とりあえずヴェイユの数論の歴史のやつを読み終えたんだけど、なんつーか印象的だったのがオイラーの人間臭さね。伝説だけ見てると人知を超えた天才だけど、細かく見てみるとそれなりに苦労をしたり試行錯誤をしまくった結果、凄い結果が出てたりするっていう、なんつーかattemptの回数の多さで言えばエジソン並かもしれん。そのパワーが凄いんだよね。ただやっぱり実験型だなぁーとは思ったね。計算が凄く得意で色々と試してみると驚くべき結果が出るみたいなそういう感じの仕事が多い気がした。んでもさ、いや、数論なんだけどさ、やっぱフェルマーあたりの初期のやつとかすげーつまらないのね。
もちろんそれから始まって云々・・・っていう歴史的なものありきで言えばいいんだけどさ、やっぱり近代的な数学が出てこないと全然ダメだね。そういう意味でオイラーになると一気に数学がかっこ良くなった気がする。それまでのは語弊があるかもしれないけど所詮はパズルみたいな、抽象度が低い感じがして、しかもcomputationalでつまらないんだけど、オイラーになると凄くかっこ良くなってエレガントになる感じがするね。
結局まぁ俺で言うと代数が入らないとほとんど分からないわけよ。いやーでもこんなに自分が代数脳だったとはね。まぁ集合論に感動したっていう流れから言うと必然的っつーか最初からそうだったんだとは思うけどね。そもそも例の数学に目覚めたリベラルアーツの数学ですげー興味持ったのが群論だったわけで。で、半分位しか読んでないけどブルバキの代数とあとマックレーンの代数なんかも読んだからかなり脳が鍛えられたんだと思うよね。ようは代数的になると凄く楽になるっていうかすんなり理解できるようになる。だからAlgebraicなものは大抵理解できると言えるよね。Algebraic TopologyだのAlgebraic Number Theoryだの。まぁホモロジーとかホモトピーとか代数だもんね。洗練された代数みたいな。圏論然り。
こういう洗練された代数ってのは凄く経済的なわけだ。物理数学のような激しいcomputationを必要とせずに、まぁ元々は必要としていたものを洗練された群論の概念でスッキリさせることで複雑さを回避できるっつーのかな?でもまぁ別に簡単ってわけじゃないんだよね。でもごちゃごちゃしたのが苦手な俺にとってはやっぱり所謂純粋数学が自分のフィールドなんだなってのを凄く感じるよね。
で、今はまぁ代数的に数論を攻めてるわけだけどっつーかまぁかなりフライングでさ、まず買った本を一通り読み終えなきゃいけないのに読み終える前に新しいの買っちゃってさ、ようはどんどん先に進みたいんだよね。凄く適当になる危険性があるんだけど単純にこれは知識欲が抑えられないってだけなんだと思うけどね。で、面白いことに攻略すべきものってのがフェルマー予想になったんだよね。なんかすげー納得した。進んでいくと先が見えてくるんだよね。で、気がついたらフェルマー予想まで来ていたと。
だから前にも書いたようにヴェイユとか志村五郎の数学みたいなのが凄く近くなってるわけよ。前は数論とか代数なんてやるとは思ってなかったから夢にも思わなかったけど、なんつーかまぁこういう感じになったわけで。あと面白いぐらい解析に興味が無くなってきた。まぁ時間がないというのもあるけどさ、いや、時間と言えばまぁすげーtime consumingだよね。数学って。時間かけてる割に全然進まない感じがする。いや、でもまぁずーっとやってるわけだから普通の人に比べたら尋常じゃない位のハイペースなんだろうけど、俺って元が文系だからさ、こんぐらい時間かければ読破できるっていうさ、哲学書でもなんでもね、それに比べるとなんつーかどっちが難しいとかじゃなくて、時間的に数学書を100ページ読むってのはそこそこの分量の哲学書を1冊読むぐらいの時間が必要なんだよね。
で、俺はすげー経済的に本を買ってるんでページ数が多い内容がぎっしり詰まったやつしか買わないから大抵500ページオーバーだから単純計算すると一冊読破するのにそこそこの分量の哲学書5冊を読むぐらいの時間が必要になるわけ。たった1冊でこれなんだからさ、いろんなジャンルやるなんて無理なんだよね。まぁ興味があればやればいいんだけど、色々とやり過ぎると個々の分野が深くならない感じがするから、まずは今一番やりたいことを極めるっていう感じにしていかないとダメだなと。
