で、昨日の続き。

mimisemi2010-01-21

ってことで昨日の続きです。ハイ。完全に昨日のエントリーのケツから続いてるわけで、まぁそういう前提で読んでくだはい。


で、まだ終わりじゃなくて次はまぁ書き込み全般に関することなんだけどさ、まぁウォール伝は書き込みはそんなに多くないからいいんだけどさ、例えば相手があからさまに変なロジックで感情的な意見を言ってきているとかさ、誤った情報を元に何かを書いてきている・・・ということがあったとして、それにいちいち反応するのか?ってことがあるよね。俺の落ち度っつーかエントリーの書き方に勘違いを起こさせるようなところに原因があったら俺は謝罪をして「いや、そうではないんです」ってことを書くと思うけど、あからさまに読み違えしてるやつとかさ、とにかく俺の事が気に食わないっつーんで書き込んで来てるやつとかが仮にいたとすればそういう連中に対していちいち対応するのってバカらしいよね?例えばあなたの何々に関する情報は間違えてます・・・っていちいち俺が説明して相手を納得させる必要があるのか?っていう。まぁそれも書き込みの雰囲気次第だけどね。


この人なら返事をしてもいいなって言う文体ってあるじゃん?っつーかこれが書き込む上での基本的なマナーなんだけどネチケットとかってもう死後じゃん?90年代中盤ぐらいの頃のネットは良かった・・・なんて言ったところでただの懐古趣味になるし、もう崩壊したわけで修復なんて無理でしょ?昔は限られた人達しかアクセスしてなかったからネチケットが守られていたんだけど今は世俗化して誰でもアクセスできるようになったからバカも色んなところに書き込んだりするようになって、んでカオス化してるっていうね、2ちゃんにしても最初から俺はあんまり好きじゃなかったけど2000年ぐらいと2006年以降ぐらいって明らかにカオスのレベルが違うよね。明らかにバカが増えてる。ネット右翼とかの対等も世俗化と大きな関係があるよね。知的に洗練されてない連中も政治とかに口出しするようになって、んでそれがネット右翼みたいな一種の塊になったっていう。まぁそれが民主主義の実態だけどね。だからまぁネットは民主化されたことによってカオス化したってことだよね。


ところで民主化と言えばゲバルト無き社会がどうなるか?って今のハイチが良い例だよね。大地震だ!っつって何もかもが崩壊した社会で人々が相互扶助的ネットワークを築いて助け合いをしていくか?と思いきや実際は殺し合いのカオス状態っていう。もちろん大地震っつー混乱がそのカオスの一因ではあるにせよ、基本的にあれはホッブズが言う自然状態そのものだよね。ルソーとかが言う自然状態がいかに理想主義的かがよく分かる。相互扶助的社会なんて社会の構成員にある程度の知性が要求されるからね。カオスな連中がそこにいればそれは一気に成立しなくなるわけ。仮に相互扶助的な生活を部分的にしていたコミュニティーもカオスの連中が介入してくるところで破壊されるよね。


そこで強奪とかレイプとかが起こればみんな人間不信になるっつーかさ、それってマルクスが書いてたんだっけ?ロックだったかな?まぁ忘れたけど善のシステムって壊れやすいよね。悪によってすぐ壊される。だから悪が少しでもあれば性善説で成立しているコミュニティってのはすぐに壊れてしまう。だからこそ悪に悪をさせないっつー契約を国家とするわけじゃん?ある程度の生活の規制とかがあってもとりあえずレイプとか強奪が起こるような社会にしないでくれっつって国家にゲバルトを独占させるんだよね。


まぁ1コミュニティで言えば自警団でもいいや。そこが暴力を独占することで自治が成立するわけ。もちろんその暴力を独占したものが暴走してコミュニティなり社会を支配し始めるってこともあるわけで、まぁその挙げ句の果てがスターリニズムとかマオイズムだと思うんだけど、まぁそれはともかくだからまぁアナーキーって基本的にカオスってイメージがあるんだよね。アナーキスト達は性善説に立っているから国家が支配しない自治的な相互扶助のネットワークとかを想定してるんだけど、所謂、常識によってはゲバルトが無くなれば社会はカオス化すると思ってたり、まぁ元々性善説に立ってないってことがあって、だからまぁアナーキー=カオスになるわけだよね。


