はじめましてさんへの返信。その2。

はじめまして 2014/07/02 17:52


お返事ありがとうございました。つまらない質問にもかかわらず懇切丁寧に答えをいただけて感謝しています。それに聞きたかったのに質問に書き忘れたことまで、いろいろと汲み取って下さってお返事を書いていただけたのもうれしかったです。ひとつ感じたのは、耳蝉さんは他のエントリーや他の方への返信でもそうなのですが、アカデミックな分野の話しをする際にも専門用語を並べるということをあまりなさいませんよね。そのことを私は最初不思議に思ったし、失礼ながら学問をちゃんと理解できていないんじゃないかとも思いました。ただ、他の方の質問とそれに対する耳蝉さんの返信を読んでいると、そのプロセスに私は、質問を読み、相手のレベルに一度目線を合わせてから、相手が理解できる範疇を越えないように、尚かつ最良に思える答えを探そうとする姿勢、一言でいうと優しさのようなもを感じました。あるいは想像力と言った方が意に適うのでしょうか。それと、一連のエントリーに関しても、特定の読み手を想定しているわけではなくとも、その存在を拒むような書き方はされていませんよね。もしウォール伝がキチガイや精神病患者の殴り書きなら今のように私も含めこれほどのコメントが残るということはなかったと思います。


耳蝉さんはウォール伝のことを自身の実存の書のように捉えていると書かれていましたが、同時に社会へのコミットメントの糸口であるとも書かれていますよね。実存の問題と社会へのコミットメント。この二つの事柄の関係性はどのようになっているのでしょうか?社会へコミットメントするということが例えば単に就業するというようなことであれば、それは実存を放棄するということを意味する場合もあると思います。そのような放棄を潔しとしない人間を社会は社会不適合者というレッテルを貼って社会から締め出しますよね。そうすると、そのようなレッテルを貼られた人間がコミットメントを求める「社会」というのはどの社会なのでしょうか?私にはそれは一度見捨てられた社会に戻るということではないようにも思えます。


ではそれは知の特恵階級が形成するアカデミックな社会でしょうか?超有名大学の研究所のような限られた世界に属したいという想いを過去のウォール伝から読みとることは難しいことではありませんから。あるいは、社会から締め出された者達が形成する、たぶん私も含めてウォール伝に関心を寄せる多くの人がそこに含まれる、そのような社会でしょうか?あるいは耳蝉さんはまったく違った社会を想定されているのでしょうか?あるいはそもそも私の解釈が間違っていて、実存の問題と社会へのコミットメントは重なり合うところを全く持たないのでしょうか?


こちらこそそこまで僕のやり取りに関して丁寧に汲み取っていただいて感謝しています。そこまで理解していただけるとはもう本当に感激です!


ところで早速、その実存の問題と社会へのコミットメントの話なんですが、まず思うのは世の中で言われているような一元的な社会へのコミットメントのあり方に対する疑問ですね。これは昔から書いてることなんですが「社会人って何なの?」って話になるんですよね。就職すれば社会人なのか税金を納めているということが社会人ということになるのか、とにかくこの「社会人」という言葉に代表されるような一元的な社会と個人との関係性に疑問があるんですよね。「普通こうでしょ」みたいなよく分からない「社会人」としてのあり方ってのがあって、それから外れるとはじめましてさんがおっしゃっているような社会不適応者っていうレッテル貼りをして排除がなされますよね。でもこれは単純に概念エラーってだけなんですよね。そういう意味で僕が言う「社会」と世の中で言う「社会」に違いはないんですよね。ようは僕が言いたいのってそういう安易な排除の原理っていうんですかね。


「普通こうでしょ」みたいなのをなんでお前に決められなきゃいけないんだ?って話で、僕が言いたいのは原理的には多元主義ですよね。ゲイとかレズみたいなゲイライツみたいな話で言うと簡単なんですが、マイノリティとされる人たちが排除される原理ってまぁ結局は「普通はこうだよね」っていうところから外れているってことだと思うんですよね。その「普通」という基準がマイノリティを内包していないというだけでマイノリティが排除されるっていう原理がありますよね。でもマイノリティといっても色々なマイノリティがあってゲイだとか僕みたいに色んな意味で普通とは違う人間とか変わった人間だとかっていうマイノリティを集めればそれって結局はマジョリティになるんですよね。画一的な「普通はこうである」っていう基準から外れたものを不適応とするとマイノリティが排除されるっていうレベルじゃない量の人たちが排除されることになりますよね。