前は分からなかったから数学は全分野やるんだ!なんて意気込んでたけど、今は絶対無理だなって思いますよね。それは時間的なこともあるし、あとは自分の素質だよね。素養がなさ過ぎる分野が圧倒的に多いわけだ。そういう意味で相変わらず数学が実は得意だったという感覚はないよね。数学っつってもごく限られた分野だけだからさ、全般できるわけじゃないし、どちらかと言えば苦手なやつのほうが多いわけで。んでも諦めるって感じじゃないんだよね。ようは俺がスコラ哲学とか神学とかを勉強しないのと同じでさ、まぁ別に興味がないわけじゃないけど、時間を割いてやろうとは思わないっていうかさ、まずやりたいことがあるからそっちが先じゃん?だからあえてやらないっていう分野が多いってことだよね。でもまぁ代数的アプローチができるやつは大体良いわけで、だからまぁ狭くはないかもしれないね。
あ、んで代数と言えばさ、アメリカの大学教授が代数は必要ないって主張してるってのを前に見たんだけどさ、ようは必要ないというよりかは義務教育でやらせんでもええやないか!ってことなんだけどこれには大賛成だよね。この教授の主張ではさ、数学がネックで大学に入れなかったり数学が足を引っ張るようになってる人が大勢いるってことなんだけどさ、本当にそれはそうだよね。逆で言えば自分は数学やる!って決めてるのに古文とか無理矢理やらされる意味ってあるわけ?ってことだよね。結局、学校教育って教師が無能なのも多いけど、ぎゅうぎゅう詰めのカリキュラムが余計に教育の質を悪くしてるんだよね。
いらないやつはどんどん撤廃して英語とか国語とかさ、なんかもっと本当に必須なやつに時間かければいいんだよね。ましてや限られた時間で数学なんてできるわけないしそもそも分かるわけ無いじゃん?大抵の人が代数なんて「ルール」として覚えてるぐらいで概念装置として理解してる人なんてあんまりいないだろう。そういうエッセンシャルな理解に行かないままとりあえず答案を埋めるためにテクニックとか解法ばっか教わるわけでしょ?それは明らかに時間の無駄なんだよね。数学ほど理解が伴わないと時間の無駄なものってのもなかなかないんじゃないの?
高校数学ぐらいになるとなんつーかさ、その先の何をやるための基礎なのか?っていうのが無いと話にならないのばっかじゃん?それを準備としてやらされる側にもなってみろよ!って話だし、数学の基礎とされるものを無理矢理へたくそなカリキュラムで教えるから数学嫌いが増えるわけだ。で、結果、理系離れがどんどん進むわけね。アメリカの大学っつってもまぁピンキリだけど一般的にリベラルアーツでは高校数学ぐらいのをやって専攻によってより高度な数学をやるってことになるじゃん?いや、それでいいんだよね。ある程度の数学の基礎をやらないと数学音痴が増えるみたいな意見もありそうだけど、そもそもほとんど誰も理解してないわけじゃん?その辺の高校とかで教えられてるような数学で数学が分かるようになるわけないからさ、だからやる意味ないんだよね。それに時間と労力を割いているってのが最高に無駄だよね。
俺も元々数学がダメだったから凄くよく分かるけど数学が足を引っ張るんだよね。これのおかげで落第したりさ、成績に汚点がついちゃったり、コースをパスできなかったりさ、あとは受験科目として数学的なものが介在する範囲が大きいから苦手な人が凄く不利を被るっていうさ、だから数学って嫌われるんだよね。色々と悪い原因を作ってるみたいな位置づけになってるからね。数学なんて理系だけやればいいわけで。あとは逆に理系に進みたい!って人がさ、社会人でも大学で基礎からやれるってのが必要なんだよね。入試がえらい大変っつーんじゃ全然意味なくてさ、高校レベルの数学を大学入ってからやれればさ、それはいつも書いてるように例えば物理でも数学でもいいんだけど、先があるじゃん?入試やって数学終わり!じゃなくて高校数学の範囲を高等数学の基礎としてやるっていうさ、で、3年次ぐらいに所謂今で言う大学数学をはじめるわけだけど地続きじゃん?社会人の場合、大抵は高校数学を忘れてるからやり直しになるんだけど、そんなの大学でやればいいんだよね。
アメリカでは実際そうなってるけど別に格別数学のレベルの差なんて聞かないからね。大学で日本で言う高校レベルの数学をやるなんてレベル的にどうよ?って話になりそうだけど、数学って高度になればなるほど応用から遠ざかっていくからさ、むしろすげー使うのって高校数学的なものじゃない?そもそもそれで言えば大抵は微積分で事足りると言ってもいいぐらいなわけで。微積分はもうめっちゃ大事やん?あんなに便利で万能なもんは滅多にないよね。でもそれを押し付ける必要はないわけだ。高校生に無理矢理教える必要は無いし、そもそもあれは連続の概念とかイプシロンデルタとかとセットでやらないとダメじゃん?
