思う存分狂うしかないっていう。

こないだまぁどうしてそういう経緯に至ったかはともかくとして色々と話があってんで最終的にまぁなんでこんなに生きるということが辛いのか?ってことになったわけよ。妹と。まぁ妹は全然俺と違って本とか読まないんだけど、基本的にまぁ兄妹だから超リア充とか合コン三昧なわけないじゃん?同じように必然的な孤独になってるような感じなんだけどさ、まぁかいつまんで話すとだな、俺はやっぱりまぁ色々なものを読んでもこの辛さとか意味が分からないわけじゃん?


だから覚者になれないわけだけど、妹に言わせればそもそも毎日つまらないとか辛いのが当たり前で意味なんて考えても無駄ってことなんだよね。意味なんて問いだしたらキリが無いし、生きていることに必然性なんてないわけだから、それを問いだすと何もかもが論理的な帰結として意味無しってことになるじゃん?ってことを言ってたんだけどまぁそうだよねぇーとか言いつつも俺は恐らく感受性の問題でそれは理屈では分かっていてもその苦痛やつまらなさに耐えられないんだよね。だから凄まじい強度を常に求めるっていう。


それがまぁようは知的刺激とかになるわけだよね。でもそれはいつも書くように消極的な意味でだけどね。大抵の刺激には慣れたし、あとは年齢的にも別に俺みたいな生活じゃなくても色々なことに慣れてきて何か打ち込めるものが無いと精神的に詰んでくるって歳なんだよね。まぁそれだけ利口にはなってるとは言えるよね。今は昔みたいにバカみたいにレコード買ったりとか異様なまでにジャズに凝ってみたりとか、まぁそういうのをやり尽くしたからもうないわけじゃん?で、哲学も割と一通り読んだっつーか読むとむしろ読まなくていいものとか読む必要が無いものってのが分かってきて、んで世の中に出回ってる本の大半がそんなもんばっかだってことが分かるんだよね。そんな中で生き残っているのが古典で、だから一概に古典は人文系にありがちな権威主義の産物だとは言い切れないようなところがあったりして。それは恐らく文学でも何でもそうなんだろうね。


で、その辛さなんだけどさ、仏教的に言えばまぁ例えば今の俺の状態で言えば意味を求めるからこそ辛さが生まれてきてるんだよね。ようはそこに何も無くて何も生じさせなければ、例えば有と無のような関係性が成り立たなかったりさ、そもそも意味は?と問うから俺は意味という有を問うてるわけだけど、でもそこで論理的な帰結として客観的には無でしょうってことになるんだけど、じゃあどうすればいいのか?ってことになってさ、妹みたいにそもそもその疑問は意味が無い形而上学みたいなもんだからっつーか意味がある形而上学もあるけどようは凄まじく私的な形而上学なんであって、その意味の無い問いを生じさせてるのは俺なんだよね。


だから他の人は何が楽しくて生きてるんだろう?って街に出たりすると思うわけだ。まぁでもそれは俺という主観目線だし、結局は有を求めているという視点からの観察なんだよね。だからこそ無が広がっているように見える。でもそれは有に対する無なのではなくて、妹が言うような何も生じない無なんだよね。あとはそれは所与じゃないわけだ。意味論的なことは所与ではないし人生を送っていく上での必要条件でもないからそもそも問うということ自体が任意なんだよね。あとは俺みたいにどうしても考えてしまう性分なやつが考えちゃう。


でもなんかさ、エンタメっつーかまぁ楽しいこととかって結局は虚しさを埋めたりするものって機能もあるじゃん?ずーっと誰かと居たりとかメールやってたりとかさ、一人になると何とも言えない孤独が襲ってくるからそういうのを感じさせないように虚空を埋めるかの如く時間を何かで埋めていくっていう。そうやって生きていくのが人間だって言えなくもないよね。それは別に虚空だからやっているわけじゃなくてそれが自然に分かってるから何かしたりとりあえずブラブラしてみたりするわけじゃない?で、色々と欲があるうちは性欲でも物欲でもいいけど街に出れば色々と欲を解消したりだとか、それをやっているだけで楽しいからとりあえずその場はそれでいいってことになると思うんだよね。


でもそれこそ本を読むとか数学をやるってのがメインな人にとっては街の意味が無いんだよね。まぁ本屋ってのがあるけどさ、でも洋書の専門書を読むようになるとそもそも一般書を買う機会ってのが無くなるし、まぁ買ってはいるけどさ、でも本屋に行くと下らない本を買っちゃうのが怖くて数学の専門書ばかり買っているっていうこともあるんだけどさ、そうなるとまぁいつもの例の話になるんだよねぇー。ようはそんなに数学ばっかならさ、電脳で数学のデータベースみたいなのに脳を直結させてさ、自分自身が数学になるみたいなさ、それが究極的な意識のあり方なんじゃないか?って思っちゃうんだよね。何しろ他のことがすべて無駄なわけだから。


