デスノートについて。

mimisemi2010-01-15

いや、こないだ通りすがりのものさんに返事書いたじゃん?で、デスノートの話をしたでしょ?で、ちょっと書き足したいことがあるんで書くねっつーかあれだ、まずはこないだ書いた返信から貼るね。


mimisemi 2010/01/14 05:28


で、追加なんですが、最近、ようやく今更ですがデスノートを見たんですが、主人公の八神と僕の思想の親和性に笑ってしまい、あまり共感し過ぎたために、終わりは凄まじく後味の悪い物となってしまいました。最後になんでああいうことになるのか?というとまぁそれは社会的なコモンセンスだと思いますが、僕は八神が世界の君主として君臨したほうが八神が言うように善い社会が出来上がると思うので、八神は些かやり過ぎなところもありますが、基本的に「正しい」と思いますが、まぁ物語の結末を見ても分かるようにまぁ一般的には正しくないんですよね。Lが言う正義がコモンセンスとしての正義で、八神が言う正義は八神の言う正義です。まぁこれは双方の正義の定義の違いであり、デスノートの読み手によってどちらが正しいものとなるかは変わってくるでしょう。言うまでもなく僕は八神が正しいと思いますが、Lが正しいと思う人もいるでしょう。あとはまぁ八神をヒトラーと変わらない独裁的な人間だとかって思う人もいるでしょうね。それはまぁ共通善というものを理解できない人間が言うことなんですが。


それにしてもデスノートがあそこまで政治的なものだったとは思いもよらなかったです。八神は理想的なステイツマンを体現したかのような人間であり、マキャベリが言う君主に一番違い人間でしょうね。まさしく「エリート」主義の「エリート」そのものだと思いますが、まぁ現存するかが怪しいもんで、だからまぁ常に「エリート」という存在がフィクショナルなものとなってしまうんでしょうね。八神みたいなやつはいないと。


あ、話がデスノートよりになってますが、まぁようは「正しさ」とは主観的な解釈によりもたらされるものということですね。なので「正しい理解」なるものは時代やコンテキストやカルチャーによって恣意的に変わるものだと思うので、等リス狩りのモノさんが言う「積み上げられるアーカイヴを正しく理解することなんて不可能だ」というのはまさしくその通りだと思います。積み上げというのも大きな要素ですし、環境的な諸要素、例えば文化だとか時代だとか人種だとか読み手の知性・倫理観だとかなんだとか、とにかくアーカイヴの単一的な「正しさ」を担保するのが不可能な諸要素がエクリチュールと読み手の間に介在し過ぎなんですね。それをなるべく取り除こうというのがシュトラウス読みだと思うのですが、先ほども書いたように「その書き手が思っていたように理解する」というのもまぁあくまで想像的な行為であり、客観的な「正しさ」はそこには存在しませんね。あくまで読み手が想像するその書き手が当時思っていたであろうことを想像しながら理解するということで結局は主観的な理解になります。つまりはメタ的なテキストの読み方であってもそのメタレベルの観点が想像のレベルでしかないということになるんですね。


説明書とかなら別ですが、僕も思想の場合は数学のような客観的な正しさの普遍性を担保することは不可能だと考えます。結局まぁ本人に真意を聞いてみるしかないということになりますよね。でも死んでしまっていたら確認のしようがありませんよね。過去に確認した第三者によるテキストの解説のテキストすらも時代を経れば違った解釈がされる場合もあるわけで、まぁ正しさの永遠の担保は不可能でしょうね。静的には可能かもしれませんが動的には不可能です。ハイゼンベルグの不確定性原理みたいなものだと思いますね。その不確定性原理にすらも様々な解釈が存在することからも伺えるようにそれは明らかなように思えます。


・・・ってまでがまぁこないだ書いた返信でここからはまぁ追加ねっつーかこないだ書いてまだアップしてなかったやつなんだけど。


デスノートで書き忘れがあったんで書くけどあれだっつーかエントリーにし直すか?とりあえずあれだ、Lってようは法(Law)の頭文字のエルなんだよね?多分。法を体現したエルが言う正義は法の正義で八神の正義は殺す正義ってことでキルなんだけど、まぁ法と殺すというものが相反するというシンボリズムなんだよね。で、八神がエル自身となる世界というのが八神の新世界だったんだけど、それは結局は法によって裁かれたっていうことだよね。八神が法によって裁かれたというストーリー自体が八神の思想をタブーとする一種のエージェンシーになってるんだよね。でも戸惑う人達とかさ、暴徒と化す人達とかマスゴミだとか八神を神と崇める烏合の衆とかさ、民衆=衆愚みたいなシンボリズムは一貫して描かれていたしっつーかまぁ八神のエリート思想を際立たせるための民衆/衆愚なんだよね。


