現実はオワコンという認識からはじめませう。その7。

続きを貼る予定だったんだけど、今回のはまた新たに書いたやつっつーか昨日のコメントがきっかけで書いたやつを貼るわ。


実家がどうのっていう話はなるべくしないつもりでいたんだけど旧人類からの書き込みでついつい書いてしまった。まぁ別にいいんだけど、ただなんつーか自分は今大変だからこうなんだ!的なさ、状況とかに左右されるようなものってそれこそ相対的じゃん?じゃあリア充ならオッケーなのか?とかさ、まぁただ俺の今回のエクストリームな考え方は言わずもがなだけど大変な実家の状況とそれに相乗したような俺の鬱の悪化というのはあるよね。ただ実家の状況とかって書いちゃうとっつーか今は書けない状況なんだけどさ、仮に書いてもそれって単純に物理的に大変な状況にあるってことじゃん?まぁ大変すぎるからこそこの苦痛をなんとかせねば!と思って色々なものが生まれたり人によっては自殺したりするんだけど、でもなんかその大変さってのは出したくないんだよね。もちろんそんな中で生まれてきたアイデアだってコンテキストは必要かもしれないけど、でもそういうコンテキストに依存してしまうようなやり方って嫌なんだよね。そんな風に捉えられてもアレだし。


あとまぁいつも書くように自分の環境がどうとかさ、そういうのと現実って関係ないじゃん?まぁもちろん現実に関係して自分の環境って生まれるわけだけど、いつも書くように物理的な環境が充足すれば解決するような問題は浅い話なのよ。別にそれこそ金を稼ぐとか幸せな家庭を築くとかそんなことで解決できるじゃん?でも俺の個人的な事情とか関係なく、何もかもが満たされても空しいって感じる人はいるわけじゃん?あとはそれなりの仕事に就いてても何もやり甲斐が見出せないとかさ、まぁ俺の極論がようは現実に全ての軸をおいている限りこの空しさは永遠とついてくるってことなんだよね。全部の原因は現実にあるわけで。


そこでも諦めないで!とかね、「諦めのプロだね」とかって言うのは分かるんだけど、俺が言いたいのは客観的などうにもならない政治とか経済とか雇用とかそういうのって諦めるもなにもないじゃない?ってことなんだよね。まぁもちろんそんな中で頑張って雇用を勝ち取るんだ!ってのがようは諦めないってことなんだろうけど、ようはさ、ちょっと頭が良い人間だったら多分大方が感じてるように世の中の適当さってのがもう半端じゃないんだよね。コミットする価値がないぐらい終わってるものになってしまったわけで。まぁ前からなってたんだけどさ、そんな中でも頑張っていくってようはオワコンの中で何かを見つけるとか作るってことをするわけじゃん?


いや、それはオワコンなんだからパラダイムを変えようよ!って話なんだよね。現実だけに囚われて物事を考えるから結局は何も考えられなくなるわけじゃん?まぁ考えてもいいんだけど解決できるわけ?10年後も食っていけるか?とかってみんな分からないわけでしょ?そういう不安を持っている人が多い中でさ、だからまぁ高校生とかが「将来は公務員になりたい」とかって言うようになっちゃうんだけど、それってようは現実が軸だからジャン?それでいいならいいけどあまりにもつまらないと思うんだよな。オワコンの中でやっていくってどうなの?っていうさ、そんな中に自分を埋没させていいのか?って話じゃん?


問題はさ、現実を軸とせねばならない!というイデオロギーなんだよね。で、俺が端的に言いたいことの一つとして現実を作るのは所詮は認識なんだからどれが本当の現実か?なんてたいした問題ではないってことなんだよね。いや、全く問題なくさ、社会問題とか考えずに気楽にやっていくってのも一つのやり方じゃん?で、そういう人たちから言わせれば問題だなんつって悩んでても何にも解決しないからハッピーに生きたほうがいいってことで自分が見たいものだけ見るってことになるんだよね。まぁそれも一つの現実でしょう。でもそれがどうしてもできないやつらがいるわけだ。全部深く捉えすぎちゃって心のキャパを超えちゃうわけじゃん?そういう感覚が無い人が多いから伝わりづらいんだと思うんだけどね。


ただまぁさ、そんな中で分からない人が大勢いるし人間の九割以上が馬鹿だってことを言ったところで何も変わらないじゃん?それって大衆批判っつー一つのジャンルだしそういう大衆の分析ってもう過去の哲学者とか社会学者がやってるわけじゃん?で、俺はそういうのを読んできて恐ろしい大衆という魔物の普遍性を感じたわけだよね。国とか時代とかを超えて大衆ってのはいつまでも大衆のままなんだっていうさ、それを変えようとしてもしょうがないわけだ。あとディスするのはもうやりつくしたしネタ的にもつまらないし書きたいこともないから書くこともないんだよね。で、まぁ認識が変わって本当にどうでもよくなったってのもあるんだけど。


それでも諦めずに啓蒙続けてください!っていうことも「諦めないで!」っていうことの一つになるんじゃないのかな?でもまぁ結論から言えば変わりませんってことなんだよね。社会についても同じ。前向きに色々と変えていくのもいいけど、俺はいつも行き着く先は大衆とか民主主義とか常識っつーもう変えられないものなんだよね。それを変えようとしても無理!っていうあまりにも大きすぎる問題に行き着いてしまう。まぁ別に大衆とか社会に限らず問題点とか悩むものってのの根源がほぼ変えることが不可能なものなんだよね。それについて悩んでいたり心をフォーカスしてても何もならないわけで。いや、悩んできた人たちが大勢いて結局はどうにもならなかったってそれこそ色々読んでたらそれに気がつくはずなんだよね。そりゃまぁ気がついたよね。根が深すぎてどうしようもないなと。だからそれは変えたくても変えられないって認めなきゃ始まらないわけだよね。そんな中で変えることを諦めない!というのも一つでしょう。でも俺はそれはもうやらないことにしたんだよね。無駄に疲れるし精神的に疲弊してくるし。まぁそんなところから始まってるわけね。