所謂実数論の基礎とか集合論とかと平行してやらないとダメだから、んだから高校でいきなり微積分だけって言われても全然効果的じゃないんだよね。むしろ大学レベルで出てくるような便利な定理とかさ、これさえ分かってれば大抵のことが分かるようになる的なことをやらないじゃない?ミミズが這うようなやり方でよく分からないままやるわけだから何の役にも立たないし、だから結局まぁただの計算に成り果てるんだよね。で、大学入って微分方程式だの偏微分だのってやっても何が起こってるのかさっぱり分からないってことになる。でもこれはおかしいよね。微積分の基礎ができてればそもそも微分の概念を理解することになるわけだから微分方程式とか偏微分が分からない!なんてことにはならないよね。ややこしいけど何が起こってるかぐらいは分かるでしょ。
大学数学で挫折する人が多いってのは挫折する人が悪いんじゃなくて単純に流れが悪いんだよね。今俺が書いたような地続きのやり方で大学の初年ぐらいで高校数学やればさすがに初年度で挫折する人はいないよね。まだそんなに難しくないから。で、問題はだんだん数学が高級になってきてからなんだけど、でも大学っつー場で2年次なり3年次にこれをやるって前提ありきでやってるから接続がバッチリじゃん?まぁあと早い人は勝手に本読んで自分でやってるだろうし。まぁ悪く言えば数学のカリキュラムが温くなるってことなんだけどまぁそれでいいんだよね。数学が原因で落第だの成績が悪くなるだの大学に入れないなんて弊害を考えれば緩くして温くすることなんてむしろ利点しかないだろうっていう。
俺もさすがに座標ぐらいは中1とか学校行かなくなる前の中2の最初ぐらいでやってたから存在は知ってたけどさ、ああいう何の前置きもなしにやらされる座標とさ、そもそも座標ってなんなの?っていうところから始まる座標って全然違うじゃん?前にも書いたけどデカルトすげー!!!!っていう感動とともにやる座標は全然質が異なるわけで。何の目的も説明されずに「カリキュラムだから」ってことで数学の歴史的な背景とか抜きにそれだけやるなんて大間違いだよね。そんなのつまらなくて無味乾燥なのは当たり前なわけで。ポアンカレも書いてるけどそういうくだらない数学をやらされるとすれば大抵の人はそれを嫌うか、あとはパズル的なくだらない数学をゲーム的に楽しむっていう低俗な輩が「数学好き!」なんて言い出すことになるわけでさ、だからダメなんだよね。
高校生ぐらいで学校のカリキュラムをやりながら「数学好き!」なんて言ってるやつは大抵数学に向いてないだろう。だって本当の数学好きだったらむしろ数学が大嫌いになってるはずだからね。まぁそれをメタ的に分かっててんで一般書とかを読んで数学の面白さに目覚めた中学生とか高校生なら素養多いにありだけどね。数学ガールでも遠山啓の数学入門でもなんでもいいんだけど。こっちは学校の教科書と違って数学の面白さとかエッセンスがすげー詰まってるから開眼する人は少なからずいるよねっつっても多くはないだろうけど。でも学校でやってるあの糞つまらないのとは全然違う!とは思うよね。
専攻が数学とか数学が好きっていうと「えー!!」ってなるのは一般的な数学のイメージは中学や高校で無理矢理押し付けられた数学だから、あんなものを楽しむなんて信じられない!ってことになるんだよね。そりゃそう思われるのが当然だ。だからまぁ「えー!」っていう人に説明するには「学校でやらされる数学と実際の数学は全然違う」って説明から入らないといけないんだよねって別に説明しなくてもいいんだけど。でもなんかさ、なんでこんなに数学は嫌われるんだろう?っていうようなことを数学者とか愛好家がたまに言ったりするじゃん?でもこれはおかしいよね。何でも何も学校でやらされた数学を思い出せば一目瞭然だろうっていう。俺なんかアレルギーで数式見ると反射的に腹が痛くなったりしてたわけで。いかに教育が間違ったやり方をしてるかってことだよね。ましてや俺みたいに開眼してこんなにハマってるって人間が元は被害者で数学嫌いになってたってさ、仮にコミカレのリベラルアーツでたまたま本当の数学に出会わなかったらどうなってたんだ?って考えるだけで恐ろしいわな。
