パラダイム崩壊がショックなんだろうなと。

mimisemi2009-12-12

結局反応無しか。やり合う気がないんだったら最初から書き込みなんてしなきゃいいのに。いい迷惑だよな。ホントに。一番ダサくない?ちょっかい出しておいて逃げるなんて。


まぁいいや。そういうバカは放っておいて、んでさ、あのね、数学的実体ってさ、前に書いた考古学の話に繋がるっつーかさ、やっぱ元々あるものだよね。気がついてないだけでさ、発見じゃない?でもやっぱ1とか2とかって概念だよね。でもその概念があれば一気に素数だのなんだのって概念が広がるじゃん?ようは数って概念が成立すればそれで数学が成立しちゃうんだよね。そこがすげーなと。で、実体だけどさ、数学ってこのある意味で唯物論的なドライさみたいなのがある反面、結局は抽象的なんでプラトニズムでもあるんだよね。ようは観念論と唯物論が同居してるっつーすげー面白い概念なんだな。


論理主義は後付けだな。数学的立場ってあるじゃん?分析すればオッケーみたいな。いや、アナリティカルなところはあるけどもさ、でもやっぱ俺はイデアだと思うな。一個一個のマテリアルを注意深く検討してんでdeductionを行うっつーよりかはもっと概念的な気がするな。苫米地さんが良く例えに出すさ、数学的宇宙では線と線の交差を点と言うけど、それには体積やら何やらが無いんで存在するとは言えないんだけど、でも点とはそういうもんであるっていうさ、まぁ「ある/ない」的な曖昧な感じって仏教的っつーかさ、その点の概念は恐らくまぁ空と似ているんじゃないかと。まぁ前に書いた小室直樹が言ってた例えのあれね、庵を結ぶっていうやつね。


ホームレスで言えば段ボールを用意してそこを寝床にした時点でそこはホームレスの庵になるけど、次の日に警察が来て撤去したらもうそれは無くなるじゃん?段ボールによって作られていた空間というのがホームレスにとっては家と規定された空間であったんだけど、それは客観的に言えば段ボールがあるだけだし、家ではないよね。でもホームレスにとってはその場しのぎの家なんだよね。この物理的なもんが結ばれた時に庵ができて、それがほどかれたときに無に変えるっつーか、「そのもの」に変えるっつーのがまぁエッセンスだと思うんだけどさ、なんかね、今の俺で言えばさ、ある意味でここ一年半ぐらいね、ワトルズとかさ、ザ・シークレット的な世界観で生きてたんだよね。まぁこれだけで言えばニューエイジだけどさ、まぁ悟りみたいなもんでさ、宇宙との一体感だよね。変性意識だよね。その場その場で嫌なこととかは腐るほどあるけど、でもこの一体感っつー物語があるからやってこれたんだと思う。タフにね。で、今はそれが全部崩れ去ったんだよね。


それを引き寄せだと感じた俺の直感っつーかさ、まぁあれじゃない?前にも書いたけどさ、数学とかお金とか社会的地位とか仕事とかナタリー・ポートマン似の彼女とかさ、まぁ俺は特にナタリーが好きなわけじゃないけど、今度紹介するよとか言われてそのまま信じてる俺の根底にあったのがナイーヴな引き寄せの法則だったっつーのがちょーショックだったんだよね。このショックが後になって出てきたから落ち込んでるっつーか虚無感が続いてるんだろう。俺が願ったことが魔法のように彼を通してやってきたって普通に信じる感じってある意味でニューエイジ的なバックグラウンドが無いとダメだよね。ヒッピー同士のカップルがさ、我々は特別な存在だからこうして出会って愛を育んでるんだみたいに思うみたいなさ、そのナイーヴさっつーのかな?


