iyiさんと風前の灯火ちゃんさんへの返信。

iyi 2015/01/13 21:51


こんにちは。すみません、相談があります。

昨年末からお金って何だろうってぼんやり考えていました。そして、昨日あることをきっかけに悔しくて涙が溢れたのですが、なんて言えばいいんでしょう。お金に関わっている限り、私たちは道に行き詰まっていないでしょうか。お金を使ってももらっても、どこかで自然が削られ、誰かが苦労している気がします。もーどうだっていい、て思ってしまったほど絶望しました。


人間の運命というか、進化の過程上しょうがないのかもしれません。でも、私には、地上の大勢の人手を使って一部を宇宙に打ち上げる計画が、自然の減少により地上の大勢の死なくして成功する未来が見えません。風は吹いているので、私は今の会社で働いていこうと思いますが、泣きたいくらいの気持ちでお金の仕組みを探し続けようと思います。耳蝉さんが何か思うことをお聞きしたいです。すみません。


お金に関わっている限り行き詰るというのは本当にその通りだと思います。結局ここから自由になれませんからね。一番の悲劇は構造的に人々がお金に依存するしかないということだと思うんですよね。価値観をお金に置く置かないの話ではなくお金自体が持っている人間への影響力が大きすぎるがために人間は常にお金のことを気にしながら生きなければいけないということが結果的に人間の生活と人間性の乖離を生んでいるんだと思います。これに関しては僕は前から書いてるようにもっと人間がお金から自由になれるようにするべきだと思っていて、なんでもかんでも行動のイニシアチヴみたいなのがお金に関するものになってしまうというのが本当に呪いみたいなものだと思っているんですよね。何かをやっていたり何かをやってそれ自体がなんの経済効果を生まなくてもそれをやること自体に意味があったり楽しさがあったりするわけですよね。そういったことの言わば幸福の追求みたいなものがお金を稼ぐということに支配され過ぎていてだから内面も荒んでいってしまうんだと思いますね。生きている限りお金を稼がなきゃいけないってのがようは呪縛なんですよね。


それこそ何百年前みたいに経済活動が即人間の生活に直結している場合の労働というのは尊いと思うんですね。でも現代の場合、大体まぁ余分というか経済をまわすための仕事とか労働みたいな感じになってるのでだから人間性との乖離が大きくなってると思うんですね。僕がよく書いているやろうがやるまいが全く世の中に何の影響も与えないといったようなものです。そういう意味だと人々のニーズに答えられるようなサービス業とかは人間の生活に直結している経済活動なので理にかなってるなと思うんですが、まぁ仕事といってもそういうのばかりではないですからね。あとまぁニーズがあっても過酷過ぎてなおかつ待遇がよくない介護などの仕事は労働者の負担が大きすぎるし。


お金といっても色々なお金があるのでそれはやり方次第だとは思うんですが、本質的な経済活動に必要とされる人員というのがそんなに多くない中で、それでも経済活動をしないと食べていけないという人が大半の中でそれでも経済の仕組みというのは昔のものから変わってないというのが問題なんだと思いますね。それこそ人が必要だったものが機械とかコンピューターで済むようになってるわけで、そうしたらまぁそりゃ仕事はなくなりますよね。でもそれは仕事がなくなるというよりかは人が必要なくなってるということなんですよね。でも資本が無くて賃労働をせざるを得ない人の数は変わらないままということでだからこそお金が呪縛になってしまうんだと思います。必要とされることをやってればお金は自然に入ってくるみたいな感じじゃないですからね。文明の進歩だとは思うんですが。


あとネットにしてもそうですよね。一昔前だったら小遣い稼ぎになってたようなものがネットで何でも手に入ることで商品価値が無くなってしまったみたいな、でもこれって利用する側から見れば何でもタダで利用できて便利になっているということなわけで悪いことではないですよね。でもまぁお金を得られる機会が減っているというのは事実ですよね。それは便利になればなるほどそうなるんだと思います。本なんかにしても通販や電子書籍が主流になれば書店はいらなくなりますよね。書店がいらないとは思いませんが、大手しか残りませんよね。お金は呪縛であるけども色々と便利になってあまりお金がかからなくなってるものというのもあるので、その辺のバランス調整が必要なんだと思うんですよね。あまりお金がかからなくなってる=お金を得る機会が減るということだと思うんですが、これってトレードオフですよね。


でもそれだったらほとんどのものにお金がほとんどかからなくなるほうがいいと思うんですよね。そこがようはインフラという部分の話なんですが。だから別にお金をなくせというわけではないんですよね。で、まぁお金はどこに使うのか?っていうと趣味とかちょっとしたぜいたく品とかそういうのに使えばいいわけですよね。ようは生存に関わるものにお金がかかりすぎていてなおかつ賃金は高くなくて生活費はやたらと高いというのが永遠に続いているのでお金が呪縛になるということなんですよね。だとすれば生存に関わるものにお金がかからないようにすればいいんですよね。とりあえずなんとか生きていけるっていうだけで気持ちに余裕ができますからね。お金がないと生きていけないっていう状況があるからお金が呪縛になるし悩みの種になってしまうわけで。