結局、そういう思想を持ったものは法によって裁かれるという意味では攻殻機動隊の久世と八神は違う次元で運命を共にしてしまったという感じだけど、示唆的なのはさ、死神に選ばれるものって何らかの媒介があるやつなんだよね。何らかの形で八神を崇拝するやつとかさ、八神的な思想を持ったやつとかにデスノートが渡るようになってる。まぁ例外もあるけどねっつーか利用された場合とかは別としてね。だからまぁ偶然に見えて偶然じゃないっていうさ、神になろうとした人間がある意味で神によって裁かれたって解釈も可能なんじゃないの?とは思ったよね。死神の解釈ってさ、良い解釈もあって、神の代理人みたいな解釈もあるんだよね。ようは現世に死んだ人間の魂が残ってしまうと怨念化したりするんで死神が魂を運ぶ役割をしてるっていうさ、ただその死神自体が神になろうとした時にその死神自体も神によって裁かれるみたいなね、それを体現したのが法の権化であるLだったと。Lに何かと宗教的な匂いっつーか孤児院の十字架みたいなシンボリズムとかさ、竜崎が死ぬ前に鐘の音が煩いって言うとかさ、まぁ結局エルってのは神の代理人なんだよね。


そういう意味でまぁ死神の代理人である八神と神の代理人であるエルの対決が人間界で人間を通して行われたっつーのがまぁデスノートのエッセンスだよね。つまりはまぁ神々の闘いであったと言うわけだね。ただ問題は神がなぜ勝利したのか?ということだけど、まぁそれは死神が神に君臨するよりもある意味で残酷なことでさ、結局、死神統治による世界を神は許さないっていうのがモラリスティックに見えて実は恐ろしいっていうのがリアル社会の実態じゃん?理不尽な犯罪とか戦争とか虐殺が平気で行われるという世界が神(L)が統治する世界でさ、それ以外はあってはならないっていうことだよね。腐った社会に憤りを感じていてゴミを始末したいというような衝動はヒミズの主人公にも通じるものがあるよね。あとこれは俺の勝手な予想だけどデスノートの原作者が匿名で原作を書いてるのってさ、多分、原作者の思想の現れが八神だからだと思うんだよね。ただそれは知られたくないんでペンネームみたいなのを使ってるみたいな。


八神は自分の投影なんだけど世間的に彼は最終的には殺されないといけないし、彼を悪いヤツにしないとただの選民思想バリバリの狂ったコミックになってしまうので法の権化であるエルに軍配を上げるようにしているわけだけど、それってまぁカモフラージュでさ、そうでもしないと物語が一般に受け入れられないからなんだよね。何しろストーリーのナレーションっつーかディスクリプション自体が八神へのシンパシーバリバリじゃん?犯罪者がガンガン死んでいくってのを見ている側も痛快に思うぐらいに描かれている。で、それは実は法の元ではいけないんですよっていう調停をするために八神が暴走したマキャベリアンに見えるように仕立て上げているけど、これもまぁカモフラージュだよね。八神を全知全能の神にし過ぎると思想的にヤヴァイ人間が世界に君臨するって話になっちゃうんでだんだん傲慢になっていって冷酷さを増していくってことにしないとキャラ的にヤヴァクなるってことだと思うんだよね。


よく映画であるあれだよね、バッドエンドにすると後味が悪いからワンシーンとかつけたして一応ハッピーエンドにするみたいなエンドへの配慮がデスノートにおける八神の死だよね。あれで八神が勝っちゃうヤヴァイ話になるから勝てないようにすることで物語としての道徳性を保ってるみたいな感じだよね。でも実際は原作者の投影が八神っていうね。現に俺みたいな人間が八神の死にガックリきているわけでさ、原作者が八神を本当に悪として描こうと思っていたなら俺みたいなやつが八神に共感できて最後にガックリくるような仕立て上げになってないはずだからね。悪は滅びる!みたいな感じ方をすると思うからね。あそこまで「残念!あとちょっとだったのに!」って思わせるなんて凄いよ。マジで。その残念な感じは久世以上だね。マジで。


攻殻機動隊の場合、やり方は過激だけどまだ分からんこともないって思えるじゃん?久世に対して。これってバランス良いよね。でもデスノートって八神にバイアスがかかりすぎてるんだよね。八神死すべし!に見えて実は八神万歳ストーリーなんだよね。中国政府が規制するのも頷ける感じだわ。だってこれってテロ思想にも繋がるしさ、つまりは共通善をテロスとしたテロルは許されるみたいな解釈もできるじゃん?人を巻き込まずにピンポイントで悪人を殺せればその殺人は正当化できるみたいなさ、殺す思想って意味でまぁテロリズムと一緒なんだよね。まぁ俺も凄まじいキラー思想を持っているけど、こんなもん正義感が強ければ当然の話だよね。日和見主義を許せないってことで思想が過激になるのは善を求めるからこその裁きなんだよね。生温い正義とか平和主義こそがカオスを生むし戦争を生むってのは歴史的に証明されてるじゃん?


