現実はオワコンという認識からはじめませう。その3。

でもあれなんだよね、現実を排除するって言ってももちろん自分の世界に有利に働くようなことがあればガンガン利用していけばいいんだよね。なんでも古い!っつって否定するみたいな感じに見えちゃってるかもしれないけど、あくまで現実というのは自分の世界の構築のための材料でしかないわけね。だからその材料に逆に利用されちゃうとかそれで悩んじゃうとかそんなのは本末転倒もいいところじゃん?俺が言いたい現実を見限る感じっていうのは期待しないっつーのと希望を持たないってことだよね。で、期待とか希望をする世界を自分で作るっていうことなわけだ。そういう志向性の軸の変化ね。っつってもあれなんだよね、余裕がある人のみができる感じのものじゃなくて日々生きるのが辛い人たちこそが実践すべき考え方とか生き方なんだよね。だから俺はこれはサバイブ術なんだと思ってるわけよ。他人を助けるにしたって自分が病んでちゃ何もできないでしょ?そういう人多いと思うんだよね。人一倍正義感が強かったり人の役に立ちたい!って思ってる人たちが全然その力を発揮できないとか悪魔みたいな連中に骨抜きにされるとか利用され倒すとかね、そんなのがあるからそういうのがトラウマになっちゃって病むしネットのおかげで経験が共有できるようになるじゃん?


あまりにも酷い話ばかりだから社会恐怖ばかりが募るわけよね。でもまぁ押し付けるわけじゃないけど何が原因か?って少なくとも自分じゃないよね。まぁ今の世の中では利用される程度の自分の力量を恨めみたいなヒューマニズムの欠片も無い言い方をする旧人類が多いと思うけど、まぁとにかく原因は自分じゃないわけで自分を責めるのはやめましょうだよね。自分の力量を恨めみたいに言うやつは一種のサイコパスだよね。なんか「サイコパス化する社会」って感じだよね(笑)サイコパスのほうが活躍できるし暗躍できるようになっちゃってるしサイコパスの言葉があたかも凄い言葉のように思われたりしてるじゃん?だから下種が増えるんだよなっていうか下種のほうが世渡りが楽になるわけだ。で、まじめな人たちが一番損をしているわけよ。で、ああいうエイリアンみたいなやつらに乗っ取られた社会を取り戻そう!っつっても無理じゃん?富と権力と人数には何も敵うものはありませんね。


いやさ、やっぱりあれなんだよな、所詮一人の人間が思いつくことなんてもうとっくに誰かが考えてるんだよね。ようは現実からの逃避ではなく能動的な創造としての生活の場を変えるみたいなのって色々と調べて見るとアカデミックに90年代初期から社会学者とか心理学者とか哲学者が色々と書いてて、んでネットが台頭するようになって90年代後半にはそのうちネットがリアリティになるだろうみたいな言説があってっつーかまぁそういうのはあったにせよさ、俺はフォーカスしてなかったからね。ただの評論と思ってたけどっつーかまぁようは今の俺がそういった世界観にフォーカスするようになって途端に色々と見えてこなかったものが見えてきたんだよね。そう思って調べて見ると文献が膨大にあるのね。いや、こりゃ一大事だ!っつって超テンションがあがってるよ。ゲームが世を救う的なユートピア的なものから社会学的なものから認知科学的なものからあとはセカンドライフとかデジタルライフと人間との関係性とかね、ようはescapismとは違った能動的な世界の構築という観点から見ると凄く有用そうな本がいっぱいあってさ、昔のやつも含めてとりあえずよさそうなやつは全部読もうと思ってるんだよねってことでもう早速3冊ぐらい買って読んでるんだけどね。


でも俺が言ってるのはセカンドライフとかゲームに限ったことではないからね。ただ現実が何かおかしくて現実では何も得られないって思ってる人たちは世界中に膨大にいるってのがちょっと調べるだけでよく分かるんだよねっつーかいくつかの買った本を読んでるとやっぱそうなんだなって思ったのね。ようは実存の問題がベースになってゲームに生きがいを見出している人たちが年々増加していてなおかつオンライン化されていることで人とのつながりができたり何かをそれで達成できたりってことでもはやゲームといって無視できないぐらい人々の生活に影響をしてきたり、それこそ凄まじく酷い環境にある人もゲームがあるから生きていけているみたいな切実な話があったりするんだよね。いやー俺が言いたかったのってこういうことなんだよな。で、もうリサーチが腐るほどあるなら楽じゃん?いやーこれはすげーブレークスルーだよ。実存問題ってのを俺は哲学の枠組みでしか考えてこなかったから言わばスコトーマだらけだったのが今はいろんなソリューションが見えるようになってきてるんだよね。で、それが凄く時代の流れとマッチしているっていうなんか凄くいけそうな気がしてきたね。