まぁあとあれだな「鬱の人によくそんなことが言えますね」っていう言い方をしてしまうとそれこそ弱者の理論でさ、それは弱者がなんとかやっていこうとしているナイーヴで健気なものなんで見守ってあげないと的なさ、知的障害者の作文を見守るみたいな、そういう感じは違うよね。いや、そんな考え方クソでしょっていう意見が「障害者になんてことを言うんですか!」みたいな言い方で消されるとすればそれは駄目だよな。まぁ俺自体を精神障害者って認定すればっつーかまたこのレッテル張りも凄い効果があるんだよね。


ベーシックインカムの話とかでも俺がこういう人間だからBIの正当性を訴えるのはよく分かる的なさ、実存から全て来ているみたいなね、そういう捉え方をされるんだよねっつってもその人の偏見とかって変えようがないじゃん?いや、これは実存とかとは関係なくBIについて普通に話しているだけだっていう見方をされたいならもっと誤謬が無い書き方とかもっとテクニックがある書き方をすればいいんだけど俺がこんな感じだから器用なことはできないんだよね。自分なりにしか書けないわけで。だから誤解されてもいいから書いているんだけど、そもそもウォール伝の発想はそんなの関係ねーよっていうさ、自分が書きたいから書いてるんだっていうそれに尽きるわけで、このパラダイムだよね。俺の原点の。それでいいんだってことでしょ。


あとようはネックなのは誤解とかっつーか結局はそういうところでさ、誤解を生じさせないような書き方は俺はできないわけだからそんなことを悩んでてもしょうがないんだよね。もう無理なんだったらウォール伝スタイルで書き続けるしかないじゃん?で、誤解するやつがいるんだよなー的な話をしてもさ、それが俺の文章が問題なのか読み手の理解が浅いのか知らないけど、まぁそういう浅さって去年書いた数学のエントリーにもあるようにすんげー浅いんだよね。鬼の首を取ったかのように「違う」とされるところを取り上げてはギャーギャー騒いでそういうレベルで話が終わってるっていうさ、そこで俺は勝手に議論を期待してるんだけどそもそも無理なわけだ。まぁあと言うまでも無く高度な議論がしたいならそういう場に行けっていうさ、まぁ昔はそれを目指してたんだけどそれは確かに諦めたと言えるかもしれないね。まぁそれが高度かどうかはともかくまともに話し合える人と出会えるような場所に行くってのは確かに理想的だけど、でもそういう話ってむしろウォール伝上でできてるんだよね。


で、色々とフィードバックをもらったりこっちの認識が変わるような突っ込みをいただいたり。あとウォール伝経由でのコミュニケーションで知った人物とか本とかいっぱいあるからね。むしろこっちのほうがリアルより広いんじゃない?って思ってたんだけどっつーのはまぁニューヨークにいた頃ね、まぁ環境が環境だから話す相手があんまりいなかったんだけど、でも「話す相手がいない」って考え方もようは現実の自分の生活圏っていう限られた世界の中での判断だよね。そんな中でいないいない言っててもしょうがないわけだ。だったら自分の生活圏にそういう話せる人を見つければいいんだけどなかなか見つからない・・・っていうその考え方が間違えなんだよね。いや、ネット上で会ったことも無い人でもすげー濃密な会話ができたらそれってもう会話じゃん!っていうさ、いや、それは十分会話だしすげー議論なんだけどでも何を隠そうそれは「ネットでのやり取りだ」って俺が勝手に決め付けてたんだよね。


いや、ネットの議論に価値が無いということではないしネットじゃないと議論ができないこともあるわけで、あと俺が人見知りだからネットのほうが都合が良いというのもあるんだけど、そこでなんで自分の生活圏に濃密な議論ができる人がいなければいけないのか?って話じゃん?それこそネットも含めたものを生活圏とすればすでに俺は相当の人たちと議論してるわけだよね。逆にリアルで真剣な議論なんてあんまりしたことないもん。そういう意味での人間関係の強度って別にそれがリアル世界なのかネット世界なのか、そもそも相手が人間だったら何を介そうが人間関係じゃん?で、俺は定期的なメールとかっていうそういう表層的なのは凄く嫌だから必要があったときにだけ色々と喋りたいんだけどさ、それもまぁ俺がコミュニケーションを選んでるわけじゃん?それは俺が現実を選んでるってことなのよ。


こういう形で人と接したいってまぁ常識で考えれば都合の良い話でとんでもない!って思われるんだけど、俺なりの接し方で接したいってやり方で接することができてるんだったらそれはそれで価値を認めてもいいじゃん?ってことなんだよね。そこがなんでネットを介しているというだけでマイナスみたいに捉えられちゃうのか?って話だよね。もちろんリアルでの人間関係も重要なのはわかるけど不向きな人っているわけよ。すげー億劫だって人もいるわけだし今って結構多いよね。だからやり方がネットを通じたものになったとしてももともとリアルでしかコミュニケーションしない人がネットに移るのか?って移らなくてさ、もともとあまりコミュニケーションできない人たちもネットを使うことで人と繋がれるようになったとかね、それが変な形であれコミュニケーションが成立するようになってるってだったらとりあえずそれでいいじゃん!ってことなんだよね。なんで次のステップとして直に会うということが無きゃいけないのか?っていうさ、それがようはリアルってのに軸を置いた発想なんだよね。


ってことでまだ続くんで。んじゃまた明日。