でもそれは他のことが無駄だからそうするしかないというよりかはポジティブな意味でそのぐらい自分にとって数学ってのが大きなものになっているからもう電脳でいいよってことになるんだよね。まぁもちろん本が届いて封筒を開けて・・・っていう本ならではのプロセスとかさ、本の触り心地とか匂いとかってのはあるにしてもまぁそれってフェティシズム的なものじゃん?情報としては数学なわけでさ、そうなるともう体がいらないんだよね。


むしろ体があるおかげで食費がかかったり家賃がかかったりするわけじゃん?安部公房の赤い繭っていう短編があるけどさ、簡単に言うと俺の家が無いっつって嘆いている男がこんなに家がいっぱいあるんだからどこかに俺の家があるに違いないとか思って歩いているうちに自分が赤い紐みたいな感じになって足から分解されちゃってその紐で出来た赤い繭ってのが自分の家になったけど次は自分が帰る体が無い・・・みたいな話なんだけどさ、自分が家になっちゃったらしょうがないみたいなことでもあるし、そもそも何のために家に帰るのか?っていうさ、それは体があるから家に帰らなきゃいけないわけじゃん?


でも体を持つということはそれにかかるコストがあるし色々と面倒なことがあるから別に自分は数学のことを知覚する意識みたいになっちゃえば永遠と数学が出来るじゃん!ってことになるんだけどさ、んだからそういう意味で死にたいわけではないんだよね。ただ凄く体が邪魔であるってことなんだけど、今のところは擬体化とか出来ないし、意識だけを取り出すみたいなことも無理なわけだ。だから生きているしかなくなるけど、でも生きているということは色々と大変で辛いことだらけになるっていうさ、俺はただ自分の知的刺激を満たしたいだけなのに体がそれを邪魔するんだっていうさ、まぁそう思ってたけどね、でもまぁせっかく人間に生まれたんだから体があるということで楽しめることってのを能動的に探していって身体性そのものを楽しもうじゃないか!ってことになったわけだよね。


で、そう考えるともう本当にセックスしかないんだよね。だから俺は一生童貞モードはやめてセックスにコミットしていくべきだと思ってるけど、でもそこまで意欲が湧かずに家族にも心配されるぐらい女性に興味を示さないんでゲイかと思われていたりするって現状があるわけね。こないだ蒼井優とラブホテルに入ったけどセックスできないという夢を見たって妹に話したらそういう夢を見るということが良かったって言ってたね。そういう人並みな人間っぽいところとか男っぽいところがないと本当に俺の言う虚無感というのが凄まじいリアリズムを生み出すじゃない?いや、この人間のあり方だったらそれこそ世の中どころか自分自体もすべて虚空に見えるに違いないってことだよね。


でも面白いのはセックスできるとすれば吉高由里子としたいけどなんで蒼井優だったのか?ってことなんだよね。多分実際付き合うなら蒼井優なんだろうと思ったけど普段格別そこまで好きだとは思わないのに夢に出てくるって面白いよね。で、そのラブホがすげー幻想的でさ、黒服の変な恰好をした女性が受付でさ、料金が7000円だっつーんで夢の中の蒼井優が払ってくれたんだよね。で、すんげーわけのわからない音楽がかかっててさ、「うわーすげー音楽だなぁー」って聞き惚れてるんだけど夢が覚めるとそれを作ることが出来ないっていうさ、それが出来たら俺はモーツァルトみたいになれるとマジで思うんだけど、本当にそういう意味で夢でしか鳴っていない凄い音楽ってあるんだよね。


まぁそれはともかくさ、なんか狭いところなんだけどね、古い洋館風なんだけど階段は汚い飲食店みたいな感じでさ、んで階段の端にマヨネーズとか鍋とかがごちゃごちゃに置いてあってそれを避けながら通らなきゃいけないんだよね。で、それを通っていざ部屋に入ったらなぜか蒼井優ともう一人の女友達ってのがなぜかいて、んでその子がいきなり発作だか痙攣起こして倒れてさ、んで病院に担ぎ込まれて亡くなったみたいな大変なことになっちゃってさ、で、俺はセックスが出来なかったなんてことばっかり考えてるわけ。で、あー蒼井優の女友達は死んじゃったし、セックスはできなかったし・・・とか思いながら俺だけはなぜかそのラブホに泊まっててさ、蒼井優は病院に一緒に行ったわけよ。で、パッと目が覚めてもこれは夢じゃなくて、俺は昨日この不思議なラブホに入って、んでもああいうことがあって、んでとりあえず寝たんだっけ?って思った瞬間に俺は蒼井優の彼氏なんだ!とか思って妙に浮かれたりしてたんだよね。これが現実なのか!と。