だからなんていうんでしょうね、その人類の進化としてインフラにあまりお金がかからなくなるという風になればいいなと思うんですよね。といってもやっぱり大きいものは食料と住居なのでこればかりはなかなか簡単にはいかないと思うんですけどね。僕自身なんだかんだでこういうことには困っているのであんまりはっきりとしたことは言えない感じですね。なのでちゃんとした返事になっていないかもしれません。でもとりあえず思ったことを書いてみました。

風前の灯火ちゃん 2015/01/14 03:03


最近知った南直哉という方の「闘争の基礎資本」の話をなんとなく思い出しました。http://jiangmin.tumblr.com/post/85021225760


闘争の基礎資本の不足のために愛着障害を負い、他者を含むリソースへのアクセス権を十分に持てず、慢性的な不安と緊張を抱え、発達が遅れ、その場を生き残ることだけを考えて年をとり、未成熟な人格のまま人生が停滞している人に対し、世の中の人は侮蔑の念を込めて弱者、ニート(私です)、犯罪者予備軍と呼びます(無関心な人が圧倒的に大多数だと思いますが)。
 

誰でも前提条件(一方的に与えられる闘争の基礎資本)は同じだという認識が根底にあるから、共同体にとって無益(有害)な人間を侮蔑するアイディアが可能になるのでしょう。私にもそういう部分があるから分かるんですが。


しかし闘争の基礎資本まで引っぺがして自己や他者が見れるようになれたら、哀しくなるかもしれませんが、その地平においては立場を対等にして堂々と存在と関わり合えるという楽しさもあると思うので、いつかはそういう人になりたいですね。主体性もないし、もうかなり人生に投げやりになってるのに、何言ってるの…?って感じなんですけどね。


まとまりのないことを長々とすみませんでした。


基礎関係無く存在同士が素で関われるようになれれば一番いいんですが、世の中では勝手に人間のランクというのがつけられてしまっているので仮にこっちがそういったものを気にせずに関わろうとしててもそもそも認識の共通前提みたいなのが違うということになってしまってコミュニケーションが成立しませんよね。これは本当に昔から理解できなくて今も理解できないままなんですが、社会的地位と人間自体の存在って本質的には関係ありませんよね。その人が何をしているのか?とか何をして食べていっているのか?ということと存在それ自体とは関係ないはずなのに一般的にはこの辺がごちゃごちゃになってますよね。


言葉とか意見なんかでもそうなんですけど、偉い人が言うことは偉く聞こえるっていうようなそういう認知の歪みみたいなのがデフォルトになってますよね。その人はなんかの社長で偉い人かもしれないけど全然考え事をしてこなかったのでちょっとテレビで聞きかじったような政治的意見みたいなものを猿真似で繰り返してたりして、これってこれ自体はすごく滑稽なことなのに偉い人っていうだけでこれが成立したりするんですよね。全部引っぺがえすってこういうことなんですよね。例えば政治についてとかだったらフリーターとかでも凄く物事を考えたり関心を持って熱心に勉強している人の意見のほうがしっかりしてたりすると思うんですけど、普通はそうは見ないんですよね。なぜか社会的地位みたいな属性が前提になって中身ってのは対して重要視されないんですよね。フリーターだろうが社長だろうが政治について考えを持つということに関しては社会的地位なんて関係ないはずなのに大いに関係してくるんですよね。僕は関係ないと思ってるので当然気にしないんですが。


一定以上の地位になったりしないと人は話を聞いてくれないからだから頑張るんだみたいな話をよく聞くんですが凄く矛盾してますよね。学歴だのどこかに就職しただのというただの履歴がどう話の内容と関係してくるのか?って話ですからね。この辺が絶望的なのはこういったことが事実であっても人は社会的地位だの外見だのみたいな表層的なもので色々なものを判断するっていうことが変わらないということですよね。なのでこっちがオープンであってもコミュニケーションの前提が違うので話が成立しないみたいなことなんですよね。この辺に関しては「自分はこう思う。でも世の中的にはそうなってはいない」っていうのでもう終わっちゃってる感じですね。もちろん「これはおかしいよね」ってことは言い続けるわけですが。


自分が世の中と合っていなくても「本質はこれだよね」って確信が得られるものがあればそういった考えを鍛えるというか貫くとかそれ自体は無駄にはならないのでそこは主体的にやればいいと思うんですよね。確かに世の中はクソだけどでも世の中がクソだからといって自分が投げやりになる必要はありませんよね。自分は自分で世の中とズレていようが思考みたいなのを磨き続けるということはできるわけですから。世の中が変わらないわけだから結局はそこしかないと思うんですよね。どれだけ人々の考え方とかコミュニケーションの前提がおかしい!て言ったところでそれは変わらないので、だとしたらそれに適応するか適応せずに自分を貫くかということですよね。生きていくのが大変でも思考が磨かれていれば色々と判断できるのでそこは唯一主体的になれる部分だなって思ってますね。そこを投げちゃったらもう本当に駄目ですよね。


まぁこれは自分も含めてなんですけど、あんまり世の中に適応できないということで自分は駄目だと思ったり人生に投げやりになる必要はないと思うんですよね。それは価値観が「世の中」に行き過ぎているわけで、そこはやはり主体的にどこに価値観を置くのか?というのを強固に築き上げないといけないと思うんです。理想論だと言われようが自己や思考を磨くということは価値があることだと思うんですよね。


あ、ところで僕は南直哉さんのファンです。良い著書が多いので色々と読んでみてください。