いや、ヤツとの出会いも大きな経験となったしターニングポイントになったからいいんだけど、なんつーかでもある種のパラダイムの崩壊から立ち直れてないんだよね。じゃあ次の物語は?っていうとさ、いや、なんだろうな、まぁ哲学とか政治学に一通り区切りがついたっつーのも喪失感に拍車をかけてるのかな?それって哲学とか政治学ほど数学が好きになっているわけではないってことだよね?でも数学も哲学も半分ぐらい思い込みだった気はするんだよな。好きなんだ!っつーか読まなきゃいけないんだ!みたいな義務感みたいなのもあってさ、で、結果的にまぁのめり込むようになったんだけど、完全に自然だったとは言い難いよね。それはいつも書いてる社会性とのコンパチビリティじゃん?それやっておけば英語も上手くなるし知識も増えるんで将来的に有利ってまぁ本当かはともかくとしてこれもまぁある種のパラダイムじゃん?で、今はそれがさ、数学ならもっとリアリスティックだってことでまぁそれを数学にすり替えようとしてるんだけどさ、その騙しがまだ上手くいってない感じなのかな?とも思ったね。


デカイパラダイムが崩れて、んでなおかつテロスのすり替えも必要みたいなさ、テロスを規定する方法論自体が今の俺にとっての快楽であり生きる意味であるみたいなすり替えを数学にするのにまだ手間取ってる感じかな?哲学とかって分かりやすいじゃん?知への冒険とかさ、まぁ数学も一緒なんだけど、まだ頭が慣れてないのかな?もしくはそこまで実は好きじゃなかったりしたら最悪なんだよな。まぁ面白いからいいんだけどね。面白くて楽しめたらまぁそりゃー最強だから間違ってはいないと思うけどさ、なんだろうね?この不安感と虚無感。


パラダイムが崩れて数学のイデアの世界に逃げようとしている自分というのも薄々感じてたりするからかな?いや、やっぱ色んなショックがあるからなんだろうな。情報求む!って言ってる人にメールしてもさっぱり返事が返ってこないとかさ、非合法じゃなければ何やってもオッケーみたいなアナーキーなシステムとかさ、警察のふざけた態度とかさ、なんか全部がヤツを通して嫌になったんだろうなってのは思ったよね。ヤツ自身の存在もありえないんだけどさっつーかさ、本人は天才のつもりでいるんだけど、実際はそこまで別に頭が良いわけじゃなくてさ、ただそれに自覚的で本当はこうありたかった自分みたいなのを自分で演じてるんだよね。それはある意味で自分の願望だから演技じゃなくてシミュレートになるんだよね。子供が将来なりたい職業のごっご遊びをするようなもんね。その自然さに騙される人もいるってことなんだけどさ、彼の惨めさといったら計り知れないよね。憎しみっつーよりかはあんな惨めな存在があるってことにひたすら絶望を感じるね。だからある意味で俺はトラウマ状態なのかもしれない。ナパーム弾を浴びて火だるまになった少女とかを目の前で見てショックを受けたっつーのと同じような感じのショックを受けてるのかもな。


ビジュアルのショックって慣れるじゃん?ネットやり始めの頃に死体写真とか見たときはショックでさ、食欲とかも無くなったけどまぁ慣れてくるじゃん?でもショックは結構続くんだよね。当時は。それとは別に戦争の惨さとかさ、事故の惨さとかさ、一瞬で生命が失われるということに対する儚さへのショックみたいなのもあるじゃん?リアリティへのショックとか不安ね。グロ画像から得られるショックな情報量って多いんだよね。ビジュアルだけだったらダメージは多くなくてもエピソードの惨さでくるものもあったりするわけでさ、ウクライナのスナッフビデオはまぁそういう意味で最強なんだけどさ、あのお爺さんの惨さだよね。それを彼に俺は感じてる気がする。種類は違えどね。


