ゼロのゼロ記号性。

mimisemi2010-08-23

遠山啓の「数学の学び方・教え方」っつー本の中のゼロの概念のところを読んでて思ったんだけどさ、無いとい意味ではない、つまりはなんつーか容器なりさ、なんかとの比較によって数えられるものの対象が無いということを言うんだよね。だからまぁなんつーかある意味でインド哲学的なのかな。空の桶的な感じ?りんごが四個あるテーブルとただのテーブルを比較した時にただのテーブルはりんごがゼロ個あるテーブルって言えるっていう。このEmptinessってさ、ようは空虚って意味じゃなくて、ゼロ性ってなんか英語のitとかthereに似てると思うんだよね。It's ok to come hereとかit's gonna rainとかさ、チョムスキーも言ってたと思うけど、このitって何なの?って話じゃん?


英語って主語が必要なんだよね。でも雨に主はいないわけでさ、だから謎のitって概念が出てくるわけだ。あとは場を意味するthereね。日本語の場合、「誰もいない」でいいんだけど英語の場合「Nobody is there」みたいなさ、あとは「No one here」みたいなさ、Nobodyって凄いよね。体無しってこと?ようは体だよね。数えられるような体が無いんでno体ってことでようはあるという前提で言うところの無いなんだよね。だから例えばブラックホールに対してnobody is thereみたいな言い方は実質おかしいわけでってまぁ比喩的には言えるのかもしれんけど、ブラックホールってスパゲティ効果があるからさ、まぁ物理的身体みたいなのが存在することは無いじゃん?だからまずbodyが無いってことでnobodyっつー概念も生まれないっていうさ、それは最初からりんごなんてあるわけがないようなさ、例えば公衆トイレにいったら「りんごが無い」とかさ、可愛い子がバイトしている家具センターに行って「レタスが無い」っていうようなもんなわけでさ、ブラックホールってものに対してはbodyは最初からないよね。いや、分からん。勝手にbodyっつーのを体みたいなニュアンスで解釈するとってことなんだけど。


あとはitとthereなんだけどさ、ハイデガーdaseinのdaだよね。いまここにあるっていういまここ感ね。いまここ塾ってのがあるけど、いまここ塾が言ういまここ感ってまぁまさしくそのdaなんだよね。まぁ英語に直訳すればthereだけどさ、ただ恐らくドイツ語が内在しているdaのニュアンスってthereみたいな軽い感じとは違うはずなんだよね。中国語だとまさしく在なんだろうけどさ、いや、分からんけどね、在もまぁすげー深いよね。仏教的な解釈し過ぎかもしれないけど。例えば我看故我知,我思故我在みたいなさ、この最後に来る「在」って俺が内観してるとかさ、看るという行為によって自分は何かを知る事ができるみたいな意識の存在とか、quantumな脳の状態とかさ、あらゆる俺があるとか知るとか考えるみたいなことが存在しているっていう意味での在を包括してるよね。


いや、英語でもそう書けばそうなるんだけど、ただ漢字ってのは見た目の威力が強いわけだよね。アルファベットは数式みたいなもんだよね。ただの記述。でも漢字は文字そのものに意味があるんで配列によって凄まじい哲学的なニュアンスとかを出す事ができるっていうかさ、まぁ俳句とかも同じようなもんだと思うんだけどね。理屈っぽくなくて、短い描写と言葉に全てを任せるみたいなさ、あえて短く語る事で見えてくる美しさっつーのかな?オイラーの公式とかまぁその最たるもんだと思うんだけどまぁいいや。


なんつーかまぁそういうことなんだよね。主が無いものにもitとかthereとかあとはあまり日本人は意識しないであろうthemとかtheyみたいなさ、在庫が無かったみたいなのもさ、「they don't have it」とかさ、店がtheyになってるとかさ、店員が言うならweになるとかさ、所有格っつー概念が強いっていうか、代数的なんだよね。itとかthereとかthemとか、なんかそれらしいブラックボックスを表す変数って意外とそんなに多くないはずだからさ、ようはまぁ変数なんだよね。それが場であったり人であったり主語がないから代理っつーか委任的にそれに主語的な意味を持たせるとかさ、そういう感じなんだけど、それがまぁ最初に書いたゼロの概念に似てるんだよね。りんごが無いということも無いという概念があるという概念の対概念として存在するわけでさ、最初からないもんはないもあるもないんだよね。そういう意味でまぁ中観派的な我の見方をするとこのある/ない概念が介在しないものが我という空なんだよね。


でもなんかでも書いてあったけどやたら言語にオレオレっつーオレっつー我を意味する主語が介在し過ぎるとその存在感が増すみたいなさ、でも日本語ってそんなことないっつーか私とかオレって言い過ぎるやつは嫌われがちだよね。自己主張が強過ぎるみたいな感じられ方をするんだけど、でもそれがただの主語を表すオレとか私なんだとしたら別にそれは自己主張じゃないわけで。でも別に主語無しでも喋れるからさ、だから我を介在させずになんか客観的な事実だけを語りやすいっつーかさ、属性を決めずにただ物事の記述だけできるみたいなのって割と日本語は器用にできるよね。なんかそれが阿吽の呼吸っつーかなんか空気の支配とかさ、察する文化みたいなのに繋がる気がするね。あんまり前に出したくないところを空白にして周りだけ語る事でその空白を聞き手の理解によってのみ解釈させるっていう言葉のテクニックだよね。でもいちいちアイアイって猿って意味じゃなくてオレとか私って意味でのアイって言いまくってたらそういうニュアンスを出すのって難しいよね。


んでもそれこそがまぁつまりはゼロですらない無い主語ってことだと思うんだけどね。もしくはまぁ主語があるってコンテキストの中でそこに無さを強調することで自己主張っぽいイメージを与えないとかさ、自己を介在させずに何かに誘導するみたいなね、まぁこれはゼロだよね。まぁどの道、空気ってのはゼロだろう。いや、それでも意識されてるって意味で「ある」空気だからゼロだよな。ゼロですらないってことはないね。その「ある」感がすんげー強さを持ってたりするわけで。主体が無いからこその威力だよね。だから俺みたいなKYなやつにはそれが通用しないからある意味でアドバンテージかもしれないんだよね。分からないからプレッシャーも感じないっていう。まぁそれでどっかから排除されたりするんだろうけどね。「KYなやつだ」とか言われて。まぁそれは元々そうだからいいんだけどね。あとはまぁ意識的にそういうのを気にしなくなったってのもあるけども。


まぁ浮遊するシニフィアンってことなのかな。分かりやすく言えばっつーか既存の概念で言えば。まぁとはゼロ記号とかゼロ記号性みたいな話なのかな。まぁそんな感じかな。今日は。