俺は理念のレベルで言えばルソーとかアナーキズムを信望するけどそれは読んで字の如く「信じる事を望む」っつーか「望みたい」わけで現実は違うんだよね。だからホッブズ的な観点に立つしか無くなるわけ。ホッブズが好きとかそういうんじゃなくてあれが現実なんだからしょうがないっていうことだよね。まぁ好きかな。ホッブズ。リアル政治はこうなんだ!って気がついたときにまぁ自然とホッブズとかを読み進めるうちにまぁ保守主義に目覚めたってことだよね。だからすでに思想的にもそっちが好きになってるっていう。むしろ理念型っつーか理想主義的な政治思想が嫌いになってるんだよね。まぁだからといってそういう思想はもう無駄だっていうことではないんだけど。


あ、んで書き込み全般に関する事か。あ、まぁコメント欄をオープンにするのってやっぱウォール伝はマナーのある人が基本的多いっつーかマナーのある人が書き込みをすることが多いんで、だからまぁコメント欄をオープンにしてるってことだよね。でもたまにブクマが多くなったりして外部からのお客さんが増えると一時的に荒れたりすることがあったりもするけどまぁそれはブログっつー性質上しょうがないのかな?って気はするよね。あとまぁ本当の荒れに比べたら荒れとは言えないぐらい小さいもんだからまぁいいんだけど、ただやっぱマナーがなってない書き込みとかがあるとそれだけで嫌になるよね。普段はウォール伝を更新するのって楽しみなんだけど、そういうときになるとウォール伝を開くのが怖くなる。で、またどんなならず者が書き込みをしてるのか?って怖くなるよね。で、そういう人達を一人一人嗜めていくってすげー精神的に疲れるっつーかさ、一人一人ってほど多くはないけど、まぁ好きな作業ではないよね。だからブクマ増えると怖くなるんだよね。変なヤツとかバカも見るようになる可能性が大きくなるわけで。人の目により曝されるようになるってことはそういうことじゃん?俺が変なヤツとかっていうのもどうかと思うんだけど。


建設的な議論が出来る場合もあるけど無駄なのも増えるってことだよね。音楽が配信しやすくなってゴミが増えるのと一緒だよね。そこでまたウォール伝もゴミだろうとかって思ってるやつがいるんだよね。いるのはいいんだけどそういうやつがわざわざコメント欄に書き込んでくるのが嫌なんだよね。だったら最初から挑発的な書き方なんてしなきゃいいじゃん!てことになるけどそれってただの自営のための自主規制で日本のテレビみたいなもんじゃん?それは嫌なのね。それがまぁ昨日のエントリーで書いたことなんだけど。


ただでもさ、別に俺が普遍的に正しいなんてことは無いわけだし、コメント欄を閉鎖しちゃったらなんかクローズドなシステムみたいになっちゃうじゃん?ゲーデル不完全性定理みたいな話でさ、システムの内部からシステムの欠陥とかまぁ正当性っつーか妥当性みたいなのを指摘することはできないみたいなさ、コメント欄がオープンなことで良いツッコミがあったりして、んでそれによって欠陥なり欠落が埋まる場合もあるじゃん?っていうかまぁそういう場合が大抵だからまぁだからコメント欄をオープンにしてるんだよね。「ここおかしいぞ?」ってところがあるところに関して指摘してくれたりする人もいるからありがたいっつーかなんつーか。その一方で単純な嫌がらせとか個人批判とかもコメント欄から出来るんでそれはノイズとして排除するしかないよなっていう。ネットという場所にウォール伝を置いている以上、ノイズゼロにするなんてことは無理ってことだね。コメント欄を閉鎖することの弊害のほうが俺は大きいと思うんで若干のノイズがあってもコメント欄はオープンにするってことだよね。


それにしても色々やりとりがあったりすると基本的に書く事増えるねっつーか最近凄いよね。自分でも読み返すのが嫌になるぐらいの量を書いてると思う。文章って量じゃないんだけどね。なんかでもあれだよね、憎まれ口とか言わずに客観的に議論をするってまぁ難しいことなのかな?つい自分の意見とかを批判されるとあたかも自分が批判されたような気持ちになっちゃって、んで相手にも攻撃的な書き方をしちゃうっていうさ、まぁ俺は元々感情的な人間だから理性的に振る舞うことを意識的にやってるんだけどさ、釣られるよね。「ちゃんと理解してますか?」とかさ、「その程度の理解では話になりません」とかさ、こういうのっていらないじゃん?でも書きたくなっちゃうじゃん?冷静な口調とか文体で書いててもこういういらないことを書いちゃうともうすでにそれは攻撃で感情的な文章になっちゃうんだよね。「ヴァカじゃねーの?死ね!アホ!」とかって書かなくても「死ね!アホ!」みたいな心に顕在しているものがそのまま文章化しちゃったらそこに差はないんだよね。文体の問題なんであって基本的にそれは一緒。だからこそそういう書き方をやめるとか勢いで書いちゃったら無くしていくんだよね。Occam's razor的に。