クラウゼヴィッツの「戦争は他の手段による政治の継続である」ってことならさ、小室直樹も言ってるようにこの戦争の規定は損得の戦争だよね。正義の戦争ではないわけ。で、八神の神に対する戦争は八神の正義の戦争だったか?というと見た目で言えばそうだけど実際は違うのね。つまりはストーリーを見る限りあれは損得の戦争なのであって正義の戦争ではなかったってことね。リアル世界でそうなるかはともかくとしてストーリーでは八神によって凶悪犯罪やら戦争やらは凄まじく減少してたわけだし、それはアメリカの大統領も認めざるを得ないぐらいの事実だったわけだよね?それをさ、世界警察であるアメリカの大統領が認めたことで法の権化であるLがめちゃめちゃ怒ったわけじゃん?アメリカが何を言うか!って。


法は殺人を許さないけど殺人を許さないっていう構えが殺人を許すことにもなるわけでさ、例えばあれじゃんね、俺の最近の経験で言うとまぁまさしく詐欺とかってさ、あれってローリスク・ハイリターンじゃん?やっても数年で出て来れる割に簡単に金が入るでしょ?でも詐欺は悪質だってことで極刑とかにしたらまた人権云々みたいな話になるじゃん?まぁ重罰化が犯罪防止にはならないとは言われてるけど詐欺に関してはどうだろうね?詐欺で捕まったら死刑だったら肝っ玉が小さいヤツは詐欺をやらなくなるだろうね。仮に殺人が軽犯罪扱いされたら殺人は増えるよね。こいつは邪魔で消せば前科がつくけど3年で出てこれることを考えればやる価値はあるみたいな話になるじゃん?厳罰化は犯罪防止にならないにしても逆の軽罰化は犯罪を増やすことになるよね?詐欺ってまさしくそうだよね。悪質な犯罪の割にそれに対する刑罰が軽いから横行するんだよね。人権を尊重するあまり人権を侵害されてる人達の人権が結果的に踏みにじられているってよく言われることじゃん?これがまぁようは法そのものが人権を絶対なものだと看做すことが結果的に人権侵害に繋がる場合もあるっていう良い例だよね。


だとすれば人権のために人権侵害も辞さないという姿勢で人権を守った方が結果的により多くの人権が守られることもあるよね?それがまぁ戦争じゃん?戦争は絶対しない!っていう姿勢が戦争の悪化を生むとか深刻化を生むとかね、これがまぁ小室直樹の言う平和主義が戦争を生み出すっていうことだよね。いや、これって何にでも言えるよ。デスノートの場合さ、殺人は絶対的に悪である!っていう姿勢が殺人を許しちゃってるわけじゃん?殺人者とか凶悪犯罪者を屠る事も辞さないという姿勢が結果的に凶悪犯罪防止やら戦争防止なっているという設定がデスノートの設定なわけで、これに対して「でも殺人は殺人なわけで許せない!」という法の姿勢はそれと相対するものだよね。でもLの姿勢では凶悪犯罪は防げないってことで、んじゃあどっちがいいんでしょうね?社会としては?ってことになるよね?2006年ぐらいから凶悪殺人者とか通り魔殺人者とかがガンガン屠られていくという現状を目の当たりにしていたら秋葉原の連続殺傷事件の犯人は畏れおののいて殺人をやらなかったかもしれないよね。これによってどれだけの無辜の人々が救われるだろうか?って考えてもみてよって話でしょ?