なんていうか話は凄くシンプルで生き方の多様性を認めろって話なんですよね。マイノリティって呼ばれる人たちも色々なジャンルがあって実はかなりの数のマイノリティがいるってことになるとそれってもうマイノリティじゃないですよね。「普通」だったら仕事なりバイトをするってことになるとニートも普通とは違うマイノリティになりますよね。ましてやネットが普及してからはそういったマイノリティの姿ってのが浮き彫りになって実は「普通」だと思っていたことが普通じゃなかったとか、色んなマイノリティも含めれば凄い数のマイノリティがいてそれってマジョリティじゃん!っていう多様性のあり方の顕在化っていうんでしょうかね。別に性同一性障害とか精神障害みたいな特殊な例を出さなくても例えば親が残した遺産で食っていけてるやつとかってまぁマジョリティですよね。明らかに普通ではないんですが、でもまぁそういう人がいるのは当たり前ですよね。ようは「色んな人がいて当たり前」って話なんですよね。なのにも関わらずそれを認めないってのはただの全体主義ファシズムと同じですよね。


まぁ僕もこういう感じの人間ですから、昔は「排除されている」っていう意識がありましたけど、「実際は色んなやつがいる」っていうのがネットの普及なんかで分かるようになってからはむしろそれがデフォなんだから昔から続いているような「普通はこうだよね」っていう概念自体が間違えなんだなってことになったので、だからなんていうんでしょうかね、自分は「排除されてる」と思ってしまうのは昔の価値観で言うところの「普通」というのを認めてしまうことになってしまうわけですよね。で、僕はそんなのは認めないわけですっていうかこれってラディカルな主張でもなんでもなくて現に色んな人がいるってことが分かっているので昔ながらの「普通はこうだ」みたいな価値観は成り立たないはずですよね。まぁそんな中でその「普通はこうだ」っていう価値観が無くなってしまうと都合が悪い人たちがいるので、そういう古い価値観を守ろうと必死になる人たちもいますが、まぁ無理ですよねっていうか色んな人が色んなことやってますからね。


この辺の話はちょっと説明が難しいので無駄に長くなってしまうんですがお付き合い願います。で、問題はというとこのマイノリティ問題と社会人問題ってまた別なんですよね。マイノリティ問題と同じなんだから多様性を認めればいいんだっていうとまぁそれは原理的にはそうなんですが、実際はニートを認めないゲイはいますし逆もまた然りですし、性同一性障害だろうが精神障害を持っていようが確固たる通俗的な「社会人」という概念を認めてる人たちもいますよね。変わってるとか人とは違うからといって多様性に寛大か?っていうとそうじゃないんですよねっていうかこれはあとはまぁ日本教的な働いてないと人間じゃないみたいな価値観も根強いので、そういうものが排除の原理に加担してしまってますよね。


有吉ジャポンって番組でひげガールというおかまバーにおかまになりたくてもなれない人が就職するっていう密着コーナーがあるんですが、これが凄く構造的に良い例なんですよね。女として生きていきたい男にとってそれを隠し続けて生きていくってことは実存の否定になりますよね。でもそこでひげガールというおかまバーがあることでそこなら実存を殺さなくても生きていけるっていうことになるわけです。ようは話は凄くシンプルで女として生きていきたいのに生きていけない世の中って何なの?ってことなんですよね。まぁそれを認めろ!というのは難しいことではあるんですが、でも女として生きていきたい人たちにとっては男にとって「男じゃなければいけない」っていう原理がある世の中ってようは自分の実存を否定する世の中ってことになりますよね。


でもなんでそれは否定が前提なのか?って話なんですよね。就職=実存を捨てるという構図が仮にあるとすれば実存を捨てたくないがために就職はしないっていう生き方もあるわけだし、それは誰かが否定するものではないですよね。それはその人が決めたことなわけですから。でもまぁ就職するっていう「普通」のやり方から比べれば「どうすれば生きていけるのか?」っていう受け皿とか決まった道みたいなのはありませんから、実存を捨てないでやっていくってことを決めたんだったらそれはそれなりにそのままで生きていくって方法を模索していくしかないですよね。まぁまさしく僕がそうなんですけどね。あとまぁ今は一応就業はしているので今は文字通り昔の書生みたいな生活ではあるんですが、実存を捨てずに就業が出来ているという意味ではめちゃめちゃラッキーとしか言いようがないんですけどね。


