epimbiさんへの返信。

epimbi 2012/10/04 12:09


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「何をもってわかったことになるか」って禅問答みたいで難しいですけど、理解にもいろんな層があり、対象を認識した途端それは始まっていて、そして、誰にとっても一種の馬鹿の壁はあるのでしょうね。たとえば、、、カントやヘーゲルに関する新書みたいなのから初めてだんだんレベルを上げていって最終的に原著になるんだけど、でもオリジナルを読む頃には相当その内容自体に精通してるんで難なく読めるっていうさ、いや、俺が仮にフッサールの本をいきなり読めって言われたら無理ですよ。入門書やらいろんな現象学にまつわる本を読んできてるからオリジナルのフッサールのテキストも理解できるようになるわけで、最初から原著にかじりついてそれを1年かけて読むとかさ、まぁ別にそれがダメだとは言わないけどあまりにも敷居が高過ぎるっていうかさ、それをデフォとしてしまうのは凄く問題があると思うんだよね。



私もそういうアプローチしかとれません。そして文学なんかも長文読むのがめんどくさいので、ついつい研究書のほうに先に手を伸ばしてしまうのです。でも、mimisemiのやり方に話を戻すと、どの新書読むかとか、どの順番で読むかなどで、わかり方が違ってくるような感じがして、それはそれで悔しいような感じがするのです。だからこそ、正攻法のようなやり方が正統であって、まっさらな状態で自分の読みを早く見つけ出す方法が勧められるのだと思うのです。


数学のような世界に自分なりの読みというのがあるのかどうか私は知るよしもありません。でも、自分なりの読みを探すということは自分を知ることでもあり、自分と対象とのユニークな関係を探すことでもあると思うのです。地方に私はいて、中央で出版された本を読むとき、私はそのことに意識します。私はその本を隅っこのほうで読んでいる読者の一人です。でも、私はその距離感を大事にします。中央にいたら、もっと著者についてのいろんな脈絡とかクリアーにわかると思うのですけど、端っこで読む楽しさは図書館という宇宙の中で自分なりの本の位置を定位することができることです。自分なりの脈絡。


これは西欧で出版された本を極東で読むときも似たり寄ったりだと思います。そして地方都市で読むとき、さらに入れ子になった感じで読んでいるのを自覚します。いまここのここについて書いたのですが、いまのほうは知識が大衆化される過程です。私は知識を摂取することによって意識的な意味で上昇していく感じはあまり持たず、知識がむしろ下町生まれ、下町育ちの私のところまで降りてきた感じを受けるのです。私は今、家族と住んでいる環境を客観的にみるにつけ骨がらみの庶民だと思っています。家じゅうキッチュなもので溢れていますから。


でも、下町は街も中心部に近いので文教施設なども歩いて行ける距離にあり、私のような階層のものでも、文化に触れる機会はあり、そこを足場にして知的に成り上がれる機会はありました。幸運なことにそんな時期に育つことができました。それが私にとってのいまであり、卒論のときに強制的にワープロ買わされたことにより、タッチタイピングも可能で、そんなわけでここでこんな文章書くことも可能になりました。ちょっと上のオジサンがタッチタイピングみると、ピアノみたいだと驚くのです。そう言われて私のほうが驚きました。それが私にとってのいまです。話がぜんぜん別のほうに飛んでしまいましたが、私にとってわかるというのは対象をわかると同時に、対象に向かう私のことを知ることであり、その対象に興味をむけたことを含め、対象と私の関係を探ることでもあります。そして、私とはいまここに制限された私でもあるのです。


分かり方の違いは僕も感じていました。でもこれはある意味逆説的で新書で入っているからこそ根本的な理解がその新書や入門書に依るところが多くなってしまっている可能性があるので、だから理解をもっとファンダメンタルな部分で強化する必要があるんです。だからおそらくいきなり原著に行くよりも活字を読むということにおいては入門書から入るほうが膨大な量になると思うんですね。いきなり原著に行けないからこそ、それに関する文献をとにかく読みつくさないといけない・・・というぐらいに。学問に王道はありませんから、結局は簡単に自分の読みを理解するという方法はないと思うんですね。


それこそ大量の文献を読んで大量の時間を費やさないと自分の読みというのは理解できないと思います。たいていの人はそういう次元に行く前にウィキペディアとか要約本とかでわかった気になるので、だからこそ独特の薄っぺらい形骸化された「俗流」の解釈というのが横行すると思うんですね。これはどの時代もどの時代でも同じようです。知識と自分との関係性というのは面白いですね。僕が思うにおそらく知識のあるべき姿はその下町まで下りてくる感じだと思うんですね。でもそれだと困る人たちがいっぱいいるわけです。特権階級や貴族階級のものしか理解できないような言い回しをして本来は物凄く簡潔なことを無駄に晦渋にして学問に権威を生み出しているわけです。少なくとも哲学なんて根源的な意味では理解不能なことは全然言っていませんよね。