あ、んでもあれだよね、逆にプロパーでやるなら数学史は必須だよね。特に基礎は歴史的なアプローチから教えなきゃダメでしょう。そういう発展ありきで現代の数学にこうつながっているとか、当時はこういう概念がなかったからごり押しでこういう計算をして近似値を出してましたとかさ、逆にこういう概念が無かったのにも関わらず現代に近いような数学の概念を生み出してたってのが凄い!っていう驚きにもなるじゃん?それを一番感じるのがアルキメデスだけどね。今回読んだヴェイユの本を読んでて改めて思ったけどやっぱり歴史的なアプローチってすげー大事だなっていう。これをやることでつまらなかったことが面白く感じたり分からなかったことが分かるようになったりするんだよね。流れってのはすげー大事だ。文系だとある意味必須だもんね。哲学って言えばそもそも哲学史をやるようなもんじゃん?数学っつってもようは1960年代ぐらいまでのやつは完全に数学史的にやるべきだよね。でもこれは明らかに時間がなきゃ無理で高校のカリキュラムに入れるのは無理がある。だからプロパーか理系だけが大学でやればいいんだよね。
数学ってドライに理論だけやってちゃダメだよねぇー。本当に数学史って大事だわ。いや、しつこいようだけど哲学って誰々が何何って言ってましたじゃなくてさ、こういう流れがあってこういう思想が発展したとかさ、まぁそれって自ずと純粋な歴史学とか宗教学ともつながるんだけど、そういうの無いとダメじゃん?誰かがこう言っていたみたいなウィキペディアレベルの知識じゃなんにもならない。歴史的理解があった上で成立するもんでしょう。まぁ歴史的理解が無いと理解できないわけじゃないけど、でも歴史的理解があったほうがより理解は深まるよね。当時はどんな時代背景だったのか?とか本人がどういう境遇にあったのか?とかってすんげー大事じゃん?
そういうのは意味ないっていう人もいるけどまぁそりゃ間違いですよね。浅い理解でいいならいいんだけどっつっても哲学なんてどれでも大体歴史的なバックグラウンドと簡単なバイオグラフィーなんて載ってるからね。まぁニーチェの本にしてもカントの本にしても。で、それ以前の哲学者の名前が出てきて「誰々が言っていたような・・・」って言及が必ずあるからギリシャ哲学から大体知っておかないとどうにもならなくなるんだよね。だから結果的に哲学史全体をやることになる。ようは学習のプログラムの中でself-containedなんだよね。切っても切り離せない関係にあるっていうか。まぁそれは社会学とか政治学ならもっと顕著だよね。時代背景や歴史に言及せずに成立する社会学や政治学なんてあるわけないんだから。でも実は数学も同じぐらいの歴史を知ることの重要性があるんだよね。
で、まぁ今の数学教育なんてそれからほど遠いでしょ?言うまでもなく。だからそんなのやめたほうがいいわけよ。四則計算とその延長ぐらいのそれこそ日常で使うぐらいのをやるだけでいいわけね。ひろゆきが高校の先生に「数学なんてやる必要があるんですか?」って聞いて困らせたっつーエピソードがあるけど、これはひろゆきが正論過ぎて誰も論破できないじゃん?別に写像を知らなくても大金持ちになれるってのをひろゆきは体現してるわけだし、大学教師の便宜のために高校で意味の無い数学をやらされてるんだったらそんなもんはマジでやめたほうがいいんだよね。あ、ようは大学に入ってきて基礎から教えなくてもいいようにするっていうようは大学の理系の教師の仕事を減らすって意味でまぁそれをある程度高校で下地を作っておこう的なまぁ教育的配慮ゼロなものなわけだよね。