あのホームレスのお爺さんの場合、何のために生まれてきたの?っつーのがあるじゃん?あのブルジョワ子息達のおもちゃになるために生まれてきたのか?っていうさ、ホームレスで終わるだけならまだしも、あんな惨たらしい惨殺のされかたをして終わるなんてさ、神なんているわけないっつー良い証明になるよね。神がいたらあんなこと許さないだろう。いや、それはあのお爺さんは前世ですげー悪いことをしたからカルマの代償なんだとかさ、そんな解釈も可能かもしれないけど、そういうのって嫌だね。俺は。リアリティへの無意味な意味付けって一番ダメだよね。リアルはリアルでさ、あの惨さって起きたわけだから、あれをそのまま受け取らなきゃいけないよね。でも受け取るには大き過ぎる。それと同じことが今回の詐欺に言えるんだなー。種類は全然違うんだけど、俺って何?っていうさ、宇宙との一体感を感じてたんじゃないの?っていうさ、ある意味で変性意識から覚めた感じだよね。俺が凄いヤツだと思うということではなくて宇宙と一体なんだって感じることがまぁ悟りじゃない?で、宇宙と一体っつー感覚の頂点にいた時が彼と接しているときだったってカルト教団と変わらないじゃん?俺の悟りってそんなレベルだったのか?っていう。


いやね、そこでまぁ善のエネルギーとかさ、根底は愛だみたいなさ、そういうのも恥ずかしながら信じてたからね、その原則がぶっ壊れたっつーのもまぁあるじゃん?それを絶対化し過ぎなのはあれなんだけど、でも原則に例外は無いんだよね。ってことでまぁ俺が善だと思ってたことは完全に相対的だということが分かったわけだ。主観的には善だけど彼にとってはただのバカが貢いでるだけなわけでさ、まぁ絶対性なんて無いんだよね。よく考えればあるわけないんだけど、んでもあるに違いない!って思うというパラダイムに支えられてたというのもあってさ、だからまぁ何もかもがバカバカしく思えてきて虚しく思えて来るっつーのが永遠と続いてる感じなんだよね。


ある意味でこっちでの生活の虚しさとかさ、学校とかただ過ぎ去って行く毎日の虚しさって色々な物語によって誤摩化されてきたわけじゃん?それが哲学であったり政治学であったりさ、4大に行けばもっと楽しくなる!とかさ、可愛い子学校にいないかな?とかさ、たまにちょっと洋服買ったりして消費を楽しんでみるとかさ、まぁ人並みの誤摩化しだよね。それプラスまぁナイーヴな原則だよね。まぁ善だとか一体感だとかね、でもさ、宇宙と一体もいいけどさ、「我々は一体なのだ」って考えたときにんじゃあなんであんな殺しが行われていたりあんな惨めな詐欺師がいたりするわけ?って話じゃん?いや、それは別に考えれば分かることなんだけど、あそこまで目の当たりにするとなんか凄い惨さと虚しさを感じるよね。なんで兄弟そろって同じようなことしてるのかさ、もう悲しくなるよね。本当に。


しかも本人はプロ意識満載でさ、ちょっと誇りに思ってたりするんだよね。なんであんなやつが生きていられるのかがさっぱり分からない。で、親切にした人達が被害を被るっておかしいよね?昨日の数学の問題よりおかしいよ。これは。でもこれが事実なんだよね。そうなると善のパワーなんてあるわけねぇーじゃん!ってことになるよね。まぁそういうドクトリンは良いことをしなさいっつーアイデアを促すためのアナロジーなんであってさ、それが事実かどうかなんて問題じゃないっつーのまぁプラトンの洞窟の比喩だって同じだよね。


ウエィクアップさせるためのフックがアナロジーであってさ、別にそのアナロジーなりアレゴリーなりは別に完全に客観的に事実である必要はないんだよね。そんなようなもんだからウェイクアップしなさいよってことを言うための強烈なアレゴリーが洞窟のアレゴリーじゃん?でも客観的に精神的な牢獄とか洞窟にいるってさ、そんな事実は無いじゃない?そういう問題じゃないんだけどね、いや、だからといって全部の抽象概念の否定とかさ、アレゴリーとかの否定とかにはならないんだけどさ、でもなんだろうな?まぁある意味でそうなんだよね、さっきのナパームの話とかウクライナのホームレスの話と一緒でさ、それ自体が形は違えどショックなんだよね。まぁ俺は実際、ナパームの少女を見たわけじゃないけどさってあのベトナム戦争の有名な写真の少女ってことじゃなくて、まぁどこにでもいる少女が目の前でそんなことになったら凄まじいショックを受けるだろうなってことね。なんであんな無垢な子があんな酷い目にあって苦しみながら死ななきゃいけないわけ?っつー怒りだよね。偶発性の残酷さっつーのかな?