じゃあ昔の僕は就業をしていなかったので社会から排除されていて今は就業しているので社会人なのか?っていうとそんな変化はありませんよね。ただ今は就業していて昔はしていなかったというだけでこれと社会性って全然関係ないですよね。でも多分あれですよね、職業は何ですか?って言われて自営業って答えれば一応社会人ってことになるんですよね。いや、すげーくだらない話をしてるっていうのは自覚しているんですが、まぁこのぐらいなんていうかその排除の原理であるとか「普通こうだよね」みたいな考え方ってのが馬鹿馬鹿しいことなんですよね(笑)何の根拠も無いし正当性も無いし論理的一貫性も無い。でもなぜかそれを人々が無意識に認めていて勝手にマイノリティだのマジョリティだのって騒いでるってことになるんですよね。実際に僕もそうだったわけですよ。その「普通」を認めているからこそ自分は異質ってことになって「排除されてる側」みたいな意識が生まれるわけですよね。


なのでなんていうか僕としてはそもそもの排除の原理ってのに全く納得していないのでそもそもその前提と認めるということにならないので締め出しもクソもないってことなんですよね。締め出しも何も自分はこうやって生きてるしこうやってやり取りしているわけで存在自体が否定される必然性なんて全く無いわけですよね。だからなんていうかそのはじめましてさんがおっしゃっているような「所属」の概念自体にそもそも納得していないっていう感じですかね。社会って社会っていえるほどしっかりしてないし、アカデミックな世界だって「世界」って言えるほどちゃんとしてないですよね。まぁ僕も存在としてはちゃんとしてませんが、それは他の世界の住人と一緒なんですよね(笑)基本的にこんな感じで全部適当ですよね。自分は普通の人と違う生活をしているからちゃんとしてないか?ってまぁちゃんとしてる世界なんて滅多にないですよね。今は最近色々と書いているように金融関係の本を読んでいるんですが、本当に真面目に生きるのが馬鹿馬鹿しくなるような話が腐るほどありますよね。そもそも銀行なんつーシステムもちゃんとしてないしっていうかめちゃめちゃですよね。だからまぁ基本アナーキーですよね。なんでこんなものが成り立っているのか?って分かってはいましたが、最近金融関係の本を色々と読んでみて改めて狂ってるなぁーって思いますよね。それを放っておいたほうが効率が良いなんて言うわけですから恐ろしいですよね。社会に関しては規制やルールで雁字搦めにして経済に関してはアナーキーにするっていう。そりゃ人間が生き辛い世界になっちゃいますよね。


あ、んで話を戻すと、例えばその銀行みたいな一応価値とかがエスタブリッシュされた「業界」だとそこにいるってことでそこに所属しているっていう属性が生まれてそこからどういう根拠かは分からないが一応ちゃんとしているっていう認証みたいなのがもらえますよね。ましてや日本はそういうのが強いですよね。通っていた大学とか所属している会社だとかなんだとか基本的に実存がペラペラなのでそういう所属によって実存を担保しようとしますよね。いや、むしろそうじゃないと実存なんて担保されないでしょ!って勝手に思っている社会人の方々が大勢居るので、そんなものが無くても自分の実存を担保できている人たちが生きているのを見るとムカつくのかもしれませんね。自分はこんな犠牲を払っているのに!みたいな、まぁ他人を批判するってことは現状に満足してないとか仕方なくそれをやってるんだってことになりますよね。変な話、負け組中の負け組って感じだと思うんですよ。勝ち組・負け組っていうわけ方は好きじゃないんですが、まぁようはこれってメンタリティの問題なので、富や社会的地位みたいな根拠が何も無い適当なものに立脚したような基準よりかはマインドセットとか生き方とか幸福感とか満足感ってことでは勝ち組と負け組って分けられると思うんですよね。まぁそういう意味で僕は永遠と勝ち組ですし負け組になるつもりは金輪際ないんですけどね(笑)