どんな命も命は命だって本当に悪いイデオロギーだと思うね。他の命を奪う命のどこが尊いんだ?って話でしょ。人権侵害したやつの人権が守られるって何なの?って話じゃん?でもそれを守るのが法なんだよね。で、そんなの糞食らえで殺してしまうのが八神だよね。犯罪防止どころか戦争防止にも繋がっているということで八神の正義が独りよがりの正義なのではなく損得の政治の継続としての殺人なんだってのがよく分かるじゃん?つまりは八神の独善的な正義という要素がありつつも結果的に共通善に繋がっていて、それはデータとして立証されているという点において、それが損得の政治の継続としての殺人ということを正当化に導くわけよ。そういう意味においてLが八神をただの連続殺人鬼だと言うのは法の番人の発言としてだけど、殺人も辞さないということを認めないL(法)が結果的に殺人を許してしまうことになってしまうとしたら、法は八神の殺人を認めざるを得なくなるよねっつーか八神がLに対して戦争を申し込む正当性が出てくるよね。Lはそれを法として当然ながら認めないけどね。でも八神の行為がデータとして共通善にコントリビュートしているということが立証されているわけで、Lとの戦争を始める材料としては十分なんだよね。


で、最終的にはストーリーとしてLが勝つようになってるけど、それはまぁ体裁を保つためのポーズなんであって、デスノートのエッセンスは八神の思想にあるわけね。悪人を屠るという思想は本来の右翼の思想でもあるわけで、まぁようは天誅だよね。その天誅をベースとした新世界を生み出すというのはまぁ主題歌とかでも示唆されてるようにまぁ革命そのものだよね。久世も八神も新世界を夢見ながら滅んでいった革命家という意味で共通してるよね。


あ、んでジュリアーニが良い例だと思うんだけどさ、まぁ実際はそうだったかはともかくとしてよく言われるのはさ、ジュリアーニはとりあえず路上にいる怪しそうなやつとかは根拠無しにガンガン捕まえていってさ、それこそ今まででは捕まえられなかったような連中も色んな強引な理由をつけて捕まえて刑務所に送り込んだことでニューヨークの平和をもたらしたとかって言われるじゃん?まぁそれだけが平和の原因ではないんだけど、まぁそういう強引なやり方があったってことね。だからまぁ冤罪で刑務所に入ってるやつらも相当いるんじゃないかと。でもこれによってニューヨークの犯罪率は減少して平和がもたらされたとすれば、これってようは人権侵害をすることで人権を守ったっていう良い例なんじゃないの?っていう。


怪しいやつらはとりあえず刑務所にぶち込むって人権侵害もいいところだけど、でも実際、それによって犯罪率が減少したらさ、これって結局共通善にコントリビュートしてるじゃん?ヤヴァイやつが放置されてたら殺されてたかもしれない人達も助かったわけでさ、人権侵害をすることで結果的に多くの人権を守ったってことになるよね。で、その後も犯罪者とか予備軍がビビってあんま犯罪やらなくなったとかってまぁ強引な政策による犯罪防止だよね。このジュリアーニの手法って八神と似てると思うね。恐怖政治的だけどあくまで恐怖を与えるのは犯罪者と予備軍なんであって守られるのは市民の安全なんだよね。したがってその政策が結果的に共通善にコントリビュートしているという点においてジュリアーニの強引なやり方とか八神の殺人とかも正当化されるってわけね。


ようは殺人っつっても殺人者とか予備軍に限るなら多少の冤罪とか犠牲が出ても多くの人が助かればそれでいいんじゃない?っていう。まぁ一殺多生の思想だよね。八神って一殺多生の思想を体現してるよね。本当に。そういう意味で本当に関心してしまったのだよ。本当に。あれはアンチヒーローに見せかけたヒーローだよね。レイプ被害者とかその家族とか通り魔殺人の遺族とかがデスノートみたら八神に共感しちゃうと思うんだよね。原作者がわざとらしいぐらいにアンチヒーローに仕立て上げているのはさっきも書いたようにヒーローにしちゃうと世間体としてマズいからストーリーを少年マンガ雑誌というフォーマットで成立させるための手法だよね。あくまで原作者にとっては八神は絶対ヒーローだろう。絶対思い入れが半端じゃないって。古谷実のダークな面の実存がヒミズの主人公に投影されてるのと同じようなのを感じたね。キャラとしてっつーよりかは自我の一部分の投影として描いてるなっていう。


まぁ悪とか正義ってなんなんでしょうね?ってことだよね。まぁ俺の意見を要約しちゃえば腐った社会が悪だよね。そういう悪を屠ることは俺にとっては正義にしか見えない。恐怖政治でも人々が自ずと正しく生きなきゃいけないって世の中は良い意味で抑圧的でいいんじゃないかと。少なくとも非倫理的な行いとかを防止できる抑圧であればいくらでも抑圧していいと思うんだよね。詐欺とか殺人とかが横行している世の中なんて良いわけがない。絶望的な日本の状況然りだよね。それは別に犯罪率がどうこうって話をしてるんじゃなくて、まぁ大雑把に不正が跋扈する世の中なんて良いわけがないっていう自明のことを言いたいだけね。


