Epimbiさんへの返信。その3。

Epimbi 2012/10/12 11:35


「この世の見え方を面白くしていくしかない」という言葉はピンとくる言葉です。ただし、知性を高めてという方法を私は取っているかどうかはわかりません。


現実世界は退屈だといえば退屈なのでしょうけど、私の場合、日によって気分によって、まったく受け取り方が違うのです。どんよりしているときはひたすらどんよりです。こういう日は何をやってもダメです。本を読んでも、音楽聴いても。さっさ寝るのがいいのです。一方、躁がちょっと入っているかなあという日は、生彩に富みます。花壇の花が背景からぼーっと浮かび上がり、色彩が夢幻的でいつもと見え方がちがうのです。歩いているときは、足の裏にかかる体重移動の感覚、体の筋肉の動きによる内部感覚、腕に当たる風の塊の感覚、そういうものが愉しめるのです。風で木の葉がころころ転がるのみても楽しいし、雲をみても、街の音も、車の奏でるそれぞれのエンジン音とかもぜーんぶ愉しいのです。


これらはもしかしたら、私の貧しい現実の裏返しかもしれません。私なりの方法で「この世の見え方を面白くしていく」という訓練を行った結果かもしれないのです。「退屈な日常」とはいうものの、これは「利用者」めいた言葉であって、知ってのとおり、日常の表面しか捉えてない言葉です。日常を掘り下げるやり方にもいろいろあると思うのですが、例えば誰でもできる方法として、日常の事物それぞれを百科事典でみてみるということだけでも、日常は未知の世界の塊だということになります。それぞれの製品が特許の塊であることと似ています。


いつか、機会があればやってみたいことに「日常世界ツアー」というものがあります。日常世界の観光ガイドで卑近な日常の事物の一つ一つを解説していくものです。やれそうでいて、いつまでもやれないと思います。家政科の教科書めくればわかるように、日常も一枚めくると専門の世界で、二枚めくると未踏の世界だと思うのです。


日常の骨組みなどと言い出せば、システム論やら、物理やら出てくるでしょうし、根源的には空間の性質や時間の性質などがあってなどと言い出すと、もう私の世界を超えてしまいます。


「釈迦に念仏」みたいな愚かなこと書き綴ってしまったかもしれません。どこへ行っても、どんな境遇でも、それが毎日になってしまえば慣れてしまうでしょうし、慣れてしまわないと神経が持たないものなのかもしれません。当初はピカピカしていた事物が慣れてしまって、みすぼらしくなってしまうのはどこか酸化に似ていて、慣れてしまっていたものが異化されて、輝きを取り戻すのは還元にどこか似ているような印象を持っています。事物の表面を覆っている酸化膜のような日常印象は、目がつぶれることから守っているのかもしれません。もしくは神経が損傷してしまうことから巧妙に守っているのかもしれません。


日常を面白く受け取るための努力は昔の言葉でいえばプロテクト外しであって(ちょっと意味は違うような気もするのですが)、プロテクト外すことによって、マトリクスのような迷宮にジャックインできるのかもしれません。現実という名の迷宮、世界という名の迷宮です。もともと迷宮というコンセプト自体が都市文明のわけのわからなさを模型化したものかもしれないので最初からもともとわからないものであり、今まで一回でもわかったということはなかったのかもしれません。


わかりきっていることをぐだぐだ書いてしまったかもしれないです。「つまらない日常」と「マトリクス化した迷宮のような世界」は裏表のようなものであり、「ウサギの穴」が哲学かもしれないと思います。私はウサギの穴のこちらがわの人間なのかむこうがわの人間なのかわかりません。ただ、そういう話をどこかで齧って憧れているだけなのかもしれないですし。「あちら側」への憧れは病気以来の話なのですが、そういう脳の一種の酩酊状態に似たものを実現するために、いろんな分野の本を乱読して、体系化された世界をばらばらに戻して、わけのわからない織物みたいなものに仕立て直して、「こちら側」にいながら脳の酩酊状態に近い混乱状態を実現しているのかもしれません。アルコールをチャンポンにして悪酔いしているように、乱読によって悪酔いしているのです(笑)。


僕も気分によって受け取り方が違い過ぎるので、結局はその脳内の化学物質のバランス次第なんじゃないか!ってまぁ全部を脳に還元するのは癪なんですが、でもそうでしかないよなぁーって思います。だから結局、アルコールやドラッグで気分を良くしているのと同じような感じで、ノンケミカルに酩酊状態を作り出すために何かをやっているのかもしれません。この酩酊状態が数学の場合、かなり特殊で今までにはない感じだったので、だからそれにハマってるんだと思うんですよね。ようはハイになりたいので数学をやっているっていう。あとは最後の砦として、いくら何もかもが絶望的でも数学があればとりあえず生きていけるなっていう実存のバランスを保つ機能としての数学というのはそれこそ自己防衛的に自然にやっていることなのかもしれません。