そういうのを考えるのが嫌だからさ、まぁポジティヴな世界観を作ろうとするわけじゃん?根底に流れているエネルギーが愛だとかさ、まぁ善のエネルギーとかっつーのがまぁそういうことなんだけどね、愛が根底にあればまぁあんな惨い死に方をする人とかあんな惨めな詐欺師とかいないはずだもんね。だって完全に摂理と合致しないじゃない?合致しないどころかもう正反対だよね。やっぱりなんつーか俺は事実だけ見ていかないと納得いかないんだなっつーのを感じたんだよね。意味付けとかじゃなくてさ、ひたすらそのリアリティを味わうことでしか生きられないんだよね。だからまぁもう宗教はダメだな。ここ1年半ぐらい宗教的な感覚でいたけど、まぁダメだわ。


今回の件で完全にそれが崩壊したな。彼の存在から虚構がprovokeされたっつーのはそういうことだね。そんなの知ってたけどでもなんつーか見せつけられてはもうしょうがないっつーことね。で、世の中そういうもんなんだっつーのを表すような事柄は死ぬほどあるわけでさ、それがまぁ理不尽な死であったりさ、まぁナパームの少女とかウクライナのホームレスとかね、存在でいってもサイモンとかさ、ああいうのがあるのが世の中なんだよね。人々はそれに耐えられないから宗教なり物語を作って生きていくしか無い。でもその逃げはやっぱ俺は嫌いだなっていう。だからまぁ自分への嫌悪感でもあるんだよね。そんなナイーヴな世界観でここ1年ちょっと生きてたっつーことに対する反省だよね。


いや、でもそうなると過去のさ、俺の暗黒期の俺の頭を支配していた唯物論的な感じがまた戻って来るんだよね。結局あれが本当だったら結局俺は何にも意味を見いだせなくてさ、ただひたすら絶望するしかないじゃん!っていうさ、結局まぁあの暗黒期の俺の引き蘢りを今後も繰り返すしかないのかっていうね、それが物理的に引き蘢りではないにせよね、精神的に引き蘢りになるってことね。まぁちょっとかっこよく言えば隠者だけどさ、せっかくなんかちょっと外とのコネクションが見いだせそうだったのにサイモンが一気にリアリティを突きつけてくれた感じだったよね。ある意味でまぁウェイクアップだから良かったのかもしれないけどさ、でもリアルばかり見据えるってキツいよなー。精神的に。毎日宇宙との一体感を感じながら生きてたほうが楽だもん。それが噓だろうがそっちのほうが楽。


あとはまぁカントを読む必要があるなと思ったね。カントが言ってた定言的善ね。善とは定言的じゃないと善じゃない。見返りを求めていたりしたらそれはすでに善じゃないっていうさ、でもその見返りの無い善というのをやるという姿勢もまたナイーヴさに繋がるわけでさ、まぁ俺が彼に行った行為の半分ぐらいは見返りを求めていたようは借りを作ることだったけど半分は完全に善だったと思う。あそこまで人に親切にしたのは生まれて初めてぐらいだったかもしれないね。そのぐらい俺は勝手に彼が窮地にいるって思い込んでたからなんだよね。これは見返りとかが無い人助けだったわけでまぁ善だと言えると思うけど、まぁ世間的に言えばただのお人好しかさ、行き過ぎたお人好しだよね。それはどうなのかな?ってことだよね。善のパワーは伝達するから俺が見返りを受けるとかじゃなくてもそのエネルギーが流通することが重要だから善を行うことは良いことであるっつーのもまぁバカバカしい考えだなってことだよね。かといって狡猾に生きるというわけではないんだけど、まぁ善だけだったらまぁ身を滅ぼすなと。ロクでもないやつに滅私奉公する価値がどこにあるのか?ってことだよね。