こうなってくるとそもそものさっきの「排除されていた自分」なんてのは存在しないんだ!ってことにより気がつくことになりますよね。ましてや自分のやりたいことやミッションや人生を通して達成したいものというのが明確にあってなおかつ日々の責務もそれなりに果たして生活してるってことになればそれこそ勝ち組と負け組で言えばモロに勝ち組じゃないですか?だからまぁようはものは考えようってことなんですよね。ちなみに自分の中では勝ち組も負け組も無いし「自分は勝っているんだ」なんていう優越感はありません。まぁあえて極端に比喩的に書いているだけなので。もちろん勝ち組・負け組みたいな概念自体が大嫌いです。こんなものは独善的でなおかつ排他的な最悪の考え方です。


で、さっき書いたひげガールなんですけど、実際に殻を破ってひげガールに就職した新人ゲイ達って就職してからめちゃめちゃ輝いてるんですよ(笑)で、なぜかそれなりに綺麗になったりしてるわけです。いかに常識というものが個性や個々のあり方や実存を破壊しているか?ってことですよね。ハッピーに生きていければそいつが勝ちに決まってるわけです。まぁもちろん経済的な問題ってのはあるんですが、まぁでもこんな世の中なんてゲイだから経済的に不安定とか、自営業だから経済的に不安定とか、まぁそんな取り立てて言うほどのことでもないですよねってことになるんですよね。そもそもみんな不安定ですからね。だからこそ余計に自分が好きなように生きてるやつのほうが有利に決まってるんですよね。で、まぁ結局それってマインドセットの話になりますから、基本的に日々そうやってワクワクしていたり楽しく生きている人ってのは常に誰かを批判してたりとか自分に原因があるのに他人のせいにしてるやつらに比べて色々とまた良いこととか良いきっかけを掴むチャンスってのに恵まれますよね。


なのでなんというか「我々はマイノリティで排除されている!」っていう意識からは何も生まれないってことなんですよね。そもそもそれ自体が被害者的でネガティブじゃないですか?だからこそ原理的にでは「なぜ排除されているのか?」って考えると色々と長く書いてきたように実際は排除の原理って何の根拠も無いわけですよね。下手すると好きなように幸せに生きているものに対するルサンチマンだったりもするわけです。だからまぁそんな価値観クソだし認めないしそもそも「普通」なんてことはありえないってことになるんですよね。で、まぁこうやって僕は生きていてこうやってここに色々と書いているということが自分の実存の投影にもなっていて、例えば今回書いたような「普通」という排除の原理の根拠って何にもないんだよねー的なことを書いてて例えば誰かがそれを読んだりレスポンスをしたりすればそれって社会的フィードバックですよね。あとまぁこの場に関して言うとここを作った当初に色々な幸運に恵まれて結構アクセスが得られるようになったんで最初からフィードバックをもらいやすかったんですよね。まぁ良いものばかりだけではないんですけども。


で、はじめましてさんもおっしゃっているように自分は思ったことを書いているけど別にそれはビョーキのやつが色々と殴り書いているという風には見られなくてっていうかまぁ見られることも多いとは思いますが(笑)まぁ実際にちゃんとした人からちゃんとしたフィードバックをもらっているということで別に自分は異常でもなんでもないんだなっていうのを確認できるわけですよね。まぁ自分は異常じゃないしおかしいことは言ってないってそりゃ確証があるから書いているわけなんですが、まぁでもそれを書いているだけじゃどうにもならないですよね。でもありがたいことに色々なフィードバックをいただいているのでただの自己満足で終わっているだけじゃないんだなっていう実感が得られるわけですよね。まぁ全く意図していなかったことではあるんですが、結果的にこの場が社会へのコミットメントの糸口になったということなんですよね。


もちろんそんなものを社会へのコミットメントとして認めない人もいますが、それがまぁようは最初に書いたような「そもそも社会へのコミットって何なの?」って話になるんですよね。就業していて家族もいて子供もいるなんつったって所属している会社がほとんど詐欺みたいな証券を売ってたらそいつ自体がその会社に所属しているっていうだけでアウトになりますよね(笑)社会人なんつったって胴元はオレオレ詐欺みたいな詐欺まがいのことばっかやってるような会社に勤めているやつらだっているわけですよね。んでもまぁ多分本人達は「納税者だ!」って言うだろうし「俺は社会人だ!」って思ったりしてるでしょう。でもまぁ社会的に見ればそんな会社は無いほうが良いし、むしろそいつがその会社にいることで行われている社会へのコミットメントはただの有害なものになりますよね。まぁ基本的に特に現代の悪になりきったヤクザなんかが働けば働くほど迷惑なのと同じことですよね。


