Epimbiさんへの返信。その2。

Epimbi 2012/10/06 18:38


独我論的世界というか、それぞれの人は自ら積み上げたり、もしくは状況の力で押しつけられたりした独我論的な世界をいきていて、それがそれぞれの人の生きられた世界になってます。マトリクスの飼育瓶みたいにそれぞれの人がそうなっているという妄想も可能ですし、mimisemiさんの世界の中ではmimisemiさんだけが存在していて、あとの人はNPCみたいなものかもしれないし、それと裏返しのように私の世界でそうなってたり、それぞれの人の世界でそうなってたりします。そのへんはわざわざ私が書くほどではなく、誰でも考えることだと思います。まあ、「ここ」が実は植物状態になっている、mimisemiさんの脳内世界であったとしても、毎日をその中で暮らしていかないといけない以上受け入れるしかないのでしょう。実際、物語の中で異世界に飛ばされた人たちは、その事実を受け入れ、異世界の中での毎日をしのいでいくことになります。それが神様によって作られた世界であれ、開発者によって作られた世界であれ、その世界から出られない以上、その中の世界で生きていかないといけません。


で、思うのですけど、mimisemiさんはこの日本という社会からしばらく抜け出て、アメリカという別の社会の中で暮らした経験がおありです。そして、また帰ってきて、この社会で暮らしているという経験も。私は海外での生活経験はありません。まあ、せいぜい一か月ぐらいの間、アジアを周遊した経験がある位です。それでも、それは20代前半にやったことなので、今の私にはかけがえのない経験です。うーむ、何かそのあたりにも考えると面白い問題がありそうなのですが、私のアタマでは思いつきません。一回、筆おいて頭冷やしてからまたきます。


Epimbi 2012/10/06 19:14


で、5分くらい考えて、キーワードは「暮らす」という言葉かなと思いました。「生きる」でも、「生計を立てる」でも構いません。そのキーワード立てると問題は識別不能性ではなくて、選択不能性なのではないかと思うのです。この世界がイヤならあの世界に行けばいいということにならないのです。擬似的な意味なら、この世界の中での引っ越し、アメリカでもいいし、私のようにセカンドライフでもいいのかもしれないのですが、
それは可能ということになります。でも、この宇宙という傘の元にいるわけで、どうしても嫌なら死んでしまうしかありません。もっともこの選択も「取り返しのつかないこと」なのかもしれないし、どっちにしろいつかは死んでしまうので、それまで待つほうが無難だったりするのです。この世界がもっとしょぼくても、その中で我慢するしかないのですが、きっとその世界しか知らないのです。私たちがもっとすばらしい宇宙を知らず、この世界で我慢しているように。


「暮らす」という概念、そもそもこの概念すらも、熱力学が支配するこの宇宙独特のお約束であって、カミサマが押し付けた洗脳的な概念であって、ほかの宇宙に行ったら、「暮らす」という概念にまとわりつくさまざまなしがらみ、そんなものが一切ないのかもしれません。もっと快適なのかもしれませんし、この世界の人間には合わない世界なのかもしれません。それも、この世界から引っ越しして初めて感じるなにかであって、コウモリの世界の宇宙版みたいなもので、まったくナンセンスな考えで、ほかの宇宙にはほかの宇宙の世界があるだけで、比較というものがなじまないのかもしれません。と言っているうちにすっかり支離滅裂なごたくを並べてしまいました。また頭冷やします。

独我論的世界というのはこの世が主観でしか認識されない限り不可避な世界観ですよね。いくら客観的に物事を見るといっても所詮は独我論的な世界観なわけですよね。そこをちゃんと認識するのが哲学や仏教などが追及している真理の世界ですよね。まぁ真理という言葉はちょっとアレですけども。Epimbiさんがおっしゃっているように僕にとってのアメリカ生活の経験は凄まじく大きいものです。世界が相対化されるようになったのはアメリカに長く居たからだと思うんですね。だからこそ別にどこにいってもあるのは日常生活だし、自分の主観からは逃れられないという、それは理屈や道理では海外生活などをしなくても理解できることですが、やはり頭で理解しているのと実際に体感するのとでは大きな違いがあると思います。


ある意味では絶望と言えるかもしれませんが、それこそ青年が思い描くような本当の自分だとか本当に自分が合っている場所だとか、そんなものは気持ちの持ちようで環境自体に大した要素はないなんてことを認識できたということは認識のレベルは上がっていますよね。そういう意味でやはり若い人は海外生活を経験したほうがいいと思うんですよね。違った意味で認識的に凄く大きなことですからね。


キーワードは「暮らす」ということは全くその通りだと思います。僕がさっき書いた「どこに行ってもあるのは日常生活のみ」というのは別な言い方をすればどこに行ってもあるのは「暮らす」ということと言えるかもしれません。で、さきほども書きましたが、この暮らすことそのものの大きさに比べると環境的な要素なんて大したもんじゃないんです。まさか憧れのニューヨークに行ってまで日常のつまらなさや空虚さを感じるなんて行く前は思いもしなかったことですからね。おかげでどこにも行きたくなくなりましたし、全く動きたくなくなりました(笑)それこそ自分の知性を高めてこの世の見え方を面白くしていくしかない!と思ったわけです。そんな意味でも僕にとっての数学や哲学は生きることそのものなんだと思います。言わば生きてて楽しくなる要素というのがそれしかないし、それによって知性や認識が磨かれますから、場所がどうこう学歴がどうこうなんてことより一番本質的なことなんですよね。それは最近気が付いたことなんですけどね。


僕は我慢をしたくない性分なので、積極的に自分の人生を面白くしようとしています。それはこの世界があまりにもつまらないということありきでのことなので、自分を磨くには現世というのは凄く良い環境かもしれません。それこそ仏教で言えば修行をするのに最適な場所ということになりますね。でも日々空虚さや時に抱いてしまうような自殺願望などと戦い続けるわけですから、最適といっても極楽という意味ではなく地獄での身を徹した修行ということになるんですよね。全然楽ではありません。あと当然持病のうつ病や不安神経症などとも一生戦い続けるわけで、客観的に見ると全くほぼ苦痛しかないといっても過言ではないと思うんですね。それはEpimbiさんと共有できるような僕ら独特の感覚だと思っています。これを普通の人に理解してもらおうと思っても無理だよなぁーって最近は本当につくづくそう思いますね。


これは人間として生まれてきてしまった言わば業みたいなもんだと思うんです。精神病を持っている人はなおさらそうですね。でもそういう思い業を背負っているからこそ見える世界や磨けるものってありますよね。そういう部分を僕は一番大事にしているんですね。だから絶対に我慢しないわけです。自分の生の充実のためならなんでもやりますね。それをやっていかないと苦しさに押しつぶされてしまいますから。


返事が遅くなってしまいましたが今日はこの辺で失礼します。