なんかブニュエルの映画みたいでさ、やりたいと切望していることがすげー変なことで出来なくなっちゃうんだよね。ブルジョワジーの秘かな愉しみみたいな感じだね。その食事できない理由ってのが変な理由が多い。それがなぜ拒まれるのか?ってさ、それは深層意識でやりたい!と思ってるけど超自我みたいなのがそれを禁じているみたいなさ、でもそれで言うとやりたいことで言うとさ、夢の中ですげー行きたい本屋ってのがあってさ、んでなんかの時にそこに行く予定だったんだけどなんかそれがやれなくなっちゃうんだよね。本屋に行けなくなっちゃうのね。だから本屋で物色しているという夢は滅多に見なくて本屋に行けないという夢はよく見るんだよね。


でも前に本屋で色々と買えたっていう夢を見てさ、んで買ったのが数学の本ばっかなんだけど、なんかとにかく面白そうな奇々怪々な理論が述べられている本でさ、で、それを読み解くのが凄く楽しみだ!っつって帰るんだけど夢が醒めちゃうみたいなね、んじゃあその理論は何だったのか?ってことじゃん?例のラブホで流れてた音楽と同じだよね。恐らく何らかの具体性があってそれに惹かれて本を買ったわけでそこに何かがあったに違いないのにそれが見れないか、もしくは見ていたり聞いたりはしているんだけどこの世に持って来れないんだよね。とりあえず凄まじく変で凄かった!っていう印象となんとなくの朧げな記憶しかないから再現できない。


なんか話がセックスから夢の話になった気がするけどさ、ようはあれだよね、セックスっつっても簡単にやれるわけじゃないしさ、色々と大変じゃん?だからいつもの調子でそれに対してそこまでの時間とか精神力を費やす必要があるのか?ってことになるじゃん?でも俺にとって身体性って性のことしかないんだよね。もう10時間ぐらいセックスしてるみたいな。それはもう人間の特権だと思うので。そういう意味で性愛を知らないやつってのは人生の半分以上を損してるのは間違いないね。まぁあえてやる必要は無いけどまぁあるのとないのとじゃ全然違うっていう。


結局だからまぁ凄く根源的なものだよね。性の欲求とか知の欲求とか。でも知の部分は意識さえあればオッケーだからむしろそれを阻害してるのが体じゃねーか!ってことになるわけで、んでも意識だけ取り出すのは無理だから体があることで良いと思えるようななんかをやらないと体の持ち腐れになるでしょうってことでそれがセックスになるんだよね。まぁもちろん五体満足なだけで御の字なんだろうけどさ、なんかそれとこれとは違うんだよね。ありがたみを感じないわけではないんだが。だから結局まぁ虚空だということは分かりきっていて、なおかつそれが完全なる無だってことも分かっていながら自分の精神が未熟であるがためにそこに有を発生させてしまっているから有から生ずる無が生まれてしまっているってことだよね。完全なる無は客観的な無だけど有から生ずる無は人に絶望を与えるじゃん?それは全部自分の思い違いなんだっていうさ、ようは無明ってことでしょ?


人生の意味なんてのは俗念だっていうことなんだけどさ、でもそういうタチだからこそまぁ有に向けてとかね、夢に向かって進むということで現在の強度を確保するとか、体があって意識もあるってことに整合性を保たせるみたいなさ、でもその夢に向かうということが悪く言えば結局はその大問題の有そのものをより大きいものにしてしまっているからこそ無がそれに比例してどんどん大きくなっていくってことでもあるんだよね。でも俺は夢が無いと生きていけない人間だから結局はその無と闘っていくしかない。悟るのは無理なんだよね。悟りの道理は分かるけど悟れてないってことはもう無理ってことなわけだ。


でもこれってすげーパラドックスだと思うんだよね。有があるからこそ無が生まれるし、有を求めるからこそ無も大きくなるっていうさ、でもそれをメタ的に俯瞰するしかないんだよね。それは分かりきったことだけどもでもそれだと毎日つまらないからあえて有に向かって無が増大しようとも無に抗うぐらいの有を自分で見つけるなり作り出すしかないってことだよね。でもこれには凄まじいパワーを必要とするんだよね。だから夢を持て!って言うのは有を増大させろ!ってことなんで精神的なエネルギーが無い人にとってはありがた迷惑なんだよね。それに気がついたのはここ2年ぐらいだよね。