感情的な言い方になるともう泥沼化するじゃん?スカトロプロレスみたいになる。うんこの泥沼の中でレスリングやるみたいな見た目も汚いし内容も汚いものになっていくじゃん?だからまぁルールって必要なんだよね。スカトロ化しない議論を目指すっつーのかな?個人的な中傷とかになると論点もずれてくるしね。「あなたみたいな人がいるから・・・」とか相手を攻撃することに論点が行っちゃって肝心の内容のほうがスカスカになるとか、肝心のトピックも相手を批判するための道具に成り果てるっていうさ、それって最悪だよね。ちょー反知性的。だから一番いいのが個人攻撃とか無しの言論同士のやり合いだよね。


こないだのニート(笑)さんの書き込みで言えば「これはウォール伝さんのことじゃないんだけど、自己責任で自由に暮らす分には構わないんだけど、自分自身はおまんまもらってるくせしてアンチ企業戦士(笑)だとかニート云々とか平気で他人の生き方にケチをつけるようなカスが本当に多いんですよね、多様性以前に究極にスポイルされている自身の姿に気づいていないというか、ナイーヴな妄言がほとんど公害に近いというか。派遣村で2万円もらって酒とタバコを買うというか、これはちょっと違うか。」だけでいいんだよね。ここだけでいい。他は全部蛇足で釣りになっちゃってる。だからやる気がしない。書き込みを見ててムカつくものにはあまり反応しないようにしないと自分も釣られちゃうからね。


感情的なものに釣られないってほど俺は理性的な人間じゃないからね。それが分かっているからこそ感情的なやり取りは避けたいんだよね。まぁ俺の言いたいことは簡単に言えば一点で「おまんまもらってるくせして」っていう前提がおかしいってことだよね。それはさっき書いたからいいか。おまんまもらってるからんじゃあ何も意見が言えなくなるのか?ってことね。occam's razor的な削ぎ落としをしていったほうが議論も建設的になるし無駄が少なくなるし感情的にならない分、主観性とか感受性に意見が左右されなくなるんで客観的になれるじゃん?逆を言えば感情的な議論って価値無いんだよね。エンタメとしてならいいけど真面目にやる議論で感情的なやり取りをしててもしょうがない。


小林よしのりとかがけんか腰のダメなやつの典型だよね。まぁこの人は知識人じゃないしただの漫画家が言論やってるってレベルだから話にならないんだけど、この人って誰かを批判する時にすげー嫌な手使うじゃん?自分のマンガに攻撃相手を出してきてバカにしたようなカリカチュアライズされたような絵を書いたりさ、バカにするんだよね。相手の身体的特徴を攻撃してきたりさ、これこそまぁうんこ試合だよね。スカトロプロレス略してスカプロを相手とやろうとするんだよね。うんこをしてそれを敷いたリングで相手を待ち構えてる感じ?だから「いや、そんな汚い試合しません」って相手がその試合を受けないっつーのが一番いいんだよね。そこで「てめぇー!このやろー!」ってスカプロに参加しちゃったらもう終わりだ。感情と感情のやり合いになってすげーくだらない泥試合になっちゃう。


残念ながら文体とか書き方とかでその人の知性とか品格って分かるじゃん?書き込み見てもすぐ分かるよね。あ、あんま賢くないやつが書いてるな、とかって。マナーがなってないやつって大抵バカだからさ、逆に賢いけどマナー知らずって滅多にいないんだよね。これは俺の持論っつーかまぁ自明の事だけどその人に対して一番いい最良の攻撃ってジェントルに振る舞いながら完全に論破するってことだよね。それはジェントルに振る舞うっていうことを嫌味に見せるということではなくて、あなた自身に対して個人的な攻撃はするつもりはありませんよっていう態度で相手の言論の批判をするってことだよね。で、相手がそれに答えられなかったらそれって最高の攻撃なのよ。「なんだとてめぇー!」とも言えないぐらいジェントルに論破してきたらもうそれが最高の攻撃だよね。エレガントに相手を倒すのが一番良いし結果的にダメージを与えられるんだよね。