あとはまぁ自分がそういう定言的な善を追求する意味って何?ってところだよね。愛のパワーも善のエネルギーも無い世界でただ滅私奉公をしてもしょうがないじゃん?ましてや今回みたいに物理的な損害とかを被るとやってられなくなるよね。世界がドライなのはそういうことだよね。そんなことやってられないんでみんな自分の身を守ることに精一杯っていうさ、分かってたことだけどんまぁでも今回は堪えたねぇー。


なんかまた新しい何かを見つけ出さないと精神的にダメになるな。苦しいから死にたい!ってことじゃなくて、意味が無いからあんま生きていたいとも感じないっつーEXニヒロに飲み込まれた時によく感じる自殺願望みたいなのを最近凄いよく感じるな。辛い!じゃなくて「はぁー。んでどうすりゃいいの?」っていう感じね。まぁ贅沢な自殺願望だね。恐らくそこまでまぁよくあるロジックがさ、頑張って生きてる人がどうのってあるじゃん?汗水流して働いて食べる飯のうまさは違うみたいなさ、これって典型的な奴隷的マゾヒズムだよね。こんなマゾな経験からでしか生を感じられないって終わってるよね。The last manだろう。まぁもしくはそういうのを美徳にするぐらいでしか精神的にやっていけないっつーまぁ奴隷マインドの物語だよね。ウェーバープロテスタントニズムの分析とまぁある意味で似たようなもんだわな。


ラッセルは若い時に自殺を考えていたんだけどそれを思いとどまらせたのが「数学の問題を解きたい!」だったらしいけどさ、俺ってそこまでの数学への傾倒ってないよね。なんつーか哲学とか政治学と同じone of themでさ、だからこそまぁ支柱にはならないんだよね。学問っつー支柱があるから俺は生きていけるけど、んでも数学だけにフォーカスするってことはできないっつーかまぁできるけどね、いや、それは支柱にならないってことね。だってそれは支柱の集合の一つじゃん?でも俺は数学が学問の支柱とは独立したもう一つの支柱になるぐらいの大きさっつーか期待を求めてるんだよね。だからすんげー期待値が大きいわけ。それに救われたいみたいな、迷える子羊が教会の門をくぐるみたいな弱さがあるよね。ナイーヴというかなんというか。まぁナイーヴさは俺の中であらゆるところで一貫してるけどね。


でもさ、他の人の生を支えてる物語とか支柱ってなんなんだろうなぁー?って思うよね。大きなものもあるにせよまぁ基本的に日々の生活の中から見いだせる喜びだろうね。そうなると結局はやっぱり虚無に行き着くんだよね。消費とか愛とか人間関係とか全部意味ないっつーとあれだけどまぁある意味で虚構じゃない?悲しいけど実体が無さ過ぎるっつーかさ、すげー抽象的でさ、個々が主観で作り上げてるイメージだよね。そういうのって。そこに埋没することで生きられるっつーか信じるってそういうことだよね。でも俺は信じられないんだよなー。受け入れるけど常に冷めた目で見てるっつーのがあるんだよね。んじゃあなんで今回ひっかかったんだ?って話だけど、それがまぁフックが学問とか善だったわけでさ、この見直しが必要だっつーのは前に書いた通りだよね。


俺が今の所一番幸せを感じるのって暗いけどさ、ちょーネクラだけど学校の図書館の奥だね。特に夜になるとさ、奥には誰もいなくなるんでさ、変な話オナニーとかできるぐらい人気が無いんだよね。ちょうどそこに数学のコーナーがあるんで色々とつまんでるんだけどさ、あの静けさと本の匂いね。家の場合、ネットとかあったりゲームあったりさ、気が散る要素が多いじゃない?だからまぁみんなスタバとか図書館に行って勉強するんだろうけどさ、図書館ってまぁある意味でイデアの世界じゃん?記述されたもののデータベースのアーカイヴじゃん?その中にいるってまぁ草薙素子がバイナリデータになりつつも意志を持ち続けてデータそのものと直結してるみたいな感じと似てるよね。特に人気が無いとそういう感じが凄くする。ようは恐らくなぜ心地いいのか?っていうと物理的制約みたいなのを感じないからだと思うんだよね。腹が減ったとかさ、何かやらなきゃいけないとかさ、余計なこと考えなくなるじゃん?本しかないからそれに集中するしかないっつーあのリダクションから生まれる至福だよね。だからやっぱ俺って肉体を必要としてないんだなって相変わらず思っちゃったよね。