特にあれだ、個人的な経験でマジで詐欺って本当にタチ悪いなって思ったよね。あれって金だけじゃないんだなっていう。被害者にトラウマが出来る場合もあるわけでさ、凄まじいもんだよね。あれって。でも法的に裁かれないっつって詐欺師が生きていけるとかってマジでありえねぇーよな。だったら殺しちゃえって俺は短絡的に思っちゃうね。そんなやつの人権なんて考える必要はない。なにしろ他者の人権を踏みにじってるやつに人権もクソも無いわけだよ。特に詐欺に関しては社会を崩壊させる要因にもなるわけでさ、なんつーか詐欺師って社会契約論で言えば社会契約が成立している社会で契約無視してる連中だから何気にすげータチ悪いんだよね。ホント、死刑ぐらいでいいと思うな。マジで。


いや、俺のキラー思想が行き過ぎなのは分かるよ。でもそれは正義を思うからこそなんだよね。正義っつーと抽象的だからまぁ不正を横行させないための極端なやり方ってことだよね。やっぱ社会の根底的な問題って死ぬべきやつが生きてるからだと思うね。それはどこでもまぁ単純化し過ぎだけどでもまぁ原因は人間だよね。死ぬべき人間が問題を起こしてそれが他に連鎖してるって感じだよね。まぁもっとも原因をトレースできないようなのもあるけど、不正の錯綜ってのが社会じゃん?不正の横行ってよりかは錯綜って言葉が正しいと思うね。天誅って合法的に行っていいと思うんだよな。マジで。別にデスノート使わなくなって天誅はできるわけで。なんかやっぱ恐怖政治ってある程度必要だと思うね。徹底的に悪を排除できる恐怖政治なら肯定できるんじゃないかと思うよね。自由と人権って悪用も出来るからね。悪人が生きていけるのって自由と人権のおかげだからね。


まぁいいや。まぁ前にも書いたように俺は基本的にテロ肯定派なんだよね。まぁピンポイントの要人暗殺とかに限るけどね。自爆テロとか関係無い人を巻き込むのは絶対アウトだけど、ピンポイントなら全然いいと思うね。それは国家が国民に対して悪を排除するという意味でテロを行ってもいいし、国民が国家に対して悪を排除するって意味でテロを行ってもいいと思うね。で、そういう状況下でさ、殺し過ぎるのはあれだからなんとかしようっていう考えが生まれるわけじゃん?殺しがダメだからっつーんで悠々自適でやっていける悪人って相当多いよね。暗殺が許可されてたらとっくに殺されてるやつらっていっぱいいるじゃん?そういうやつらを殺して何が悪いの?って話だよね。そういうやつらを殺して多くを生かすことがなんで悪いことなんだ?っていう。そいつが生きていけることで他の人が死んだり他の人の人生が狂ったりすることを考えればそいつを消すことが一番ってのは明白だもんね。


ってことで別に八神って狂ってないのよ。全然。すげーモラリスティックなエリーティストなんだよね。彼は。むしろ狂ってるのは世の中のほうなんだよ。だからLが勝つってことがデスノートにおいてはそれがナイトメアなんだよね。つまりは実社会もLが勝つってことでナイトメアなわけだ。そういう絶望が最後にあるのが凄いなと思ったねってまぁ俺の解釈だけどね。


まぁこの辺で終わりにするか。んじゃあまたね。


PS


あ、んで一応念のため補足ね。正義による戦争は全く根拠のない宗教ドグマによる戦争だとかね、ハルマゲドンだとかさ、神の鉄槌だとかね、まぁようは抽象的な思い込み概念によって導きだされた正義なので正義のための戦争はヤヴァイんだけどっつーかただの虐殺になるんだけど、政治としての戦争は国益とかを考える戦争でしょ?で、共通善にコントリビュートする戦争というのもまた政治としての戦争なんだよね。で、八神が神(L)に対してやっていた戦争は前者の狂った選民思想的な歪んだ正義によってなされていたように見えて実は共通善を前提とした政治による戦争だったわけだ。でも法の正義が共通善の正義に勝ってしまったというナイトメアがデスノートの結末なのね。だから絶望的なのね。悪は滅びる・・・ように見えて実はメシアが法によって殺されてしまって、また悪が蔓延る社会が戻ってくるっていうね、まぁ現実社会も同じようなもんだからまぁデプレッシヴですねーっていう話なんですね。っていうのが俺の解釈ですね。だからまぁ落ち込みましたよね。分かってはいたけど非常に残念だったな。八神が理想郷を築いたDeath Note if....みたいなのが見てみたいね。で、別の思想でデスノートを使うやつが出てきてさ、そこで権力闘争が起こるとかまた面白くない?デス同士の戦いみたいな。