マズローなんかも言ってますけど馬鹿なやつがやってることがほとんど詐欺みたいな会社に勤めていることで自分の社会人としての義務を果たしているみたいに勘違いしているような類のものは別としても、まぁ普通の会社にしても自分がやっている仕事を通して社会貢献できているとか凄く満足した仕事がやれている!なんて思うことは稀なんですよね。自分もまぁ数あるバイト経験はトラウマなんですが、コンビニで深夜におでんの汁を変えている時とかの「一体俺は何をやっているんだろう」感は半端じゃなかったですよね。まぁでも基本的に仕事の大半なんてそんなものだと思うんですよね。世の中的にあってもなくても良いようなことばっかで結局はコンビ二のおでんの汁みたいな話なんですよね。もちろんそんな中で社会貢献が出来ていたり社会に必要なことを担えている人たちは凄いですよねっていってもまぁ社会的機能と本人の幸福度って関係ありませんけどね。運送会社は必要とはされているけどでは果たして労働環境が良いのか?といえば全く別問題ですからね。まぁこんな感じで「労働と人」なんてことを言い出したらキリがないですよね。


フルーツポンチの村上がネタでやるような「うざいバイト先の先輩」みたいなのとか地獄のミサワに出てきそうなやつとかって世の中にうじゃうじゃいますよね。お前が何日寝てなかろうが何時間ぶっ通しで労働していようが世の中にとってはどうでもいいことだってことなんですよね。会社に勤めていれば納税しているし労働の義務を果たしているから自分は胸を張って町を歩けるんだ!とかって思ってる馬鹿が実際はどのくらいいるのかは分かりませんが、基本的に「社会人」っていう概念はこういう馬鹿による勝手な決めつけによって成り立ってますよね。で、社会的コミットメントというのもこういう輩が一方的に決めているので「俺はそんなのは認めない」っていうのを社会人の正社員の立場から言うと説得力があるとかって思ったりしちゃうんですよね。


あ、んで自分の場合、ここが社会的なコミットメントへの糸口だみたいになってるってことなんですが、これはただの結果にしか過ぎないんですよね。平行世界の自分がネットを一切やってなかったりしてひたすらコンビニでバイトをしていたらそれが正社員だろうがなんだろうがそれを続けている限り社会的コミットメントは永遠に出来ないまま終わるってことになりますね。まぁ別にコンビニの仕事を馬鹿にするつもりはないんですが、自分は経験があるので言うんですが、本当にあんなもん誰だって出来るしそれをやろうがやるまいが社会とは何の関係も無いって言い切れますよね。なんでそれが正社員だからとか納税しているからっていう理由で社会的コミットメントになるのかさっぱり分かりませんよね。そういう意味で今の自分にしたってこの場が無ければ社会的コミットメントへの糸口というのは無くなるわけです。仮にどっかで仕事を得たとしてもまぁその職種にもよりますが、大半の仕事と同じくやってもやらなくてもどうでもいいような感じの仕事だったら社会的コミットメントは出来ないまま終わりますよね。まぁようは何が言いたいのか?っていうと昔の「排除されている自分」だった頃はこの場で排除されてる側からマイノリティの意見を言うみたいな意識がありましたが、今はそういうのは無くて別にまぁ普通にしててっていうかまぁ普通じゃないわけですが(笑)特に叫ぶこともなくまぁ叫んだりもするんですが、基本的にただ書いてるだけですよね。でも書いてきたという積み重ねがあるし色々なフィードバックをいただけたということで結果的にここが自分にとっての社会への窓口みたいになっているっていうことになるんですよね。でもここが無ければ普通は何か特別なことでもしない限りは何をしてようが窓口なんて無いよなぁーって思いますね。


