De Mimisemi’s Law

mimisemi2009-10-20

グループセオリーの一環としてシンメトリーっつーのを今日やったんだけど、周知の事実かもしれないけどまぁ勝手に俺の計算法っつーかさ、まぁあるものにしても自分が知らないものを編み出すって面白いじゃん?後で調べてみると常識としてあるようなものでもそれを知らないときに自分で思いつくっつーのがまぁ面白いっつーかまぁ今日はそんなことがあったんで書くね。


三角形があって、んで一番上が1で右が2で3が左だったとするじゃん?三角形の角ね。で、それをRotateさせると1が3になって2が1になって3が2になるでしょ?ようは時計回りってことね。あとMってのがあってまぁミラーってことなんだろうけど、まぁ解説はいいか。これに関しては別に何も言うことがないので。で、まぁ単純なことなんだけどさ、R2の時にね、ようは二回三角形を回すってときに1は2になって2は3になってんで3が1になるでしょ?頭の中で回すのもいいんだけど、オペレーションが色々あると面倒でしょ?で、思いついたのがさっつーか数字で見れば明らかなんだけどね、(1,2,3)っつー三角形の角があるセットの中でモジュラー4のゼロ無いバージョンでローテーションの数を引けば答えが出るってことね。モジュラーってのは4だった場合、(0,1,2,3)の中で4は0に戻るんだよね。だからモジュラー4の中では5は1だし6は2なのね。まぁこれをcongruenceっつーんだけど、回すやつではね、(1,2,3)のモジュラー4を使う感じなのね。だから4は1で5は2とcongruentということなんだけど、これを三角形の回転に適応するとね、R2っつーのがまぁ二回回すってことで1から2を引けば(1,2,3)の俺式モジュラーシステムの中だと答えは2じゃん?で、実際回してみると二回分回せば1だったところは2になるのね。他も全部同じ。3はR2の2の数をそのまま引けばいいんで1で2-2=1なんで2は1になると。


たいしたことないかもしれないけどまぁ自分で発見すると嬉しいもんだよね。これを勝手にDe Mimisemi's Lawって名付けようと思うんだけどっつーかまぁ名付けるほどのもんでもないんだけど、まぁあれね、時計回りと反対にしたい場合は足せばいいのね。R1だったら1=2,2=3,3=1ってことね。


数学はなんつーか家に帰っても教科書で内容をチェックしたくなるっつーさ、趣味性と学業っつー実用性が両立してるのがいいよね。で、The Art of Mathematicsって本にも書いてあったんだけどなんつーかさ、いや、俺が前に書いたことと同じようなことが書いてあったんだけど、例えば政治学だったら保守系政治学の先生が政治学教えたら保守政治理論のindoctrinationになるじゃん?無知な人はそういうもんなんだって思っちゃってさ、例えば移民排除とかマジで考えだすっつーかさ、特に大学でそういうのやるとマズいじゃん?でも今のサイコロジーでも同じようにさ、Abnormal Psychologyっつってもフロイト派の人が教えればフロイト派の意見が介在するじゃん?歯は暴力の象徴だとかなんだとか。


で、数学って穢れようが無いんだよね。穢れた人間が数学教えてもそれ自体は穢れないっつーのが凄い。モジュラー4で4=0みたいなのって事実でまぁ変わりようが無いじゃん?まぁ数学と思想みたいなものを比べるっつーのも変なんだけどね、いや、数は数だから逆にそれまでだけど、んでもまぁすんげー清いよね。アホが教えててもアホにならないのが凄い。サイコロジーとか哲学とか政治理論とかならアホが教えたらアホ理論になっちゃうじゃん?アホ解釈とかね。数学ではそれが無いんで凄いよね。このアホにならない加減も大学でやるにはアドバンテージだっつーのは前にも書いたよね。特に政治学とか哲学とかで既に何かのアイデアとかを持ってたらさ、明らかにおかしいことを言ってる先生の講義とか聞きたくなくなるじゃん?今のサイコロジーがまさしくそれだけど、このストレスって凄いんだよね。ましてや政治学とかでエッセイとか書かされるってことでさ、先生がリベラルだったらリベラルなこと書けば点が高くなるとかさ、そんなことがあったりしたらなんつーかすげー相対的でアホ臭いじゃん?でも数学って答えは答えだからね。教師と生徒の間に意見の相違が生まれないのが凄いね。まさしくファクトベースっつーかなんつーか。