世界中に同じような問題を抱えてる人たちが腐るほどいるって凄いことだよね。で、別にセカンドライフとかゲームが解決方法だとは言わないけどね、ようは俺の今回書いていることの中ではそれもone of themってことなんだよね。で、別にそれはネットを使わないことでもいいしとにかくなんでもいいわけだ。ハーシュな現実をサバイブできるやり方なのであれはとりあえず何でもオッケーなわけで。問題はメディアやら何やらがそれを逃げだと決め付けることだよね。だからゲームとか自分の世界みたいなことを言うとすぐ逃げというレッテル張りをされるようになる。でもそれは全然間違ってるってことがなんかもうアカデミックに立証されてるっぽいんだよね。やっぱ欧米は進んでますなぁー。それこそ鬱の治療とか社会恐怖の治療とかメンタル系の問題の治療にも使われようとしてるみたいね。ようはあまりに色々と効果がありすぎて有用性が半端じゃないってことなんだよね。だからそれを有効に使っていこうじゃないか!ってことなわけだ。


なんかこれで言うと俺の夢である自分の電脳化とかさ、ギメルのアルカディア的なこととかマジでやれそうな気がしてくるんだよね。でもまずやることは自分のsalvationだね。こんな難治性の鬱とか気分障害を持ってるんだからそういう人間でもやっていける道を探すってのは凄く能動的なことでしょ?たいていの場合セラピーって間違えてるよね。全部現実に立脚しているから社会復帰みたいなのが前提になってる凄く患者に負担がかかるようなセラピーが凄く多いんだよね。そうじゃなくて電脳セラピーなら多分一瞬で治る人とかやっていける人って相当いると思うんだよね。実際去年は俺はスカイリムの流れからゲームによって守られてきたわけで、この効果っつーのはさすがに無視できないよね。抗鬱剤とかの比じゃないわけで。あ、何度も言うように俺の場合ゲームだったけど、ようはフォーカスする場所を変えることで症状を緩和させるっていうね、それ自体はそもそも俺にはワークしたわけで、それをもっと有用に発展できないものか?ってことなんだよね。


でもなんか芸術セラピーとかってようは同じじゃん?落ち込む気分とか嫌な状況とかにフォーカスするのではなく絵を描くとか自分を表現するということで症状を緩和させるっつーセラピーなわけじゃん?って大体の予想で書いてるけどさ、ようはもうフォーカスを変えるって認知療法として確立されてるんだよね。で、そこに電脳フレーバーを入れたり、あとはそもそも現実はオワコンでどうにもならないからそういうことを嘆くのをやめるっつーのも認知療法じゃん?現実そのものがネガティブなものになっているわけでそこにフォーカスせずもっとポジティブなことにフォーカスするってかなり王道のやり方だよね。で、問題は今の俺が言っているようなことだとそれは快楽にフォーカスしているだけで何の解決にもならないってことなんだけど、そこは前にも書いたように現実で何か解決方法が個々にあればそれを模索するのも同時進行でやっていって良いんじゃない?とは思うのよ。諦める必要なんて無いわけで。ただ今の俺の状況でいくと何も解決方法がないのよ。別にそれはもう進学できないとかニューヨークに戻れないとかそういう理由ではなくて、そもそも進学したところでどうにかなるものではないし、ニューヨークにいたところでどうにかなっていたわけではないかとにかくまぁ借金は膨らんでいただろうっていうさ、あと学位とかも色々と調べる中でもう全然意味無いっつーかね、それはいつも書いてるように昔の俺が考えていたプランってのはそれこそ現実に立脚してないものだったわけだ。何の価値も無い学歴を取ったところで何になるのか?って話じゃん?まぁあんなにアカデミックな世界が駄目になってるとは思ってなかったからさ、あとそうやって大変になっている状況の中で研究者としてやっていくというのは凄まじくタフなことで俺じゃ無理じゃん!って単純に思ったって意味でもそもそもやれる見込みがないんだよね。