まぁダメージを与えることが目的ではないけど結果的にまぁダメージが大きくなるんだよ。相手は「ガクっ」ってなるからね。逆に単純な個人攻撃とかだったら相手にいくらでも材料を与えちゃうじゃん?反論の材料を与えちゃうよね。なぜそんな余計なことを言うのか?とかさ、そんなことを言うのが必要なのか?ってそれも反論となりうるから結果的に反論されるような材料を自分で与えちゃってるってことだよね。そうじゃなくてエレガントに倒すってのはそんな材料すらも与えないんだよね。機械的に論破してるから相手は苦し紛れの意見しか言えなくなってズタズタになる。仮にそれがテレビとかだったらちょー惨めだしね、モロ論破されてるってもう明らかに分かるようになるじゃん?文とかでもそうだけどね。結局だから感情とかに任せずにロジックで責めたほうが一番いいってことだよね。で、あとは絶対感情的な釣りには乗らないってことね。


それに乗ったらうんこ試合の始まりにもなりかねないから絶対やらない。結構若い人のブログに多いよね。ブログ自体はすげー頭が良い人が書いててエントリーとかも凄いブクマがついててさ、情報的な価値もあるんだけど、でもコメント欄とかの釣りとかに釣られちゃってすげー汚くなっちゃってるっていう。で、そのうんこ試合に反論するための記事とかも書くようになってさ、その論争のことを知らない人にはさっぱりのエントリーになっちゃったりとかさ、あとはまぁ逆もあるよね。有名どころのブログに喧嘩を売れば自分のブログにもアクセスが多くなるっつーんで有名なアクセスが多いところに喧嘩を売るっていうね。これはもう売名行為以外のなんでもないよね。普通にエントリー書いてりゃいいのに変な論争始めちゃうからダメになってるっつーブログ多いよね。まぁ若い人が感情的になるのも分かるけど、まぁ俺も感情的な人間としてあえてそういうのには乗らないほうがいいっつーことを言いたいよね。


知識人とかも大変だなって思うよね。しょっちゅう論争とか悪口の言い合いとかやってる人とかって研究に集中できてるんだろうか?ってすげー疑問になるよね。反論するための材料を揃えるとか文章を書くとかさ、ディスり合いってコストかかるじゃん?だったらその時間をもっと有益な研究とかに捧げた方がいいと思うんだけど本当にまぁ大変だなって思うよね。絶対あんな風になりたくないなって思うよね。本当に。あと仲正昌樹宮台真司の対談本あるじゃん?日常・共同体・アイロニーっていう。仲正昌樹って学者としては優れてるのに本当に勿体ないなって思うよね。本当の人格が曲がってるっていうか。宮台へのコンプレックス丸出しでさ、無駄な攻撃いっぱいしてるじゃん?直接的ではない嫌味っつーのかな?ああいうのって全然賢く映らなく見えちゃうからやめたほうがいいと思うんだよね。あんなもんアイロニーでもなんでもなくただの僻だよ。俺は宮台みたいなカリスマにはなれなかった・・・っていう僻しか見えなくて非常に醜い。


で、挙げ句の果てに宮台のあとがきで情けない面を暴露されてるっていう。最初から喧嘩ふっかけなきゃいいのにさ、下手に嫌味言うもんだから倍返し食らっちゃってるんだよね。童貞であるってことを暴露されちゃったり、異様に俗っぽいことに詳しかったり、ワイドショーみたいなくだないものを見ている時に凄く高尚な哲学の文章を書いてる時に最高の喜びを感じるとか最高の負け犬だよね。「俺様は賢いのだ・・・フハハハハ!」って童貞が哲学で優越感に浸るって最悪の構図だよね。仲正みたいなのを見ていると本当に哲学というのが負け犬がやることだっていうのがよく分かるよね。ニーチェが言ってた通りだなっていう。いや、学者としては凄いんだよ。個人的に人間的に大嫌いで好きになれないけどでも俺は著書は読んでるんだよね。同じ感じで中島義道も同じね。仲正ほど嫌いではないけどでも全然人間的に好きになれないけどでもエッセイもカントの学術的な本も面白いから読んでるっていうね。