自分のあり方とか社会へのコミットメントのやり方をどうしていこうか?と模索しているというよりかはこの場で色々なやり取りが成立している結果、一種の社会的コミットメントが成立している場になっているっていう感じですよね。ただそれは別に自分が意図的に作ろうとしたわけではなくて、結果としてそうなったわけだし、特に建設的な議論とかが出来たっていうのはそういう話が出来る方とここで出会えたってことの運でもあるわけですよね。でも思うに形がどうであれ社会的コミットメントって大抵はこんな感じなんじゃないかな?って思うんですよね。色々とやってきた結果、今やっていることが社会的なことに結びついたとか逆に社会的なことに結び付けなければ!と思ってくだらない仕事をやめてもっと社会的に意義のある職に就いたとかなんとか、もちろんそこには社会的コミットメントをしたい!と思っている自分自身の能動性もあるんですが、それとは別に偶発的な出会いとか色々やってきたことの結果そうなったっていう所産っていう要素も大きいと思うんですよね。


まぁ僕は別にこの場で社会的コミットメントが出来ているからもう満足だ!なんて思ってはいなくて、むしろここで色々な方と出会えたことでより社会的コミットメントの必要性を感じていて何かやりたい!ってまぁ思っているわけですよね。その「何か」ってのがなかなか見つからないっていうかまぁそれは模索中なんですが、ただまぁやっぱりあれですよね、いつも書いているようにwant toベースで生きろ!ってこととか、嫌な意味での「社会人」って概念とか、ドリームキラーとか僕がゾンビと呼んでいる人間のこととか、そういった自分が嫌だなぁーって思うことを駆逐できないにしても、まぁとりあえずそいつらはゾンビだし、あとまぁそういうのは変なロジックで何の根拠も無いよっていう自明なことを言うだけでも効果はあるんだなっていうのは凄く感じるんですよね。実際にゾンビの囲まれている人がゾンビになりかけていて「いや、やっぱり自分は正気だったんだ!」っていうのをこの場で確認できて良かった!みたいなこともありますし、まぁ僕にしてみればそういうのって本当に機会に恵まれている幸運っていう感じなんですけど、ただまぁこんな風に変な時代の中でちゃんとまともに考えてる正常な人がいるんだぜって言うことを示すだけでも効果があるんだなっていうのを実感しているんですよねというか僕みたいなやつが正論を言わないとみんなゾンビになってしまうのかって危機感を覚えているわけですがっていうかなんでこんなエッジにいるやつが正論を言わないと正論を言うやつがいない!みたいな状況になってるのか?って話なんですけどね。


まぁでも常にある問題はまぁ確かにそれはその通りでそうだとして認識も変わったとしても例えば明日学校なり職場にいけばどうしようもないやつらがまたどうしようもないことを言っていてまたどうしようもないことを言ってくるっていう現実は変わりませんよね。「こいつらはおかしい。確実に」って分かっていてもそいつらはそいつらで変わりませんからね。でもここで「排除」の概念を考えると、基本的に少なくともバイオハザードとかではゾンビって駆逐するものですよね。人間が見ればゾンビに囲まれてたら助けるしあとまぁその場から非難するのがベストだって思いますよね。だからまぁ人間がゾンビから排除されるってことはまずありえないですよね。そもそも属性が違うわけですから。でもではなんでそのゾンビが幅を利かせているのか?っていうことですよね。殺すわけにもいかないし支配力は強いけどもまぁ自分はゾンビにならないように気をつけるしかないですよね。僕にしてみれば変な幅を利かせるゾンビ社会人になるよりもシェルターに篭って引きこもりをしていたほうが人畜無害でよっぽど良いってことになるんですよね。引きこもりとかニートが社会問題だってよく言われますけど、僕にしてみれば当の「社会人達」のほうがよっぽど社会問題なんですよね。


まぁでもこれって絶望的ですよね。ゾンビに支配された世の中だって言っちゃえばそれまでなので、そうなってしまえばまぁ数で敵うわけないですからそういう連中を避けながら生きていくっていう消極的な方法しかありませんよね。でもそこは僕は凄く嫌でもっと人間らしいwant toベースのポジティブなパワーで満ち溢れた人間によって社会が成り立っているほうが良いと思うのでそこをなんとかしたいなぁーっていつも思っているわけですね。まぁあとは別にwant toベースでパワフルに生きなくても特にまぁ何もせずに平和に過ごすみたいな生き方でも良いので、まぁそこは多元主義なんですよね。別にwant to支配ではないんです。