結局でもこれは貧しい現実の裏返しだよなぁーってそれこそ思いますね。現実が貧しいから酩酊状態を求めるのか、酩酊状態が好きだからそれを求めるのか、まぁそれは相互的だとは思いますが、自分にとっての何かにハマるってことは結構現実逃避的な部分があるんですよね。で、僕はまさに数学をプロテクトを外すという行為と捉えていて、むしろリアリティというのはこっちの世界にあるって感じることができると途端に現実が素晴らしいものになるんですよね。でも客観的に見てモノは言いようで仏教みたいに現実はすべて夢幻なんだって言われればまぁその通りで、ようは自分の認識の重きをどこに置くか?ということなんですよね。で、僕はそういう意味で実存的な葛藤に負けたんだと思ってるんです。それがちょうど実存的な葛藤に悩んでいるときに数学がブレークスルーのように目の前に現れたんで藁をもすがる思いでそこに何かを求めていったんですよね。


で、おそらく直感的に数学のことばかり考えていれば色々と無駄なことを悩まなくなるだろうとかって思って、そういう意味での機関としての数学という感じでしょうかね。所謂、人文系の学問は当然現実に立脚していますから、何かと言えば限界が人間の限界になってしまったり、理想論になってしまったり、悪く言えば諦めしかなくなるという現状があると思うんですよね。理想論を語り続けられる人間はある意味でずーっとイデア界の話をできるような人間で、現実性に打ちのめされていなかったり、あとは過度に楽観的だったりすると思うんですよね。でもどう考えても現実で生きていくと悲観的にならざるを得ない。そのぐらい現実というのはどうしようもないものなんですよね。でもそれでは精神が余計に参ってしまうので没入できる世界と、知っていけば地平線がさらに広がるって信じられるような世界が必要になるんですよね。そういう意味で宗教的なのかもしれません。まぁすがるという意味での消極的な宗教性ですが。


Epimbiさんの乱読の雰囲気は凄く分かります。僕もしっかりやるというよりかは酩酊したいのでだから数学書を乱読してるんだと思います。でも数学は理解度が深まると酩酊度が高まるので、だからさらなる快楽のためにまた色々と酩酊しながら取り組めると思うんですよね。まぁ所謂中毒状態ですが(笑)こうやって書いてるとアル中や薬中と全然変わらないなって思いますね。でも確かなのは向こう側の人間になったほうが楽なので、その道を歩んでいるという感じです。僕にとっての唯一の救いがこれですね。


ちなみに日常がテーマのアニメって去年ぐらいから流行ってますよね。ラノベカルチャーって僕は日常カルチャーだと思っています。日常のカタログというほど精密なものではないけど、切り出して素材にしているという意味で言えばある意味でカタログっぽいのかな?とも思いますが、ああいうものの問題は出てくるキャラクターが美男美女ばかりだってことですよね(笑)日常のつまらなさも結局はキャラクターの可愛さやカッコよさや愛らしさで埋められるのか!っていう、まぁある意味で一番日常から遠いものなんですよね。そこに僕は以前から現代的な病理を感じます。アメリカ映画で相変わらず昔のヒーローが出てきたりしてアホみたいに活躍するのがあったりすると単純ながらも健全なアメリカンマインドってのを感じますね。日本の場合、すごく病理的なんですよね。そこからいきなり超越へと繋がったり、まぁ世界系と言われるやつだったりするんですが、そう思うともうドラゴンボールがどうのみたいな世界じゃないんだよなぁーって改めて痛感しますよね。


ファンタジーすらも日常の切り取りから超越的なものや理想的なものになっているわけで、そのぐらい擦り切れてるんだなって思いますね。それこそ日常の酸化を防ぐために日常がベースのファンタジーが悪戦苦闘しているという。まぁ演劇とかもルーツをたどれば似たような話かもしれませんけどね。それこそアリストテレスが言うようなカタルシスという感覚とか。そういう意味だと最近の日本のラノベとかアニメって機能的には凄く文学的なのかもしれないなぁーと思いますね。あとは凄まじい生い立ちの人とかを特集したような番組とか、借金がどうのとか壮絶な人生!みたいなのとか、凄く悲劇的な意味でのカタルシス的なものが多いですよね。本当に日常が来るところまで来てるなって感じます。ネットが発達してどんな電脳世界になるのやら!って10年ぐらい前は夢想してましたが、まさかこんな現実だとは思いませんでしたね。それはみんな同じだと思いますけど。