いや、それは耳蝉さんだから出来ることなんであってそんな生き方とかマインドセットになれる人なんてそんなにいませんよって言われるともうどうにもならないし、でもそれって客観的に見ると勝手に有を増大させて相対的な無を増大させているおめでたいやつってことにもなるじゃん?まぁそこをね、増大させるってことに強度を見いだしてればいいんだけどさ、でもちょっと躓いたりするとvoidが凄まじくデカくなってるんで必死に自分で有を生成するしかなくなるんだよね。ドゥルーズとかの生成論ってまぁこういうことだよね。でもそれはすげーメンタル的にタフというか、メンタル的なパワーが無いと無理なんだよね。


ももう俺は引き返せないぐらい有をデカくしてきてしまっているから無もデカくなってるし取り返しがつかなくなってるなぁーとは思ったんだよね。妹みたいに最初から有なんてものを認めないが故に無も生まれないというスタンスでやってきたならともかく、それは有を求め過ぎて無をデカくし過ぎたみたいだね。でもこれって株とかの投資みたいなもんでさ、リスクもあるけどリターンも大きいっていうさ、んでもその手に入れた金で何かがしたい!っていうのがあればいいと思うんだけどひたすら金儲けだけっていう金儲けが目的になってるバカいるじゃん?


そういうバカを俺は軽蔑してきたけど、でも結局俺も同じようなものなのかな?って思ったんだよね。確かにまぁそれこそ知識自体が好きだからとりあえず知識を得るってことに喜びを感じるのは言うまでもない。それは下品な意味での儲けるためだけの金儲けなんかよりかはよっぽどいいとは思うけど、でもリターンが何か?とかテロス的な最終目的が無いようなものってのは結局はバカの金儲けと同じなんじゃないか?って思っちゃうんだよね。所詮は自己満足というかなんというか。だからやっぱり社会的認証ってのが必要になるんだよね。中野さんの本にも書いてあったけど。


でも俺は社会認証のために学問をやってるわけじゃなくて好きでやっているそれこそ私学なわけだけど、でもそこで有を求めようとするともうそれは社会的な意味での貢献とかって話になるんだよね。でもまぁそれは持ってて悪いことではないから良いとは思うんだけど、でも驚いたことにこういうのが必然的な帰結から生まれてくるんだよね。結局は自分のためでも世の中の役に立つような、貢献するようなことがしたい!ってことになるわけだ。だから自分だけ楽しんでればいいやーってことにはならないし、自分だけ楽しんでいるという私学のやり方にバカの金儲け的な滑稽な姿を見るわけじゃん?だからやはりテロスが必要なんだなと思うわけね。


でもそれは趣味程度の自己満足でやっていればいいことを大きな目標と社会貢献みたいなのを自分で謳ってしまうことで自分自身を追い込んだり実存的なクライシスを生んだりするような要素にもなりかねないっていうさ、でもそれがまぁ背負うってことなんじゃないかなぁー?とは思うよね。マスターベーションからは生まれないような凄まじいプレッシャーね。それはやっぱり苦労するという意味ではなくて課さないとグダグダになるなって思うんだよね。そうなるともう物知り博士コースじゃん?一番なりたくないタイプの。あとは趣味の数学的なモチベーションでやってる数学とか。やっぱりでもそこは気質としていいんじゃないかと思うけどね。中途半端なものが嫌いなんだったらやっぱりとことん凝って凝りまくって極める道に入るっていうさ、その道を歩いているということ自体が知のプラクシスってのを生成すると思うんだよね。それがまぁすなわち大きな意味でのフィロソフィーだよね。The quest for knowledgeね。それは同時に正の強度ももたらすっていう、でもそれは背負わないともたらされないんだよね。


で、これを勝手にやってると端から見ると狂人にしか見えなくなるんだよね。浮世離れしてる人になるんだけど、そこを社会とつなぎ止めるのが数学の良いところでさ、やっている本人が狂っていようが証明が正しければそれは正しい数学なわけでさ、狂人が書いたエッセイとか言葉とかってことにはならないんだよね。そういう意味で数学とか科学ってのを一つでも持っているだけでだいぶ違うよね。それはまぁ数学をやろうと思ったきっかけの一つでもあるよね。本人が精神病だろうが気違いだろうが結果がちゃんとしてればそれは社会的に認証されうるっていう確固たる客観性の担保がある。それは凄く強いよね。だから思う存分狂うことができる。ディオニュソス的陶酔だよね。やっぱりいつも俺はそこにたどり着くな。でもそれは創造性が付随していないといけないから傍観者のように数学や知識全般を眺めているわけにはいかないわけだ。だからまぁとりあえず措定されるテロスとしての創造性ってのが今の自分が生きる根拠になっている気がする。


なんかちょっと上手い感じのしめになったんで今日はこの辺でいいかな。んじゃまた。