かといってダンテス・ダイジみたいに自殺するわけにもいかないしな。ダイジの自殺は明らかにこういう発想だろうな。むしろ積極的な死なんだよね。物理的に存在する必要がなくなったからいなくなるっていうさ、そうすればエゴとかに振り回されなくて済むようになるってある意味ですげーピュアじゃない?まぁさ、今の俺で言えば労働の必要が無いって時点ですでに最高なんだけど、でも虚無感しか無いんだよね。それは今に始まったことじゃなくて前からだけどさ、それを色々と誤摩化してたんだけど、今回のことでまぁその虚構が鮮明に見えちゃったっつーかさ、バカバカしい夢を見ていた分、リアリティが鮮明に来たっつーのかな?思い込みの世界観からリアリティへのtransitionだよね。


虚構であれ彼がいたときのほうが生活が楽しかったってそれが虚しいってわけよ。戻ってきてほしいとかってことじゃなくてね、あの夢を勝手に見ていたときが楽しかったっつー虚しさだよね。今はホント、感じとしてはマルホランド・ドライヴの前半後半って感じだもんな。今が明らかに後半ね。ある意味で永遠と続く後半だよね。前半の世界のほうがいいのに現実は後半っていうさ、その悲しさだよね。なんつーかいつも俺ってあったことっつー事柄よりもさ、ああいう人間が存在して間近にディティールを見てしまったっていうことに対するショックからなかなか立ち直れないんだよね。それは昔からそうね。自分が惨めというわけではなくて、外の事実を見たことによる絶望感ね。そういうリアリティを一挙には引き受けられないから、だからまぁそういうのをシャットアウトしつつ何らかの物語の中で生きていくしかないんだよね。無惨な死体写真とかが新聞に載らないっつーのとまぁ同じことだわな。今回も前回もその死体を間近で見てしまったことによる精神的ショックが大きいんだよね。恐らく。だからまぁ金とかさ、騙されてたってことについてはあんまり大きくないんだよね。だからまぁ平気でこうやって書けるわけで。


精神的なダメージが大きいからこそまぁウォール伝書くんだよね。いつものまぁ落ち込んでる時とかショックな時に書くことが増えるのと一緒ね。だから全然原因が物理的なもんじゃない。金が戻ってきたりしたら精神的に楽になるのか?っていうとそうじゃないからね。んじゃあ誰かが20万くれるっつってもまぁそりゃーもらうけどさ、別にショックは変わらないよね。「結局プラマイゼロだ。プラマイゼロで色々と学べたからむしろプラスだ!」とかって思えないよね。これっていつも思うのがさ、俺って多分金銭的な余裕が出てきてもずーっと悩み続けるんだろうなって思うよね。今ってある意味で最高じゃん?金は無いけど時間はあるじゃん?それでこんだけ落ち込んでるわけだよね。これで労働とかに時間が占領されたらどうなんの?って話だよね。仕事が生きがいっつーのも物語の一種だよね。時間がオキュパイドされていれば無駄に実存とかに悩まなくていいからさ、体動かしてれば余計なこと考えなくていいから楽っつーさ、まぁこれもある意味で逃げだよね。社会的には働き者として賞賛される逃げだよね。引き蘢りの場合、なぜか批判される。違いは無いと思うんだけど。


学校がそろそろ終わりでさ、長い冬休みに入るんだけど全然楽しみじゃないんだよね。嬉しくもなんともない。そんな自分にヤヴァイなって思うんだよね。「やったー!休みだぁー!」って思えないっつーかさ、ただこれが続くだけっていう虚しさがあるだけだよね。一喜一憂って人生の中では重要じゃん?バカバカしいけど変に達観してると面白く思えないことって多いじゃん?今がまさしくそんな感じだね。鬱ってわけでもないのが余計に怖い。鬱だったらちょっと休めば治るけどさ、これって根底的なもんだからね。全然物理的にっつーか身体的に辛くないのにさ、でも虚しいってすげーヤヴァイよね。