いかに言葉を巧みに使うか?なんてことが要求されるのが文系だとしたらさ、まぁ文系とか理系っつー区分けはあんま好きじゃないんだけど、まぁあえて言えばさ、哲学とかって明らかに難しいよね。ガイジンには。まず英語をマスターしないと始まらないっつーのでまず結構敷居が高いよね。政治学もそうだけど。で、俺の英語ってまだ完璧じゃないんで、そういうのでもある意味不利だよね。言語的な障害ってのは本当に大きい。でも数学は概念理解しちゃえばそれまでだから強いよね。強いっつーかまぁ英語ってところでディスアドバンテージを被らなくていいみたいなね、まぁかといって別に英語を伸ばすのを諦めるつもりは無いんだけど、んでもまぁそういう心配がいらないのはまぁ気が楽と言えば楽だけど、んでもまぁ政治学にしても哲学にしてもまぁ元々知ってることが多いからそういう意味で有利ではあるけど、んでもまぁ英語って意味でフリっつーまぁその辺のなんつーかバランスはまだ分からないよね。数学の場合、既存の知識が無さ過ぎるんで1からって意味でまぁ結構ガチンコだなってところはあるけど、哲学か政治学ならまぁ全然ガチンコじゃないじゃん?


まぁこれについては前にも散々書いたからいいか。たださ、色々と調べてみるとさ、大学数学はそれまでの数学とは全く違うっつーのは結構言われてるよね。それまでが所謂、ただの算術っつーかさ、ただの情報処理で大学数学は抽象思考が要求されるんでできないやつはできないみたいなね、そういう意味だと俺がいきなり色々と飛ばして大学数学的なものに興味を惹かれたっつーのはまぁなんとなく分かるよね。情報処理には興味は無いけど抽象思考なら楽しくてしょうがないみたいなね。グループセオリーはGaloisが考えだしたっつーかまぁGaloisの研究がベースになってるらしいけど、面白いことにウィキで群論とかって検索してみるとさっぱり分からないんだけど英語でやるとすげー分かりやすいのはさ、これも結局、哲学とかと一緒で、日本語にするとわけがわからなくなるんだよね。素だの約数だの有限群だのさ、まぁ哲学で言うところの実存とか形而上学だとか止揚だとかみたいな聞き慣れない言葉みたいなもんだね。群論っては?って感じだけど英語ではグループセオリーだからね。群論っつーと大学っぽくてグループセオリーっつーと中学ぐらいでやりそうな敷居の言葉だよね。数学用語はマジで英語のほうが全然分かりやすいねっつーか日本語は何もかも難しくなりすぎる感じがあるよね。哲学においてはそれが本当に最悪な形で出るし、なぜか難しい言葉を使うことがステータスみたいなのがポストモダン哲学で流行っちゃったんで、そういう翻訳をするやつがただですら意味が分からない言葉ばかり使ってるポストモダン哲学を余計に難しくしてるとかさ、そういうのがあってまぁ最悪じゃん?なんかもうそれのやり合いっつーかさ、そういう言葉遣いに如何に慣れるか?が哲学みたいなところもあるじゃん?


でも数学ってまぁさっき清いって書いたけど、なんつーか知的欺瞞が通用しないのがいいよね。難解なレトリックとかを使ってたいしたこと無い理論をたいしたもののように見せるってことができないし必要ないのがいいね。だから意外と数学ってなんたらの定理とかいってさ、歴史的とか言われてるものでも理解しちゃうとたいしたことないのが多いんだよね。まぁ最初に発見したっつーのはやっぱ凄いけどね。そこが凄くて、んで定理自体はシンプルでスッキリしてたりするのが多いっつーかまぁ今の所の印象だとそういうのが多い気がするな。俺の勝手な難解な数学のイメージってすんげー長い計算しなきゃいけないみたいなさ、ごちゃごちゃしてるイメージがあったけど、数学者の本とか読んでるとシンプルで美しいのが最高だって言ってる人が古今東西多いんだよね。シンプルで美しいんだけどんでも発見するのは簡単じゃないみたいなね、そういう感じのやつね。


そうね。書いてて思ったけど知的欺瞞が無いっつーのも大きなポイントだね。知的センスがそのまま数式とかに出る感じがいいんだよね。言語っつー薄汚い人間の認識システムを介在してないって意味でまぁ純粋に知的なのかもしれないね。そこがなんつーかかっこいいっつーかキラキラ光ってるようなイメージが今の所あるね。同じ内容でも文章が上手いとか喋りが上手いとかさ、そういうのが良く見えるっつーのがあるじゃん?でも数学って数式だけだからね。万国共通なユニバーサルランゲージなところがまたいいね。劣化しないっつーかなんつーか。