なんでここまでやるべきことは明白なのに明日学校や職場に行けばまたゾンビが大勢いるという現状が永遠に変わらないのか?っていうジレンマは凄まじいアポリアだと思いますね。今の自分はそういう状況にいるわけじゃないので「うーん・・・問題だなぁー」って第三者として見ているわけじゃなくてもちろんそこは当事者としての意識で常に考えてますねってあえて言わなくてもいいのかもしれませんが。今はゾンビと接しないで生きていくことができているだけで世の中にゾンビが多いことには変わりなかったら基本的にゾンビの脅威については脅威のままですからね。でもいつも書いているように分かる人はこういう絶望的な状況は分かっているんですよね。だからこそ余計に絶望するし自殺をするんだと思うんですよ。ゾンビではない人間であるという間違いない証拠であるわけですが。


だからなんていうかこの人々が得るべきものである「人間性の獲得」みたいなのがそのまま自分のミッションにもなるし人生で達成したいことになるんですよね。ベタな言い方になりますけど「人々の目的=自分の目的」ですね。だから自分だけ勝ち逃げればそれでいいやってことにならないわけですね。不幸な人が多ければそれだけでアウトなんです。まぁ人々の目的っつっても色々とあるしそんなのお前が勝手に決めるなって言われればそれまでですが、この人々の目的っていうのは「人間性の獲得」なので、まぁそれはダークソウル風に言えば亡者ではないってことになるのでそれは別にコンセンサスの有無に関わらず自明なことだと思うんですね。そういう意味ではようは人間の目的がそのまま自分の目的にもなるっていうまぁただのトートロジーになるんですけどね。それは自分が人間である限り当然であるってことですね。ただまぁでも自分はラッキーだったなーって考えちゃえば亡者が増えようが知ったこっちゃないってことになりますよね。


世の中のことを考えずに平気で金を溜め込んでる老人とか団塊の世代はそういう感じですよね。かといっても日本の若者は反乱を起こすほどのパワーも無いので、とりあえず現状としてはゾンビにならないように気をつけつつ、どうしようもない上の世代が死ぬとか引退とかをして既得権を離すっていうのを待つしかないのかなっていう感じにはなりますよね。僕が権力者なら人権とか関係なくむしろ経済のために既得権を破壊して再分配しますけどね(笑)まぁでも現実はそんなに簡単じゃないんですよね。ご存知かもしれませんが、ローレンス・レッシグっていうクリエイティブ・コモンズっていう概念を提唱している学者がコピーライト関係の運動を諦めたのもリアルポリティクスの深い闇を見て「あ、こりゃいくらやっても無理だな」って思ったからなんですよね。だからまぁ政治って考えれば考えるほど人々の意思とかではどうにもならないレベルでどうにもならないってことが多すぎて結局諦めるしかないってことになっちゃうんですよね。まぁマルクスで言うところの疎外なんですが。


めちゃめちゃ長くなっていますが、この辺の話は「結局、どうにもならないんだよね」的な感じでここ5年ぐらい変化してないんですよね。どんだけ政治哲学の本を読もうが社会学について勉強しようが現実の政治で既得権を持っている連中ということになってしまうとクーデターを起こすぐらいしか方法がないわけで、だからまぁ結局は政治的暗殺みたいな話になってまぁテロの話とかにもなっちゃうんですが、まぁそういう過激な話は置いておいて、あとまぁ「伝わらない無駄な過激さ」って最近新宿であった抗議の焼身自殺未遂なんかが典型ですが、そういう意味ではクーデターとか暴力テロとか過激な反対運動とかって全く意味ないんですよね。ましてやみんなネットとかでもっと過激なの見てますから過激さ自体が相対化されてて別に焼身自殺自体に過激さを感じたりしないっていう恐ろしい感覚の慣れってのもありますけどね。


まぁこんな感じで政治的なことに関しては関心が無いわけじゃないんですが、まぁやっぱりなんか本当に諦めムードみたいにはなっちゃいますよね。だからこそ個々がハッピーに勝手に生きるってのが実は何気に最高のレジスタンス活動であるみたいなことはここを始めたぐらいの頃からずーっと書いてることなんですけどね。結局、そうあること自体が一番の反乱なんだってことですね。アンハッピーにはハッピーで対抗するしかないっていう。まぁそれでどうにかなるだろうと思うほど楽観的ではないんですけどね。


思いのほかというかいつも通り長くなってしまったので、とりあえず今日はこの辺で終わりにします。返信があったら是非、またよろしくお願いします!