今は俺ってだいぶ数学やってるけど日常に役に立つものなんてほとんど無いよね。高度なレベルでの応用が効くとかそういうのは別にして、社会生活を送る上で知ってれば便利なのなんてほとんどないよね。あとそれと論理的であるということは別だからね。数学をやれば論理が鍛えられるなんつーのはただの都市伝説だわな。実際、数学やってる連中で人間的には全然論理的じゃないような輩なんて腐るほどいるだろうから。ましてや数学ってリニアな論理みたいなそんな単純な世界じゃないわけよ。こうなればこうでこうなる・・・なんてレベルの低い話でさ、数学ができる人が論理的なんてことは無いと思うよね。それはたまたま数学もできて論理的ってことだけでしょう。
論理学って本当にくだらないし学問的に詰んでるらしいからね。そりゃそうだわな。あんなの本当にどうでもいいもんね。数理哲学で言えば当然基礎論のほうが重要で論理学なんて意味ないでしょう。形成されてきた論理学自体は有用だけど、それを研究する価値なんて無いよね。それを研究するってことになると例のくだらない科学哲学とか分析哲学みたいになるわけだ。ああいうののくだらなさといったら無いもんね。本当に。でもフレーゲとかウィトゲンシュタインとかあの辺の時代の人たちは意味なくはないけどね。ある意味でのまぁfoundationのまたfoundationを作ったみたいな時代の人たちだから歴史的には意味があるよね。ゲーデル然り。でも現代で論理学をやること自体の意味なんて本当に無いわけよ。
あ、でも論理学の基礎をやるのはむしろ四則計算並に必須よ。中学で義務教育に入れるべきなんだよ。こうこうこうなればこうであるからこうなるっていう当然の理ができない人多いじゃん?あとは理屈っぽいって嫌われる風潮があるけど、論理ができないとダメでしょっつーかグローバル化の影響で英語とかをやらざるを得ないとかになってるならセットで論理学やらなきゃね。でもそれは数学というよりかは国語としてやるんだよね。言わばこれは言語の機能なわけで、むしろ属すところは国語だよね。言葉のつながりを明確にするっていうさ、人に論理的に物事を説明するとか、それって重要じゃん?それこそ社会に出たときに超重要になるじゃん?だからそんなもん義務教育に組み込まなきゃダメなわけだ。俺が言ってるのはただの論理学で数理論理学とかじゃないからね。俺が不毛だと言ってるのは後者の数理論理学ね。
むしろ言葉の機能としての論理学なんてのは国語とセットでやらなあかんわけやないですか?だから義務教育に入れろ!って言ってるわけや。それこそ代数を無くして論理学やれぇいう話ですわ。まぁでも代数に限った話やないと思うんですよ。もっと細かく見れば全然いらへんのっていっぱいあると思うねん。逆に理系に進みたいやつが高校とかで任意に選択できるようにすればええわけやんか。特に数学なんてfirst impressionがめっちゃ大事やねん。今のやり方だと大抵の人が嫌いになるわけやから、それは害悪でしかないねん。でもまぁ四則計算とちょっとした応用なんてのはまぁ大抵誰でもできるやん?だからそんぐらいのをやっておけばええねん。で、専門にしたいやつだけ任意でテクニカルな数学をやれるようにしたらええねん。高校のカリキュラムで数Cが廃止されたらしいけどこれめっちゃええと思うねんな。この勢いでもっとカリキュラムを減らしたほうがええわけやんか。
押しつけはアカンよ。誰でもできるようなやつならええけど高等数学への入り口みたいなやつを全員にやらせる必要はないねん。だからもっと基礎的なもんだけやったらええねん。
まぁ今日はそんな感じでこの辺でいいかな。んじゃまた。