないじゃん?定理は定理であってさ、事実は事実じゃん?ドクサが一切成立しない世界としての数学ってのにもまぁ俺は興味を持ってるんだよね。バカもいるだろうけど、バカさ加減が数学では出ないっつーかさ、バカからでも学べるのが数学じゃん?そこに事実しか無いからね。そこを偏屈マルキストとかレイシストの親父の政治学講義とかさ、解釈が偏ってる偏屈哲学爺みたいなやつの講義を聞くとかも苦痛じゃん?で、いつものようにイライラして「それはおかしいです」みたいなことを直接じゃなくてもまぁ間接的に言おうものなら顔真っ赤にして怒るじゃん?もしくはそれは今の授業とは関係無いんでそんな質問はしないでくれっつって封殺するんだよね。そんなのばっかだよ。本当に嫌だな。でも数学はさ、例えば集合論集合論でしかないじゃん?解釈とかの介在の余地がないっつーかさ、その人のイデオロギーとかが表れるのは高度なレベルなんであって基礎レベルとか理論のレベルだとそういうのがないじゃん?だからいいのよね。


でも俺が何の結果も出さずに不平不満ばっか言ってると文句をばっか言う問題児みたいな扱いを受けるっつーかさ、そういう風に見るじゃん?実際はそういうレベルで反抗してるわけじゃないんだけどさ、そういう風なレッテル貼られるじゃん?で、また鬱になるんだよね。ようはもう俺の鬱の要素って外的要素ばっかね。すげーアホなシステムとかバカとやっていかなきゃいけないってときに凄まじいストレスが発生するんだよね。まぁでもあれだけどね、スピーチとかフランス語の先生みたいなさ、あ、俺が前に取ったやつね、まぁもう先生とか以前の問題ってレベルの先生は今セメスターにはいないんで、まぁ良心的に見るしかないよね。サイコロジーの先生もボロクソ書いたけど良い先生だしね、まぁ良いおばあちゃんだしさ、まぁ俺の怒りはまぁあるけど、まぁそれは別物としてまぁ流すしかないよね。それはなんつーかその先生とかっていう個体に怒りを向けるのではなくて、その事柄に怒りを向けるんだよね。罪を憎んで人を憎まずの構造と一緒ね。このおばあちゃんのドクサが悪いんであって、このおばあちゃんが悪いわけじゃない。先生全般そう捉えないとまぁやってけないよね。もう衝突しか無くなるよね。


なんかすげー怒りがあるね。やっぱ。っつーかよーこへの返信だったんだけどまぁ止まらなくなったんでまぁ書き続けようと思ったらまぁいつものエントリーみたいになったんでってことで今日はこの辺で。


PS


あれだね、恐らく缶を開けるにしても遅刻にしても基本的に対したことやってねぇーじゃん!っつー俺の態度の表れでもあるんだよね。すげーリスペクトしてる先生のクラスには恐らく遅刻しないだろうからね。俺的には授業がしょーもないんだからいいじゃんって話だけどさ、まぁそこでまぁ俺のグレードとか下がっちゃうとまぁアレだからまぁ遅刻は良くないにしても、基本的にそれって先生の力不足じゃん?どうでもいい授業とかって思わせちゃってる先生の力不足だよね。こんなのが永遠とこの先も続いていくのがすげー嫌だよね。で、そういうものの回避としての数学っつーのもまぁアリだなってまぁさっきも書いたけど、進むのが遅いのにはまぁ我慢できるよね。それは全然オッケーだよね。でも変な哲学解釈とか精神分析とか政治学の講義は絶対聞けないよね。もうそりゃイライラするだけだからね。