これってある意味ですげー学者として評価してるってことだよね。個人的に好きってのが無しに単純に情報価値として彼らの著書を読むって書物の読み方としては最高だよね。まぁ思い入れがあったほうが面白かったりもするけど、でも思い入れが入り過ぎるとどこまでが思い入れでどこまでが情報価値で読んでるか分からなくなるよね。でも著者の事があまり好きじゃなかったら明らかに読む動機ってのは情報価値のみなわけでさ、それはある意味で凄いってことだよね。好きじゃないけどでも読ませるみたいなのって凄いよね。だから仲正も中島義道も凄いなって思うのね。これだけ著者として思い入れが無いどころかあまり好きじゃないのに著書を読んでるっつー著者は少ないよ。俺の中では。


これがようは実存とか関係無いっつー純粋な客観的な情報としての文献ってことになるよね。逆を言えば文献の中に他に好きになれない学者とかの個人的な批判とかがあったりすると純度が下がるんだよね。それが感情的であればあるほど下品なものになる。小林よしのりがすげー下品なのはそこだよね。だから小林よしのりみたいなのはB層みたいなバカしか読まない。同じ事でまぁ体制側への歩み寄りとかさ、ナイツの創価学会広報のためのネタみたいなもんでさ、何かをはやし立てるための何かってなんの価値も無いじゃん?ただのプロパガンダとかと一緒だよね。自分が属している学派とかの擁護を永遠と書き続けたりとかさ、そういうのって読む価値無いよね。だから意見を言う人ってどこにも属さないのが一番いいんだよね。バイアスとかの利害関係が無いっつーフリーな状態のほうがノイズが入らなくなるから純度が高まるよね。


・・・・ってのをまぁ昨日ぐらいまで書いてて、んで今日、エントリーを締めようと思ったらまたそこから色々と書き出して長くなったんでそれはまた明日貼りますね。



で、全然話が違うんだけどさ、Veohだったかどっかの動画サイトで動画見てたらさ、「うお!」と思った女の子の宣伝が流れててさ、んですげーリア二千に似てるんだよね。「うわー!可愛いしちょっと似てるぅ!」とか思いつつ感動してたのが半年前ぐらいでさ、んで「あの宣伝なんだったんだろうなー?」と思いつつ調べても分からなくてさ、いや、もうその宣伝が流れなくあったのかな?んで諦めてたらさ、今日、まぁたまたま海外のサイト見てたら「リア二千発見!」と思って色々と調べたらZooey Deschanelっつーアメリカの女優だかなんだかでさ、で、名前検索したらYou Tubeで俺が探してたCMの動画が見つかったんで貼っておくね。いや、リア二千ってこんぐらいのレベルだったんだって!いつも大げさに書いてるけど本当に凄かったんだから!歩いてて目立つレベルだからね。マジで。



歌がちょっと音痴なのがいいね。リア二千はもっとこの子をガーリッシュにした感じだね。ファッションはこの動画に似てる。だから余計に想起させるんだろうと思ったわけだ。俺ってまぁ例のアレがあって何でもかんでもでもないんだけどまぁ過去の記憶をすんげー鮮明に覚えてたりするでしょ?まぁここでギフテッドだからとかって書くとまた文句言われそうだから今後はもうギフテッドって言葉使うのやめるけどさ、いやね、ちゃんとした認知が無い中で使ってもただのバカだと思われるじゃん?まぁ思われてもいいし思われてるんだろうけど、まぁそれはともかくさ、幼稚園の頃の何でも無い日の先生の顔とか同級生の仕草とかいきなり思い出したり鮮明に覚えてたりするんだけどさ、まぁそれが辛さにも繋がるんだけどね、ようは嫌な思い出とかも忘れられないでしょ?人間は忘れる事で生きていけるのに忘れられないっつーのは結構辛い。で、女の子もまぁ一緒なんだよね。気持ち悪いぐらい顔とか仕草とか声とか喋った事とか覚えてるんで思い出すと「あー!!」ってなる。今更後悔してもしょうがないんだけどね。それにしても可愛いなぁー・・・本当に。イデアに生きるとか言って俺は女の子に関しては当然リアルで結局は色んな喜びもリアルの中で見いだしていくしかないんだろうなって思うよね。もしくはリアルとの関わり合いとかね。こうやって一ヶ月の休みをずーっと引き蘢って過ごしててつくづく思うね。俺にはリアルが必要だって。イデアには生きれないなって思うわけ。凄く。