ただ言葉やレトリックが難しいだけで言っていること自体はすごく簡単なことばかりだと思います。それを庶民のレベルでも分からせるようにするのが本来のインテリの仕事なわけですが、インテリ自体が自分の知性や学問の衒学的な面に酔っているので、だから学問自体が倒錯したインテリのマスターベーションみたいになってしまうんですよね。特に数学なんかでも数学関係の連中は自分たちがやっている高尚な研究を簡単な言語にされるのを凄く嫌うようです。数学界も数学界なりの人文系に匹敵するようなバカが多いんだなぁーって思いましたね。別にジャンルに関係なくインテリとか学者の大半はそんな感じなのかもしれません。まぁそんな輩が多いからこそ本物が光るわけで、そういう俗ものはただのかませ犬だと思えば都合がいいかもしれません。


まぁでもなんでもかんでも超訳だの漫画で分かる!だのっていうような、ああいう感じの知識の大衆化は(epimbiさんが自分のことを言う時の大衆化ではなく、一般的な意味での大衆化なんですが)良い面がある反面、そういったものをきっかけに知識を深める!ということになればいいと思うんですが、悪い面はまぁそれこそ大衆的なものに付随するような属性の薄っぺらい理解ですよね。なんでも簡単に分かるということがはたして良いことなのか?というのは仲正昌樹が言っていましたが、確かに要約というのは要約している時点で要約している人の恣意的な編集が行われるということですから、それはその編集をした人の理解ということになりますよね。それがどんなに素晴らしい要約でも、例えばプラトンの国家の要約なんてのがあったとして、その要約というのはその人の作品でしょう。もうすでにプラトンのものではありません。


ましてやプラトン哲学はダイアログであるというところに大切なポイントがあるわけで、その主要な概念の要約を取り出したところで何にもなりませんね。それはもうダイアログなわけですからそのダイアログを読まなきゃいけない。まぁ僕は原著主義のような原理主義者ではありませんが、知識の大衆化はようはバランスだと思いますね。でもやはりたいていの人には無理だと思うんですよね。いくら簡単なことを言っているといっても「簡単なことじゃないか」ってことが分かるまでに膨大な時間がかかりますし、おそらくそれなりの知性も必要とされるでしょう。それを超訳ニーチェとかただの要約本だけを読んで満足している人がそういう境地に行くかというと行きませんよね。でもそういう大衆化を否定してしまうと結局は僕が最初に書いたような、特権階級的な知識の独占みたいなことが生まれてしまうので、難しいところだなぁとは思います。


でも少なくとも数学に関してはそれがないんですよね。数学は結局は小学校や中学校で習うぐらいの数学が発展したものなので、原理的に見れば色々と分解するとその理論なり数式のアトムみたいなものはただの割り算だったり掛け算だったりするわけです。高度な数学じゃないと適応できないというのは論理的な条件が多くて、そもそもの四則計算レベルのことが覆るなんてことは滅多にないんですよね。だからこそ数学は実はそこまで難解なものではないので、もっと取っつきやすくする必要があるなぁとは思うんですよね。やることは結局は分解なので簡単にわかりやすく説明されているに越したことはないわけです。そういう意味で科学は大衆の知識であるべきだと思いますが、でも微分積分を高校生に課したりするのは酷だと思うので、押し付けはやめたほうがいいとは思いますね。やるんだったらどんな高校生でも理解できるようなやり方をしなきゃいけないですよね。でも数学の場合、それが可能だと思います。少なくとも高校数学ぐらいのレベルだと我々の物理的な諸条件というような常識を飛び越えることがありませんから、すごく具体的な理解が可能ですよね。で、抽象化は大学に入ってからとか、然るべき人のみがやればいいわけです。


話が長くなっていますが、僕は数学に関しては下町どころかゲットー生まれなので、今は数学がゲットーにまで下りてきているという感覚がありますね。僕の認識が高まったのではなく、僕が数学を理解できるようになったことで、実はそこまで凄まじく高尚で難解なものではなかったということが分かったんですよね。でもまぁゲットーから見た高尚で難解なレベルって所謂大学数学みたいなレベルなので、その上に行くとやはり難解にはなりますよね。ようは大学レベルまでは見方によっては全然庶民レベルじゃないかってことなんですよね。で、それ以上はやはり向いている人じゃないとちょっと難しいところがある。それこそ感覚みたいなものを必要とされるような次元になるんですよね。それが実際の数学の高みだったんですよね。ゲットーから見た高みは大学数学だったけど、今は上を見ると本物の数学というのが見えて、自分はそこにたどり着きたいなと思っているわけです。


なので対象と自分の関係も相対的なもので、自分の知識量や理解力が深まればまた関係性もどんどん変わっていくと思うんですよね。それは知性にも言えて生まれつきの知性もあるけど後天的な要素で伸ばせる知性ってあるので、それは生得的で決定的なものではなくて、自分によって変わっていく動的なものだと思っています。その中でまた対象と自分の関係を観察して実際にやっていけそうかどうか?ってのを考えるという感じですね。好きでもあまりにも向いてないものは僕はやるべきではないと思いますし時間の無駄だと思うので、良いあきらめ時を知るためにも常に観察していく必要がありますね。結果あきらめが必要ないというのが理想ですが、数学ってそういう甘い世界じゃないんですよね。だから自分で勝手にやっていても勝手にシビアな世界だって感じるわけです。


数学の場合、こちらが距離を縮めているつもりでも必ずしも近づくとは限らないみたいなところなんですよね。だからこそ数学がゲットーに降りてくるということだけではなくて、自分がゲットーを抜け出す必要が出てくると思うんです。