まぁいいや。そんなところで。


PS


重要なことを書き忘れた!まぁ基本的に書きたいことは書いたんだけど、書こうと思ってたワードがね、ようは数学にドクサは介在しないってことね。それが純粋さを保っているというそういうことでまぁ数学が清いっつーかまぁキラキラしてるってイメージがあるっつーかまぁ処女なんだよね。マルクス思想とかってヤリマンの結果じゃん?イデオロギーエイズみたいなもんだよね。ドクサの介在によって歪められたものがイデオロギーだったり政治思想だったりするわけでさ、実際、ニーチェの思想とナチズムとの関係はなくても、仮に誰かに利用されたらそれってもうイデオロギーじゃん?ニーチェとかマルクスは悪くないんだけど、なんつーかドクサの介在によって歪められる可能性があるって意味で汚れやすいんだよね。でも数学は誰も汚せないじゃん?解釈とかが介在して間違った形で理論とかが伝わることが無いっつーかさ、そこが凄いよね。


なんつーか政治とか思想の歯痒さって勘違いしてるやつが多くて手が負えないってところもあるよね。いや、実際は違うんだ!ってことを頑張って啓蒙してもそれで何になるの?ってことだしさ、いや、シュトラウスとかマルクスとかがdemonizeされた政治思想家の良い例だって前に書いたけど、こういうのって永遠に続くじゃん?まぁだからっつって俺は関係無いから俺は勝手にやるし、俺が間違ってることもあるんだろうけど、思想とかってかなりグレーゾーンだよね。分かったフリをしてるやつも実際は誰かのなんたら解釈をそのまま鵜呑みにしてたりするわけでさ、例えばスピノザで言えばスピノザの思想を完全にスピノザが理解していたのと同じように理解してる人ってどんくらいいるの?って話じゃん?多くは無いよね。いや、恐らく思想系でできることって啓蒙ぐらいしか無いと思うね。俗流解釈はやめましょうみたいな啓蒙ね。あとはもっと哲学を読みましょうっていうタイプの啓蒙ね。個人で勝手に思想やるならまぁ勝手にやってりゃいいわけで・・・ってことを考えていくと数学もまぁ似たようなもんだよなー。哲学と数学って職業にならない最たるもんっつーかさ、スピノザで言えばスピノザは数学も幾何学も一流だっただろうし、んでまぁ哲学もやってたわけだけど数学者とか哲学者って職業じゃないからさ、だからまぁレンズ磨きしてたわけじゃん?


いや、もういいや。またこういうこと考えてるとやることなくなるっつーか先に進めなくなるからもういいや。とりあえず数学は楽しいから続けることにしようっていうこれだけだね。小室直樹のさ、数学嫌いな人のための数学って本の冒頭でさ「いや、あなた自身が未だ教育を受けている身だったら?数学が好きになるだけで、大変な収穫でしょう」って書いてあるけど、まぁそういう意味でまぁこれって大変な収穫なんだろうなって思うよね。小室直樹みたいなのを見てれば分かるけど、目標が学問でさ、数学とか経済学とかって限られてないんだよね。数学を知っていれば良いことだらけだ!ってことでまぁ大変な収穫なんだろうけど、でもなんか俺の場合、あえて狭くありたいみたいなところがあるっつーか考え方が「道」的なのね。武道とか茶道とかと同じレベルで数道とか哲道とかさ、茶道とか武道にしても実生活では役に立たないじゃん?ほとんど。でもそれに価値を見いだしてやるって「道的」だよね。そういう意味でのプロフェッションを決めようとしてるっつーのはあるよね。決める必要は無くてどれもこれもまぁ今まで通り気が向けばやってればいいんだけど、でもプロフェッションとなると道的なエンゲージメントが必要になるのかな?とか思ってさ、その深さがイマイチ分からないっつーのはあるよね。それをマジでやってる人がどのくらいのレベルでやってるのかがイマイチ分からないっつーかなんつーか。


没頭してるのかさ、まぁたまたまそれがメジャーでんでまぁ詳しいんで専門家になりましたみたいなレベルの人が多いのかさ、分からんよね。まぁ没頭してる人はそんなに多くないだろうけどね。俺みたいな変な学問好きじゃなくてさ、ある意味でふつーに優等生で学校とか行ってた人がその道のプロになったらどのくらいのモチベーションでやってるのかが気になるのね。サラリーマンレベルなのかIT社長レベルなのかさ、まぁ人によるんだろうけどね、でも平均レベルってどんなもんなのか気になるよね。


あーもういいや。ダラダラしてきたからもうやめよう。