まぁいいや。そんな感じで。まぁ自殺はしないんで大丈夫だけどさ、いや、あんま生きてる意味が感じられなくなったってまぁコントラストによるものだけどさ、でも騙されてた時ってだからある意味でまぁ生きてたってことだよね。バスの中に閉じ込められた極限状態で生を感じられて、日常に戻ってきたらむしろあの極限状態で感じた生が懐かしく思えてくるみたいなさ、サルトルも書いてるじゃん?占領下のパリでアンガージュマンなり反戦なりレジスタンスなりっつー運動をしていた時が一番輝いてたっつーさ、占領下って決して良い状況じゃないのにさ、落ち着いたパリより人々が楽しかったっていうとあれだけど、まぁ人々が生を感じていたってなんか皮肉だよね。


PS


チャイティンのセクシーな数学っつーインタビュー集があるんだけどさ、ヤツに持っていかれたんだよね。せっかく送ってもらったのに。まぁそれはともかくチャイティンのMeta Math!なんだけどね、多分買ったのは9月ぐらいだろうけど、途中まで読んでやめたっつーか分からないことが多過ぎたりさ、あんま面白いと感じるところが無かったりして読んでなかったんだけど、今ね、また最初から読んでみたらすんげー面白いのね。ありえないぐらい面白い。まぁオイラー素数が無限に存在するっつー証明の部分は好きだったけど、今は全体を通して好きな感じだなっつーのでなんで好きになったか?っていうと恐らく頭が数学モードになってるからだよね。ようは数学的思考とかに慣れてきたっつーかあとは知識がちょっと増えて前より分かるようになったから面白く感じたりさ、まぁこれって哲学も同じだったからね。で、コツをつかんだりさ、エッセンスとか思考法とか分かってくるとようは味をしめるって感じなのかな?面白くなるんだよね。哲学はまぁ割と自然に好きだったけど政治学とか社会科学系は完全に人工的に作り出した感じだね。元々興味はあったけど理論的なアプローチは自分から歩み寄っていって、んで理解して楽しみ始めたって感じだよね。だからまぁ能動的なんだな。それに対して哲学は受動的だね。常に頭にあることだから本を読むのもまぁ思考の一環みたいなもんで頑張らなくても全然読めるんだけどさ、社会科学系とか数学にしてもそうだけど、これはある程度の能動的なコミットメントが必要だよね。で、まぁ今は数学にコミットしてるんだろうなってすげー思うよね。実際、Meta Math!を面白く感じられるようになってるっつーのはよい予兆なんじゃないかと。数式見るとウキウキするっつーのはまぁ純粋に快楽だよね。前は胃が痛くなってたけど。いや、それにしてもオイラー素数の証明は凄過ぎるな。俺も完全には理解してないけどさ、今の数学の先生も適当に堪えて言葉を濁してたからね。Divergenceがinfinityでさ、でもtotal sumがfiniteとかすんげー面白いよね。infinityがdivergeするということが数字的な無限を意味するのではなく、1から2に向かうまででもdivergenceが無限に存在するっつーのがいいよね。


ゼノだかゼノンだかの矢のパラドックスってあるじゃん?矢を放ってさ、んで途中でマトリックスみたいに「ブォーン」って止めて計ったらさ、的までの距離が50Mだったとしてさ、んでそれが仮に真ん中だったら25メートルじゃん?1/2だよね?ちょっと進んでまた止めたら次は1/4になって、んで次は1/8になって・・・っつーのがさ、ようは1/2+1/4+1/8+.....=1なんだよね。あ、まぁ50Mで言えば50か。オイラーのね、p=primeの1/p+1/p......=∞っつのもさ、finite sumに収束するんだけど、divergenceはinfinityなんだよね。うーん!素敵!!今は過去の証明とかをディグって「これすげー!ヤヴァイ!」とかって感動してるっつーのが楽しいかな。レコード掘りとほとんど一緒だね。


Mathematics: The New Golden Age

Mathematics: The New Golden Age