これって現実を見てるわけじゃん?で、自分がやれることとやれないことってのをちゃんと見分けてそれで色々と選択していくっていうことをしているわけで、本当の現実逃避は数学で博士になるんだ!って夢を見ることだよね。まぁそのコストといったら半端じゃないわな。で、リターンが無いからアメリカでもそもそも進学することにメリットはあるのか?なんて問題がシリアスに論議されているぐらいで、そんな中でそういう状況も知らずに博士になる!なんて能天気過ぎるじゃん?能天気だったのよ。俺は。で、現実を知って何も道が無いっていうことを知ったわけだ。その上でどうするか?ってのが今の状況でただ帰国後の一年とちょいぐらいはまだ進学するつもりでいたけどいかに数学科に進むということが意味の無いことか?っていうさ、それはまぁめちゃめちゃ調べたからなんだよね。本も色々と読んだし。で、もう完全にオワコンなんだよな。まぁ昔から食えなかったけど今はもっと食えないわけだ。じゃあ他は?っつーと俺の場合哲学だけどそれも食えないわな。ましてや哲学は実践することにしか興味が無くて研究なんてやりたくないからそもそもやれるわけがないしやりたいと思わないわけだ。


だから問題を全部とりあえず学位を取るみたいなさ、そんなことで棚上げするってそれこそ現実逃避ですよね。とりあえず行動あるのみ!ってのも一種のイデオロギーなんですよ。Just do it!ね。これは凄く危険なことなわけだ。いや、昔は経済成長とかしてたから有効な方法だったかもしれないが今は無理なわけだ。何もかも見込みが無いっていう前提で何かをやっていくっていう方法を模索したほうがより現実的で建設的だよね。で、やっとここまで来ましたね!ってことでそこでまぁ現実をオワコンと見なすっていう話に至るわけ。逃避ではないでしょ?無理なもんは無理だし俺に場が無い場所で無理やり場を見つけようとして色々と難しいだの無理だの可能性が無いだのって嘆いているよりも自分の場を作っちゃったほうがいいじゃん?そこが今のところは大雑把にしかいえない自分の世界ってことになるんだよね。まぁ俗に言うBig Pictureですな。


で、ディティールとか具体的なことはさっきも書いたように色々と役立ちそうなものを読んだり、それこそ今まで読んでこなかった経営学の本とか組織論とか社会心理学の本とかさ、ようは全部含まれてるじゃん?自己認証とか他人との繋がりとかコミュニケーションとか関係性とか全部含まれてるんだよね。何しろ新しい生活圏を作るわけだから全部含まれてて当然だわ。で、現実ではもうこのインフラが完全にぶっ壊れてるから修復しようとしないってことだよね。超オンボロのパソコンを修理してもしょうがないわけで、新しいパソコンを買ったほうがよっぽどいいじゃん?でもそれは市場でAvailableなものではないから自作でやるしかないわけだ。俺が言う世界の創造ってそういうことなんだよね。世界の創造っていうと大げさだけどようは自作マシンを作るってことなんだよね。ベタに言えば自分のライフスタイルを確立するって話だわ。べたすぎて何も言えないぐらいベタだよね。頓珍漢な話ではなくむしろ当たり前の話だよね。ただそれをさ、今までの俺の履歴から言ってそこをやっぱり実存っていう観点からアプローチしていくんだよね。


だからソーシャルメディアの立ち上げだとかなんだとかってことにはならなくて、俺がどう生きていけるか?っていう話になるわけだ。で、その方法は別に逃避とかって今まで言われてきたようなことでも全然オッケーってことなんだよねっつーよりかはこの逃避という概念こそが敵だし実際は結果的に現実でやっていこうとしているという能動的なアプローチに何か後ろめたさを感じてしまうことになるんだよね。まずはその認知のゆがみから治さなきゃいけない!ってのが俺が数日前に書いたことだよね。よくよく考えて見れば現実/非現実の優越性なんてアプリオリに決まっているわけではなくてそんなもん認識なんだから何を認識するか?ってことになるわけだよね。そこで何で自殺者が多いとか仕事が無いとか自分は鬱病でどうにもならない駄目人間なんだ!とかさ、そんなことばかり毎日考えてなきゃいけないんだ?ってことじゃん?今で言えば実家もどうなるか分からないって感じだから生活すらも危ういんだよね。ここまで極端だからこそこういう極論にまで達したってのはあるよね。こんな中で俺が精神のバランスを保てたのは哲学でも数学でもなくゲームだった!っていう事実は紛れも無い事実なわけだ。


というわけで続きがあるけど長いからとりあえずここで区切るわ。んじゃまた明日。